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今日はイースター、復活祭でした (No.1656 13/03/31)

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 2013年のイースター、復活祭は今日、3月31日である。小生は都内にあるインターナショナルスクールの教会で行われた復活祭朝の礼拝、洗礼式に参加してきた。
 数日前から寒い日が続いていたせいか、今朝インターナショナルスクールに行ったら、桜の花はちょうど満開を過ぎたところで、まだきれいに残った花と地面に落ちた花びらの絨毯が見事なまでのコントラストを見せていて、とてもきれいだった。
 例年、復活祭の朝の礼拝は、この桜の下でやるのだが、今朝は前夜からの雨が少し残っていて、室内のホールで行われた。寒い思いはしないで済んだけれど、復活祭だけは早朝の冷え切った下で行われる方が本当は雰囲気があるのかもしれない。
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今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
コリント前書、15:20-22


 三日前の金曜日に十字架に架けられて死んだキリストは、日曜日の今日復活したとされる。かってユダヤ教徒たちが子羊などを生け贄の犠牲として奉納することで神に許しを請うたが、神の怒りを消すことはできなかった。そして、究極の犠牲として生きた人(イエス)をささげることで、アダムが犯した罪があがなわれるのである。ひとりの人(アダム)が犯した罪が、ひとりの人(イエス)の死の犠牲で許されるのだ。しかも、イエスは自己犠牲で死にながら三日後によみがえって自らが神であることを人々に証明する。
 キリスト教徒にとってこれこそ最大の奇蹟であり信仰のよりどころである。科学的に考えれば死んだ人間が復活することなどあり得ない。しかし、イエスは復活したと信じる。このことを科学的にどうこう詮索することは、信仰する人にとってはナンセンスであろう。復活を信じるから人は罪の重荷から救い出されると信じているのだ。
 罪を許されて救われたと思う信者たちは、色の付いたイースターエッグを食べて、この日を祝うのである。(左の白い皿に乗っているのはチョコレートです)
 ところで以前から小生は復活祭の語源がユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」からきたものと思っていたら、今日のパスターの話では、初穂の祭り「ヨムハ・ビクリーム」ということから来ているのだという。「日本語のビックリと近い発音だから覚えやすい」と言っていたのが印象的だった。
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 賛美歌合唱と礼拝、Testimony(証、あかし、すなわち自分はどうしてクリスチャンになったか、信者の告白)のあと、この日洗礼を受ける人の信仰告白、洗礼式となる。洗礼は水をかけて罪を洗い清める儀式だが、やり方は様々で、頭に水をほんのちょっとかけるだけのものから、全身をドップリと水に浸す方法まで教会によって違う。
 今日の教会は野外に特別にセットした水槽に全身をドップリ浸けるやり方である。しかし、最初にやったのは生まれたばかりの赤ちゃんの幼児洗礼。幸い雨は上がったとはいえこの寒空に赤ん坊を水に浸けるわけにはいかないと、パスターが頭に少しかけただけ。このあと大人の洗礼では、英語で「あなたはイエス・キリストを信じますか」と聞かれ「ハイ、信じます」と答えた人が「He is risen 彼はよみがえる」と書かれた水槽にドボンと浸けられる。寒い中、頭まで水に沈める豪快なものだったが、プライバシーの関係でこのカットは割愛した。でも、水槽に沈められた人は本当に寒そうだった。
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by Weltgeist | 2013-03-31 23:58

怒りを忘れる年代 (NO.1655 13/03/30)

 若い頃はささいなことで腹が立ち、喧嘩もよくした。鼻っ柱の強い負けず嫌いな性格だったから気に入らないことがあると、とにかく怒りをぶちまけて憂さを晴らしたものである。しかし、齢(よわい)を重ねるにつれてあまり怒らなくなった。感受性が鈍くなって、自分が馬鹿にされていることさえ気がつかなくなっているのかもしれない。でも、そんなことで周囲に平和が保てるならそれでいいと思っている。
 何か不愉快なことがあったとしても、たいしたことではないと思えるだけの余裕ができてきたということだろう。それが感受性が鈍くなったことによるとしても小生にとってはどちらでもよろしい。鷹揚に構え、つまらないことで気分を害しないように心掛ける。それが精神衛生上も良きことと分かる年代になったのである。
 若い頃を思い出すと、本当に些細なつまらないことに拘泥していた。何であんな小さなことにこだわったのか、今になって思い出すと馬鹿だった自分があぶり出されてくる。他人のしでかしたことが気に入らず、声を張り上げて文句を言った。しょせん人間なんてたいした存在でないのに、偉そうにあれこれこね回していた自分が恥ずかしい。
 歳をとって感受性が鈍くなることは必ずしも悪いことではない。むしろ良きことではないかと思える年齢に小生もようやくなってきたのである。細かいことは気にしない。仮に気がついても無視する。怒りは若者の専売特許として譲り渡し、半分ボケた好々爺でおとなしく、いつもニコニコして暮らしていきたいものである。
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 ハイデガーを真似て「森の道 Holzwege 」と自分が勝手に名付けて、毎日散歩しているわが町の「シュバルツバルト」が、この数日で急に春らしくなってきた。木々の新芽が大きくなって、殺風景だった冬から春に様変わりしつつある。ずっと昔から自然はそうやって自らの歴史を作ってきたのだろう。そんなことを考えながら「森の道」を歩いていると、人間はこの自然の中のわずかな場所に生かされているのだな、ということをひしひしと感じてくる。「人間は存在の声を聞く牧人である」とハイデガーが言う意味がとてもよく分かる気がするのだ。
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by Weltgeist | 2013-03-30 21:23

狭心症の発作から1年、イライも満一歳になった (NO.1654 13/03/29)

 いまからちょうど1年前の今日、小生は突然狭心症の発作に襲われた。あの日は群馬県の四万温泉に行くつもりで関越道を走っていて胸が苦しくなり、そのまま都内の病院に戻って、夕方には緊急手術するというたいへんな一日だったのだ。
 その少し前、3月5日に心臓の定期検診を受けて、「問題ない。心臓の状態は良い」という診断を受けていたにも関わらずである。そして3月15日には山梨県まで渓流釣りに行っても全然問題なかったのが、20日頃から少しおかしくなり、3月29日には30mも歩くと胸が激しく痛むまでになって緊急入院したのである。
 幸い、このときはカテーテルによるステント挿入で、3日ほどの入院で事なきを得た。しかし、70年も生きていると心臓もポンコツ状態になっている。いつ心停止してもおかしくない心臓を抱えているから、いま元気だからといって来週も元気かどうかは分からないのだ。
 今週の月曜日には心臓の定期検診に行ってきて、「異常なし。正常です」と言われたが、昨年の例がある。半月前の検査で異常なしだったものが、アッという間に狭窄が起こり、狭心症、心筋梗塞になりうる。全然安心はしていないのだ。
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 しかし、小生のように次第に寿命に近づいていく老いぼれがいる反面、新しい命も生まれる。まさに小生の心臓が危機的状況にあった昨年の今日、29日ころ、ある家の庭で野良猫が3匹の子猫を産んだ。その中の1匹を退院した直後の4月4日にもらい受けて、イライと名付けてわが家の一員としたのである。
 小生の心臓発作が満1年ということは、同じ日に生まれたイライも満一歳ということになる。生まれて8日目にわが家にやって来たイライは、まだ完全な赤ちゃん状態で、必死に生きようとしていた。それが1年たっていまやおとなの猫になってしまった。
 カラスに育てられた預言者・エリヤの名前をもらったイライは、家に来たときは、本当に小さくて、カラスがくわえそうなくらいだった。それがすっかり大きくなって部屋中を飛び回っている。上の写真のような赤ちゃん猫のかわいらしさはもうないが、おとなに成長して人生、いや猫生が楽しくて仕方がない屈託さでこの世の春を謳歌している。こうして世代は交代していくのだ。

 ところで、今日はイエス・キリストが十字架に架けられた聖金曜日。例年のごとく小生はバッハの「マタイ受難曲」を聴いて静かにこの聖なる日を過ごした。
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by Weltgeist | 2013-03-29 22:32

人生で出会う比較級 (No.1653 13/03/28)

 激しい競争が繰り広げられている現代社会の中に今年も学校を卒業した新人たちが入ってくる。彼らが少しでもマシな人生を送るにはどうしたらいいのだろうか。社会人となって親がかりの学生の身分から、曲がりなりにも自立せざるを得ない彼らはきっと厳しい場面に直面することもあるだろう。だが、ここでは誰も助けてくれない。全部自分で考え処理して乗り越えるしかないのだ。学生時代と同じのんびりとした態度を続けていると、たちどころに社会の荒波にもまれて、人生の脱落者になりかねない。
 しかし、小生に言わせれば「人生の脱落者」なんてどうでもいいことだと思っている。なぜなら、人間の能力など一部の天才を除けばだれも大差ないからだ。五十歩百歩のどんぐりの背比べである。
 競争社会では、いつしか自分は勝ち組なのか、それとも負け組なのかと思い悩むことがある。そのとき何を基準に勝った、負けたと判断しているのか、もう一度考えてみよう。お金か、出世か、財産か、基準となるものは沢山ある。だが、実はそうした比較をする時点ですでに道を誤っているのである。なぜなら、比較とは数値化されるものを基準にやるからだ。たとえばお金、年収が200万円と500万円、1億円では差は歴然とする。500万の人は200万に対しては勝ち組だが、1億には負け組である。数字で表せるものは見方によって際限がない。いつもどこかに不満足をもたらす元凶となるのである。
 必ず自分より低い者も高い者もいるから比較は、人生を悪しき循環に陥れさせる恐れがあるのだ。自分の評価を数量で表される物で比較すれば、アリ地獄におちたアリのように死ぬまでもがき苦しまなければならないのである。
 この悪循環から抜け出すには、自分の生きる根拠を別なものに置くしかない。お金や出世といった量による比較級ではなく、絶対に比較できないものに人生の根拠を置くことである。
 それはあなたに与えられた命だ。これだけは絶対に誰と比較しても負けることはない。そして、誰にも取って代わることのできない最高のものである。全ての日常的な比較級から抜け出して、自分の命を輝かせることだ。だが、そのやり方は誰も教えてはくれない。自分の命は自分で輝かせるしかないのだ。自らを静かに見つめ、自分の与えられた命をどう生かしていくのか、心底考える。ここにおいては人生の勝ち組、負け組なんてことはまったく意味を持たなくなるのである。
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散歩中にある家の門柱にこんなきれいな花が置いてあるのをみつけた。鉢の裏側に「アネモネ・ポルト」という名前が書いてある。どうやらアネモネの仲間らしいこの花が、春の日差しで美しく輝いていた。もしこの世が創造主によって造られたものとすれば、このような美しい花を造った彼の美意識はなんと素晴らしいものだろうかと思わされた。
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by Weltgeist | 2013-03-28 23:55

武士道の「誠」を忘れた日本柔道連盟 (No.1652 13/03/27)

「人の世におけるすべての立派な職業のなかで、商業ほど武士とかけはなれたものはなかった。日本では商業は士農工商の職業分類でもっとも下の地位に置かれていた。武士はその所得を土地から得ていたし、その気になれば素人農業に従事することもできた。銭の勘定ごととそろばんは徹底的に嫌っていた。」
新渡戸稲造、「武士道、第7章、誠 」岬 龍一郎訳


 日本柔道連盟が不祥事でもめている。報道によれば、日本スポーツ振興センターの助成金を組織ぐるみで不正受給していたことが発覚しているらしい。少し前には、女子ナショナルチーム選手に対する前監督、コーチによる暴力や暴言があり、監督が交代したばかりであるというのにまた不祥事である。日本の伝統的スポーツの名が汚されようとしているとき、連盟は何をやっているのだろうか。
 かって柔道は柔術と呼ばれていた。サムライの間で徒手あるいは短刀など小さな武器による攻防の技法を中心とした武道の一つを、講道館の嘉納治五郎が「柔道」にまで高めたものである。柔道はサムライの精神、すなわち武士道を基盤に発展してきた日本が誇るべきスポーツなのだ。その意味で、上の新渡戸稲造の「武士道」を読むと、まさに言葉を失ってしまう。柔道を貫く武士道的精神はどこへ行ってしまったのか、問い正したい気持ちだ。
 国からの助成金を不正に受給したということは、お金を盗んだということである。これは泥棒と同じで、犯罪行為ではないか。普通の人が誰かの財布からお金を抜き取ったとする。見つかれば警察に突き出され、処罰の対象となるのに、組織ぐるみだとその扱いが曖昧になる。連盟役員は何ら責任をとらず、のらりくらりしている態度には腹が立つ。
 金銭の不正受給について怒っているのではない。武士道の精神に照らせば、切腹に価するほど恥ずかしいことをしながら厚顔無恥にもなお責任をとらないでいることに腹が立っているのだ。新渡戸が言うように、武士はお金にまつわることを最も忌み嫌っていた。金についてあれこれすることは商人(あきんど)たち、士農工商でも最下層の人間がやるもので、武士はお金に潔癖でなければならないと徹底的に教え込まれていたのである。
 武士が金銭の貸し借りをする場合でさえ、証文、すばわち借用証を書くことなどしない。証文を書いてくれと頼まれたら「武士に二言はない」と断言し、決して約束事を破ったりしなかったという。「証文を書くことは武士の面子を汚されることであった」からと新渡戸は書いている。これが柔道の根底に流れる精神であったはずである。
 オリンッピックの創始者、クーベルタン男爵の精神がいつの間にか商業主義の中に取り込まれ、金が動く世界となってしまった。現実に柔道をやっていくのにお金が必要であることは分かる。時代がそれを要求しているなら、その流れを受け入れなければならないかもしれないが、それでも不正は許されない。根本的な精神まで腐ってしまった連中はサムライ精神に則って潔く辞めるのが残された唯一の道であろう。
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by Weltgeist | 2013-03-27 22:35

受難の週について毎年思うこと (No.1651 13/03/26)

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 先日の24日からの一週間は受難週間( Passion Week ) と呼ばれ、今度の日曜日、31日が2013年のイースターに当たる。イエス・キリストがエルサレムに来てローマ兵士に捕らえられ十字架に架けられて一度死んだあと復活するという極めてドラマティックな一週間だ。
 この一週間にはそれぞれの日に意味があり、受難週がスタートする「シュロの日曜日=Palm Sunday」とか、「灰の水曜日=Ash Wednesday」、十字架に架けられた受難日である金曜日は「聖金曜日=Good Friday」と名付け、特別な日として扱っている。
 旧約聖書のほぼ最後にある「ザカリア書」の預言によれば、いつか救世主が出現するが、それは子供の雌ロバに乗ってやって来ると書いてある。上の写真は、1522-1534年にマルティン・ルターがドイツ語で出版した旧約聖書 Das Alte Testament の原本復刻版からザカリア書の扉のページをコピーしたものである。きれいな多色刷りの版画を注意してみると、二人の人物の後ろにニンバスを持つ人物が茶色のロバに乗っている絵が描かれている。これが救世主であろう。
 しかし、なぜロバに乗ってくるのか。不思議な預言である。ザカリア書の預言を受けてマタイ福音書21:7~には、救世主・イエスがやはりロバに乗ってエルサレムに入ると書いてある。このとき人々は自分の上着やシュロの小枝を道路に敷きつめて歓迎したという。だからエルサレム入城がシュロの日曜日というのだ。また、それを燃やした水曜日を灰の水曜日と言うのである。
 ところで、受難の週に関する新約聖書の記述は極めて難解で、毎年この季節になるといつも同じような疑問が生じて考えされられてしまう。イエスがもし救世主として、主(神)がつかわせた者なら、なぜ愚鈍なロバなのか。格好いい白馬にでも乗って颯爽とエルサレム入城すれば良いと思うのだが。神と人間との間には絶対的な断絶がある。その亀裂を埋めるべく生身の人間として神がイエスを送った。だからどこにでも普通にいる人という意味でロバなのだろうと理解している。
 だが、エルサレムに入って金曜日の処刑から日曜日に復活するまでの目まぐるしい一週間は、数々の謎に満ちた言葉で聖書に書かれていて、小生には分からないことだらけである。たとえば、空腹を覚えたイエスは、いちじくの木に近づくが実がなっていない。食べられない木に腹を立てたのだろうか木に向かって「今から後、いつまでも、お前は実がならないように、と言われた。すると、イチジクの木はたちまち枯れた」(マタイ福音書21:19)とか、十字架に架けられて殺される直前にイエスが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)といった謎の言葉を言っていることだ。
 木にまで話しかけ、罰としてそれを枯らせる意味がよく分からない。しかし、もっと分からないのは最後になって助けを欲しいような言葉を発することだ。イエスが神のつかわせた者なら、十字架に架けられることも覚悟していたのだろうに、なぜ「神はわたしを見捨てたのか」という言葉を発したのか。これが分からない。きっと深い意味があるのだろうが、小生にはまだ理解できないでいる。聖書の中に書き記された神の言葉の不思議な意味を、これから復活祭にかけてもう一度深く考えていきたいと思っているのだ。
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by Weltgeist | 2013-03-26 23:55

便利さについてもう少し考えてみた (No.1650 13/03/25)

 昨日は最新のカメラのことから「便利な物」について話が及んだが、書き終えた後でも何か言い足りないことがある気がしていた。それで今日はカメラではなく、携帯電話を通して「便利さと人間の弱体化」の意味をもう一度考えなおしてみることにした。
 今、世の中で一番便利になった物といえばネットにつながった携帯であろう。電話と小型PCが合体した超便利な物である。特にスマートフォンの普及は爆発的だ。電車のなかを見渡せば、全員と言っていいほどの人が携帯&スマホにかぶりついている。普及率はともかく、使用状況が異常である。他のどんな国に行ってもこれほど熱心に携帯をいじり回す国民はいないだろう。
 これは一種の病気だ。とりわけスマホの利用者はほんのひとときもそれから離れられない中毒患者のように見えてしまう。小生はいまだ古典的な携帯電話のままで、これでネットはやらない。使用目的がほぼ電話に限られているので、彼らがスマホでどんなことをしているのか実はよく分からない。しかし、画面を見つめる人たちの様子は明らかに受け身である。自分の頭で物事を考えていくのではなく、全部スマホに考えてもらうだけに見える。
 考えることを止めて誰か他人が作った答えをただキー操作で取り出すだけの受け身人間となれば、当然人間の思考能力の劣化が起こる。人はどんどん馬鹿になると言っていい。
 そして、困ったことに人間はこの事態を分かっていながらその便利さから逃れられないでいる。もはやネットのない(したがってスマホがない)生活には戻れない。機械が考えてくれる便利さを捨て去ることができないのだ。
 ポケットに入る書斎、あるいは百科事典の電話機、これさえあれば何でも分かってしまう。むずかしい言葉や物事も検索一発で画面に引き出せる。以前のように分厚い百科事典を開いて言葉を探す労力など皆無である。
 こんな便利な物がある時、誰が苦労して百科事典など取り出すだろうか。もしこのことで人間がものを考えることがあるとすれば、それはただ一つ、いまよりもっと簡単、便利な物はないかと考えることだ。決して検索した事項について考えを及ばせることはない。なぜなら、それは他の誰かがすでにやっていて、どこかのネットに答えがあることを知っているからだ。人はここにおいてまったく考えることを放棄し、受動人間と化しているのである。
 人は便利な物、楽な物を目指すように宿命づけられている。何事もイージーに、快適にこなせる「道具」を欲するのが人間である。そしてメーカーは便利な物を造り出すことが「良いこと= Good 」であり、人のためになると信じている。そうやって人は発展し、どんどん馬鹿になっていくのである。
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by Weltgeist | 2013-03-25 23:14

便利さを追求する危うさ (No.1649 13/03/24)

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 新しいニコンのデジタルカメラ・D7100を買ってその技術革新の速さには驚いている。今まで使っていたデジカメが嫌になるほどきれいな写真が簡単に撮れてしまうのだ。上の写真は金曜日に福島県に行ったとき、何気なく撮ったものである。遠くに見えていた山は春の霞みでぼやけて見えていた。こうしたボヤッとした遠景はうまく撮れないものだが、D7100で撮ったらすっきりと写っている。もはや特別な撮影の技術など要らない。気に入った被写体にカメラを向ければ、素人でも上手に撮れてしまうのがすごい。
 要するにデジタル技術の発展で「道具」が勝手に良い写真を撮ってくれるのである。だから新製品が出れば、人は争ってそれを購入しようとするのが分からないでもない。しかし、そのことでよりきれいな写真が撮れたからといって撮影者のスキルが上がるわけではない。暗算の名手が電卓を使う人に負けたから名手の能力が否定されたわけではないのと同じである。
 誰もが最新機器の強さに頭を下げ、それを便利な物として受け入れざるをえないかもしれない。だが、以前も書いたように、こうした機械の進歩って人間にとって良いことなのか、疑問が残る。デジカメだけでなくあらゆる分野で技術革新が進み、人は便利になる一方だが、反面で人間が持って生まれた能力がそのことでどんどん阻害されている気がするのだ。
 暗算は人の頭で考える。しかし、電卓は道具が考えるだけのものである。スキルの差が出るとすればキー操作の上手下手しかない。最新鋭の電卓、すなわちパソコンはそれの最たる物だろう。人はキーをたたくだけであとはパソコンが計算してくれる。その圧倒的な能力には誰もが脱帽せざるを得ないが、これが物を考えることを止めた人間を増産し、ジワジワと人を蝕んでいると小生は感じているのだ。
 スペインの哲学者・オルテガ・イ・ガセットは、このように人が便利な物になだれ込んでいくことを「堕落」と呼んだ。本来なら便利な物は人を豊かにするはずであった。ところが、便利とはどうやら人間的には好ましくないものであることが次第に明らかになってきたのである。
 新しいカメラによって、誰もがプロになれるほどの可能性を開いた。しかし、それは何度も言うようにスキルの深化によるものではない。昔のプロが死ぬほどの苦労を重ねて覚えた撮影技術が簡単にできるようになって薄っぺらな駆け出しプロが容易に産み出されてくる。このことで古典的なプロは自分の職域を荒らされ、仕事を失っていくのである。
 それなのに今も人は便利さを追求することを止めない。小生も新しいカメラを惰性で買ってしまったではないか。便利とは労力なしに成果を得ることである。何事も労少なくして成果が大きいほど良いとされる。これが今の世の中のトレンドである。だが、人間はアナログ的に頭を使い、苦労していくことでもまれて強くなっていくものだ。道具に頼ってイージーに乗り切る傾向に危うさを感じているくせに、自分も新しいカメラを買ってしまった。この矛盾をどうしたらよいのだろうか。
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by Weltgeist | 2013-03-24 23:05

うらやましき猫たち (No.1648 13/03/23)

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 以前ローマのコロッセオに行ったとき、古い遺跡の間に沢山の野良猫がいて、しばしこの猫たちと戯れたことがある。それが今回、世界遺産を巡るトルコの旅でも沢山の猫たちと遺跡で出会った。どうやら遺跡と猫は切っても切れない関係にあるのかもしれない。
 この猫が座っている石柱は、トロイの遺跡の出土品で、もし骨董品としてオークションに売り出したらとんでもない高額で落札されるだろう。その道のコレクターには欲しくてたまらない貴重な物だが、猫にとっては単なる石っころにすぎない。まさに猫に小判状態の贅沢さでチョコンと座っているのだった。
 3000年以上の歴史を刻むギリシャ時代の石柱に座って終日ひまな一日を過ごす猫たちを見ていると、つくづくうらやましくなる。明日の糧を求めてあくせくすることもない。日々の暮らしを淡々と過ごしているだけで満足しているように見える。こうした猫たちと出会うと、地上にいる一番優雅な生き物は人間ではなく、実は猫ではないかという気がする。
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 普通、野良猫は人間が近づくと警戒して逃げ出す体勢をとるのだが、トルコの遺跡にいた猫たちは人間になれていて、次から次へとやってくる沢山の観光客にも我関せずという態度でくつろいでいる。手で触っても逃げないし、気持ちよさそうに喉をゴロゴロならして甘える仕草をする。このような猫と人間の共存関係がいつごろからできていたのだろうか。まさかトロイが全盛だった紀元前の時代からではないだろうが、いまの遺跡は猫のサンクチュアリーと化しているようだった。
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 一緒のツアーに同行した人がお菓子のような物をとりだしたらたちまちトラ猫がやってきて、「ちょうだい、ちょうだい」とやり出した。明日の糧を気にしないでいると思ったら、実は今日の糧を欲しがっているのだ。こうすれば観光客の何人かが、パンなどを恵んでくれる。彼らはそれを食べていれば少なくとも今日を生き抜くことはできるのだ。
 こうした猫の仕草が小生にはとてもかわいらしく見えてしまう。この世に猫がいることが、それだけで楽しく、心が和んでくるのである。猫は小生の気持ちを和らげる精神安定剤なのだ。
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by Weltgeist | 2013-03-23 23:39

天才とは野兎のようなものである (No.1647 13/03/22)

「単なる学者が天才を見る態度は、我々が野兎を見るがごときである。けだし、死んで初めて調理し味食しうるからである。だから、天才が生きている間に学者がなすべきことは、それに向かって矢を射ることだけである。」
アルトゥール・ショーペンハウアー、知性について、57、細谷貞夫訳
 

 時代の枠を飛び越えてずっと先を見据えている天才たちは同時代の人から理解されない宿命にある。それどころか「常識ある学者先生」たちから激しい非難の矢を射られ続け、失意のままにこの世から去っていくことが多い。なぜなら、天才の歩みはまるで前を走り回るウサギのように素早くて捕らえがたいからだ。仮に捕まえたとしても才気溢れる激しい熱気でやけどを負うのが関の山である。常人は天才が亡くなって初めて彼の偉大さを理解するのである。
 ショーペンハウアーは上の文章の後に「生存中に同時代の人々の感謝を受けたいと思う人は、その時代と同じ歩調であゆまなければならない。ところがそうすれば決して偉大な仕事はできない。だから何か大事業を志す人は、目を後世に向け、後世のために自分の作品を仕上げなければならない。そうすればもちろん彼は同時代の人々には知られずにおわる。彼の身の上はやむなく無人島に生涯を送ることを余儀なくされた人が、将来の航海者に自分の消息を伝える石碑を建てているようなものである」(同、58)と言っている。
 この言葉を聞いて小生は天才でなくて良かったと思った ('-^*)/ 
 できれば天才だと言われてみたいけれど、世間からまったく相手にされず、無人島で一人寂しく暮らすことなど嫌である。周りの人にも認められ、感謝されたい。「あいつはどうしようもない奴だ」と言われて、悪意のこもった弓矢で射られる人生なんて真っ平だ。後世の人に偉大な仕事をしたと理解されなくたっていい。そんなすごい才能など最初から持ち合わせていないから、どうせ偉大な仕事などできない。愚鈍な小生には凡人がピッタリである。それだからみんなと一緒に仲良く暮らしていられるのだ。
 しかし、もしあなたが天才と言われたいなら、まず第一に世間一般に迎合してはならない。「独創的で非凡な、場合によっては不朽でさえある思想を抱くためには、しばらくの間世界と事物に対して没交渉になり、まったく新しい未知の姿で現れてくるようにせよ」(同、56)とショーペンハウアーは言っている。だけど、そうやろうとしても簡単にはできない。それは凡人には自由にならない天才だけが持つ特権だからだ。
 19世紀初頭に活躍したショーペンハウアーは、当時「大天才」と呼ばれたヘーゲルの名声の下に隠れて、同時代のドイツ人たちから全然評価されなかった。皮肉屋の彼はこうして自分を無視した愚鈍なドイツ人を「汲み尽くせぬほど馬鹿な国民」と言って嘆いていた。上の文章を読むと彼は自分こそ真の天才であり、自分の死後にきっとそれは明らかになると確信しているのである。そして今なお彼の著作が読まれていることを見れば、やはり彼も天才の一人だったと認めざるを得ない。
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by Weltgeist | 2013-03-22 23:28