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65歳までの定年延長について (No.1608 13/01/31)

 今年の4月から希望する人には65歳まで定年が延長されるらしい。今後厚生年金の受給開始年齢が段階的に65歳まで引き上げられるので、離職した人が無収入に陥るのを防ぐための措置だという。
 すでに定年から10年を過ぎている小生にとってはどちらに転んでもあまり影響のない話だが、これから定年を迎える人にとってはたいへん大きな問題である。少なくとも50歳台後半の定年に近い人には朗報かもしれない。年金の支給開始が延びてどうしようかと不安に思っていた人はひとまず安心である。
 と言いたいが、はたしてそううまくいくのだろうか。民主、自民、公明3党が共同提出した修正案では、「高齢者の過剰保護にならないよう、健康状態や勤務態度が解雇事由に該当する労働者は除外できる」という条項を加えている。つまり、場合によっては会社の意向で「はい定年です。辞めてください」と言って首を切ることもできるのである。
 ちょっと頭にくるのは「高齢者の過剰保護にならないよう」という一文だ。経営者にとっては歳ばかりとった高給取りが残ることになれば経営を圧迫しかねない。賃金の安い若い労働者を雇った方がいいのだ。技術はあるかもしれないが、高い給料をとるお荷物は給料を下げさせてもらうか、早く出ていってほしいのが本音であろう。
 幸いにも解雇事由に該当せず、定年延長された人は少なくとも無収入で路頭に迷うようなことがないだけマシだが、それが若い人の雇用機会を邪魔するかもしれない。老人を立てれば若者が立たない。どちらをとるかむずかしい問題である。
 しかし、60歳を過ぎればスキルはあっても、頭のボケも起こってくる。小生の場合は62歳まで定年延長で働いたが、能力的な限界を自ら感じてリタイアを決意した。65歳と言わずとも、「もういいや。働きたくない」と思った時点でリタイアすればいいのではないか。だが、そうなると収入がなくなる・・・、と心配する人が当然出てくる。
 野に咲く花もいずれは枯れていく。そうして次の若草がその後を継いでいく。これが定めである。ジタバタしても始まらない。なるようにしかならないと覚悟を決めて後の若い人に委ねる「いさぎよい枯れ方」もあっていいのではないかと小生は思っている。
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すべての人は草、その栄光はみな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
イザヤ書、40:6-8 

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by Weltgeist | 2013-01-31 23:51

柔道日本女子代表監督の暴力と体罰 (No.1607 13/01/30)

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 柔道日本女子代表の強化合宿で監督から暴力行為があったことが今日になって突然明るみに出て来た。大阪桜宮高校のバスケット部員が教師の体罰で自殺した問題、そのあと愛知県の高校でも体育系の教師が部員に体罰を加えて耳の鼓膜を損傷させる事件など、このところ運動選手を指導する人たちの体罰問題がクローズアップされている。
 こうした問題は昔からずっと行われていたことで、今更という感は否めない。小生が山登りに熱中していた昔、穂高で某大学山岳部の上級生たちがピッケルで後輩を殴っているところを目撃したことがある。悲鳴をあげて助けを求める新人部員の声がいまでも耳にこびりついている。でも当時はこうしたことは普通で、「指導」という名のもとに多くの運動部で暴力行為が行われていた。
 その伝統はいまでも多くの運動部で引き継がれているようだ。ただ、今回のような事件にまで発展したのは、「指導」の程度があまりにひどすぎたからだろう。女子柔道選手の場合は15名の連名でJOCにまで訴えたというから、相当な暴力行為があったと想像できる。
 全国大会、あるいはオリンピックに出るような選手はヤワな練習では駄目なことは分かる。だからある程度の「強制的な指導」をする必要性も理解できる。むしろそれをやらなければしまりのない結果を招くので、時には軽い体罰を加えることは容認する。
 しかし、それには非常に大きな前提条件がある。それは選手を勝たせるための「愛のムチ」であることだ。殴るにしても、そうすることが選手のためになるという愛情があるなら容認できる。だが、今回の事件になったいずれの例でも、監督、先生の心の闇に潜む憎しみから出た一方的な体罰としか感じられない。単に個人的な怒りや苛立ち、欲求不満のはけ口として選手は叩かれたと受け取れるのだ。上下の身分関係から反発できないことを知りながら暴力をくわえることは陰湿ないじめとなんら変わるところがない。
 体罰が行きすぎるのは指導する側の人間性の問題である。監督にしても先生にしても選手への愛情が欠如している。指導する人たちへの優しい心遣いが欠けているところにこの問題の原因があると言える。自分の教え子に優しいまなざしを向ける先生は、たとえ体罰を加える時があったとしても決して限度を超すようなことはしないだろう。自分の心の貧しさを体罰ですっきりさせる者に人を指導する資格はない。まず、自分自身が人を敬う気持ちを持つよう心掛けるべきだ。
 この問題で、テレビのコメンテーターたちは色々なことを言っていたが、一番肝心なことを指摘していない気がした。暴力をふるわなければ問題が解決するのではない。指導者の心の問題をどのように「指導すべきか」が問題の解なのだ。
 体罰をやった先生を解雇するとか、監督を外す、あるいは今日の柔道連盟の謝罪会見のようにただ頭を下げればすむ問題ではないのである。
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by Weltgeist | 2013-01-30 23:04

バーンスタインのマーラー・交響曲第二番復活を聴く (No.1606 13/01/29)

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 このブログの右側にライフログというコーナーがあり、ここにお気に入りの本や音楽があれば登録して皆さんにお勧めすることができる。釣りや蝶など多趣味な小生は登録したい好きなものがいっぱいあるが、あれもこれも登録したら、かえって焦点がぼけるだろうと三点しか載せていない。最初は哲学者、ハイデガーの「存在と時間 Sein und Zeit 」、二番目が小説家、シュテファン・ツヴァイクの「人類の星の時間」そして、最後の音楽はクラウディオ・アバド指揮のマーラー「交響曲第二番復活」。いずれも小生が最高と思うものである。
 音楽ではマーラー以外に載せたいものが沢山ある。バッハ、ベートーベン、ワーグナーなど大好きだが、今のところ音楽はアバド指揮のマーラー、交響曲第二番復活だけにしている。いずれはバッハの「マタイ受難曲」とか、グールドの「ゴールトベルグ変奏曲」も登録しようとは思っているが、とりあえず今はアバドが演奏したマーラーの交響曲第二番復活が一番好きで、これを繰り返し聴いている。(一昨日のボロディンの中央アジアの草原にては例外です)
 しかし、今日は少し風向きを変えて、レナード・バーンスタインが1973年にロンドン交響楽団を指揮した古い「復活」のDVDを見たくなった。イギリスの古い教会でのライブ録音で、合唱はエディンバラ音楽祭合唱団、ソプラノがシーラ・アームストロング、メゾソプラノがジャネット・ベイカーという構成である。1973年というともう40年も昔のものだから映像も録音も骨董的な貧弱さである。アバドのスイス、ルツェルンのDVDと比べるとかわいそうなくらいひどいものだ。
 しかし、音楽とは心で聴くものである。1時間20分に及ぶかの長い大曲を聴き始めると、バーンスタインの演奏がただものではないことを思い知らされる。昔の録音の質などたちまち意識の外に出てしまう。歴史的な名演奏とはこういうものを言うのだろう。時の経つのも忘れた没我状態となって、ただただバーンスタインの音の魔術にはまってしまうのである。
 映像を見ると指揮しているバーンスタインそのものが、まさに夢遊病者のような恍惚状態になって第五楽章のフィナーレへ突入していく。そして、「♪~あなたはよみがえるだろう~~♪♪」というところでバーンスタインは指揮台で飛び上がるほど興奮し始める。指揮者とオケ、歌手が一体となった爆発的フィナーレはアバドの名演奏をも吹き飛ばすほどの迫力である。
 こんな音楽を一人でも多く聴かせたい。しかし、クラシック音楽に興味のない人に1時間20分全曲を付き合ってくれとまでは言えない。小生がそれほど勧めるならちょっと聴いてみるかと思う人がいたら、ユーチューブにフィナーレの8分間だけの部分ビデオを見つけたのでこれを見ていただきたい。8分でも長いというなら最後の4分くらいだけでも聴いていただきたい。
 そして、もし気に入って第一楽章から第五楽章まで全曲を聴いてみたい人はこちらをクリックしていただきたい。ただし、全曲盤は日本語字幕が出ないので、ドイツ語の歌詞の意味が分かりにくい。歌手がどういう意味を歌っているのか知るにはDVDがいいのだが、残念ながらこの盤は現在品切れのようだ。ちなみにユーチューブを調べたらアバド盤もフィナーレの部分、13分間があった。もちろんこちらも素晴らしいから比較して聴いてみるといいだろう。ただし、これも日本語字幕はない。ユーチューブって何でもあるのには驚いた。
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全身全霊を注いでマーラーの「復活」を指揮するバーンスタイン。その迫力は圧倒的である。とくに第五楽章最後のフィナーレでは、飛び上がったり、両手をあげて叫ぶような姿で我々をマーラーとバーンスタインが醸し出す興奮の世界に引きずりこんでしまう。
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by Weltgeist | 2013-01-30 11:15

理性的であることの意味 (No.1605 13/01/28)v

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人間の理性はその認識のある種類において奇妙な運命を持っている。すなわち、それが理性に対して、理性そのものの本性によって課せられるのであるから拒むことはできず、しかもそれが人間の理性のあらゆる能力を越えているからそれに答えることができない問いによって悩まされるという運命である。
理性がこの困惑におちいるのは理性の責任ではない。・・・理性は次第に高きに向かい、ますます遠く離れた諸条件へと高まっていく。けれども問題は決して止むことがないから、かくして自分の仕事はいつまでも終わらないままにつづけられねばならないことに理性は気がつく。それゆえ理性は・・・・普通の常識もそれと一致しているような諸原則に自分の逃げ場を求めざるをえないことを知る。これによって理性は混迷と矛盾におちいってしまう。
イマニュエル・カント、純粋理性批判、第一版への序文。高峯一愚訳
Immanuel Kant "Kritik der reinen Vernunft" Vorrede zur ersten Auflage.


d0151247_20524153.jpg 朝起きたら昨夜のうちに降った雪が庭の木の葉の上にうっすらと積もっていた。先日のような大雪ではない。ほんの数㎝だけの淡い細雪は、昼過ぎには早くも解けて消えてしまった。また雪かきをしなくてすむとホッとしたと同時に、もう少し美しい雪景色を楽しみたい惜しさもある。移りゆく自然ははかなく、人間の希望などお構いなく己の姿を変幻させている様を感じた。
 さてこんな日は何をしようかと考え、久しぶりにカントの純粋理性批判を紐解いてみた。最初は若い頃ボロボロにすり切れるまで読んだ原書をとりだしたが、すぐに挫折した。カント特有の代名詞をいっぱい使ったドイツ語は今の小生には歯が立たない。もう若い頃の生意気な哲学青年には戻れないのだ。代わって高峯一愚氏の日本語訳を開けるとほっとした気分になる。
 それから上にあげた純粋理性批判、初版の有名な書き出しの部分「人間の理性は・・・」から読んでいく。言葉は回りくどいが、要するに我々人間は理性的であるゆえにやっかいな矛盾に悩まざるをえない。理性的であるとは、たえず理性が正しい答えを要求して高みへ前進することである。だが、その答えは人間の理性の能力をこえたところにあるから、答えることができない。いつまで追求しても答えがえられないのだ。そうなると、人は適当なところで世間と妥協する恐れがあるとカントは言っている。
 そうだ、思い出した。人間は有限な理性的存在である。だから真理の高みを求めて常に高く高く登ってその有限性を無くそうとしていく。だが、問題はいつまで登ったら頂上にたどり着くかである。これまでのところその実現はほぼ不可能な気がする。人間には真理など分かりっこないのだ。だから適当なところで手を抜いて、現実を直視した方がずっとためになるよ、というささやきが聞こえてくる。それに耳を貸すと、とても安心した気分になれるのである。
 絶対実現不可能なこと、たとえば途方もない超能力を身につけて、あらゆる人の運命や未来を見渡せるようになることができたとしよう。そういう使い慣れないものを急に持たされた人間はなにをしでかすか。きっと他の人には見ることのできない明日の新聞を見て株で大もうけをするとか、馬券を買って大穴を当てて一稼ぎするといった、しようもないことに使うに決まっている。人間とはそんな程度の情けない存在なのである。
 だが、それにも関わらず人はなお理性的であることを止めない。目標に行き着かないことはひどいストレスと絶望感をもたらすかもしれない。しかし、それでもいい。たどり着けないものに向かって努力していくところに人間の美しさがあるのだ。たとえ真理ははるか彼方で輝く星のように遠くても、そこに向かって必死で登っていく。現実に妥協すれば、一時的な快適さは得られたとしてもそれは欺瞞でしかないのである。
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by Weltgeist | 2013-01-28 22:13

練馬区立稲荷山図書館探訪 (No.1604 13/01/27)

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 日曜日の今日、久しぶりに練馬区立稲荷山図書館へ行った。目的はこの夏行く予定の中央アジアの蝶についての資料集めである。前にも書いたが、この図書館の昆虫関係図書の充実ぶりはすごい。昆虫に関する蔵書、資料の多さは日本最大の蔵書を誇る国会図書館でさえ問題にしないほど沢山ある。ただ、難点は交通の便が悪いことだ。西武池袋線石神井公園駅で下車してバス便でしか行けない。遠くから来た人は一日がかりとなるだろう。
 ちょうど外環道と関越道が交差するジャンクションを過ぎた土支田付近の閑静な住宅地のど真ん中に稲荷山図書館はある。ちょっと場違いな住宅街にある小さな小さな図書館という感じだが、中に入ると昆虫に関する蔵書、資料の多さに圧倒される。地方の昆虫同好会が発行する機関誌から学術論文まで何でも揃っている感じである。
 稲荷山図書館がどうして昆虫関係に特化した収集をやったのか経緯は分からない。しかし、蝶など昆虫に関する本はたいていがマニアックな人が徹底的にこだわった研究を書いたものである。専門の生物学者でもないのに、マニアが学者顔負けの研究から図鑑まで出版している。ほとんどは半分趣味で出版したようなものなので、金に糸目を付けない限定出版である。一般の書店に並ぶことなどない、世間の常識的な目からはかけ離れた高価なレア本がこの図書館にはごそごそあるのだ。
 今日も行ったら期待に違わず小生が今年狙っている中央アジアのウスバシロチョウの仲間、パルナシウスの情報をばっちり見つけることができ、有意義な日曜日であった。
 今は自宅でそのコピーを読んでいるが、こうした資料を読むときのバックグラウンドミュージックはボロディンの交響詩「中央アジアの草原にて」がぴったりである。これを聴きながら、コピーしてきたその資料を眺めて至福の時を過ごしているのだ。したがって本日は長いブログを書いている時間はない。今夜は読んだ資料を抱きながら、中央アジアの草原を逍遙する小生を夢見るつもりなのである。
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by Weltgeist | 2013-01-27 23:23

猫のご挨拶 (No.1603 13/01/26)

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 世間には犬派、猫派という区分があるという。その区分に従えば小生は猫派で、犬は苦手である。犬派の人に叱られそうだが、子供のころ犬に噛みつかれて以来、犬が怖くて近づけない。嫌いなわけではない。しかし、少し大きめの犬が接近してくると恐怖心から体が硬直してくる。もう60年以上昔のことなのに、いまだに怖いと思うのだから相当のトラウマと感じているのである。
 その一方で猫は大好きである。はっきり言って小生はかなりな猫好きだ。猫のどこがいいのか? と問われると、待ってましたとばかり、沢山の理由を引き出すことができる。
 第一に飼い主にべったりなくせに、絶対最後まで心を許すことをしない猫の独立心が好きである。いくら飼い主が可愛がってもこれっぽっちもありがたいと思わないで勝手気ままに振る舞う。猫は絶対押し通すべき「自分」をもっていて、犬のように飼い主に尻尾をふる真似はしないのだ。餌が欲しいときは見え見えの魂胆で甘えのポーズをとるが、食べ終わったら手のひらを返したような態度をする。こんな忘恩行為を平気でやるのが猫である。
 だが、その勝手さがいいのだ。人は世間の常識やしきたりにがんじがらめになっている。そんなこと歯牙にもかけない猫がうらやましい。いつも世間体を気にしてばかりしている小生には、何が何でも自分を押し通す猫の強さに一種のあこがれのようなものを感じてしまうのである。
 それとお互いが適当に距離感を保っていられるのがいい。一日中寝てばかりいる怠け者の猫をときどき抱き寄せて膝の上に乗せると何ともいえない心の安らぎを覚える。猫の方は気持ちよく寝ていたのに迷惑だと思いつつも、ほんの少しの間だけ仕方なさそうに我慢して抱かれてくれる。「餌をくれる人だからしょうがない」と思って付き合う猫の打算的な関係が小生には心地よいのである。
 でも、いま飼っているイライは、どこか犬的な性格があるようだ。昨日、Bさんのコンピュータにじゃれついたイライは、Bさんにまとわりついていて、まるで犬のような行動をしていた。上の写真は一見するとキスをしているように見える。しかし、犬と違うのは食いしん坊なイライはBさんが何を食べてきたのか臭いで確認しているのだ。「俺の知らないところでおいしい物を食べてきたのではないか」と調べているのである。見方を変えればちょっと疑い深い性格とも言える。
 でも、詮索はこれまで。Bさんがおいしい物を食べてきたにしても猫と人間では好みが違う。まさかペットフードを食べてきたのなら反応が違うかもしれないが、あっさりと「俺の好きな食べ物とは臭いが違う」と思ってすぐに離れていく。これがまたいかにもドライな性格に思えて小生には可愛いらしく見えるのだ。
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by Weltgeist | 2013-01-26 23:35

前兆、予感、 foreshadow & threat (No.1602 13/01/25)

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 今日はBさんによる週一の英会話個人授業。例によって発音を厳しく直される。しかし、聴覚の神経が鈍くなっているため、いつものように a と o の区別ができない。 hat (帽子)と hot (暑い)という言葉が同じ発音に聞こえる。walk (歩く)と work (働く)もそうだ。Bさんの口の開け方を見ているとなんとなくできるのだが、しばらくするとすぐに元に戻ってしまう。
 woman (女性)という言葉の発音は「ウーマン」ではない「ウォーマン」であると直される。o を日本のローマ字的に言う「オー」は間違いで「アー」、a は逆に「オー」と発音した方がいい。だから walk は「ウォーク」と work は「ワァーク」と聞こえる。
 ウーン、分かっているのだが、話しているうちに緊張感がなくなってすぐに間違えてしまう。いったい何年やればこうした初歩的なミスから脱出できるのか、自分でもいやになってしまう。
 ところで、今日もBさんが部屋に入ってきたらイライが興奮してBさんに甘えっぱなしである。イライはBさんが大好きだから彼のまわりから離れないのだ。困ったことにコンピュータ人間であるBさんは、マックが手放せない。これをテーブルに置いて操作しようとするとたちまちキーボードの上をイライが歩いて、滅茶苦茶にしてしまう。たまらないと、マックを持ち上げて操作している間も興味津々(写真上)でいたずらするチャンスを狙っている。
 Bさんが少しでも腕を下げると、今度はご覧の通り(写真下)マックのリンゴのマークに向かって連続ジャブを繰り出している。マックは猫のパンチくらいで壊れるようなヤワなものではないけれど、変なキーを彼が押してデータを消したりしたら大問題である。真剣な顔でコンピュータを見るBさんといたずらをするイライのコントラストが面白い。何にでもちょっかいを出すイライの暴れぶりは可愛いけれど、少しおとなしくしてほしいと思っているのも事実である。
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 さて今週覚えた単語は foreshadow と threat。いずれも前兆とか予兆、予感という意味で、将来に漂う暗雲が垣間見える、あまり良くない状態のことである。この言葉を聞いて安倍政権が語っている将来のことを思い出した。政権がスタートした直後は円安、株高で順調にいっているようだが、この先までこれが続くのかどうか、小生には foreshadow の暗い影がさしている気がするのだ。
 今朝の新聞によれば安倍政権の売りであった「無制限の金融緩和」が日銀の計画通り進まないで、市場では失望売りが出ているという。日銀は毎月13兆円のお金をつぎ込んで国債を買ってお金の量を増やしたいと目論んでいるが、むしろ満期になって戻ってくる国債が増えて、実際には月1兆円弱しかならない。今の純増分は月平均3兆円なのが、3分の1に急減するということが見えてきている。これを早くも読み取った株価は200円安、円安も止まっているというのである。
 一方で円安による輸入価格のアップで、ガソリンが150円台になっている。インフレターゲットを設ければ、最終的には労働者の賃金も増えて景気は良くなると安倍首相は言うが、今年の春闘を見れば分かる通り、賃金のアップは絶望的である。労働者の手取りは下がり、物価だけが上がる最悪の事態になりそうな「予感」が当たらなければいいと思っている。
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by Weltgeist | 2013-01-25 23:58

ブログ掲載1600回を迎えて (No.1601 13/01/24)

 ブログを始めたのが2008年1月24日、くしくも5年前の今日である。毎日「感じたこと、考えたこと」を書き留める意味で始めたものがこれまた昨日で1600回となった。せいぜい半年もやれば飽きてしまうと思っていたのに、ここまで書き続けたことに小生自身が一番驚いている。飽きっぽい性格の小生がこれだけ続けた理由は何だったのか。多分負けず嫌いの性格がここまでさせたのだろう。
 ブログを始めるに当たって毎日更新することを決めていた。それを頑ななまで守ることにこだわったのは、一度決めたことをサボるのは自らに負けたと思うからだ。それと更新の少ないサイトはやって来た人の失望を買って、すぐに蜘蛛の巣が張るとの思い込みが背中を押した。ブログを始めるなら絶対毎日更新しなければ駄目だと盲信していたのである。
 かくして小生はPCが使えない環境、たとえば旅行に行ったとか病気の時以外はほぼ毎日更新をやり通した。しかし、毎日更新したところで内容がないものなら意味も無い。アクセスしてきた人に「何だ、これはひどい」と言われるようなものならやらない方がマシだとの思いもあった。だが、そんな人に誇るべき内容のものを自分が書けるのだろうか。いつもそうした自分への自信のなさに悶々としつつやってきたのである。
 少なくとも自分が納得できるレベルのものでも、それを毎日書き続けるのは正直言ってきつい。毎日何を書くのかテーマを見つけるのがたいへんなのだ。しかも1600回も書いた以前のものとダブらないものをどう書いていくか。
 テーマはその日感じた「言葉」を自分なりに考えて、その考える過程を書くことにしている。だから、日々のニュースで話題になっていることを取り上げるときも、まずはそれについて自分なりに考えていく。今のネット社会では検索すればすでに沢山の意見が出そろっているかもしれないが、自分はそれにこだわらない。「お前はどう考えるのか」と自らに問うて、そこから自分が考えたことをブログに書くようにしているのである。
 だから小生のブログは世間一般からみるとちょっと常識を外れたものと見られるかもしれない。ときには「違うでしょう」と強い反発にあうこともある。しかし、社会一般で通用していることが必ずしも正しいわけではない。「自分はこう思う」と主張するのがブログを書く意義ではないだろうか。
 大学生のときデカルトを読み、全てのことをまず正しいかどうか疑ってとりかかり、確かと思うことから考えていけと学んだ。「我思う、故に我あり」、とにかく自分で徹底的に考えていく姿勢をこのブログでも遂行していきたい。ブログ世界のプチ・デカルトを実践したいのだ。
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文章と同様に毎日添付する写真も時々ストックがなくなったネタ切れを起こす。1600枚の写真がすべて傑作なら小生は大写真家として名を残すだろう。だが、ネタ切れで悩んだとき各地の美術館の作品が大いに助けてくれた。この絵はリスボン国立美術館にあるヒエロニモス・ボッシュの「聖アントニウスの誘惑」右パネルの一部である。
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by Weltgeist | 2013-01-24 23:50

アマルティア・センの言う「正義」とは何か (No.1600 13/01/23)

d0151247_22174375.jpg 昨日紙面が足りなくなったアマルティア・センの「正義のアイデア」の続き(前半を読みたい人はこちらを)である。さて、昨日センは「正義のアイデア」の中で正義は多様で、色々な正義が成立すると言っていた。
 物事には多様な面があるから、どれが正義であるかを簡単に断定することは危険である。センはそう言って様々な例題を示していくのだが、不思議なことに「それでは本当の正義とは何か」という問いには答えていない。正義とは何かと思って彼の本を読んでいっても最後まで答えは出て来ず、正義の概念を知りたい人は失望する。
 彼は古典的な哲学者が考えたような完全無欠な正義が厳然としてあるのではなく、現実の世界に存在する様々な不正義を取り除くことで「実現していくもの」が正義と考えているようである。形而上学的な彼岸から我々に指針を送ってくるような「完全な正義」ではなく、現世界の不正義を取り除き、以前の不正義な社会と比較せよと言う。そうした比較の方法を提示するだけである。だから「正義のアイデア」なのだ。
 それで、小生が今考えている分配の不公平、すなわち一部の人間が大多数の生み出した富を独占する「不正義」の問題をセンはどのように考えているのだろうか。彼は「世界の多くの国で人々が豊かになり、以前よりも実質的に多くの所得を支出できるようになったにもかかわらず、人々は以前より特に幸せになったとは感じていないことを示す多くの実証的証拠がある。経済成長は困窮や不幸などを含むすべての経済問題を解決する万能薬であるとするもっともらしい主張の背後にある暗黙の前提」(池本幸生訳、PP.391-392 )を問い直す必要があると言う。「ほとんどの人々はもっと多くの所得を欲しいと思い、そのために努力する。それにもかかわらず西洋社会が豊かになったからといって、人々は幸福になったわけではない」(同)ことの隠された理由を見つけろと言うのである。
 センは「幸福が生活スタイルに対して持つ広範な含意とその結果、所得と幸福の関係は所得志向の理論家たちが想定するよりはるかに複雑であるという事実認識」を持つべきだと言って、ケイパビリティ・アプローチ(capability approach)という概念を導入してくる。この言葉は一般に「潜在能力アプローチ」と訳されるが、センはもっと多様な意味を込めて使っている。
 「ケイパビリティ・アプローチとは人の暮らしに焦点を合わせるものであり、経済分析で人の成功を測る主要な基準として用いられる所得や財のような、単に有用なモノではない」(P.328)と言ってお金の有る無しが成功者かどうかを決めるような単純なモノサシではないとクギを刺している。それは「人が良い生活をするにはどのような状態にありたいのか、そしてどのような行動をとりたいかを総合的に結びつける機能、能力」なのである。
 要するに人生の意味をどこに置くのか、価値観の違いから、生きていく行動の原動力となるようなものである。だからケイパビリティから見れば、人の幸福は所得の多さで決まらない。もしかしたら自分の財産を他人に提供するところに幸福を感じる人もいるからだ。ここでも幸福感には多様な面が出て来るではないかと言っているのだ。
 センはかようにして、自由や民主主義、貧困の問題などをケイパビリティ・アプローチから追求していく。そうして、社会にある様々な不正義を少しずつ正していく方向を指し示しているのである。しかし、そうだからと言って、現在の米国や日本、いや全世界で拡がりつつある格差、すなわち、ごく一部の大金持ちはいっそう豊かに、そして圧倒的に多数の貧乏人はいっそう貧しくなっていく傾向は解決できていない。
 この世の中に絶対的な正義はないからだ。しかし、救いとなるのは人の幸福は「所得や財のような、単に有用なモノではない」と言って、逃げ道をセンが用意してくれていることである。ちょっと悲しいけれど、お金がない貧乏人でも幸福にはなれるのだ。

*今日も長い文章をダラダラ書いていたが、気がついたらブログ掲載が1600回になっていた。馬鹿みたいなことをいつまで続けるのか、ときどき自らを呆れたくなる。
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by Weltgeist | 2013-01-23 23:58

アマルティア・セン、「正義のアイデア」  (No.1599 13/01/22)

d0151247_2019078.jpg 先週知り合いのアメリカ人(Bさんではないです)とウオール街を占拠した「99%の人たち」のことを話した。小生が米国ではごく少数の人が富を独占するのは不公平ではないかとクルーグマンが言っているがどう思うかと聞いたら、「自分はそうは思わない。アマルティア・センの本を読んで見たらどうか。ユーの考えが変わるよ」と反論されて意見がかみ合わなかった。***さんは証券会社に勤めていて、ウオール街で働く証券マンと同じ立場だから、富を独占する側と思われるのがいやだったのだろう。
 アマルティア・センという人は初めて聞く名前で全然知らなかったが、この先何も知らずにいれば***さんと議論の土俵が違ってしまうと思い、センが書いた「正義のアイデア」と、「貧困と飢饉」という本を図書館から借りて読んでいる。
 アマルティア・セン(Amartya Sen)は 1933年にインドで生まれ、1998年にアジアで初のノーベル経済学賞を受賞した思想家であることが分かった。本も沢山書いているようだが、とりあえず借りてきた「正義のアイデア」は彼の主著らしい。
 早速これを読むと世界には様々な不正義があふれていることを指摘している。この世にはウオール街を占拠した人たちのように不平等な状況に置かれた例が沢山あることをセンは認めている。そしてこの問題をセンはどう考えていくのだろうか。
 わずか1%の人間が99%の人間に富を分配しないで独占することは悪いことと小生は頭から決めてかかっていた。しかし、それが果たして正義の要求として主張できるのか、小生が常々知りたいと思っている解決策がこの本にはありそうである。
 センは最初に一本の笛の所有をめぐって3人の子供、アン、ボブ、カーラが争うたとえ話を出して説明する。一本しかない笛をアン以外の二人は吹くことができない。実際に笛が吹ける人に与えないのは無意味だから自分が持つべきだとアンは主張する。これに対してボブが、自分は三人の中で一番貧しく、何のおもちゃも持っていない。唯一のおもちゃとして笛をもらうのが公平な原理ではないかと主張する。しかし、最後のカーラが、この笛は自分が何ヶ月もかけて作ったもので、所有権は当然自分にあると言い張る。つまり三人がそれぞれ妥当と思われる根拠で笛をよこせともめているのである。
 しかし、センが出したこの例題はあまり適切なものではない。なぜなら、現代社会では笛はそれを造り出した者、カーラに所有権があるのは当たり前だからである。だが、笛は正しく使える人に渡って初めて価値を持ってくるからアンの主張も分かるし、公平という観点ではボブも権利は主張できる。俺たちは99%だ、分け前をよこせと言うのはまさにボブの主張と同じである。
 センがここで言いたいのは、正しい解決法は多様であり、どこに力点を置くかで正義も違ってくるということである。世界にはこのようにして多数の正義が混在している。なぜなら人々の意見は多様性に富んでいるからだ。どれか一つの解決法だけが絶対的な正義だと思い込むことはできなくなるのだ。しかし、そうなるといったい正義とは何か分からなくなってくる。ウオール街を占拠してわずか1%の人が99%の人の儲けを独占するのはけしからんと言う主張に小生同情的だったが、考えてみるとそれが本当に正義なのか単純に言えなくなりそうである。でもそれでいいのだろうか・・・。

*話が長くなりそうなのでこの続きは明日書きます。
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by Weltgeist | 2013-01-22 22:04