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ボケ防止に右脳訓練 (No.1407 12/05/31)

 以前、速読の訓練法として「右脳訓練」なるものを行っていると書いたことがある。電車に乗ったときなど、向かい側にいる人を一度しっかりと見て、その姿を脳裏に焼き付けたと思った時点で眼を閉じて、その人がどんなだったかを一つ一つ記憶を頼りに思い出していく。男か女か、メガネはかけていたか、髪の毛の色は、カバンはどんなだったか等々、すべて右脳に記憶された画像だけで確認していくのである。そしてもう一度眼を開けて実際と記憶がどれだけ違っていたかを照らし合わせるのだ。
 そうすると、自分の記憶力がいかに曖昧だったかがよくわかる。男か女かくらいは簡単だが、どんな洋服で持ち物は何かまで思い出すとなるとなかなかうまくいかない。画像を記憶する脳の右側部分が劣化しているからである。右脳は人間の感情、直感、イメージなど、物事を視覚的、全体的にとらえる場所である。ここの機能が高まれば速読がもっと早く読めるようになると思ってやっているのだが、人間、そんなに簡単に脳の機能が高まるものではない。
 しかし、電車に乗っていてやることがないときなど、小生の「右脳訓練」はいい暇つぶしにはなる。ターゲットはいくらでもある。前の座席に座っている人でもいいし、目の前に見えてくる景色でもいい。とにかくそれを写真のように一瞬に写し取って確認するのだ。この作業、少なくとも電車の中で携帯ばかり見ているいるよりずっと有意義だと思っている。というより、小生電車の中で携帯を操作してメールやネットを見るのが嫌いだから、必然的に時間が余って右脳訓練にいってしまうのである。
 そこまでして脳がどれほど良くなったか。速読の訓練としては多少役だっている気はするが、残念ながら今も進行中の脳の機能低下、すなわちボケの進行具合は全然収まっていない。最近はとくに脳の回転が悪くなっていて、会った人のことを全然覚えられなくなっている。顔については朧気ならが覚えているが、すぐに忘れるのは名前だ。
 名前など言語、論理的な思考は左脳が司るという。一般的に現代人は複雑な状況のなかで生き抜くためにすばやく計算して、自分がどのように振る舞えば損をしないですむかに長けているため、右脳より左脳の方が発達しているのだそうだ。ただし、これは与えられたデータの分析能力であるから、世の中をうまく立ち回ることはできても、大きく飛躍するためのインスピレーションまで得ることはできない。
 天才が素晴らしいひらめきで、何か新しいことをできるのは右脳の直感力が優れているからだ。しかし、小生は右脳を鍛えて天才になろうなんて大それた望みは持っていない。人の名前もすぐに忘れるようになった小生に必要なのは右脳ではなく実は左脳の訓練なのかもしれない。せめて自分の名前だけでも忘れないために、右脳より左脳を鍛えることの方が今の小生には重要なのだろう。
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by Weltgeist | 2012-05-31 23:57

基礎体力はどうやったらつけられるのか (No.1406 12/05/30)

 今年も昨年同様、標高が5000mを超える山にパルナシウスと呼ばれるウスバシロチョウを見に行く計画をたてている。しかし、最低でも4000m以上の高山を歩くにはそれなりの体力が要る。昨年の経験から5000mを超えると酸素が薄くなって、ヤワな体ではまともに歩くこともできなくなることが分かってきている。高所の過酷な環境に耐えられる強靱な肉体がないと遠征は厳しいことになるのだ。
 今年の遠征計画が固まってくるにつれてこの山行きのための体力造りは次第に急務となりつつある。このため4月に入ってから、緩い丘陵地帯の歩行を一回4㎞、毎日一時間かけて欠かさず続けている。3月末に心臓右冠動脈のステント手術をしたS病院で退院時に「運動をしなさい」と医者から言われている。運動をすれば悪玉コレステロールが減って動脈硬化による狭心症の再発予防効果もある。健康と体力造りの一石二鳥を狙うには、このウオーキングが最適だと思っていたのである。
 しかし、それがどうやら甘かったようで、暗雲が立ち込めてきている。先日、術後のリハビリを兼ねてS病院で「心肺運動負荷試験」というものを受けた。これでどのくらいの基礎体力があるか測定してもらったのである。検査はトレッドミルという自転車のペダルを漕いで心臓の状態から肺の酸素摂取能力などを調べるのだ。その結果、「最高酸素摂取量」は年齢平均より108%と良かったのだが、「最高運動負荷量」、つまり体力が年齢平均に対して75.8%しかないという意外な結果が出て、思わず耳を疑ってしまった。
 自分としては毎日歩いていて少なくとも同年代の人より体力は絶対あると思っていたのに、平均より25%も衰えているというのだ。「なぜだ」と叫びたいほど意外な結果である。毎日4㎞も歩くのは簡単ではない。寒い日や雨の日、また忙しい日などやりたくないが、それでも高所遠征に行きたいから毎日頑張った。少なくともあれだけ頑張ったのだからその成果はあると期待していたのである。それで、まわりの人はみな運動不足でヒョロヒョロした軟弱な人と思い込んでいたら、軟弱は小生の方で他の人たちの方が体力があったというのはたいへんなショックだった。
 自分としては毎日歩くことでできれば40代くらいの体力を作ろうと目論んでいた。それが69歳というほとんどポンコツ程度の体力に25%も及ばないというのだからどうしようもない。これでは4000mどころか高尾山でもヒーヒー言いそうである。
 一応酸素摂取量は同年配の人より高いから、高山病にはなりにくいかもしれないが、体力がないというのは非常にまずい状態である。出発予定は6月末、あと一ヶ月しかない。その間にせめて同年齢の平均水準程度まで体力を作っておかないと山に行っても身動きがとれなくなるだろう。
 といって短期間にどうやって体力をつけるのか。知り合いは近くのジムに通っていると言っていた。自分は室内でやるトレーニングは好きではない。一番いいのは実際の山にどんどん登って体全体を慣らしていくことではないかと思っている。今のところまだ腰は重いが、これからは奥多摩、秩父、さらには南北アルプスの山々までだんだん目標を高めて登って行こうと思っているがはたしてうまくいくか。出発のタイムリミットは刻々と迫っているのである。
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by Weltgeist | 2012-05-30 22:58

けしからんネタは蜜の味 (No.1405 12/05/29)

 関西のお笑い芸人の母親が生活保護を受けていたことがバレて、日本中が怒っているようだ。芸人は多いときの年収が5千万円にもなったというのに「母親が生活保護とはひどい」とみんなが批判を始めた。テレビを見ていたら今の生活保護ではもらい方によっては月、11万円を超えるという。これはちょっとしたアルバイターより割のいい支給額である。そんなお金を不正に受け取るのはけしからんというわけだ。
 マスコミはこのような「けしからんネタ」をとりあげると視聴率を稼げるので、とくに報道にも力が込められているよう感じた。こうしたことを暴く報道って他にも沢山あって最近流行っているのだ。例えば少し前に見た番組では、禁止されたやり方でアサリを大量に採る人の告発だ。巨大な熊手で制限以上のアサリを堂々と採る無法者に「**テレビですが、ここのアサリはそんな大きな熊手で採ることは禁止されていますが・・」と言って正義の味方月光仮面を演じる。同じようなパターンは他にも色々ある。禁止されている駅前に違法に自転車を放置する人とか、遮断機が降りかかっているのに、むりやり踏切をくぐり抜ける人、通学時間帯に進入禁止の道路に入って抜け道とする人などを正義の味方、テレビ局が直撃取材するのも、今回の生活保護費不正受給報道と同じパターンである。
 しかし、小生は今回の生活保護費不正受給も含めて、「けしからんネタ」の報道にはいささかうんざりしている。どんな聖人だってどこかにやましいことはあるはずだ。百%正義の人なんていないのである。もし自分が母親の立場だったらどうだろうかと考えると、複雑な気持ちになる。違法であることを知りながらも、お金の魅力に勝てずに「いただけるものはいただきます」とやっていたかもしれないのだ。
 報道を見て視聴者が怒るのは、自分の「小さな悪」は不問にして、他の人が悪いことで不当な利益を受けるのが許せないのである。根底には自らを反省することなく、ただ他人だけを羨むやっかみ、嫉妬心がこの批判を増幅している気がしてならない。いくらもらっていたのか、自らの懐具合と比べてあれこれ言うのって、何かみみっちい感じがして情けない気がするのである。
 芸人の母親が生活保護を辞退していれば、それを他の人に回すことができたかもしれない。だから今回の不正は二重の意味で許しがたいと憤る人の気持ちも理解できる。しかし、それでも小生からみればテレビで大々的に報じるほどの問題ではないと思う。悪いことかもしれないが、そのことで芸人の母親が一時的にしろ良い思いができた。彼女の人生においてはそうした良き瞬間が訪れたことを運命の神が与えた「悪しきプレゼント」と小生は思いたい。 
 この報道から教訓として学ぶのは、もちろん不正なことは断じてやらないという決意は重要だが、同時にそうした人を批判する自分をまず省みることだ。そして心の中に他人への妬みがないかを確認することである。嫉妬という色眼鏡で人を見るのではなく、相手を思いやる気持ちで見れないかということだ。 
 また、正義の味方と振る舞うマスコミには、視聴率を稼ぎたいからといって妙な正義漢をふりまくなと言いたい。もっと大きな視野で報道すべきことがいっぱいあるだろう。悪を追求するなら人々を不幸にする巨大な悪を追ってこそ初めて正義の味方と胸を張れるのだ。他にやるべきことは沢山あるはずである。
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by Weltgeist | 2012-05-29 22:49

聖ウルスラの殉教 Martyrium der heilige Ursula von Köln (No.1404 12/05/28)

d0151247_22402160.jpg 独裁的な為政者にとって宗教とはやっかいなものである。なぜならこの世における絶対的な者は王である自分なのに、宗教を信じる人たちは絶対的な者は、神だと信じているからだ。民衆は神の言葉は信じても王が語る言葉に耳を貸さない。だから歴史上、権力に固執する独裁者はことごとく宗教を弾圧する。しかし、いくら弾圧しても自らの命を賭すことに怯まない信仰者の信念を変えることは難しい。人は真に生きようとすれば、二人の主に同時に仕えることはできないからだ。
 民衆を搾取の手段としかみない独裁者には表面的に従っているようにみせても、心の中では唯一絶対的なる神しか信じていない。それをむりやり自分の方に向けさせようとすると激しく抵抗し、極端な場合キリシタンのように殺される。殉教とは宗教的な信念をねじ曲げようとする勢力との戦いから生じるものなのである。
 ハンス・メムリンクが描く聖ウルスラの物語では、時の権力者への抵抗というより、フン族という異教徒との戦いで命を落としていく。異教徒の妻となれと強要されたウルスラは、自分が信じるキリスト教への信仰心に揺らぐことがないから、異教徒との結婚など考えられないのだ。イエスかノーかと弓矢を突きつけられても、答えはノーでしかない。
 フン族の将軍の妻となればそれなりの待遇も受けられたろう。今流の人ならきっと「馬鹿だなあ、殺されるくらいならうわべだけでも従うふりをして、うまく生きれば良かったのに」と思うことだろう。人間、まずは生きているからこそ全ては始まるからだ。しかし、ウルスラはそんなことで自らの信仰心を曲げたりしない。揺るぎなき神への忠誠心があったからこそ民衆に賞賛されたのである。
 だが、神のためには自らの命を差し出すこともいとわない殉教という精神構造は、常人にはちょっと理解しがたいことである。ニューヨーク世界貿易センタービルにジェット機をハイジャックして突っ込んだアルカイダのメンバーたちは、異教徒であるキリスト教に対する闘いとして、自らの命を賭した「殉教」を行った。「アラー・アクバル、神は偉大なり」と叫びながら飛行機ごとビルに突っ込むという常軌を逸した行動が一部の異常な勢力(タリバンなど)の間では「英雄的な殉教」として今も賞賛されているから驚く。
 殉教者は熱狂的な信者の間で昔からあこがれの存在として敬われている。例えば、キリスト教徒で最初の殉教者となったのはステパノと使徒ヤコブ(使徒行伝12:2)である。驚くべきはこの殉教者ヤコブの遺体なるものが9世紀にスペイン西部で見つかり、その場所をサンティアゴ・デ・コンポステーラという名前をつけて壮大なカテドラルまで建てたことだ。メムリンクの「ウルスラの聖遺物箱」なんてちっぽけなものは問題にもならない。本当にヤコブの遺体があったかどうか我々には知る由も無いが、鰯(いわし)の頭も信心からで、押し寄せる参拝者の群れに、この街全体が殉教者崇拝の神聖な場所として今は世界遺産にまでなっているのである。
 聖ヤコブはスペイン語で「サンティアゴ」、「コンポステーラ」は星の墓場という意味だそうで、今もピレネー山脈をホタテ貝の飾りを付けたカソリックの巡礼者が1000㎞以上の道を歩いて、殉教者詣でを行っている。すごい人はパリから徒歩でピレネーに向かい、サンティアゴ・デ・コンポステーラまで数ヶ月掛けて歩くという。四国のお遍路さん程度の甘いものではない。ときにはピレネー越えで命を落とす人も出るという。これも宗教を信じない人には一種のファナティックな行為にしか見えないことだろう。 

ウルスラの殉教は今日が最終回です。
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by Weltgeist | 2012-05-28 23:55

ハンス・メムリンク、聖ウルスラの殉教、2 (No.1403 12/05/27)

 ベルギーの古都、ブルージュのメムリンク美術館にあるハンス・メムリンクの「聖ウルスラの聖遺物箱」で語られるウルスラとはどんな人物だろうか。メムリンクが活躍した15世紀にはすでにウルスラについての伝説が数多く伝わっていた。13世紀に書かれたウォラギネの「黄金伝説」によれば、イングランド王から息子との結婚を迫られたブルターニュの王女・ウルスラは、結婚するなら相手は改宗しろと言うとともに、選りすぐった10人の乙女を連れていくが、その10人にそれぞれ1000人の侍女をつけろと、滅茶苦茶な要求を出した。こんな意志の強い王女が、ケルンから11000人の処女を連れてローマまで巡礼に行き、戻って来たところで異教徒であるフン族の王によって殺害される。その過程が以下の6枚の連作で表現されているものである。
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 第一枚目(左)の絵はブルターニュからローマに向かう途中、ケルンに到着したウルスラ一行。船を下りてケルンの街に連れてきた乙女たちに手を引かれて上陸。小生、ケルンに行ったことはないが、背景にはバイエルン塔、聖セヴェリヌス聖堂、それに建設中のケルン大聖堂が見えているという。
 右は二枚目で、ライン川を船で上って現在のスイス、バーゼルに到着したところ。バーゼルは小生も訪ねたことがあるが、ミュンスター大聖堂や、ライン川のそれらしい景色がない。このことからメムリンクはバーゼルには行ったことがなく想像で描いているようだ。小生がバーゼルで見たライン川は急流で、船の旅とはいえ、ここまで下流から上ってくるのは相当たいへんだったと思われる。さらに彼女たちはこれから徒歩でアルプスを越えてローマまでの巡礼を続けて行かなければならないのである。
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 長いアルプス越えを終えてウルスラ一行はローマに到着。ウルスラと同じブルターニュ出身のローマ教皇、キリアクスたちに歓迎されている。ローマ教皇が教皇宮殿の玄関まで出向いて直々に歓迎するとはすごいことである。このことからウルスラがいかに力のある王女だったかが読み取れる。また、右側では護衛の男たちが祝福の洗礼を受けている。
 右の四枚目の絵は帰路についたウルスラが再びバーゼルまで来てライン下りの船に乗り込むところ。同じ船にはローマ教皇キリアクスや、枢機卿、司祭が乗っている。キリアクスは周囲の反対を押し切ってウルスラについていったと言われている。そのことから後の歴代教皇の名前から抹消されたと黄金伝説では書かれている。
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 巡礼が終わりに近づくケルンに戻ってきたとき、待ち伏せしていた異教徒のフン族に乙女たちが皆殺しにあう。左後ろに座っている教皇や枢機卿たちも当然殺されることになる。ところが、こんな悲惨な場面にもかかわらず、メムリンクの描く女性たちの顔は穏やかで優しさに満ちている。こうしたところがメムリンクがいまでも画家としての高い人気を博している理由なのかもしれない。
 右が物語の最後で、11000人の乙女やローマ教皇が皆殺しにあい、一人残されたウルスラは、彼女の美貌に魅了されたフン族の将軍から自分の妻になれと命じられる。しかし、これを断固拒否。怒った将軍がウルスラの胸元に矢を放つところで、ウルスラの殉教が完結する。ウルスラは最後まで自らの信仰と信念を貫いたことで、その後「聖ウルスラ」と聖人の一人になるのである。

以下明日に続く。
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by Weltgeist | 2012-05-27 23:46

ハンス・メムリンク、聖ウルスラの殉教1 (No.1402 12/05/26)

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 ベルギーの古都、ブルージュは「北方のヴェネツィア」とか「屋根のない美術館」と呼ばれる美しい運河の街として観光客に人気が高い。いくつもの世界遺産を抱えた街並みは素晴らしいが、この街へ行ったら街の観光やおみやげ漁りはほどほどにして是非見ていただきたいものがある。それはグルーニング美術館とメムリンク美術館だ。二つともとても小さな美術館であるが、小さいからと見逃してはいけない。歴史に残る名画が展示されているから、もしこれを見逃したらきっと後で後悔するだろう。
 「グルーニング美術館」には世界で最初に油彩画を描いたと言われるヤン・ファン・エイクの「ファン・デル・パーレの聖母子」がある。「聖母子」は人間業とは思えないほど超リアルなタッチで描かれていて度肝を抜かれるが、今日はそれとは別に、1430年頃から-1494年までブルージュで活躍した初期フランドル絵画の巨匠、ハンス・メムリンクの作品を集めた「メムリンク美術館」の絵について書いてみたい。
 メムリンク美術館は名前の通りハンス・メムリンクの作品を集中して集めた世界で唯一のメムリンク専門美術館である。ここにあるメムリンクの作品のうち、双璧は「聖カタリナの神秘の結婚」とベルギーの国宝になっている「聖ウルスラの聖遺物箱」である。小生の個人的な感想を言わせてもらえば絵の完成度では「聖カタリナ」の方が上だが、注目度からいうと「聖ウルスラ」の方に軍配をあげたい。というのも、こちらは普通の絵ではなく、上の写真のように、「聖遺物」を収める箱に、聖ウルスラがケルンからローマに11000人もの処女を連れて巡礼に行き、ケルンに戻ったところで侵略してきたフン族に殺されるという殉教物語を一連の絵で描いているものである。
 金色をした聖遺物箱は87X33X91㎝という小さな物で、実際に現物を見ると思った以上に小さく感じる。箱の横には11000人もの処女を連れてローマまで巡礼に行ったというウルスラが乙女たちをマントで覆って庇護している場面と、反対側(この写真の右裏側)には幼いキリストを抱く聖母マリアが描かれている。そして、側面はそれぞれ3枚の絵でケルンからライン川をバーゼルまで行く場面やローマに到着して教皇キリアクスに迎えられるところ、岐路は再びバーゼルからケルンに戻るところで侵略してきたフン族に殺される殉教の場面までが、紙芝居風に連続して描かれている。

以下明日に続く。
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by Weltgeist | 2012-05-26 23:58

怖い社会の自己防衛策 (No.1401 12/05/25)

 渋谷駅で乗客同士がたわいもないことから喧嘩になり、普通の市民がナイフで刺されてしまった。刺した男は逃げたが、防犯カメラの映像からすぐに逮捕された。地下鉄の駅のような公共施設には防犯カメラが無数にあり、これの監視網で犯人が特定されて無事逮捕となったようだ。犯人の映像はぼやけた静止画像で素人が見ても良く分からないものだったが、警察は他のカメラも合わせて犯人を絞り出したのだろう。さらに今日もコンビニを襲った強盗の映像が流されていたが、コンビニ強盗の顔は鮮明に映し出されていたからこちらの逮捕も時間の問題だろう。
 今回の事件で分かったように、我々は至る所で様々なカメラによって監視されている。無数にある監視カメラは犯罪防止が主な目的だから安心感は高まる。しかし、プライバシーという点では引っかかる。「俺の顔を撮るな」と頑張ってもカメラは止まってくれない。有無を言わさず勝手に記録し続けていく。今日の逮捕からみて、今の監視カメラシステムを使えば特定の個人情報など簡単に集めることもできるようで少し怖い気がする。
 そんなものいくら撮られても自分が悪いことをしていなければ問題は起こらない。平気の平左だよ。悪党どもが肖像権など主張する方がおかしい。悪いやつらはどんどん撮れば犯罪も減るだろう。そう思ってこれまでの防犯カメラは設置され続け、いまや膨大な監視システムが構築されるまでになってきた。日本の社会がある程度平和に保たれているのはこうしたカメラが抑止力になっているから致し方ないのかもしれない。
 ところで、渋谷の犯人が捕まって、サバイバルナイフを護身用に常時携帯していたことが明らかになった。猛獣が出没するような危険な場所なら護身用も分かるが、渋谷のような都会となると、この男は何から自分を守ろうとしたのか疑問符が付けたくなる。きっと他の人が自分を襲ってくる猛獣のように見えていたのだろう。彼は「キチガイに刃物」を地でいったことになる。こんな猛獣みたいな男が徘徊している以上やはり防犯カメラも必要なのかと思わざるを得ない。ちなみにアメリカでは写真のように、車の中に拳銃を「護身用」に置いていても全然問題にならないのだという。警察が守ってくれないから自分で武装するという社会の方がもっと怖い。
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by Weltgeist | 2012-05-25 23:18

暴れん坊、イライのしつけ (No.1400 12/05/24)

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 子猫のイライがものすごい暴れん坊になって困っている。現在彼のお気に入りはこのゴミ箱。「何か遊ぶものはないかな」という態度でやってくると、まずこのゴミ箱に入り、中で何度かとんぼ返りのような回転をしてゴミ箱をひっくり返し、中のゴミを全部床にぶちまける。そしてゴミ箱がひっくり返る音と、ゴミが飛び散る様子で彼の興奮度はさらに高まっていく。彼は自分自身がやった行為で自ら興奮してゴミ箱から飛び出してくるのだ。
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 イライが今日やったのは、倒れたゴミ箱から出たトイレットペーパーの芯に食いついて、これをサッカーボールのようにドリブルして転がしていったことである。トイレットペーパーの芯を獲物のネズミのように見立てているのだろう。コロコロと転がる芯にドドーッと走り寄ると両手でつかまえ、口でガブリと噛みついた。野生の動物たちは子供から親に成長していく過程で餌を獲ることを学んでいく。イライにもそれが残っていて、本能的に「狩り」をこれで学んでいるのかもしれない。
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 この不適な面構えを見て欲しい。小生の手を大きなネズミとでも思っているのだろうか、がっぷりと噛みついてなかなか放さない。最初は手足でひっかくだけだったが、最近は引っ掻きより噛みつきの方がメインになっている。これがたいへん痛くてたまらないのだ。多少力を抜いているのだろうが、それでもギューッと噛まれると歯形が残るほどで何とかして欲しいと思っている。
 小生たちは最初はこれらの行動をイライのやりたいように自由にさせていた。しかし、噛みつきがあまりに頻繁になって少し心配し始めている。このまま噛む癖を付けたら、大人になったとき怖い「噛みつき猫」になるかもしれないと思い始めてきたのだ。今の状態のまま成長すれば彼がこの家の主人、一番偉いものと誤解し、主人顔をする我々に噛みつき攻撃をするかもしれないと心配し始めたのである。
 そこでイライの「噛みつくこと」を止めさせる作戦を始めた。まず第一にやるのは、わが家の主人は我々であってイライはあくまでもペットであることを自覚させることだ。要求すれば何でも叶うと思わせることは、結局彼を甘やかし、間違ったように育てることになる。要求されても駄目なものは駄目とはっきり自覚させる必要がある。
 噛みつくことは良くないことだと彼に分からせなければならない。だが、それをどうやって分からせるか。幼児虐待の母親のように折檻して分からせることはイライの性格を歪めることになる。かといって甘やかすこともできない。今のところ、彼が噛みつきを始めたら「駄目」と怒り、噛みつき行為を相手にせず無視するようにしている。まだ、この調教は始めたばかりで目立った効果まで至っていないが、それでも少しだがイライの噛みつく頻度が減ってきた気がする。
 これ以外にも例えばテーブルの上に乗ってご主人様が食べている食事を失敬したり、雨戸を開けるスキを狙って外に飛び出すことを止めさせるなど、しつけるべきことは山積みしている。小生たちはこの歳になって言うことをきかない「子供」のしつけをどうしようか頭を悩ませ始めているのである。
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by Weltgeist | 2012-05-24 23:50

ギフチョウを採りに新潟へ行ってきました (No.1399 12/05/23)

 50年来の友人である田原泰文氏とギフチョウを採りに新潟県に行って、さきほど帰ってきた。出かけたのは今朝の午前3時だからほぼ一日をフルに使って駆け回ったわけで、たいへん疲れてしまった。もう長い文章を書くだけの気力は残っていない。そのうえカメラ小僧ならぬカメラじじいである小生、「出かけるときは忘れずに」の心がけを忘れてしまい、カメラ無し。今夜掲載した写真は田原氏から借り受けたものである。
 さて、今回の新潟ギフチョウ採集は午前中の早い時間に長岡市に生息しているチョウセンアカシジミの幼虫を採捕してから、田原氏が見つけてきた新潟県西部、頸城郡のギフチョウ穴場に行くという二毛作作戦である。
 最初に行った長岡市のチョウセンアカシジミは、友人から教えてもらった場所で、ポイントがイマイチ絞り切れていない漠然としたものだった。ましてチョウセンアカシジミの幼虫を採ったことは一度もないので、うまく行くのか心配である。しかし、現場に着いてみたら、トネリコの新芽に黄緑色をした幼虫が沢山ついていて、約1時間半で予定の数を採集できて、まずは第一作戦は成功裏に終了。 
 続いて本命のギフチョウである。田原氏の話では昨年かなりのギフチョウを目撃できたというが、今年は雪が多く、シーズンが10日から2週間程度遅れているという場所にいく。うまくギフチョウに出会えるか心配である。天気も予報と違ってどんよりとした曇り空だ。しかし、車を留めて山道を歩き始めると次第に空が晴れきて、意外なほど沢山のギフチョウが飛んできた。ここは田原氏が見つけた「穴場」という場所だけあって、そこかしこにギフチョウがいっぱい飛んでいる。前回、5月12~13日の八ヶ岳ヒメギフチョウ採集では腕の悪さから1頭しか採れなかった悔しい思いを払拭することができた。
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カメラじじいを自認する小生なのに、本日は愛用のカメラを忘れて新潟の写真がない。このカットは同行した田原氏が撮ったものである。ギフチョウは青い色が好きだそうで、後ろに見える青いシートを地面に敷いておくと、これを目指して次々と飛んでくる。シートの先の白いものは雪。ここはまだ春になったばかりのようで、奥に行くに従って残雪が多くなってきた。
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by Weltgeist | 2012-05-23 23:55

ゲーテ・ファウストで語られる悪の意味について (No.1398 12/05/22)

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 四日前からゲーテのファウストについて書いているが、昨日はまた金環日食でトピックが飛んでしまった。飛び飛びで読みにくくなってしまったが、今日こそ元に戻ってファウストの最終回にするつもりである。
 さて、この世の中は罪深い悪いことに満ち満ちている。それゆえに生きることは苦しく悲しいことが多すぎるのだ。いったいこんな悲惨な人生など生きるにあたいするのだろうか。ここまで世の中が悪いのはなぜなのだろうか。どこかに悪の源があって人々を悪い道に引きづり込むのかもしれないと考えてしまう。
 本来、人間は汚れなき正しい存在なのに悪魔のようなものにスポイルされていると我々は考えがちである。だが、そうした悪は我々にとってそれではどのような意味があるのだろうか。ただ人生をつらく苦しめる否定的なものにすぎないのだろうか。ゲーテはファウストで悪魔・メフィストフェレスを登場させることで、人間における「悪とは何か」という疑問を読者に提示し、その答えを見つけようとしている。これこそファウストのメインテーマなのである。
 だが、結論から先に言えば、その答えはファウストの冒頭、神とメフィストの賭について話すところですでに与えられてしまっている。一昨日 No.1396 で書いたように「人間は絶対的な無為と休息を求める。だからわしは、つついたり引っ張ったりして、悪魔の仕事にせいを出す仲間を与えておくのだ」と言って悪魔の存在を容認している。悪魔とは実は神が人間を善人になるよう促すために送り込んだ彼の手下なのである。
 なぜ神はそのようなことをしたのか。それはメフィスト自身の告白で明らかになる。むく犬の姿に化けてファウストの前に立ったメフィストに「いったいきみは何者だ」と質問すると「つねに悪を欲して、つねに善をなす力の一部です」と答えている。言い換えれば悪を欲しても、実はそれは善をもたらす力の一部、原動力であるといっているのだ。否定的であるが、それがなければ善には行き着けないもの、人間を「善き者」へと高める絶対必要な契機なのである。
 人間は様々な悪に苦しめられているように見えるがそれは善を生み出す苦しみなのだ、というパラドックスをゲーテは物語の最初のところから言っているのである。だから、神とメフィストの賭は神が勝つことが分かっている。正義は必ず立ち上がってきて勝つのである。神は「悪魔の仕事にせいを出す仲間を(人間世界に)与えておくのだ」と言うように、悪魔の存在自体が神が与え、容認した者だから神が賭に勝つのは当然なのである。
 キリスト教では悪魔はもともと天上界にいた天使の一人であった。それが悪さをして天上界から地上に追放されて、竜の姿をした(黙示録12:7)ものと考えている。神の御使いである天使の一人として、人間界での「罪」を一手に引き起こすトラブルメーカーだったのである。
 神はなぜそんな悪さを促す悪魔を人間界にもたらしたのか。それは何もしなければ人間はすぐに無為と休息の中に沈潜し、怠け者になってしまうからだ。悪を適当に配置することで、「善人になるよう努力せよ」という役割を悪魔に持たせているのである。悪とは人間に努力を促すものなのである。従って、悪いことに直面しても何も努力しない人はますます悪くなり悲惨な人生を送ることになってしまう。
 悪とは人間に与えられた躓きの石なのである。乗り越えるべく神が与えた試練である。善はそうした悪の試練を努力で乗り越えて来た人にだけ与えられるものである。ゲーテはそう考えているとすると、人生で出会う数々の悪いこともさほど深刻に考えなくてすみそうである。
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by Weltgeist | 2012-05-22 22:05