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人生の存在論的探求 (NO.1241 11/11/30)

 自分の人生の意味とは何か。いやそもそも自分とは何か。そんなことを若い頃からずっと考えてきた。こう言うと、「自分とは何かだって? 自分は自分に決まっているじゃないか。何でいまさらそんな分かりきったことを問題にするのだ」と叱られそうである。だが、小生には「自分とは何か」が少しも分からないのだ。分からないからずっとそれを知りたくて考え続けてきたのである。
 1942年10月31日、今の羽田空港に近い町で小生は、いきなりこの世に放り出された。哲学的に言ったら「何の脈略もなく世界の中に投げ出された」のである。ただそこにあるだけにすぎない「現存在=Da-sein 」としてである。ここにおいて小生の意志が介在することなどまったくない。有無を言わさず、とにかく世界に放り出された「世界ー内ー存在=In-der-Welt-sein 」とされてしまったのである。そうしてお前は死に至るまで生きていけと促されている。
 自分は少しも望まなかったのに、この世に放り出され、また望みもしないのに死に追いやられていく。どうして1942年に羽田で生まれ、20世紀中ではなく、21世紀に死んでいくことになるのか。どうして30世紀のアメリカ(そのころまだアメリカという国があるかどうか分からないが)に生まれなかったのか。考えれば考えるほど不思議である。
 ペットの犬や猫が子を産む、産ませないの決定権は飼い主である人間が持つことができる。それと同じように人間を誕生させる決定権を持つ絶対者、神も存在するのではないかと最近は思うようになってきている。そうでなければ我々の人生はまったく無意味なものになっていくだろうからだ。
 世界のなかに投げ出されていることには何らかの意味がある、そう思いたいのである。丁度猫の子供を欲しいと思い、可愛い子猫を産ませるように、絶対者は小生を何らかの意味を持ってこの世界に送り出した。決して「投げ出した」のではない。なんらかの意図で世界に「送り込んだ」と思うのだ。すると、脈略もなく存在していたすべてのものが、絶対者の意思のもとにそれぞれの意味を持って整然と配置されていることを感じるようになってきた。
 何ものも創造主の意思によって造られ存在している。自然が織りなす不思議な調和を見るとき、この世は神の調和に満ちている、という思いがいっそう強くなる。たとえ、どんなに悲惨な事態が起こっても、それが神の意思であるなら、きっと我々にとって何らかの意味があり、その克服法も用意してくれているはずだ。この困難を乗り越えればより良き世界が待っている。苦しみは神が人間に与えた「試練」であると信じたい、そう思っているのだ。
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by Weltgeist | 2011-11-30 22:49

ヒゲの功罪 (No.1240 11/11/29)

d0151247_227184.jpg 小生はヒゲを生やしている。これは20代からのことで、もうヒゲ歴は40年以上である。なぜヒゲを生やしたかというと、理由は簡単。毎日伸びてくるヒゲを剃るのが面倒くさいからで、ファッションとかスタイル、格好付けとは一切無関係だった。数日ヒゲを剃らないと無精ヒゲが伸びてみっともなくなる。といって毎日カミソリを当てるのも億劫で、しばらく放っておいたらひげ茫々になり、それならいっそ伸ばしてしまえでヒゲ男になったのである。
 そもそも小生は自分の身なりに気を使うようなことがなく、いつも小汚い格好をしていておしゃれするなんて意識は毛頭なかった。だから、最初のヒゲはキューバのカストロ首相のような顔面全体が毛むくじゃらになった、ひどくむさ苦しい形をしていた。これが周囲にはすこぶる評判悪く、ゴリラみたいとか、浮浪者(当時はまだホームレスという言葉は一般的ではなかった)などと言われてひんしゅくをかってしまった。もちろん女性からは「何、あの汚らしいヒゲ男は」と敬遠される「鼻つまみ状態」になっていたのである。
 それにヒゲが長いと食事のときご飯粒や味噌汁がヒゲに付いて、とても食べにくい。味噌汁が付いたヒゲを鏡で見て、さすがにこれは少し切らないとまずいと思った。それでまずはもみあげからほほにかけてのヒゲをそり落とし、少しスリムにしたのである。しかし、まだアゴヒゲは長いままで押し通そうと思ったが、依然として「鼻つまみ状態」は改善されず、ずっと後になっては麻原彰晃をもじって、「尊師」などと言われ始めた。ヒゲは目立ちすぎると評判を落とす。さりげなくちょっこっと生やせばいいことに気がつき、現在のようなこじんまり(?? )したものに落ち着いたのである。
 ヒゲも流行がある。生やしている人は皆さんそれなりのこだわりを持って格好よい形に仕上げているようだ。しかし、小生にそんなこだわりは皆無である。できることなら面倒なヒゲなんか伸びてほしくない。でも、抜いても抜いても生えてくる雑草のような力強さがあるヒゲのしぶとさはどうしようもない。今は3日に一回程度はハサミでカットしている。切らないとすぐに無精ヒゲ状態になってしまうのだ。
 そのヒゲが数年前に白髪が交じったと思ったら、あっという間に全部真っ白になってしまった。黒いヒゲならまだ若い精悍さがあるが、白ヒゲだと花咲爺さんの翁みたいに年寄り臭くなる。いっそ剃ってしまおうかと何度か思ったが、40数年慣れ親しんだヒゲを剃り落とすのは隠退する相撲取りがマゲを切るのと同じくらい精神的な重圧があっていまだ伸ばしたままでいる。
 小生のヒゲを見て「山羊爺さん」とか「ヒゲ爺さん」と呼ぶ、知り合いの子供・K君が遊びに来て小生のヒゲが無いのを見たらどう感じるだろうか。きっと引っ張って遊ぶヒゲが無くなって困惑するだろう。彼のためにもまだヒゲは剃れないのだ。

薄暗い夕方、パリ東駅構内を歩く哲学者風の人物に、何か惹かれるものがあって撮ったのがこの写真。年齢的には30代後半から40代前半の人と推定した。ユダヤ人たちはこうしたヒゲの生やし方をするから、もしかしたら彼もユダヤ人かもしれない。カラスに育てられたと言われる預言者 ・エリヤってこんな感じの人だったのではないかという気がする。
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by Weltgeist | 2011-11-29 23:44

国蝶オオムラサキ (No.1239 11/11/28)

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 上の写真は今日採った日本の国蝶・オオムラサキの幼虫である。オオムラサキの親チョウが紫色の翅を拡げるのは格好いいが、幼虫がこんな姿をしていると知って気持ち悪いと思うだろうか。それとも角なんか生やしていてかわいらしいと思うだろうか。人それぞれに感じ方、意見の相違があるだろうが、小生はもちろん可愛いと思う部類である。
 このオオムラサキの幼虫を50年来の友人である田原氏と近くの森林公園に採りに行った。車で20分も走れば目的のところで、ここは恐らく東京都では最も都心に近いオオムラサキが生息するところとして小生が見つけた秘密の場所である。
d0151247_22595627.jpg 50年前の中学生時代、田原氏と一緒に蝶を採っていたころは新宿御苑でもオオムラサキの姿を見ることができた。だが、今ではすっかり都内から姿を消して、小生が所属する昆虫の会の「東京都の蝶類データベース」を見てもこれより都心に近いところでオオムラサキは記録されていない。ぎりぎりのところでかろうじて残っている最後のチョウなのだ。
 オオムラサキは冬になると食樹であるエノキの木から下りてきて根元付近の枯れ葉に潜り込んで越冬する。ところが都内にあるエノキの多くは秋に落葉した落ち葉をきれいに掃除してしまう。そのとき落ち葉の間で越冬していたオオムラサキの幼虫が一緒に持っていかれ、腐葉土の材料とされたり、ゴミとして焼かれて死んでしまい、今日の減少を招いたのだ。
 わが家の前の公園にもオオムラサキがいておかしくない太いエノキが何本もある。だが、毎年公園の管理者が落ち葉をきれいにかき集めて処理するため、今ではまったく姿を見なくなった。公園に生える草地をきれいに刈り取ることで、幾種類かのジミチョウの幼虫が死に追いやられるのと同じたぐいの行為が、他の生き物に多大な影響を与えていることに公園管理者は気がつかないのである。
 今日行った秘密の場所では幸いにしてまだ落ち葉は片づけられてなく、田原氏と二人で写真のように何匹か採ることができた。このあと落ち葉はすべて持ち運ばれ、幸運な見落としでわずかに残った幼虫以外はみんな殺されてしまうだろう。小生はここで採った幼虫を蛹の段階まで育て、6月の末の発生期直前に元の場所に戻してやるつもりでいる。その間の一時的避難として採捕したのである。
 だが、こうした行為を小生は「自然を保護する」なんてたいそうな気持ちでやっているわけではない。我々がやったことが自然保護になるのかどうかは分からないのだ。このまま落ち葉が持って行かれるのを放置すれば、秘密の場所のオオムラサキもやがていなくなるかもしれないと思って、人工的に飼育しようと思っただけである。しかし、それは「自然保護」ではない。エノキから見ればやっかいな害虫(オオムラサキはエノキの害虫なのだ)を守るなんてとんでもないことなのである。こう考えると一番いいのは人間が一切手を出さずに自然なままに任せることしかないことになる。
 とにかく自然とか生態系というものは人間が軽く考えるほど単純なものではない。きれいな成蝶は可愛がっても、幼虫の毛虫は気持ち悪いと殺虫剤をまく矛盾に気がつかない「自称・自然保護者」、公園をきれいに守り、生き物は大切にと言いながら、シジミチョウの幼虫がいる草原を丸裸にする公園管理者、豊かに蝶が飛んでいた森林を宅地化で滅茶苦茶にしながら、今になって蝶を守れと叫ぶ身勝手な別荘地の住民たち。彼らは自分の価値基準だけで決めた「保護」意識を振り回し、それが絶対正しいと思い込む。どう転んでも人間とは浅はかな存在なのだと痛感せざるを得ない。
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by Weltgeist | 2011-11-28 23:40

やる気のある社員がいるところが伸びる (No.1238 11/11/27)

d0151247_2318144.jpg 震災直後は壊滅的な打撃を受けて、日本は当分立ち上がれないのではないかと外国から見られていた。それが、復興から8ヶ月が過ぎて、経済はプラスに転向してきた。あそこまで破壊されたらもう日本は沈没だと言われていたのに、奇蹟の復活を成し遂げつつあるといってもいい。日本は震災の一撃でぶちのめされるどころか、もう一度底力を発揮して立ち上がったのである。
 打撃を受けた企業の中でいち早く立ち直った所に共通しているのは、会社全体が「やる気に満ちている」ことである。社長以下、社員までが一丸となって頑張ろうとしている会社ほど早く復興しつつあるように見える。そうした元気な会社をテレビはいくつも取り上げているが、取材された会社の社員たちはどこも自分達の仕事を愛し、その仕事に誇りを持っているように見えた。
 現在も現役で仕事をしている皆さんたちの職場はどうですか。仕事が楽しいですか。今の仕事に誇りを持ってますか。こうした仕事を選んで良かったと思っていますか。そして、今現在あなたは幸せですか。
 こう聞かれて、それに「もちろん」とはっきり答えられる人がどのくらいいるだろうか。残念ながら仕事に誇りを感じるどころか、嫌で辞めたいけれど生活のために辞められないと思っている人が大半だと想像できる。どんな仕事だって楽しくはない。だから「おれの会社は何てひどいんだ。こんな会社に一生縛られたくない」と思ってしまうのである。
 ところが今回の震災で職場が流されたりすると、仕事をする場所があることの大事さを痛感する。実はそんな嫌な場所が自分の人生における大事な場所だったと分かるのである。もしあなたが、今の職場に大いなる不満を感じているとしたら、まずは、仕事ができるありがたさを実感し、多少の嫌なことは目をつぶる。そして、そこで全力を出し切って働くのが最良の道だと思うのだ。
 どんなに強欲でひどい経営者、あるいは劣悪な環境でも、あなたが猛烈な愛社精神に燃えて仕事に没頭すれば、いつかは頭角を表して、トップもその仕事ぶりを見てくれるだろう。テレビに出て来た「がんばり屋さんたち」は、いずれもそうやって、仕事をする面白さ、楽しさを見つけてきたはずである。中途半端ではなく、全力で仕事に没頭する。仕事で他の人を圧倒するほどの成果を出す。そうすれば面白くない上司もあなたを認めざるを得ないし、仕事は楽しくなり会社も発展する。頑張る社員が揃ってくれば会社も伸びるだろう。それにはまずあなたが率先して身を粉にすべきである。
*がんばろう、東北の画像はここからDLしました。
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by Weltgeist | 2011-11-27 23:58

自分の未来を知りたいですか (No.1237 11/11/26)

 もし自分の将来を見据えることができたら、幸せだろうか。とんでもない。恐らくこれくらい不幸なことはないだろう。一寸先が闇だからこそ生きている面白さがある。結果が分かっているレースなど、興味は半減する。勝つか負けるか、ぎりぎりの際どい勝負だから皆は注目する。そして期待通り勝利したとすれば、録画されたビデオを安心感を持って見るが、負けた勝負など不愉快で誰も見やしないだろう。
 人は暗くて良く見えない未来の明かりを見つけようと必死になる。世の中にはそれに答えてくれるフォーチュン・テラーなる人物がいる。易者然り、競馬の予想屋然り、経済アナリストの予測然り等々、世俗的な近未来予測をする人はごまんといる。だが、彼らの予測が当たることはほとんどない。それどころか予測していたこととは全然違った事態が次々と表れて、思いもしなかった出来事に四苦八苦しているのが実際である。未来のことなど誰にも分からないのだ。
 人生とはまるで真っ暗なお化け屋敷の迷路を、小さな懐中電灯だけで進んで行くのに似ている。次々と登場してくる魑魅魍魎(ちみもうりょう)のお化けにそのつど腰を抜かしながらもどこかにあるはずの出口を求めて先へ進んで行くしかない。しかし、それだからこそ人生は面白いと言える。息も切らさぬ緊張感の連続で知らず知らず人生に濃密な時の経過を刻み込むのである。
 易者の手相占いはお遊びであり、適当な嘘っぱちであるからまともに信じる人は少ないが、経済誌に書かれた株や為替の予想記事となると、少し事情が違ってくる。虎の子を託す人達は予想屋の言葉を福音のように聞いて投資し、大やけどをする。およそ「株屋」の予測くらい当てにならないものはないのだ。欲の皮が突っ張った人は予想屋が右と言ったら左に投資した方がいいと言いたい。
 絵に描いた未来の餅のことなど考えず、与えられた現在に最善を尽くすこと。今の自分にすべてを投じて努力し、その結果がどのようなものになろうともそれが「自分に与えられた成果」と受け止めることである。だが、これは現状に甘んじることではない。現状を自分の努力で変えろということである。ただ、努力の結果が良いものになるのか、駄目なものになるのかについて人は選ぶ立場にない。努力しても報われないことも十分あり得る。しかし、駄目な結果になっても、それを「良し」とする。それを受け入れるのに人は強さが要求される。その強さが再び自分を変える原動力をも生むのである。
 まるで映画のスクリーンを見ているように、目の前に展開する事態が次々と変わっていく。それを最後まで見ながら手探り状態で歩いていくのが人生ではないかと思えるのである。
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 ずっと昔、予定説ということをジャン・カルヴァン(Jean Calvin / 1509-1564年)が唱えていた。お前の未来はもうとっくに神様が決めていて、地獄行きが決まっているよ。だからジタバタしたところでどうにもならない。そう言ってカルバンは人々を不安のるつぼの中に放り込んだ。ここにあるのは未来予測における最大級の不幸である。だが、それでもカルヴァンは少しだけ人々に希望の火を残しておいてくれた。
 禁欲的生活をし、仕事に励む人なら天国に行ける可能性があるとしたのである。だからお前たちは欲を張ることなく文句を言わずに働け、とカルヴァンは不安な人々を労働に駆り立てた。これをマックス・ウエーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかでカルバンは資本主義のお先棒を担いでいると痛烈に批判したのである。

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by Weltgeist | 2011-11-26 23:55

悪霊について (No.1236 11/11/25)

d0151247_22405910.jpg 昔から狐は悪霊を連れてくるという迷信がある。狐の霊は人間に宿り、悪さをするからこれを追い出さなければあなたはひどい目にあうと言われて、「除霊」なるものをする人がいまだにいるようだ。今日も群馬県で除霊をやっていた夫婦の妻が殺された事件が話題になっていた。現在でもこうした除霊なるものを信じる人は後を絶たないのだろう。
 病気や事故など自分の周りで良くないことが起こると、精神的に不安定になり、お祓いとか厄払いをしてもらいたい気持ちにはなる。神社に行ってお賽銭を上げてお参りするのはその初期的状態、お祓いを受けて身を清めた気持ちになるのが第二段階。さらにはわけの分からないおまじないのようなものを受けるといった具合で、どんどん深みに入っていく。だが、それで実際にまとわりついた悪霊を追い出すことができるのだろうのか。
 以前、「私は霊視ができる」と豪語する人にあって、除霊を勧められたことがある。彼は小生を見ながら「失礼ながらあなたの背後にはたいへん悪い霊が取り憑いているのが私にははっきりと見える」と断言した。なんでも小生のご先祖様に悪い死に方をした人がいて、成仏しないまま今もさ迷っているのだそうだ。昔の人の悪行がいまだに清算されない恨みの霊となって小生に張り付いているというのである。
 彼はわざとらしいパフォーマンスを交えて自分が霊を見ることができる超能力者であることを分からせようとした。それがいかにもインチキ詐欺師風のそぶりなのだ。ちょっとまともな神経の持ち主ならすぐにバレる馬鹿馬鹿しいパフォーマンスで小生を煙に巻こうとしたのである。
 こんな奴に「あなたには悪霊が取り憑いている」なんて出鱈目を言われたくない。ところが、弱い人間は不幸なことが連続して起こると、そうしたまやかしに頼りたくなってしまうのだ。追い詰められた人は藁をも掴みたい気持ちで、それにすがる道を選んでしまうのである。
 除霊のような子供だましを信じる人は、自分自身に自信がないのである。自分の問題を他人に解決してもらおうとする依存心があるからこういうものに頼ってしまうのだ。自らに降りかかってきた火の粉は自らが振り払わなければならないというのが人間の生きる根本的な道である。それを外れた安易な道を歩もうとするから間違えるのだ。
 苦しいこと、悪いことが起こったとしても、それは自分自身の努力で解決していくしかない。仮に霊が存在するとすれば、そうした努力を応援、後押ししてくれるようなものであるのが真の霊だろう。人の弱みにつけ込んで足を引っ張るなんてことはインチキ除霊師が考えたこすっからい詐欺にすぎない。いいかげん人を欺すのはやめろと言いたい。
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by Weltgeist | 2011-11-25 23:55

時はゆったりと過ぎていく (No.1235 11/11/24)

 今朝起きたら道路が濡れていた。夜半に雨が降って、明け方にはそれも止んだようである。外はすでに寒い冬の北風が吹き始めていて、その風が黒い雨雲を引きちぎるように運んでいた。空を覆っていた雲が急速に無くなると、水平線の方から曙光が輝き始め、それからいつもの朝の風景になった。こうして世界は人間がこの地上に出現した以前からずっとやってきたことを何事もなかったかのように繰り返していく。
 ほとんど水平に近い角度にある太陽の光は、前の森の木々を通して切れ切れに部屋の中にまでやってくる。だが、斜めになった日の光は部屋の奥の方まで届いているが、部屋を暖めるまでの力はない。
 ストーブに火を付けて、遅めの朝食。そのあと朝刊をゆっくり読み、今日一日がスタートする。以前なら目覚まし時計のアラーム音で半分寝ぼけながらも嫌々起きて、急いで朝食をとったらすぐさま出勤した。洗面に5分、食事が5分と目まぐるしいばかりの忙しさであたふたと家を出たが、今はそんな必要もない。布団のなかで自然に目が覚めるまで自由に寝ていていいし、朝食だってたっぷりと時間をかけて食べることができる。もう始業ベルの恐怖にせかされることもないのだ。
 一日がゆったりとした時間の中で流れていく。ここには精神の緊張というものがない。ボーッとしてとらえどころのない一日の始まり。齢(よわい)62歳にして初めて知った何もしなくていいという自由な時間感覚。もうお前は仕事をしなくていい、ひっそりと隠退せよと命じられるまで、自分の周囲にこうした次元の異なる世界が拡がっているとは少しも気づかなかった。
 今ではあの殺人的な朝の忙しさが、懐かしくもある。まだみんなは一心に仕事に励んでいるだろうに自分は何もしない。こんなことでいいのかという罪悪感と一抹の寂しさがある。だが、これが人の定めだろう。もう社会の表舞台から引っ込んだ人間は、何をするでもなく一日中無為に過ごしてもいいのだ。世代交代の永遠の繰り返し。世界は少しずつ登場人物を代えながら、静かに静かに進んでいく。
 さて、自分に委ねられたこの自由な時間を今日はどう使うか。先日古本市で買ってきたリルケ詩集でも読もうか。それとも久しぶりにカメラを持って前の山を散歩するか、とにかく今日も小生の日常がこうして始まるのである。
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by Weltgeist | 2011-11-24 21:58

アラン「幸福論」に見る幸福の定義 (No.1234 11/11/23)

幸福になりたいと思ったら、そのために努力しなければならない。無関心な傍観者の態度を決め込んで、ただ扉を開いて幸福が入るようにしているだけでは、入ってくるのは悲しみでしかない。
アラン、幸福論

 ブータンでは国民の97%が幸福と感じていると少し前に紹介した。日本人はブータン国民よりがずっと高額のお金を持ち、立派な家には便利な電化製品があふれ、おししい物も食べられるというのに、幸福と感じる人ははるかに少ない。何で日本よりブータンの方が幸福と思う人が多いのだろうか。
 そんなことを漠然と考えていたら、今日のNHKEテレ(旧教育テレビ)の100分 de 名著 という番組でアランの幸福論を取り上げていた。この番組は1回25分X4回=100分で一冊ずつ世界の名著を紹介するのだそうで、初めて見た番組である。今日見たのはアランの幸福論の第三回目で、明治大学の合田正人教授が解説していた。そのなかからとったのが上の言葉である。
 アランの幸福論については以前、 No.376 で書いたことがあるが、こんな古典的な本を現代人は読まないと思っていたら、NHKが4回にも渡って紹介するというのだから、やはり今も読まれている名著なのだと再認識した。(以下の引用は白水社、アラン著作集2、串田孫一、中村雄二郎共訳を使用)
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 アランの幸福の定義は冒頭の文章に典型的に表されている。幸福とは向こう側から飛び込んでくるもの、人からもらうものではない。自らが努力して造り出していくものとアランは言っている。「人間は意欲し、ものをつくり出すことによってのみ幸福」(P.142)は得られる。「人はよく社会ははなはだ不当だなどという。不当なのはその人の方だ。社会は何も要求しない人には何も与えはしない」(P.94)のである。自ら努力することを怠り、不幸の原因を社会や他人のせいにして文句ばかりいう人、そういう人は結局自ら幸福になれる道を放棄しているのだ。
 「登山家は自分の実力を発揮し、それを実証する。かれは自分の実力を感じると同時にそれを考慮する。この良質な喜びが雪景色をいっそう美しいものにする。だが、名高い山頂まで電車で運ばれた人は、同じ太陽を見ても違う」(P.143)ものでしかない。自らの努力でこそ幸福は生み出されていくものなのだ。他の人から見ればどんなに不幸に見えても、自分を信じてひたすら努力して行く人のところに幸福はやってくるのである。
 自分は不幸だと他人に言いまくる人がいる。辛い、悲しい、不幸だ、最低だ、こうした言動は自分から出て他人に伝染する。「一つの不幸は無数の不幸をあおりたて、一つの恐怖は無数の恐怖を野放しし」(P.188)最後は結局自分に跳ね返ってくる。逆に自分の幸福感を人にも分け与えれば、与えた幸福が自分に跳ね返ってくるのである。つまり「幸福であることは、他人にたいする義務」なのだ。幸福とは誰かが持って来てはくれるものではない。むしろ幸福はそうしたものを「求めなかった者たちのところへ突然やってくる報酬」なのである。
 自分が幸福であると感じればそれは他人にも伝染し、他人も幸福になる。自分は不幸だと思いたいときでも、そう考えないことが幸福になるやり方なのだ。アランは若い男が失恋して絶望したときの対処法について次のように書いている。「恋する女につれなくされた男は、ほかのことを考えようとしない。そして過ぎ去った幸福や、不実な女の文句なしの美しさ、彼女の裏切りや不幸などを思い起こす。みずから進んで自分をムチ打つ。しかし、せめて自分の不幸を他の見方から見るべきだろう。あんな女はもうみずみずしい若さのないつまらん女さ、とでも考えることだ。お婆さんになったその女との生活を想像してみることだ。それらは幸福なときは見逃していたが、悲しみのなかにあってはなぐさめとして役立つ」(PP.196-197)だろう。
 とまあ、こんな調子で幸福についてのアランの考え方が洒落た言葉で次から次へと出てくるのが「幸福論」である。本当はこの本を読むのがいいのだが、忙しい現代人にはそうした本を読む時間もないだろう。そうした人にはとりあえず来週水曜日のEテレ100分 de 名著を見ることをお勧めしたい。
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by Weltgeist | 2011-11-23 23:53

人の運命は分からない。一寸先は闇だ (No.1233 11/11/22)

 人の運命は分からない。大会社の社長子息として生まれ、何不自由なく育ち、さらにはその大会社を引き継いで、順風満帆な人生を歩み続けると誰もが想像していた人が、会社のお金を私的に流用し、ギャンブルにつぎ込んでしまった。公私混同、特別背任の罪で今日逮捕された大王製紙の井川意高前会長は、今は冷たい留置場の中で厳しい追及を受けていることだろう。
 オリンパスの元会長もやがては逮捕され同様の道を歩むことが予想される。彼とて大会社の会長として権力を欲しいがままに行使し、飛ぶ鳥を落とす勢いがあったろうに、それがいまや追い詰められて奈落の底に落ち込もうとしている。
 悪いことをした人がこのような時点にいたって思うのは後悔の念だろう。あのときそんな悪いことをしなければ良かった、それなのにどうして自分は悪の道に進んでしまったのか。そう思ってももう遅い。過去に起こした過ちは今からでは取り返しがつかないのだ。
 もし井川前会長がごく普通の庶民の生まれだったら、こうしたことも起こらなかったろう。彼が大金持ちのお坊ちゃんだから今回の件が際立つのだ。運命の神は何と残酷なことをするのかとも思ってしまう。
 人間の運命など分からない。今が良くても明日はどうなっているか誰にも予測はできないのだ。だから、今が最悪の人もくよくよすることはないと言える。明日はどんなに良いことが待っているか、これも同じように誰にもわからないのだ。
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 一寸先が分からないという点では今回の福島第二原発の放射能汚染も同じだ。原発近くに住んでいた人は、こんな事態が起こるなんて夢にも思わなかったろう。上の写真は2005年に福島県木戸川河口でサケの網入れの写真を撮ったものである。このときは大漁のサケに漁師達はうれしそうな顔をしていた。しかし、この写真を撮ったわずか5㎞北側には福島第二原発があり、今は放射能汚染で誰も近づくことができない。大漁の喜びに沸き返る人達の未来にこんな不幸なことが起こるなんて誰が予測できたろうか。
 獲る人がいなくなった今頃の木戸川には、産卵に戻ってきた数千尾のサケがひしめいていることだろう。サケにとっては歓迎すべきことかもしれないが、毎年木戸川河口でサケが戻ってくることを楽しみにしていた人達にとっては、とんでもない災難が降りかかってきたことになる。上の写真のような光景は今後何十年も見ることができなくなるだろう。
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by Weltgeist | 2011-11-22 23:56

フジミドリシジミの卵採集 (No.1232 11/11/21)

 最近、小生はゼフィルスというミドリシジミの卵を採集して、自宅で育てようと何度も山に行っているのだが、さっぱり卵が採れない。ゼフィルスというのはギリシャ神話の風の神、ゼフロスからきた言葉で、金属的な光沢のあるグリーンの翅を持ったたいへんきれいなシジミチョウグループの総称である。彼らは高い木の梢付近を飛んでいて、下に降りてくることがまれだから簡単には捕獲できない。また幸運にも捕獲できたとしても、美しい翅は激しい飛翔ですり切れているものが多い。まったくの破綻がない完璧な翅を持ったゼフィルスを手にするには卵から育てるのが最良の道なのだ。
 この蝶のきれいがものが欲しいからと、先月から何度も関東周辺の山にゼフィルスの卵を自己流で採りに行っているのだが、毎回ゼロ。成果なしの日々を送っていた。なぜ卵が採れないのか。理由は簡単。小生にはゼフィルスの卵の採り方が分かっていないのだ。
 少し前に紅葉の谷川岳の写真をアップしたのを覚えている方もいるだろ。実はこれは妻には「紅葉見物」と欺して水上周辺のブナやナラの林でフジミドリシジミなどゼフィルスの卵採りに行った副産物なのである。妻にとっては紅葉見物がメインでも、小生にはゼフィルスの卵採集という下心があったからわざわざ谷川岳まで行ったのだ。だが、コナラ、ミズナラ、ブナの林をさ迷ったにもかかわらず、卵は見つからない。広大なブナ、ナラの林の中でもどこか重点的に狙うやり方があるのだろうが、小生の知識程度では全然話にならないのだ。
 このままではいつまでたってもゼロ行進曲から抜け出せない。こうなれば誰かこの道に詳しい人に直接教わるしかないと、今日は蝶の飼育が大得意のベテラン・**先輩に教えを乞うてフジミドリシジミの卵を採りに連れて行ってもらったのである。ここで先輩がどんな場所でどのような木を選んでいくのかをじっくり教えてもらおうというのだが、その成果はバッチリあった。
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 **先輩が選んだ場所はここ。この付近には日本固有のゼフィルスで、ブナの新芽、若葉を食べて育つフジミドリシジミがいる。ゼフィルスの卵採集としては初心者である小生には難しい種類だが、うまく採れれば万歳もののゼフィルスなので期待は十分である。だが、ブナの生息場所は比較的標高の高い山にある。写真の場所は標高900m以上ある非常に急な斜面で、足を滑らせたら下の谷底まで墜落しそうな怖いところだった。その場所を案内してくれた**先輩は軽快に歩き回りながら、フジミドリシジミの卵がどんな場所にあるのか小生にも分かるように丁寧に教えてくれた。
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 **先輩が教えてくれたのは、それまで小生がゼフィルスの卵採集のやり方を書いた本で得た知識とはまったく違ったものだった。小生が「ここにはいるのではないか」と思う場所を調べていると、**さんが「違う、違う」と言って、フジミドリシジミが好んで産卵するブナの選び方、重点的に探す枝の見分け方を懇切丁寧に教えてくれた。そして**さんの言う通りに探すと、たちまち細い枝に白い卵が付いているを見つけられたではないか。ご覧のとおり、長年小生につきまとっていたゼロ貧乏神を、ついに今日追い払うことができたのだ。今日は小生にとってほんとうにハッピーな一日だったのである。
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by Weltgeist | 2011-11-21 23:56