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収穫の秋はおいしい旬の食べ物がいっぱい (No.1181 11/09/30)

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 栗、柿、ブドウからキノコなど、秋の幸が収穫を迎えようとしている。秋の収穫の本命はもちろんお米、今年の稲作は平年並みだそうだ。海の方でも秋の味覚であるサンマもどうやら大漁のようだ。震災で港湾施設が壊れた東北地方の港を避けたサンマ漁の船が北海道の港に集中し、港の収容能力を超えるほどの漁獲があるという。
 もう一方のサケはどうだろうか。まだシーズン序盤だから今年の収量はわからないが、どうやらこっちは厳しそうである。日本では水温が下がるこれからがピークを迎える時期で、サンマのように今後順調に漁獲が増えて欲しい。だが、もっと北に位置するアラスカに行くと、日本より寒いので8月にはすでに川に遡上してピークを迎えている。ただし、日本と違ってアラスカでは日本で言うところのサケ(シロザケ)はほとんど獲らない。ドッグサーモンという別名があって、犬の餌にしかならない下等な種類とされている。彼らが相手にしているのは海にいる銀色のサケではなく、川に上って体が赤くなり肉にうまみがないものだからだ。8月のお盆休みを利用して何度かアラスカに行ったことがあるが、釣り人から見向きもされないシロザケがいっぱい泳いでいて羨ましいほどであった。
 アラスカの人は無理をしなくてもキングサーモンや紅ザケのようにおいしい魚がいるから、シロザケまで相手にしないのである。だが、日本ではこのシロザケしかいないので大切な海の資源として扱われている。卵から稚魚を育て、ある程度大きくなったら川に放流すると、彼らは北太平洋に出て行き、4年後に放された川に戻ってくる。この性質を利用したサケマス増殖事業を大々的にやることで、今の日本では大量のサケが漁獲され、これを我々は様々なやり方で賞味しているのである。
 生まれた川に確実に戻って来るということは、放し飼いで育てた養殖魚のようなものである。それは持ち主が決まっている牧場の牛と同じで、北洋を回遊しているときでもある程度所有者が決まっている。従ってサケを勝手に獲ることは日本では難しいのだ。とくに海から川に入ったものは間違いなく稚魚として放した人のものであって、釣り人が自由に釣ることは特別な場合を除いてできない。
 しかし、河口から離れたずっと沖合ならその所有権も曖昧になる。どの川のサケマス孵化場からの魚か分かりにくい場所では多少の制限はあるが一般釣り人でも釣ることができるのである。そうした場所の一つ、知床半島宇登呂沖で友人の田原泰文氏が釣れたサケをクール宅急便で送ってきてくれた。
 小生も彼の指導で2001年にここでサケ釣りをしたことがあるが、彼は毎年宇登呂沖を攻めていて、この時期になると、釣果を小生の家に送ってくれる。今回も連休を利用してチャレンジしたそうだが、例の台風15号の影響で思ったような釣りができず、例年のような大漁とまではいかなかったようだ。それでも写真のように見事な生サケを現地から直送してくれた。
 サケが大好物の小生、さっそくさばいて今日の夕飯から賞味させてもらった。サケはほとんど捨てるところがない魚で、無駄なくおいしく食べることができる。アラスカで何でこんなうまい魚を食べないのか不思議なほどである。昨日のCPレストランのイタリアンに負けないほどおいしく、田原氏に感謝しつつ北洋の秋を味わった。田原さん、毎年ありがとうございます。できれば来年もお願いします・・ (*^-^*)
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by Weltgeist | 2011-09-30 22:41

今日は何の日、「来る来る福が来る日」 (No.1180 11/09/29)

 ・・なんだそうである。夕方のTBSニュース・Nスタを見ていたら、9月29日はクリーニングの日でもあるし、テーマのように福が来る日ということで、招き猫の日でもあるらしい。しかし、小生たちにとってこの日は37年も前に結婚した記念の日でもある。結婚したのは昭和49年9月29日で、9、すなわち苦労、苦しみの象徴である9が3つも並ぶ縁起の悪い日であった。以来この数字を背負ってわが人生の半分以上、37年間も妻と同居したことになる。
 そうして今年も9月29日がやって来る少し前にこの縁起の悪い数字を思い出していた。しかし、今日のTBSニュースから、物事は方便、考え方で何とでも言いようがあると知り、少し気が楽になった。以前は小生達二人の未来は49929で「しじゅう苦労、苦労で、再び苦しむ」と読んでいたが、これからは「しじゅう来る来る、福が来る」と思うことにしたのである。
 さて、そんな「福が来る日」の今日は、二人で苦節37年の記念に妻の知り合いに「おいしい」と紹介されたCPというイタリアンレストランに行った。このレストランはいくつかのブログなどにも紹介されていて、評判がいいので妻があらかじめ予約しておいたところである。
 しかし、行ってビックリ。イタリアンレストランといえば、店の前に駐車場があり、いかにもイタリア風の大きな建物の入り口近くには、三色のイタリア国旗がデザインされたものがあるというのが相場である。だが、ここにはそんなものはない。それどころか道路側は濃いグレーの塀に囲まれた普通の家のようで看板もない。しかし裏に回ると広い駐車場がありCPという文字の下に小さく Restaurant と書いてあるからここであるのは間違いはない。
 門から中に入ると、白と黒の石を敷き詰めた庭があり、さらに二枚あるドアの取っ手には最初がC、二枚目がPと大きな文字がついていて、なかなかおしゃれ。中も白と黒を基調とした作りでいかにも現代創作料理を出す郊外のレストランという感じである。
 予約してあるのはお昼のランチコースで、最初はアミューズというコラーゲン入りの洒落たゼリーのようなものが出て来た。野蛮人で、ノングルメを自認する小生にはこうしたおしゃれな場所は、ちょっと場違いな感じで落ち着かなかったが、これを一口食べたら「うん、これはうまい」と納得。
 次ぎに出たのが冷たいカボチャの冷温スープ。これまた「うん、うまい、うまい」である。田舎者の味音痴である小生には「世の中の人間どもはこんなにうまい物を食っているのか・・」と感心するほどの味だ。さらに前菜、サラダも何ともこだわったもので「うん、うん、うん・・」と満足の言葉を連発。
 小食の小生にはそろそろ腹が苦しくなる量だが、次ぎにはパスタが来て、まだメインは来ない。「おい、おい、いつまで食わせるのだ」というほどの味と量である。そうして来ましたメインディッシュ。ヒラメと何とかの野菜とあるが、アルツの頭で覚えていたのはアーティチョークのみで後は覚えきれない。説明は忘れたが、これは下の添付写真を参照頂きたい。多分オリーブオイルで処理したと思われるヒラメの切り身の上にトマトのソースが掛けられ、その下側には何だか分からない野菜(食感からいうと山芋をフライしたものではないか)が何種類かそえられて、ここでも「おい、おい、おい、おい」の連発となる。
 そうして最後にデザート。これがまたまたおいしかったのだが、残念ながらこの時点で小生のお腹は満腹状態。デザートの半分は妻が平らげてエスプレッソで終了。ただ、ここで少々気になっていたことがある。実は妻が予約を入れたとき、結婚記念日だと余計なことを言ったため、店の方では「それではデザートのとき花火をやります」と言っていたというのだ。レストランのなかで花火などやられたら、恥ずかしいからやめてほしいと思っていたら、幸いなことに店の方で忘れていて、そのまま終了したので助かった。
 昨日はワラサ釣りでひどい目にあったが、今日の福が来る記念日にCPレストランがそれを打ち消してくれた。ごちそうさまで満足のいく37年目の結婚記念日であった。
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by Weltgeist | 2011-09-29 22:31

本日は悲惨なアンチ・ルンルン気分で釣りをやってました (No.1179 11/09/28)

 昨晩、釣りに行く前の取らぬ狸の皮算用をして、最低でもワラサ3尾、できれば5尾は釣りたいと思い、今朝はルンルン気分で三浦半島剣崎に向かった。だが、甘くはなかった。皮算用した3尾どころが1尾も釣れない坊主でガックリして帰ってきたのである。
 思えばルンルン気分であったのは、三浦半島の横須賀あたりまで。目的地の剣崎に着くと天気予報に反して強い風がビュービューと吹いていて、不安な黒雲が心の中にむくむくとわき起こる。釣りに風は禁物である。海が荒れれば船が出なくて釣りができなくなってしまう。しかし、今日の風は北風。三浦半島では陸側から吹いてくることになるから少々強い風でも波が出ることはないだろう。今日は問題なく船は出ると船頭さんはいう。
 だがそれは船が単に出られるというだけのことであって快適な釣りができるかどうかは別問題である。いざ沖に出ると、海はいつもの波静かな東京湾の顔ではない。荒れた海で知られる外房大原のような大波が渦巻いていたのである。そのため、ルンルン気分に酔おうと思っていたら、酔いは酔いでも船酔いでたちまち気持ち悪くなってしまったのだ。
 それでも魚が釣れてくるなら許せる。吐き気を抑えて必死に釣りを続ける小生に全然アタリがない。これは小生だけの個人的不調ではない。この日剣崎沖のポイントにはワラサを求めた釣り船がざっと見渡しても百艘はいた。そのくらいいると、いつもなら周囲の船で誰かがワラサをヒットさせ、釣れた釣れたのお祭り騒ぎで興奮状態となるのだが、今日は誰も釣れていない。暗く静まりかえったお葬式状態である。。
 なぜ釣れないか。理由は潮が異常に速くてポイントのタナを攻めきれないのだ。船頭さんは「ここは水深40mだ。一旦ビシ(オモリ)を海底まで着けたら、コマセをまきながら10mほどあげて待て」と指示する。しかし、潮の流れが速すぎて糸はまっすぐに沈んでいかない。急な川のように流れる潮に仕掛けが斜めに浮いてしまうのだ。リールについている水深カウンターを見ていると、70mくらい糸を出してようやく底に着く状態である。
 こんなだとビシがいつ海底に着いたかも分かりにくい。ましてそこから10m巻き上げるにしても斜めな糸ではどのくらいリールを巻いたら良いのかが分からないのだ。巻く量が少ないとすぐに根掛かりしてしまう。風と波もきつい。そのうえ底ダチがとれないからアタリがない。ワラサの入れ食いで起こるはずのお祭り騒ぎは、他の釣り人の糸と絡んでばかりいる「オマツリ騒ぎ」のトラブルに終始する。
 そうして運命の坊主確定となる「納竿」の時間が迫ってきた。小生の乗った船ではだれもワラサを釣った人はいないから、全員坊主で終わりそうである。しかし、小生の反対側にいた人が終了間際に素晴らしいアタリに出会ったのである。誰も釣れていないなかで一人だけが釣り上げる気持ちの良さ。釣り人は周囲から羨望のまなざしで見られる誇らしさを意識し、満面の笑みを浮かべてリールを巻いていた。勝負はあった。坊主解消の栄光は彼の手に落ちることはもはや誰の目にも明らかだった。
 だが、ここで運命の女神は厳しい決断をした。何とせっかくヒットしたワラサを鮫にプレゼントしてしまったのだ。「あっ」という短い悲鳴とそれに続く失望感。水面に見えてきたのは下の写真のように胴体がスッパリと鮫に食いちぎられた頭だけのワラサである。
 それで本日の釣りはジ・エンド。船頭さんの「ハイ、終わりです。仕掛けを仕舞ってください」ですべての希望は断ち切られてしまった。とにかく誰にとっても今日は悲惨きわまりない一日だった。せめてもの救いは、休日になると道路が渋滞で動かなくなる三浦半島の道が空いていたことだ。しかし、事故もなくスイスイと走れ早めに帰宅できたが、空っぽのクーラーを持って家に入る足取りは重かった。
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せっかくヒットさせたワラサが取り込み途中で鮫に襲われて、胴体から下がスッパリと食いちぎられていた。見事なまでの切り口に今更ながら鮫の恐ろしさを感じる。本日は誰も釣れていない坊主オンパレードの中、貴重な1尾である。不様な姿だが、これでも十分「ぶりあら」はできる。せっかく釣られてきてくれたのだからおいしいく食べてあげるのがワラサに対するせめてもの供養だろう。
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by Weltgeist | 2011-09-28 23:51

明日はルンルン気分で釣りに行きます (No.1178 11/09/27)

 昨日までカントの道徳律について書いていて、今日もその続きを書こうと思ったが止めにした。というのも、納得いくまで完璧に書くとすればまだまだ延々と書いていかなければならないからだ。不完全で尻切れトンボのようなところもあるが、カントの道徳と自由、物自体とのおおよその概略は書いたので一応ここで終わらせてもらうことにした。厳密性を重んじる哲学の世界では納得のいくところまできっちりと説明すべきだろう。しかし、ここは哲学研究の場ではない。こんな古典的な道徳律に興味のある人はごく限られているのに、それをいつまでも続けるのは他の人に申し訳ないのだ。事実今回のスレッドでは何のコメント、反応もない。早く面倒でない話題に変わってくれと言われているような気がするので、今日から気楽なお話をとりあげて書いていきたいと思っている。
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 そんなわけで今日は新たなスレッドで始めたい。テーマは釣りである。実は小生、今日は朝からたいへん忙しかった。明日の未明から三浦半島剣崎沖にワラサを釣りに行くからだ。これは先週21日に予定していたものが、台風で出船中止となり延期したリベンジ戦である。先週は海が大荒れだったが、明日は予報をみる限り問題はなさそうだ。
 それより問題なのは狙い通りワラサが釣れるかどうかだ。例によって小生は取らぬ狸の皮算用をして、早くも「目標は3尾、できれば5尾は釣りたいな」と思っている。うまく皮算用が通じるか、明日の蓋を開けてのお楽しみである。
 さてワラサという魚は、寿司屋や魚屋でいうハマチと同じ物である。ハマチは元々は関西での呼び名で、これがいまでは寿司屋や魚屋でも一般的になっている。しかし、我々関東の釣り師はあくまでもワラサと呼んでいる。ハマチは養殖魚の代表格で普通は天然ものが市場に出回ることは少ない。脂を乗せるためにたっぷり餌を食わせて育てた養殖物のハマチしか食べたことがない人が大半だろう。天然物のワラサは適度な脂が乗ったもので、養殖物のようなコッテリ感はない。
 しかし、どちらがうまいか、となると意見は分かれる。養殖物のハマチしか食べたことのない人には天然のワラサはちょっとあっさりしすぎた感じを受けるかもしれない。いわゆるお母さんの味と同じで、舌が養殖物で慣らされてしまっているのだ。でも、何度か天然ワラサを食べていると、こちらの方が断然おいしいと思うようになるはずである。実際、海でバランス良く餌を食べて育った天然物には不自然な味がないからだ。
 ワラサはブリに成長する一段階前の呼び名で、最後はブリに育っていく出世魚である。砲弾のような体形は水中を早く泳ぐのに向いていて、一旦ハリに掛かると相当なスピードで泳ぎまくる。こいつを釣り上げるまでにはスリリングなやりとりができるたいへん楽しい釣魚である。上の写真は一昨年の剣崎沖でワラサとやりとり中のK氏。明日もこんなシーンが連続して起こらないかと今から夢見ているのである。その結果は明日発表する釣行報告で明らかにします。
 しかし、昨日までカントのことを七面倒くさく書いていたと思ったら、今日は一変して釣りの話。友人たちは小生のこうした一貫性のなさに慣れているが、何も知らない人は小生のことをどう思うだろうか。きっと目まぐるしく変わる話題に「この人はどういう精神構造の持ち主か」と思い、あきれはてていることだろう。
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by Weltgeist | 2011-09-27 17:58

カント、「実践理性批判」に見る道徳律、その2 (No.1177 11/09/26)

d0151247_13221787.jpgZwei Dinge erfülllen das Gemüt mit immer neuer und zunehmender Bewunderung und Ehrfurcht, je öfter und anhaltender sich das Nachdenken damit beschäftigt: der bestirnte Himmel über mir und das moralische Gesetz in mir.
Immanuel Kant / Kritik der praktischen Vernunft / Kants Werke, Akademie Textausgabe, Bd.5, S.161

「それを考えることしばしばにして、しかも長ければ長いほど、常にいよいよ新しくかついよいよ加わり来る感嘆と畏敬をもって心を満たすものが二つある。私の上なる星の輝く天空と、私のうちなる道徳律である。」
カント「実践理性批判」第二部結論(最終ページ)


 詩人・ハイネが最悪なドイツ語を書く悪文哲学者と指摘したカントにしては、上のように極めて感懐に満ちた美しい文章で「実践理性批判」の最後を締めくっている。わがうちにある道徳律とは、昨日の最後に軽くふれたように、純粋理性批判では到達できなかった真理の領域、物自体=叡智界が、心のどこかにあって我々を正しき道に導こうとしているということである。
 純粋理性批判では絶対的なものである本体界は認識できないとされた。しかし、それにも関わらず「善悪」が判断できるのは、我々のうちに何が善であり悪であるかが分かっているからに他ならない。純粋理性批判の立場から見れば「そんな道徳律なんて説明できないよ」と言われるかもしれないが、「理性の事実」( Faktum der Vernunft ) としてそれが厳然とあるのは否定できないことなのである。心の中に善悪を判断する裁判官ならぬ「道徳律」があるから、「人の物を盗むのは悪いこと」という判断が瞬時にできるのだ。カントはこうして純粋理性批判で退けられた物自体を善悪を判断する裁判官として実践理性批判で甦らそうとしているのである。
 だがここで困ったことが出てくる。現象界にいる我々人間のなすことは自然因果律で規定されている。何事かをなそうと行動すると、それには必ず結果がついて出てくる。原因があれば結果が生じる因果律のくびきから逃れることはできず、結果こそ重要なことと思われているのである。ここでは「**をすれば、**が得られる」という結果を期待した仮言命法的行為が大手をふって歩いているのだ。もちろんそんなものは道徳的とはいえないのではあるが・・。
 因果律ですべてが決まってしまえば、その行為に対する道徳的責任もなくなるだろう。すべては自然因果律のなすことで、自分には責任がない。だから人間が「良い、悪い」といった道徳的判断を下すこと自体が意味がなくなるのだ。そうしたところではカントが目指した定言命法に基づく道徳そのものが成り立たなくなるのである。
 因果律とはある行為が必ず何らかの結果を生むということである。これは良い結果をもたらすものもあれば悪い結果になることもある。だが、人はそうした結果で行為の良し悪しを決めてしまいがちである。良い結果が出たから良い行い、悪い結果に終わったから悪い行いという具合に、人は結果で判断する。だが、正しいと言われる行為はそれがもたらす結果で正しいのではないのである。
 結果で判断すればそこに道徳律の入り込む余地がなくなってしまう。道徳律が成立するには因果律にはとらわれない自由な意志がなければならないのだ。つまり、意志の自由があることが道徳律の存在根拠( Vorrede, SS.4-5 ) なのである。
 我々が因果律に縛られた自由のない世界から抜け出るためには、気高き道徳心に目覚め、意志の自由を持つことが要求される。そして、我々はそれを確かに心の中に持っているのである。もし因果律から抜け出たいという自由な意志を持たないとすれば、そこに残るのは粗野な動物的世界でしかない。欲求のおもむくままに行動し、その行動についての責任もとらない下劣なものである。
 純粋理性批判で退けられた物自体は信仰の対象でしかなかった。実践理性批判で人はようやく自由を持って物自体をつかみ、因果律のくびきから抜け出す道をみつけようとしているのである。ここにおいて人はカント的な意味での自由を見いだすことができたのである。

*昨日の写真は Walter de Gruyter 社発行のアカデミー版カント全集第5巻、今日の写真は Felix Meiner 社発行の Philosophische Bibliothek 版の実践理性批判です。
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by Weltgeist | 2011-09-26 23:56

カント、「実践理性批判」に見る道徳律、その1 (No.1176 11/09/25)

d0151247_18333333.jpgHandle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könnne.
Immanuel Kant / Kritik der praktischen Vernunft : Kants Werke, Akademie Textausgabe Bd.5, S.30

「汝の意志の格率が同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ。」
カント「実践理性批判」第一部第一編七節。


 上の言葉はカントが第二批判書である「実践理性批判」の中で語った人間のなすべき行為についての有名な言葉である。あなたの意志することがいつも普遍的な立法の原理に妥当するように行為せよという意味は、平たく言えば個人が行動するときは勝手気ままに行動するのではなく、普遍的な「善」と言われるものにふさわしいよう行動しなさいということである。だが、そうした行為をするにしても、そこに何か個人的な利益を得ることを目的とした動機があってはならないと言っているのである。
 例えば「いつも正直でありなさい」ということは道徳的には奨励されるべきことではあるが、他人から「正直な人」と評価されたいから正直になるというと、これは道徳的には認められない。そこに個人的な利益・快( Lust ) を得たい動機が見え隠れするからだ。そのことで個人が利益を得ることを目的とした行為は、どんなに正しいことでも道徳的に「善」とは言えないのである。
 大震災で困った人を助けたいとボランティアを申し出ることは「善」であるとしても、「ボランティアに行けば他の人から良い評価を受ける」という動機があればそれはもう「善」とは言いがたい。どのような評価、結果も期待せず、ただただ困った人を助けたいという無償の行為が善と言えるのである。
 「あなたの意志を普遍的な原理に妥当するよう行動せよ」というのは、損得勘定で行うことではなく、絶対的に従わなければならない命令として人間に科せられたものである。カントはこれを定言命法( kategorischer Imperativ =至上命令)と呼んでいる。その行為の結果が個人の利益をもたらすということは一切考慮せず、絶対的にそれを行うことを要求するものである。
 これに対して利害がなければ行わないようなものをカントは仮言命法 (hypothetischer Imperativ ) と言っている。人の行為はそれを行うことで何らかの快を得ることを目指して行われるのが常である。しかし、個人がそれぞれ快と思うものは、それぞれ個人的に異なっていて、すべての人に妥当することはあり得ない。各人が勝手に行うものは「普遍的」とは言いがたいのである。
 では、ここで言う「普遍的立法の原理」とはどんなものだろうか。カントはそれが「道徳律」であると考えている。以前、彼の純粋理性批判について書いたとき、人間の理性は絶対的な真理である「物自体=叡智界」に到達できない不完全なものだと述べた。人間の理性は直観に制約されているから真理の影にすぎない現象を見ているだけである。だが、真理は何らかの状態で人間界にも及んでいるから、我々はそれを推理することもできるのだ。
 純粋理性批判で退けられた物自体=叡智界こそ「普遍的立法の原理」を担うものである。理性の理論的認識では物自体はつかみ得なかった。しかし、それを道徳的な意識を通せば見いだすことができるのである。理論理性からは到達不可能な物自体が、我々の心に潜む道徳的意識として見えてくるのである。これこそ「普遍的立法の原理」である。

以下は、明日続けて書きます。
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by Weltgeist | 2011-09-25 22:48

宇宙の始まり以前が分かるかもしれない大発見 (No.1175 11/09/24)

 昨日予告したように今日はカントの道徳律を彼の「実践理性批判」から考えるつもりでいたら、とんでもないニュースが飛び込んできた。そこで急遽そちらの話題をとりあげ、カントは明日以降にすることにした。本当は難しいカントの話を、たった半日程度の復習で語れるか不安を感じていたのでちょっと時間がもらえて助かった思いもあるのだが・・・(汗、汗・・)。
 さて、そのとんでもないニュースというのは、アインシュタインの特殊相対性理論でいわれた光より早いものは存在しないという理論がもしかしたら否定されるかもしれないというショッキングなものである。今朝のニュースによればジュネーブ郊外にあるCERN=ヨーロッパ合同原子核研究機関など、各国の研究機関で作る国際共同研究グループが行った実験で、素粒子の1つ「ニュートリノ」の速度が光より速いという実験結果が発表されたというのである。
 今回の実験結果は、ジュネーブから発射されたニュートリノが、イタリアにあるグランサッソ研究所までの730㎞で達する時間を測定したら、光よりも1億分の6秒=60ナノ秒だけ早く到着したという。つまり光速の約30万㎞より7.5㎞だけ速かった(0.0025%)ということである。
 この程度の違いはもしかしたら測定機器の誤差があるかもしれないと科学者は慎重な意見を述べているが、事実とすれば「質量のある物質は光より速く移動することはできない」としたアインシュタインの特殊相対性理論と矛盾することになるたいへんなことなのだ。
 小生、アインシュタインの相対性理論もよく分からない物理学の素人だが、この問題はたいへん興味がある。もしこれが事実だったら宇宙の創造に関する謎が解けるかもしれないからだ。あの137億年前に起こったビッグバンによる宇宙の創造より以前には絶対に戻ることはできないと言われていた。それが可能になるとビッグバンの直前に何があったのかが分かってくるのである。
 以前とりあげたスティーブン・ホーキングが語ったことによれば、人間は宇宙の始まりまで遡ることができないといわれていた。ビッグバンより向こう側に行くことは、相対性理論から不可能とされてきたので、誰が、どうして宇宙を創造したのかは絶対に解けない謎のまま残されていたのである。
 だが、時間が戻れるならその向こう側に行くことも理論上は可能となる。そして、そこに何があるかだ。はたして天地創造をなした神がいるのだろうか。今回の実験でニュートリノは光よりわずか60ナノ秒だけ速いにすぎないから、この程度のもので137億年も逆戻りすることは今の人間には不可能だろうが、もしかしたらこの発見が宇宙論そのものを変える大発見の端緒になるかもしれないのだ。
 昔、ユークリッド幾何学で言われた「二本の平行線は無限に交わらない」という公理が、「平行線はどこかで交わる」という非ユークリッド幾何学を教えられ、頭が混乱したように、宇宙には我々の知らない謎がまだまだ沢山隠されているのだろう。今朝の朝日新聞朝刊によれば「我々が知っている4次元時空の影には縮こまって見えない余分な次元(余剰次元)があるのではないか。一つの可能性として、おきて破りのニュートリノが余剰次元という近道を通り抜けたのではないかという見方も出ている」なんてことまで言われている。そうなると絶対的な真理なんて人間はいつまで経っても到達できないのではないかと思ってしまう。
 そんなわけで今日のカントは中止して自分自身も No.526 で書いた「ホーキング宇宙を語る」を読み直して、もう一度頭を整理したいと思っている。
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マドリッド・プラド美術館にあるヒエロニモス・ボッシュの「快楽の園」(1500~1510年頃)の両翼を閉じた裏扉には、神が天地創造をした三日目の地球の姿が描かれている。「神は仰せられた。”地が植物、すなわち種を生じる草やそのなかに種がある実を結ぶ果樹を、種類に従って地の上に芽生えさせよ。”・・神はそれを見て良しとされた。(天地創造三日目には)夕があり、朝があった」(創世記1:11-13
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天地創造六日目。「神は仰せられた。さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」(同1:26)天地創造六日目の最初の人類・アダムの創造をミケランジェロはバチカン・システィーナ礼拝堂天井画でこのように描いている。
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by Weltgeist | 2011-09-24 23:36

本日は秋分の日 (No.1174 11/09/23)

 長いこと現役を離れているから曜日の意識が希薄になっている。毎日が日曜日なので休日も平日も分からなくなっているのだ。そうしたら本日が昼と夜の長さがほぼ同じになる秋分の日で、国民の休日であるという。そういえば少し前まで午後7時近くになっても明るかったのが、今日は5時を過ぎるころにはすでに暗くなっていた。
 暦の上ではこの日を境に秋になる。台風がくるまで蒸し暑い日が続いていたのに、今日は半袖で外に出たら肌寒いくらいである。汗っかきの小生、暑いのが大の苦手であるから、涼しくなるのは大歓迎である。クーラー以外に避けようがない猛暑と違って、寒いのは服を余計着れば防げる。読書の秋、食欲の秋で、過ごしやすいシーズンになってきたようだ。
 ところで秋分の日は、太陽の動きに合わせているから毎年微妙に日にちがずれる。だいたいは9月23日だが、22日や24日になることもある。ウイッキペディアを見たら「国民の祝日となる秋分の日は、国立天文台の算出する定気法による秋分日を基にして閣議決定され、前年2月1日に暦要項として官報に告示される。天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しい」と書いてあった。
 しかし、天文学で国家の祝日が決められるのは世界的に珍しいというが、キリスト教国では復活祭は移動祝祭日で、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」ということで毎年その日にちは大きく変わる。休日が変動することはそれほど珍しくはないのである。
 むしろ珍しいのは、日本では秋分の日が「お彼岸の中日」としてご先祖様の墓参りに詣でる宗教的に特別な日としていることである。彼岸とは死んだ人がいるあちら側の世界のことである。いま我々が住んでいる此岸(しがん)から、彼岸にいるご先祖様に参拝する特別な時が秋分の日なのである。秋分の日は太陽が真東から昇り、真西に沈む。西にまっすぐ沈んで行く太陽を見て、人はその彼方にいまだ行き得ない極楽浄土があるとの思いをはせ、秋分の日=お彼岸になったのだという。
 彼岸とはこの世に生まれて来た人が最後に必ず行く場所、死んだ人が住む場所とされている。しかし、死後の世界なら極楽もあれば地獄もあるはずなのに、お彼岸にお参りするご先祖様は、誰も極楽浄土に住んでいると思われている。少なくとも身内のご先祖様が地獄でひどい目にあわされていることなどあり得ないという希望的観測が入っているのである。平和な極楽浄土で幸せに暮らしているご先祖様に、この日墓参りでご挨拶をするというのが、お彼岸の行事なのだ。
 しかし、西洋では「彼岸」という意味はそんな風に思われてはいない。たとえばニーチェは「善悪の彼岸 」(Jenseits von Gut und Böse / 1886年)という過激な本を書いている。ここで言われる彼岸=Jenseits というのは、人間が作った道徳律で物事を「善」とか「悪」と判断しているが、自分はそんなものにはとらわれない。それを越えたという意味で「彼岸」という言葉を使っているのである。

 今日のブログは秋分の日からニーチェの道徳律批判にまで話が飛んでしまった。しかし、ニーチェが批判した道徳律ってどんなものか、確かめたくなって先ほどから久しぶりにカントの「実践理性批判」を読み直している。これがなかなか面白いので明日はカントの例の「定言命法」から道徳律と自由のことについて書いてみようかなとも思っている。しかし、たった一日くらいでカントを語るほどの余裕ができるかどうか、ちょっと自信はないが・・・・。
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彼岸の頃に咲くヒガンバナは、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも呼ばれる。子供頃このヒガンバナを採って来たら、オフクロから「これは死んだ人の花だから採っては駄目」と怒られた記憶がある。以来、小生はヒガンバナにあまり良いイメージを持たなくなっている。何か不吉な花に思えるのだ。
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by Weltgeist | 2011-09-23 23:34

恐るべき虫たちの能力 (No.1173 11/09/22)

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 人間がものを見るには二つある眼で見て行う。ところが昆虫の眼は複眼といって多数の眼が集まってものを見ている。一個一個の眼にはそれぞれレンズがついていて、それら複眼から得られた画像データを、脳が処理して一つの全体像をつくるようだ。これってすごい処理能力である。というのも最近の小生はときどき脳の機能が混乱して二つしかない眼の像が一つにまとまらず、ものが二重に見えることがあるからだ。昆虫の頭はそれほど大きな脳が入っているようには見えないのに、多数の複眼から得られたデータをうまくまとめ上げて、人間よりはるかに広い視野を見通すことができるのだからすごいことである。
 といっても、実際にどの程度はっきり像が見えているかは、虫になったわけではないから分からない。人間の眼のように鮮明なカラーで見えるまでいかないのではないだろうか。複眼で魚眼レンズみたいに周囲を見回せるといっても、たとえば視界が約270°もあると言われるトンボなど我々がすぐ近くまで接近しても気がつかないようだから案外ボヤッとしたモノクロ程度にしか見えていない気がする。
 子供頃、止まっているトンボに近づいて彼の眼の周りを指でクルクル回すと、トンボがめまいを起こして手でつかまえられると教えられ、夢中になってそれをやったことがある。記憶は定かではないが、その方法で何度かトンボを手づかみしたから、トンボは子供が回す指の動きてめまいを起こしていると信じていたのだが、今となってはそれも怪しい。トンボは単に近眼のため周囲がよく見えていなかっただけなのだ。
 しかし、昆虫には複眼以外に、もっと別なセンサーがある。触角だ。例えば蝶の場合は二本の触角がアンテナのように出ていて、これで空気の振動から音を感知したり、臭いも感じることができるという。空気の振動で音を感知するのは分かるが、臭いまで嗅ぎ取るというのは意外である。
 蝶のオスは触角にある嗅覚の機能を頼りにメスのフェロモンを遠くからでも感じ取ることができる。また、無数の植物が茂る草原や森林の中から自分が育ってきた特定の食草の臭いもかぎ取ることができるという。沢山ある植物の中から間違えずに幼虫が食べる食草を正確に見つけられるのも触覚が優れているからである。触覚の嗅覚には我々が想像できないほどの能力が潜んでいそうだ。サケが太平洋の沖合で自分の生まれた川の臭いを嗅ぎとるほどまではいかなくとも、それでも人間とは比較にならないほどの鋭敏さがあるはずである。
 自然界には人間の常識など通じないことが沢山ある。人間は音は耳、臭いは鼻と相場が決まっているが、それがすべてではない。蝶の触角は人間でいえば手足のようなものが進化の過程でできたのだという。そういわれると人間の手にも「触覚」がある。手で触って硬軟、熱い冷たいと言ったことから形まで知ることもできる。
 我々は新たな情報を得るために「アンテナを拡げる」という言葉を使う。しかし、人間の持つアンテナの能力などたかが知れている。ただアンテナを拡げただけではたいした成果は得られないだろう。全神経をそれに集中して感度を極限まで高めても蝶の触覚並の感度までは無理である。つまり、この世で一番偉い存在は人間だと思うことは幻想にすぎないのである。
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by Weltgeist | 2011-09-22 23:11

またまた台風にやられてしまった (No.1172 11/09/21)

 昨日の釣り中止に続いて、小生は今日も台風に痛めらつけられている。釣りに行かないから暇ができたと早めにブログの原稿も書いていたら、午後5時頃突然停電して、データが全部消えてしまったのだ。まさか台風で停電までするとは思わなかったので、まったく保存していなかった。2時間ほどかけてほとんど完成していた今日のブログの原稿が飛んでしまったのである。実は小生少し前にも同じミスをして停電でデータを消している。保存の重要性は痛いほど知っているはずなのに、相変わらず馬鹿なことを懲りずに続けているのだ。
 バッテリー駆動のノートならこんなことは起こらないし、一太郎やワードを使えば自動的に保存してくれる。しかし、小生のPCはデスクトップだし、素早い文章作成をするには一太郎やワードより軽いエディタがいいのだ。だが、エディタは文章を軽快に書くには向いているが、自動保存の設定ができない。バックアップファイルが一つ余分にできる煩わしさと、操作が重くなることからと自動保存をやっていなかった責め苦を今回の台風で受けてしまったのである。
 一度書いた文章をもう一度最初から書き直す気にもならず、停電の後はボーッとしてテレビの台風情報を見ていた。すると台風が接近した都内は夕方からたいへんな事態になっていた。各地で停電や河川の増水が起こり、電車は全部止まって、沢山の帰宅困難者が駅にあふれているのを報道していた。
 突然足を奪われた人達の困惑ぶりを見ていると、自分は一応自宅でテレビを見るだけの余裕はある。こんな日に外出しなくて良かったと思った。しかし、仕事をしている人はそうはいかない。外は猛烈な雨と風、電車は動かない。これでは家に帰ろうにも帰れない。渋谷駅前にはバスを待つすごい数の人の列が見えている。
 前回の3.11のときも沢山の帰宅困難者が出てたいへんだったが、こうした非常時になると人はとにかく自分の家に帰ることが安心なのだろう。生物には帰巣本能があるが、人間も同じなのだ。しかし、運良くタクシーをつかまえた人はいいかもしれないが、現在動いている交通機関を乗り継いで自宅に帰る人はかなりハードであろう。
 こんな非常時は急いで家に帰りたい気持ちは分かる。しかし、焦ってどうにかなるものでもない。歩いて行ける距離の人は別として、自然災害には勝てないと覚悟を決めて、どこかでじっくり時間をつぶして電車の運転再開を待つ方が最終的には正解ではないかと思うのだ。急がば回れである。
 3.11のとき、池袋で同窓会をやっていたという知り合いの奥さんは、地震のすぐ後に近くのビジネスホテルの部屋をキープし、その日は同窓会の仲間と雑魚寝で一晩過ごしたという。「おかげで同窓会の二次会をビジネスホテルでできた」と笑っていた。
 このように機転を利かせて居酒屋やレストラン、喫茶店で時間をつぶして運転再開を待つのが一番である。しかし、そんな場所も確保できなかったときは会社に戻るか、駅構内など雨露をしのげる場所でビバークする覚悟を決める。自然には勝てない。ジタバタしないで「降参しました」と言って電車が動き出すまで待つのがいいと思う。
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写真は今日の The Washington Post の記事 "Typhoon bears down on Japan" からDLさせてもらいました。普段日本のことなど取り上げたことがない米国のメディアも、震災、台風と災害が続く日本に注目しているのだろう。ワシントンポスト紙ではご覧のようにトップニュースの扱いになっていた。
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by Weltgeist | 2011-09-21 22:01