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あなたは運命の存在を信じますか (No.1151 11/08/31)

d0151247_2131994.jpg これまで1150回も書いてきた自分のブログをときどき拾い読みして反省の材料とすることがある。千回を超えると過去に論じた事を忘れていて、新しいテーマのように思って同じことを書いてしまうこともありうるからだ。材料となる写真がなくて、同じ物を二度使うことはともかく、「こんな話は前に読んだぞ」と言われることはたいへん恥ずかしい。そうした失敗がないよう、ときどき過去のログを巡回して確認しているのである。
 いまのところまったく同じネタを繰り返し書く愚はやっていないと思うが、書いている論調がどれも似たようになることは避けがたい。千回もバラエティに富んだテーマを書けるほど小生の能力は多才ではない。いつも同じような言い回しをする「ミネルバ節」になっていることに前々から気づいている。これについてはどうしようもないと諦めているのである。
 一番目立つのは人間の運命についての考え方だ。小生のブログではしばしば「運命」という言葉が出てくる。そう、小生は運命論者で、この世に生きる人達にはそれぞれ決められた運命があると信じているからいつも同じような運命論的結論になってしまうのだ。
 皆さんは運命についてどう考えているのだろうか。そんなものないよ、と無神論的に言い切れるだろうか。小生は有限な人間存在を越えたところに「絶対者」とか「神」と呼ばれる存在がいて、彼らが小生の生きる道筋をすでに作り終えていると信じている。
 遺伝子のDNAで誕生してくる人間の姿がすでに決定されているように、人生にも我々が知り得ない運命のレールが敷かれていて、それに沿って生きていると小生は信じている。これは理屈では理解できない。何故なら人間の枠を飛び越えた理性が及ばないことは理屈で説明できないからだ。理屈をならべて「運命のある、なし」をとやかく言うこと自体がナンセンスである。
 たで食う虫も好き好きという言葉がある。変な女、あるいは男を信じきっている人に、「お前は趣味が悪いな。あんな女(男)のどこがいいのだ」という批判が意味を持たないのと同じである。それは信じるのか、信じないのかの問題だから、ここで「ある、ない」を議論することは意味がないのだ。
 運命の存在を信じる者にとって良いことは、自分の人生上に何か困った事が起こっても、「これも俺の運命なのだ」と受け入れることができる点だ。そしてこの苦難に耐えれば次ぎに良いことが起こってくると信じる。たとえ何か悪いことが起こっても呪うことなどしない。絶対者が自分の浅はかな知では知り得ない自分を高めるための計画を作ってくれていると思うのである。現実に起こっている悪いことの裏には自分が知らない次の運命のステップが密かに隠されている。絶対者は必ずそうした高みへ登る逃げ道を用意していてくれるはずだ。自分はその道を進むことで新たな人生が切り開かれると信じているのである。
 たとえどんなに悪いことが起こっても、それを「善=Good 」として良い方向にとらえる。この世に起こるすべてのことは人を高める試練ととらえるのだ。何の障害もなく温室のなかでぬくぬく育った軟弱なもやし人間ではない。幾多の試練をかいくぐったからこそ自らも強い人間になれる。そう思えば人生の苦悩は軽減される。重荷を、「これ、お願いします」と絶対者に預けて身軽になればいいのである。こうした生き方って人生を良きものと信じられるとても楽なことなのである。
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by Weltgeist | 2011-08-31 23:57

時は熟する。「時熟」ということ (No.1150 11/08/30)

 明日から台風が接近して関東地方はその後しばらく雨が続くというので、晴れ間が望める最後のチャンスの今日、山梨県の某所へミヤマシジミという小さな蝶を採りに行ってきた。結果は残念ながらハズレで、数頭のみ確保しただけである。昨年、同じ時期にここへ行ったときは、車から降りたとたんに沢山のミヤマシジミに出迎えられ、「こんなに沢山いる」と喜んだ所だったが、今年はすっかりふられてしまった。
 自然の生き物は発生の時期が周りの環境の条件でずれるのが普通である。昨年はたまたま発生時期と合致したのだろうが、今年はずれてしまった。今回は時期が遅かったのか、それとも早かったのか分からない。蝶を長くやっているベテラン諸氏なら周囲の状況から素早く「早い、遅い」を読み取り、別な場所で別な種類の蝶を探すなんて柔軟な対応ができたろうが、まだ素人の小生にそんな裏技を駆使する力はない。早々と諦めて、近くの道の駅でアイスクリームを食べ、渋滞もない中央高速をスイスイと通って帰宅したのである。
 自然はこちらの都合に合わせてはくれない。彼らは巨大な生態系という複雑にからみ合ったシステムのなかで発生、消滅を繰り返している。自然は自分たちにとって一番良いものを、最良の時期に打ち出してくるのである。春には梅の花が咲き、桜が続くように、自然が持つ内的な時間計画に従って、そのつど最良と思われる時期に、隠し持っていた駒を繰り出してくる。それが「旬(しゅん)」ということである。しかし、人間はおおよそ梅や桜が咲く時期は分かっても、自然全体のことがすべて分かるわけではない。自然は多くの謎に包まれていて、その解明ができているのはほんのわずかにすぎないのだ。
 桜の開花時期は気象庁が本腰を入れて調べているからある程度の予測はできる。しかし、小さなシジミチョウの発生時期まで知ることはたいへんむずかしい。多分ミヤマシジミの発生だって細かく調べればそれなりのことは分かるだろうが、それとて完全ではない。「絶対良い時期だ」と思っても外れることはあるのである。
 禅の世界には「時熟」という言葉がある。ハイデガーも同じように時が熟してくることを時熟( Zeitigen )と言っている。この言葉の通り、世の中にはそれが一番いいタイミングで熟してくる「時」がある。時熟とは、柿の実を自然なままにしておけば熟して最後は落果するのと同じで、時の方に主導権がある。だが、人間はなかなか時が熟することを待てない。温室に入れて無理矢理花を早めに咲かせるように、時をコントロールできると考えているのだ。時の流れに身を任せることができないのである。
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 今日の帰宅は夜になると思っていたのが、早々の敗退で午後3時には家に着き、野田代表が首相に指名されたニュースを見ることができた。一昨日「しらけムードの民主党代表選」なんて書いたが、野田さんならドングリの中でも、一番マシな選択だったのではないかと思う。彼が首相になったのも、広い意味でいえば自然に時が熟してきたこと、すなわち時熟である。我々には隠されていて分からないかもしれないが、世の複雑な力学関係のからみ合いから出た必然的な結果である。蝶の発生と同じで、ものすごく錯綜した政治力学のせめぎ合いから飛び出したのが野田内閣だ。野田さんの実力で勝ち取ったというより、たまたま運命の神が野田さんの方を向いたにすぎないのである。
 野田さんは自らをドジョウにたとえていた。ドジョウだから泥臭く、泥にまみれて日本のために尽くしたい。そんな野田新首相の言葉を信じたい。しかし、政治は単純な個人の考え、意志だけで貫けるものではない。管首相だって、自分の思う政治信念があったろうが、周りから色々言われてグチャグチャになってしまい、最後は半ば強制的に辞めさせられた。すべてはこうした力学関係で生じてくるのだが、その真の内部構造は知ることができない。我々は、それを時が流れ出てくる時熟と思い、受け入れるしかないのである。
 
*上の写真が今日採りに行ったミヤマシジミです。しかし、残念ながら写真は今回のものではなく、昨年、撮った一年遅れの古いカットです。あの時はいっぱいいたのに今年は全然いない。自然のメカニズムはさっぱり分からない。
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by Weltgeist | 2011-08-30 23:55

我が友・K君の思い出 (No.1149 11/08/29)

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 高校2年生のとき穂高の岩場で知り合って以来、50年來の付き合いをしているK君が今月初めに突然亡くなった。No.1136 で書いたように、知り合った頃は大学の受験勉強を始めなければいけない次期だったが、受験のための勉強が大嫌いだった二人は意気投合して、山登りばかりやっていた。受験間際の高校3年生の夏休みには穂高の涸沢にテントを張って約一ヶ月も岩登りをして楽しんでいた仲である。
 当時の大学はおおらかで、受験勉強なんて特別なことをしなくても大学は受け入れてくれたし、大学生になっても授業に出ないで山登りばかり行くことができた良き時代であった。それでも他の学生達は就職のために「優」をとることに目の色を変えていたが、小生もk君もそんなこと歯牙にも掛けず、成績や就職には直接関係ない哲学書などを読みまくる変な学生だった。だから、小生は卒業すると大学院に、K君はドイツに留学したのである。社会に出て就職する気などさらさらなかったのである。
 お互いの読書傾向や社会に対する考え方が同じで、K君がドイツから帰国した後もずっと交流は続いていた。そんな彼の突然の死が自分にはすごいショックだったのである。
 あの当時一緒にザイルを結んでいた山仲間の田原泰文氏(今は釣り仲間でもある田原氏は知る人ぞ知る船釣りの名手)と昨日、密葬されたK君の遺骨に対面した。死は人の心に強烈なインパクトを与える。遺骨を見た小生は「何で先に行っちゃったんだよ」と言う言葉が思わず口をついて出てきてしまった。
 赤ん坊の頃から知っていて、大人になってアラスカまでサーモン釣りに一緒に行ったことがある息子のM君が、父親の最後を話してくれた。息子のM君は釣り好きになり、小生と馬が合ったが、K君は最後まで山登りに情熱を傾けていた。そんなK君の若い頃の写真を見せてくれた。それが上の写真である。手持ちのバカチョンカメラで複写したのでピントが甘いが、若々しいK君が厳しそうな垂直の岩場をトラバースしているモノクロプリントである。
 M君が言うにはこの写真は小生が撮ったものだというが、何故か記憶にない。一体この岩場は何処なのだろうか。当時一緒にザイルを組んでいた共通の友人である田原氏とそれを見ながら、昔のことを思い出した。
 山の形から一番先に消えたのは谷川岳だ。一の倉沢の壁から撮影したとしても、このような背景の山は写らないし、第一山の形が違う。谷川岳はこんなガレ場は少なく、草付きの急斜面になっているはずだ。もう一つの可能性として北穂高滝谷だが、こちらも背景の尾根が貧弱すぎる。滝谷で北方向にカメラを向ければ大キレットや槍ヶ岳が、南に向ければ奥穂高、西穂高の山稜が写っているはずである。それがこの写真にはないから滝谷の線も消えた。
 残るは前穂高の東壁から北尾根にかけての岩壁群である。田原氏の推測では、前穂東壁のDフェースか右岩稜前面フェースの登攀中なら、このように写るという。後ろの白い尾根は北尾根の末端に当たり、その先端は屏風岩の頭、足下は奥又白谷だろう。また、K君の前にある影は後ろにある北尾根第4峰の影だという田原氏の推理に小生も納得し、なんとなく撮影した時のことを思い出した。
 もしこれが前穂高東壁とすると、登攀したのは1962年、小生たちが大学2年生の時である。いまから丁度49年前、20歳のK君がハーケンにザイルを通して、これから垂直の壁に向かってトラバースしていくところのシーンから、彼に関する思い出が次々と浮かび上がってきた。
 もうずっと昔の遠い世界のことである。薄れつつある記憶の中から甦るのは、怖い物知らずで危険な岩場を次々と登っていた時代の小生やK君、田原氏の姿だった。だが、今の小生にそんな力強さも若さもない。しかし、前穂高東壁を攀じる写真の中のk君はいつまでも青春のままであり続ける。時は過ぎゆくと共に、思い出だけがこうして残っていくのである。
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by Weltgeist | 2011-08-29 22:31

しらけムードの民主党代表選 (No.1148 11/08/28)

 民主党の新しい代表選びが明日決着をみるが、反小沢、親小沢の対立だけで事が進んでいるようでうんざりする。政権与党の代表ということは総理大臣を選ぶことである。だが、我々にとっても大事な代表戦がなぜ盛り上がりがないのか。それは我々が関与する余地のまったくない国民不在のなかで代表選が行われているからだ。
 申し訳ないが今度の候補者たちの中に次の日本を託せる有能な政治家がいるとは思えない。数の論理だけ追う候補者たちはいずれもどんぐりの背比べのように見えて全然期待できない。代表戦にはしらけムードしか感じられないのである。
 選挙だから票を得るための獲得競争をしなければならないのは分かる。しかし、肝心の候補者の政策が全然見えない。自民党を倒し、民主党政権になったとき国民は、これまでの役人主導の自民党政治から、まったく違った新しい政治が行われることを民主党に期待した。あのときのような激しい意見の違いを戦わせて論戦を張るならこちらも真剣に見守りたいが、しょせんは民主党国会議員の数を寄せ集めただけの選挙では、国民の希望とかけ離れたところの戦いで終わってしまうだろう。
 今回の代表戦は誰が選ばれたにしても、国民の意志を反映していないのは明らかである。明日新代表に選ばれた「首相」は、ただちに衆議院を解散し、総選挙に出て国民の信を問わなければ、国民から信頼された政治を進めることはできないだろう。
 古い時代の政治家が後ろで糸を引いた院政のような真似がいつまでもまかり通ると思っている人たちがいる。まずはそうした政治家を退場させるためにも総選挙は是非お願いしたい。しかし、政治家の選挙というのは分からないところがある。政策より派閥、多数派しか念頭にないタヌキみたいな政治家ばかりで選ぶから、おそらく今回は新たな失望を生むだけの結果で終わる可能性が高いのだ。
 現在の日本は荒れに荒れ狂った大混乱の中にある。この状況を乗り切るのは誰がトップになっても容易ではない。しかし、その困難を乗り切る優れた政治家が今こそ必要である。荒れ馬を乗りこなす名首相が彗星のごとく登場して、日本を力強く復興するための指導力を発揮することを国民は心から望んでいる。しかし、そうは言っても残念ながらその希望は当分叶えられない気がする。
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by Weltgeist | 2011-08-28 23:04

寂しすぎる書店の現状 (No.1147 11/08/27)

 今日はたまたま近くを通りかかったので、久しぶりに本屋さんに行った。最近、本は図書館で借りて読むのが専門の小生、本を買うことが非常にまれになっている。本屋さんに行くこともほとんどなく、本当に久しぶりである。
 しかし、本屋さんに入ってまずお客さんの少ないのに驚いた。我が町ではほぼ最大級の大型書店なのに、人がパラパラとしかいない。それも値の張る単行本コーナーは寂しい限りで、人がいるのは雑誌のコーナーばかりである。雑誌というのは、小生にとっては立ち読みで素早く読むものと思っている。多分今日の雑誌コーナーにいたお客の大半も立ち読み派だったろう。本屋さんにとってはお金を使わない歓迎せざるお客なのだ。当然ながら小生もいつもの速読でパパッと読んで、一冊も買わずに外に出た。
 こんなんじゃ本屋さんの経営も厳しいだろうな、と半ば同情しつつ隣の百円ショップで、最近飼い始めたメダカの餌を一袋、105円で買ってオシマイ。小生のような貧乏人を基準とすると判断を間違えるかもしれないが、一般の人もあまり本にお金を使わなくなっているのではないだろうか。必要な情報はネットでタダで手に入るし、電子書籍なんてルートもある。そもそも本を読むという習慣が薄れているのだ。本屋さんが衰退していくのは時代の流れかもしれない。
 小生が本を買わなくなった大きな理由は、お金を払ってでも欲しい本、買いたい本がなくなったからだ。どの本も似たような内容で、個性がない。昔から散々取り上げてきた手垢のついたテーマを十年一日のごとく繰り返した新鮮味のない駄本が多すぎないか。
 表紙を見ただけで内容が分かってしまうような、底の浅い本が書店の棚を独占し、良書は駄本の洪水に埋もれて人に知られることなく消えていく。こんなクズばかりが目につくようでは買う方も嫌になって当然である。しかし、それは出版する側の責任もあるだろう。良い本を送り出すという出版界の誇りを失って、ただ売れればいいというくだらない本ばかり出し続けた結果がこれなのである。
 だが、それでは売れる本が内容のある良い本かというと、これがまた怪しい。前にも書いたように世間でベストセラーと言われる本で、小生が合格点をつけてもいいと思える本はほんのわずかしかない。売れる売れないは本の価値には関係ないのだ。
 本は人の知性を高めるための最高のツールである。昔、高校の先生から「お前たちは本をせっせと読まないとオツムがパーチクリンになってしまうぞ」と散々言われた。このことは今も真理だろう。お手軽なネット情報の氾濫で出版文化が崩壊しつつある。それは人間のパーチクリン化をさらに推し進めるであろう。
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by Weltgeist | 2011-08-27 23:34

一寸先が闇だから面白い (No.1146 11/08/26)

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 半月ほど前に二台の車が交差点で出会い頭に衝突して両方ともメチャメチャになっているのを見た。信号のない広い交差点で、どちらも一時停止をしないで入って、突然現れてきた車どうしが衝突したようだ。普段は交通量の少ない交差点だからまさか車が出て来るとは思わず一時停止もしなかったのだろう。
 この事故、運転している当事者から見れば、相手の車の出現は突然で、避けようもなかったと思われる。不幸にして両方ともがいきなり現れた車にブレーキを踏む間もなかったのだろう。不注意による事故とはいえ、一時停止していれば避けられた事故である。
 しかし、もしこの交差点で両方の道路が見渡せる場所に別な人が立っていたら、彼は両方の車が衝突するまでのことを逐一見ることができたろう。それぞれの車の当事者には相手は見えなくても、目撃者には一時停止しない二台の車がすごい勢いで交差点に相互に突っ込んで行くのが見える。このまま行けばぶっつかると思い、「危ない」と叫ぶしかない。
 ここには三者三様の立場がある。ぶっつかった当事者は直前まで自分がそのような事故に巻き込まれるなんて夢にも思っていない。一方の目撃者は先の事態が予測できるから「止まれ!! 」と叫ぶが、自分ではどうにもならない。そうして悲劇が起こった。
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 わが家の猫の額ほどの庭には沢山のアリがいる。小生、こうしたアリの動きを見ているのが大好きで、よく暇つぶしにアリ観察をしている。すると自分の体の数倍もある大きな獲物をくわえて、巣まで一生懸命に運ぼうとしているアリがいる。ところが、彼が進む先には大きな障害物があって、獲物をくわえては乗り越えられそうもない。どうしても運びたいなら障害物を避けた回り道をしなければならないのだが、アリはそんなことは分からない。一心不乱になって一直線に巣に向かおうとし、障害物のところで行き詰まる。
 今回の事故はそれに似ている。二台の車を見通している交差点の目撃者はアリを上から俯瞰して見ているのと同じ立場である。しかし、運転者はアリと同じで先は見通せない。偶然に起こった事故も、別な視点から見れば、起こるべきして起こっているのである。ただ、人間はそうした別な視点、すなわち将来を見通すことなどできないから事故も起こるのである。
 もし人間が自分の運命を俯瞰できるようになったらどうだろうか。一生懸命仕事をしていたのにちょっとしたミスで大失敗してしまった。悔やんでも悔やみきれないミスによって仕事を失うなんてこともないだろう。前もって何でも予測できるからすべては安泰である。
 だが、自分の将来がすべて見通せるとすれば、こんなつまらないこともない。一生懸命働いてもせいぜい課長にしかなれない。あるいはあと数日後に事故で死んでしまう、なんてことが分かったら、人生は面白くもなんともないものになるだろう。
 いつ死に目にあうか分からない危険はあっても将来のことなど見えない方が幸せである。人生一寸先が闇だから面白いと言える。
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by Weltgeist | 2011-08-26 23:24

生類憐れみの令と生命の尊厳 (No.1145 11/08/25)

 夢枕獏さんの最新小説「大江戸釣客伝」で江戸幕府五代将軍徳川綱吉が発布した「生類憐(しょうるいあわ)れみの令」で釣りを禁じられた釣り好きな人達の困惑ぶりを昨日書いた。愛犬家だった綱吉は世間の人が犬を虐待するのに我慢がならず、生類憐れみの令で「犬をいじめてはならん」と言いたかったのだろう。しかし、犬は駄目でも猫はいいのか、鳥は? 魚は? とエスカレートして、ついには魚をいじめる釣りなどとんでもないというところまで行ってしまったようだ。
 おそらく最初は軽い気持ちで始めたお犬様保護運動が、成り行きで前代未聞の悪法となってしまった。しかし、犬猫をいじめるのはともかく、牛、馬、鳥、魚を殺すのもいけないとなると、これは行きすぎだ。 生きているものを何から何まで殺してはならないとなれば、人間の生活が立ち行かなくなる。人間も含めてこの世に住む生き物は互いに他の生き物を食うことでしか生きられないからだ。それが生き物の世界の宿命であり摂理なのだ。
 生命の尊厳を唱えたアルバート・シュバイツアーは、腕に止まって血を吸っている蚊を殺すことに躊躇し、薬でばい菌やウイルスを殺すのは人間の罪だと考えるようになったという。腕に止まった蚊はともかく、人間の体を冒す病原菌は殺さなければ、人間の方が死んでしまう。生命の尊厳で両方の命を助けることはできない。シュバイツアーは解決不能な矛盾に陥って悩んでいるのだ。だから無限の食物連鎖で構成された世界の現実を「罪」ととらえるしかなかったのである。
 この世に生まれ出てきたものの命はいずれも大切なものとして尊厳されなければならないというのはシュバイツアーの言う通りである。人間であろうと、蚊であろうと命という点では等価値である。どちらの方が大切かと考えることではない。しかし、それにも関わらず我々が生きていくうえでは他の生命を殺し、食べることを止めることはできない。人間が生きるためには他の生物を食べていくしかないのだ。その意味で血となり肉として死んでいった生物には感謝しなければ罰が当たる。生命の尊厳とはそういうことと小生は理解している。
 ところが、これが釣りとなると、少し違ってくる。釣りはハリを隠した餌を魚に食わせ、掛かったらその引きを十分堪能してから釣り上げる。この一連の動作が釣りの醍醐味である。それは魚にとってたいへんな恐怖だろう。そうして、釣り上げられたあとは殺され、食べられてしまう。つまり完全に生き物をなぶり殺して楽しんでいるのだ。そのことに釣り人自身が気がつかないどころか、喜びを感じているのである。
 しかし、現代においては釣りに「生き物の虐待だ」と非難を浴びせる人はほとんどいない。なぜだか分からないが、社会的にも釣りの権利は認められていると言っていい。ところが、同じようなことをやっている昆虫採集に世間は非常に厳しい目を向けている。小生も蝶を採って殺すなんてとんでもないという非難をこの数年の間に何度か浴びたことがある。
 釣りは良くて蝶は許せないという論理に納得できないものを感じるが、最近はそうしたことを言われると、反論もせずに静かに退却するようにしている。単純にしか物事を考えられない人に反論するのも面倒だからである。
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このくらいのサイズのマダイが掛かると釣り上げるまでに相当スリリングなファイトが楽しめる。釣り人は興奮し、最後に取り込まれたところで幸福の絶頂にまで登り詰める。だが、これが釣られたマダイの立場になって見ると状況は逆で、ひどい恐怖を味わった末に最後は殺されてしまう。人間とは実に残酷な存在なのだ。
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by Weltgeist | 2011-08-25 23:53

夢枕獏・大江戸釣客伝 (No.1144 11/08/24)

d0151247_21272327.jpg 昨日書いたように独裁者は何でも自分の思う通りにできる。法律なんかいらない。たとえそれがどんなに理不尽なものでも、「俺が法律」だと言えばそれがすぐさま法になってしまう。独裁者はこうして自分に都合のいいことを「正義」とし、守らない人は処罰されるのだ。リビアのカダフィも北朝鮮の金正日も、そうやって一般国民を苦しめてきたのである。
 幸いなことに我が日本にはそんな悪法を発令する独裁者などいない。そう思っていたら、釣り仲間の作家・夢枕獏さんが送ってきてくれた最新の小説「大江戸釣客伝」(講談社)でとんでもない独裁者が日本にもいて国民はひどく苦しめられていた事が分かった。
 日本の独裁者とは江戸幕府第5代将軍徳川綱吉(1646~1709年)だ。彼が出した「生類憐(しょうるいあわ)れみの令」がひどい悪法だったのである。丙戌年生まれの綱吉は異常なまでに犬を可愛がり、これを虐待した者は牢屋に送って厳罰に処すという「生類憐れみの令」を発布した。彼は人間より犬の方が大事で、町にいる犬を「お犬様」と言わせるほど可愛がった。そして、犬目付という専門職を設けて、犬を虐待している人を見つけたら、たちまち牢屋に入れてしまったのである。取り締まりは厳しく、犬を虐待している人を見つけて密告すれば賞金まで支払われたという。
 そんな綱吉の異常さと生類憐れみの令のことも漠然とは知っていた。しかし、それは犬に限られたことと思っていたのである。ところが、獏さんの小説によれば綱吉の生き物への溺愛は次第にエスカレートし、犬だけでなく、猫や鶏など生き物一般にまでその対象が広げられ、魚の虐待も違反の対象となっていったらしい。そうなると困るのが当時の釣りを楽しんでいた町人や侍たちだ。生類憐れみの令は魚をいじめることも禁止となる。つまり大好きな釣りもできなくなるのだ。それに違反した者は打ち首や島流しにまでなったと書いてある。
 エーッ、釣りまでも、と言いたいが、一人の気まぐれな独裁者によって魚をいじめる釣りはままならないと禁止されてしまったのである。
 「大江戸釣客伝」はそんな悪法を発布された元禄時代の釣り師の困惑を描いたものである。登場する人物は、松尾芭蕉、その弟子の榎本其角、絵師の多賀朝湖(英一蝶)、紀伊国屋文左衛門、それに日本最古の釣り指南書「何羨禄(かせんろく)」を書いた津軽采女(つがるうねめ)等、歴史に残るそうそうたるメンバーに、津軽采女の義父である吉良上野介義央が赤穂浪士の討ち入りで殺される話などが複雑に入り組んで物語は進んでいく。
 実際にこれらの多彩な人が釣りという共通の趣味でつながっていたのか、歴史にうとい小生には分からない。しかし、獏さんは当時の資料を入れながら、この時代に大好きな釣りを禁じられ悶々とした生活を送っている人達の涙ぐましい苦労話を巧みに書いている。
 江戸湾鉄砲洲でのハゼやキス釣りのシーンはさすがに素晴らしい。魚を掛けて釣り上げた人達は皆生き生きとしている。そんな釣り好きが、法律で釣り禁止にされ、お上に隠れてしか釣りができなくなるのである。
 獏さんの釣り好きを良く知っている小生は、もし小生や獏さんが生類憐れみの令で釣りが禁止された元禄時代に放り込まれたら、どんなにストレスがたまったろうかと考えてしまう。いやストレスどころではない。禁止されていた釣りの現場を押さえられて打ち首になった人もいたというのだから、ひどい時代である。
 幸いにして今の日本ではこのようなことはないが、まだ外国では似たようなことが現実に行われている。例えば先日小生が行ったインドは昆虫採集が禁止である。この禁を犯したことがバレると罰金程度ではすまない。たいへんなことになるのだ。以前にはある日本人採集家がインドのダージリンで捕まり、刑務所に何年も入れられた例があるのである。たかが魚、たかが蝶と言うことなかれ、場所と時代によってはおかしな法律で犯罪者にさせられることがあるのだ。
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by Weltgeist | 2011-08-24 23:53

独裁者の末路 (No.1143 11/08/23)

d0151247_2154173.jpg リビアのカダフィ政権が崩壊しつつある。彼は法律もなければ議会もない劣悪な条件下に国民を縛り付けて、自分の思うとおりに国を牛耳り、甘い汁を吸っていた。そうした悪行の数々がいまようやく清算の時を迎えようとしているのだ。
 今まで国民が黙っていたのは豊富な石油資源利益のほんの少しだけおこぼれをもらってきたからだ。利益の大半はカダフィが独占し、生かさぬよう殺さぬ程度にお裾分けを与えて、うまくコントロールしてきたのである。
 しかし、その兼ね合いが難しい。多く与えすぎれば自分の取り分が少なくなるし、少ないと不満がたまって、独裁体制が危うくなる。カダフィは40年間このさじ加減をうまくやってきたつもりだったが、世界の流れには勝てなかった。隣国のチュニジアやエジプトの解放を目の当たりに見て、ついに国民の怒りが爆発したのだ。
 今夜のニュースではまだトリポリでの戦闘は続いているようだが、カダフィたちが民衆の裁きにあうのは時間の問題だろう。ここ数日の間のカダフィの運命には目が離せない。ルーマニアのチャウシェスクのように逃亡途中で国民に見つかってリンチにあうか、フセインみたいに逮捕されて最終的には死刑になるか、それともうまく第三国に逃げおおせて命だけは助かるか、彼に残された道は限られつつある。いずれにしてもカダフィのリビアはもう終わったのである。
 独裁者というと、日本にとっては北朝鮮の金正日(キムジョンイル)がいる。こちらは意外としぶとい。国民をひどい飢餓状態に追い込んでもなお自分の権力を維持しようとする。国際的な約束はいつも履行せず、追求されると核爆弾を持ち出して「文句あっか」と脅しをかけてくるならず者国家が、いまだ健在である。
 歴史は最終的には正義を貫いて正しいレールに沿って走って行くと信じれば、いずれは彼もカダフィと同じ運命をたどることだろう。いつか裁きが行われるから、不愉快な隣人でもしばらくは我慢しようと思うのだ。だが、そうならないかもしれない。うまく逃げおおせて、息子の金正恩(キム・ジョンウン)に権力委譲が成功するかもしれないのだ。しかし、もしそうなれば歴史は正義を貫くという信念は改めなければならないだろう。世の中に公然と悪がはびこることになるのである。
 今日のニュースではカダフィと並んでロシアを旅行中の金正日が取り上げられていた。中国とロシアを両方を手玉にとって生き残ろうとロシアに来たのだろう。しかし、生き残ろうとするのは自分たち金王朝だけで国民ではない。大多数の国民が食料もなく飢えに苦しんでいてもそんなの知ったことではないのだ。彼らは国民に与える食料を犠牲にしてでも核爆弾を作った連中である。自分に反抗する奴は容赦なく粛正して抹殺したのと同じで、日本、韓国、アメリカに脅しをかける手段として核爆弾を作ったのである。
 北朝鮮のような小国では得られる富は限られたものでしかない。その少ない富を自分一人で収奪する。ものすごい餓死者の犠牲で金正日の甘い生活は成り立っているのだ。だが、なぜそんな独裁者が打倒されないでいつまで生き残っているのだろうか。それは権力側にくっついて少しでも甘い汁を吸おうとするヒルみたいな連中がいるからだ。わずかなおこぼれを狙う根性の腐った連中で守られているから今の北朝鮮は成り立っているのである。そんな悲しい国は早くなくなってほしいものだ。
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by Weltgeist | 2011-08-23 23:56

旧約聖書に出てくる駄目人間たち (No.1142 11/08/22)

 旧約聖書を読むと罪を犯した人間の救いようのない愚かさがこれでもかという具合に書いてある。モーゼが十戒で掲げた戒めは、ことごとく破られ、そのつど主(神)の怒りをかっている。旧約聖書では預言者と呼ばれる人がたびたび登場してくるが、それは「このまま罪深いことを続けていると、人間を滅ぼさねばならない」という神の心配を預言者を通して伝えようとしているからだ。
 だが、人間は何度警告を受けても決して悔い改めることがない。旧約聖書を読んでいくと、結局人間はどこまでも救いがたきものであり続けている。ところがそれでも主は我慢強く駄目人間に希望を託し、そのつど裏切られている。旧約聖書はこれの繰り返しなのである。
 絶対者である神の前では不完全な存在である人間は、その出来損ないぶりがはっきり見えてくる。この世に最初の人類として出現したアダムとイブの時からもう彼らは駄目人間だった。主の教えを守らず禁断の木の実を食べ、エデンの園から追放されてしまうのだ。彼らが犯した罪はその後ずっと人間について回り、どこまで行っても人間は罪深い存在として世界をさ迷うのである。だが、わからないのはそんな駄目人間であるにも関わらず、主(神)はそうした人間がいつか更生すると信じて希望を託すことだ。
 たとえば創世記に出てくるヤコブの話は象徴的である。アブラハムの子であるイサクには二人の子供がいた。善良なエサウと次男ヤコブだ。だが、年老いて目が良く見えなくなった父親・イサクは自分の財産を良き息子であるエサウに譲るつもりでいた。それに気づいたヤコブは母親レベッカと共謀してイサクを欺し、その相続権を盗み取ってしまう。ヤコブは詐欺師のようなずる賢い男で、今なら確実に刑務所に送られる悪い人である。ところが、主はこともあろうに善良なエサウではなく、詐欺師であるヤコブの方に人類の希望を託し、祝福を与えるのである。
 悪事がばれて逃げ出したヤコブはある原野で石を枕に眠りについた。するとそこで沢山の天使たちが、地上から天国に掛けられたハシゴを上がり下がりしている夢を見る。この夢は主がヤコブを選ばれた人として神のすむ天国への道を与えたことを意味すると小生は解釈している。何故ならハシゴの夢を見たあとのヤコブについて旧約聖書は次のように書いているからだ。
 「主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。私はあなたの父、アブラハムの神、イサクの神、主である。私はあなたが横たわるこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族はあなたとあなたの子孫によって祝福される」(創世記29:12ー14)
 なんと善良な兄ではなく、彼を欺した詐欺師の方に主は祝福を与えるのである。この逆説的なことをどう解釈したらいいのだろうか。被害者より加害者の悪党に祝福を与えるなんてことは我々現代社会では絶対に許されないことである。だが、絶対者である主(神)から見れば親兄弟を欺した程度のことはたいした意味を持たないのだ。何故なら人間は一皮むけば誰もが五十歩百歩で似たような罪人だからだ。むしろ主はそんな日常的な善悪の判断ではなく、もっと根源的なことをヤコブの中に見いだしているのである。それは自らの罪で茨に満ちた人生を歩まなければならなくなったヤコブに、主が限りなき愛情を注いでいるからだ。
 人の歩く道は平坦ではない。ヤコブとは山あり谷ありの苦しい道を必死に歩いている現実の人間そのものなのだ。聖書はここで人間の本質を突いているのである。人は善良でもなければ満ち足りてもいない。己の罪の深さを思いつつ、歯を食いしばって苦難の道を歩き続けているヤコブとまさに同じなのだ。そうした人への神の思いやりをここに見るのである。
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ローマ、バチカンにあるシスティーナ礼拝堂の天井には創世記の物語を連続して描いたミケランジェロの壁画がある。禁断の木の実を食べてエデンの園から追放されるアダムとイブが泣きながら追われていく姿が、ミケランジェロ独特の力強い肉体をもった二人の人物として描かれている。
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by Weltgeist | 2011-08-22 23:57