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紫陽花(あじさい)の花言葉 (No.1108 11/06/30)

 昨日添付した写真はわが家の庭で咲いている紫陽花を撮ったものである。朝降った雨で花が濡れていて、濃い青色に引き込まれるような気持ちがしてシャッターを押した。しかし、紫陽花はしばらくすると青に赤みが増してきて、ピンクから紅色にまで変わっていく。花の色が次第に変わっていくということは他にあまり例のない珍しいことではないだろうか。
 普通、花びらというものは薄くてすぐに萎れてしまい、色が変わるまでの時間的余裕がない。ところが紫陽花が色を変えていくのは、それが花ではなく、葉っぱが変化したものだからだということを最近知った。
d0151247_23145386.jpg 紫陽花の花と言われる部分はおしべとめしべが退化した中性の花で、花びらは萼(がく)なのだそうだ。萼というのは花の一番外側で花冠(かかん)を包むようにしている葉に似た器官のことだという。花びらではなく葉だから色が変わることもできるのだ。
 このように葉っぱが飾りのように変化した花のことを装飾花と言うらしい。日本原産のガクアジサイ(左の写真)を注意して見ると、真ん中にはおしべとめしべを持つ「両性花」があって、その周りに葉が変化した装飾(中性)花がある。小生、両性花の蕾が咲いてくると外側にある装飾花のように大きな花びらをいっぱいに拡げた満開状態になると思っていた。しかし、そうはならない。全面がほとんど装飾花ばかりになるのはセイヨウアジサイで、これと混同していたようである。

 紫陽花(あじさい)の花言葉は「移り気」「高慢」「無情」「冷淡」などがあるのだそうだ。紫陽花は花が咲いた時から次第に色を変えて行く。だから「移り気」という花言葉は分かるとしても、「高慢」とか「冷淡」というのはどこからきたのだろうか。恋していた女性が心変わりし、冷たい態度をするようになった。そんなことへの男性の恨みが募ったのかもしれない。「女心と秋の空」ではないが、自分のことを見限った女性をいつまでも追い続ける未練がましい男性の悔しさを表現した言葉ではないだろうか。
 紫陽花は冷たい花言葉しかもらえないが、実はかなりしぶとい花である。花の咲いている枝を切って庭の土に刺すと、翌年にはどんどん成長して花を咲かせる旺盛な生命力を持っている。小生、日本の国蝶であるオオムラサキ飼育の餌として大型の鉢にエノキの幼木を植えている。この鉢に昨年、切り捨てられていた紫陽花の小枝を一本刺しておいたら、今年の春からグングン大きくなり、今やエノキの葉を覆い被せるまでに育っている。
 このままでは紫陽花の大きな葉の陰に覆われて、エノキが日照不足になりかねない状況である。エノキを助けるには紫陽花を鉢から抜くしかない。それほど成長力の強い植物なのだ。「移り気」はともかく、他の植物の生存を脅かすほどの生命力からして「高慢、無情、冷淡」という花言葉は理解できる気がする。
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普段何気なく見ていた紫陽花にも沢山の種類があるんだと思いつつ、今日改めて紫陽花の花を見たら、写真のように萼の内側にこんな花を付けているのを見つけた。植物に疎い小生にはこれがおしべとめしべを持つ両性花なのかどうかは分からない。しかし、花(実際は葉が変化したもの)の中にさらに花が咲いているということに自然の不思議さを感じた。
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by weltgeist | 2011-06-30 23:21

中流家庭の崩壊と貧困化 (No.1107 11/06/29)

 6月28日づけの英国・フィナンシャルタイムズ紙は、先進国で中流家庭の人たちを苦しめる「新しい妖怪」が徘徊しているという記事を報じていた。
 「世界経済危機が始まってから3年近く経ったが、大半の先進国ではこのところ、新種の妖怪が出没するようになっている。市民の過半数は今後何年も所得の伸び悩みに直面するという、恐ろしい見通しが広まりつつある。
 第2次世界大戦後の先進国は、生活水準が世代を経るごとに向上し、親よりも物質的に豊かになれるという考え方があった。しかし今、所得の増加を期待することは過去にほとんど例がないほど難しくなっている。
 一部の中間所得者層にしてみれば、所得の伸び悩みや減少は今に始まった話ではない。例えば、英国のフォークリフトドライバーは2010年には1万9068ポンドの所得を期待できたが、インフレを考慮すればこれは1978年の値を約5%下回ることになる。」というのだ。
 米国男性の実質所得は1975年以降増えていないし、日本では2000年代半ばまでの10年間で実質世帯所得(税引き後)の平均値は減少している。ドイツの世帯所得もここ10年間で減少しているという。
 しかし、米国では、国内総生産(GDP)は急増し続けている。それなのに1975年から男性の実質所得は伸びていない。GDPが伸びているのに所得が伸びないという「妖怪」の正体は何なのか。米国ではこの増加分がほぼすべて、最も裕福な人々のポケットに流れ込んでいて、一般の中間所得層労働者にはまわってこないのが原因のようだ。
 こうした格差の増大は、一方で途方もない金持ちを生み、彼らは日ごとに富を増やしている。他方で取り残された「中流階級層」は日ごとに貧しくなっていく。この傾向は今後ずっと続き、深刻化していくと予測しているのである。
 日本の労働者は年功序列で自動的に増えていく収入を当てにして、住宅などをローンで購入してきた。しかし、今後は収入は歳をとっても上がらない。むしろ下がるかもしれないということを念頭において生活設計をしなければならないだろう。
 そんな記事を読んでいたら、昨日の報道でソニーのストリンガーCEOの昨年度の年収が8億6千万円だと報じていた。そして、今日はさらにお馴染みの日産自動車カルロス・ゴーン社長の昨年度の年収が9億8千万円だったとニュースを賑わしていた。たしかゴーンさんは昨年8億9千万円ももらっていて、このブログでもちょっと首を傾げたくなるということを書いた記憶がある。
 金持ちはますます金持ちに、貧乏人はどんどん貧しくなっていくというフィナンシャルタイムズ紙の記事を裏付ける現実にガックリしている。人間の能力はそれほど違わない、違うとすればその人をとりまく環境の差でしかないのに、なぜこのようなことになるのか。マルクスは「共産党宣言」でヨーロッパに「妖怪が徘徊している」と警告した。あの時の妖怪は貧しき労働者を解放する希望の妖怪だった。いま徘徊する妖怪はお金持ちだけに希望を与え、それ以外の人には絶望を与える困ったものである。
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by weltgeist | 2011-06-29 20:35

小笠原の思い出 (No.1106 11/06/28)

 小笠原諸島が世界自然遺産に登録されることが決まった。東京の南1000㎞の距離にある小笠原は、簡単に行ける場所ではないが、小生はこれまでに四回小笠原に釣りに行っている。第一回目は定期船が就航して一般の人が行けるようになった直後の1972年(昭和47年)二月ころである。  
 定期船といってもそのとき乗った船は、第二次大戦前後に伊豆大島航路に使われていた椿丸という300トンほどの古い「小船」であった。現在就航している数千トンのおがさわら丸と比べると、まるで巨大な母船に付けられたボートのようにちっちゃい船だった。
 東京竹芝桟橋から父島二見港まで当時の所要時間は40時間弱。300トンの椿丸を竹芝で見て、こんなボロイ小船で太平洋を1000㎞も航行できるのかと不安になったが、それはすぐに現実のものとなった。椿丸は大海を漂う木の葉のように激しくゆれて、小生はたちまち船酔いでゲロゲロやりだしたのだ。とくにこのときは悪天候で結局60時間かけて父島に到着したのだが、その間、小生は一切物を食べることができなかった。ご飯どころか水も飲むことができず、まるで地獄に放り込まれたような苦しさで、フラフラになって父島に着いたのである。
 父島二見港は港とは名ばかりで、船が接岸する岸壁もなく、島には小さな艀(はしけ)で上陸した。竹芝を出たのは二月の寒い時期だったが、父島に降り立つと気温が20℃以上の暖かさで、何か外国に来たような雰囲気だった。
 島の住人は米国統治のころ住み着いたポリネシア系の人たちがほとんどで、日本人はまだ数えるほどしかいなかった。二見湾の中には大戦で沈没した船が赤くさびたままあり、島には沢山の塹壕やさびた大砲、戦車の残骸などが片づけられないまま残っていた。
 この後釣りに行くのだが、それは小生には忘れることのできないほど衝撃的なものだった。釣りのポイントは二見港の反対側にある釣り浜という場所で、向かい側の兄島との間は狭い瀬戸になっていて潮が川のように速く流れていた。磯釣りとしては絶好のポイントである。ここで小生は磯の超大物モロコを釣るためのごつい竿を出し、50号くらいある巨大なハリに本土から持ってきた冷凍のイカを丸々一匹付けて、足下のポイントにドボンと沈める。
 それから友人の釣り準備を手伝っていると、どこかからメリメリッというすごい音がしてきた。何事が起こったのかと思い振り返って自分の竿を見ると、竿がない。エッ、魚に竿ごと持って行かれたかと思ったらそうではなかった。魚に引っ張られて竿がぴったりと岩にへばりついていて見えなかったのだ。竿は磯の超大物・モロコを釣るためのものすごくごついものだったが、それがまるで細い針金のようにひん曲げられ、折れそうになっていたのである。
 その竿をまず岩から引っぺがすように起こし、竿をたてようとするが、一人では魚の引きが強くて竿を立てることができない。友人のアシストでようやく竿を立てると、沖合に巨大なヒラアジが激しく走っているのが見えた。小生にとってはそれまで経験した最も大きなもので、魚というより大きな獣とやり合うような印象を受けた。これを何とか岸にずり上げると、それは30㎏はありそうなヒラアジ(GT)だった。ところがこれを取り込んでぐったりしている暇などなかった。二人の竿には同サイズのヒラアジや、20㎏くらいのハタが休みないくらい釣れたのである。
 あの時の小笠原は本当に釣りの天国みたいな場所だった。しかし、小生はその後三度小笠原には行っているが、行く度に小笠原は変わっていった。二見港には大型の客船が横付けできるような接岸岩壁ができ、町は少しずつ日本人が増えて行った。父島は観光地化し、最後に行った時は軽井沢や清里のような雰囲気に俗化していると感じた。当然ながら、魚も昔のようには釣れなくなっていった。
 父島周辺は劇的に変わってしまったのである。しかし、それでも父島から少し離れた磯まで渡船で渡ると、まだ別天地のような場所は残っている。小生が最後に行ったのは1990年の始め頃で、小笠原諸島でも北に位置する聟島(むこじま)列島まで遠征したが、ここでは昔ながらの小笠原の魚影が残されていた。聟島はいまはアホウドリの移植場所となっているようで、昔のように自由に立ち入りできるかは不明である。
 小笠原が手つかずの自然を残していたのは、「不便だった」からである。その自然をこれからも満喫したいと思う人は、不便なことに耐えなければならない。世界遺産に登録されたことで、安易な開発は制限されるだろう。飛行機でひとっ飛びで行ける時代、あえて25時間もの船旅で行くから豊かな自然が味わえるのだ。小笠原はいつまでも不便な場所であって欲しいと思っている。
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 1972年に小生が小笠原で最初に釣り上げた30㎏のヒラアジを誇らしげに持つモノクロ写真があるはずと、しばらく部屋を探したが見つけることができなかった。まだ20代のピチピチした小生の写真をお見せできないのが残念である。代わりに掲載するのは、今朝ハイビスカスに似ていると思って撮った花の写真で、これは小笠原とはまったく関係のないものである。
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by weltgeist | 2011-06-28 23:55

原発とどう向き合うか (No.1105 11/06/27)

d0151247_21534421.jpg 人間は自由な存在である。人間の自由は尊重されなければならないし、それがより良く発揮できるよう保証されなければならない。しかし、そうだからといって、何でも自由にやっていいわけではない。むしろ厳しい制限の中でこそ自由も真価を発揮すると思う。
 人間には犯してはいけない領域がある。神の専有領域のようなものがあって、それを人間は侵害してはいけないと小生は信じている。たとえばクローン人間を作ったり、人間の生命を人工的に操作することだ。人の始まりである誕生と終わりである死の部分は手をつけてはいけない領域なのだ。命が生まれ死んでいくことは神のなすことである。
 人の命は長い短いはあっても、いつかは必ず死ぬ。だから小生は生命を人間が操作する心臓移植手術は絶対反対である。他人の死を前提する、というか他人の死を期待して自らの命の延命を図る心臓移植は許されないと思う。病気の人には気の毒だが、それが宿命だと思っている。人生の価値は長く生きたかではない。どう生きたかだ。短くても生きた意味はあると思っている。
 同じように技術の進歩もどこまでも勝手に進んでいいわけではない。原子力はテクノロジーの極限に行ったことで、神の専有事項ともいえる未知な世界に首をつっこんでしまった。人類が手を出してはいけない領域に入ってしまい、コントロール不能になったのである。
 今回の原発事故ははからずもそうした人間の奢りを明らかにさせた事件だといえよう。放射能という非常に危険な物質を、これまでは何とか原子炉の中に欺し欺し閉じこめることで「安全」を保っていた。しかし、中に入っている放射性物質はとてつもなく危険で、一旦外に漏れ出せば人類に恐ろしい災禍をもたらす。それが人智では想像できなかった災害によって実際に起こってしまったのだ。われわれはひどいしっぺ返しをくらっているのである。
 原子力利用の危険性については、すでに1960年代から一部の人によって叫ばれていた。しかし、誰も聴く耳を持たなかった。便利な生活を保障する電気をイージーに産み出す原発は安全面だけが宣伝され、ネガティブな面は知らされないようにしていたのである。
 安易に原子力発電所を作ったとしても、やがて耐用年数を迎えれば廃炉にしなければならない。しかし、原発は車検切れの車を廃車にするようにはいかない。原子炉を止めて核燃料を取りだした後も、非常に長い期間ずっと冷やし続ける作業が必要だし、強い放射線を持つ原子炉の廃材を安全に処理する方法もまだ確定してはいないのだ。
 廃炉するには原子炉建設の何倍もの費用がかかり、処理不能な難問に直面せざるを得ない。電力会社は耐用年数を過ぎた古い原子炉を使い続けることで、問題を先送りしているのである。ものすごく早いけれどブレーキが十分でない車を作ってみたが、止めることもできず必死のハンドル操作で走り続けるしかないのと似ている。そんな危険な状態に我々が置かれていたことを、今回の原発事故で初めて気づいたのである。
 人は最先端技術の進化を誇らしげに語っていた。しかし、そのことで、今後何十年もの間苦しみ続けなければならなくなった。人間は自由に振る舞いすぎた責め苦を今受けているのである。
 原発問題を自分とは関係のない他人のせいにするのはお門違いである。「原発反対? それなら電気を使わないでくれ」という言葉に反論できない。我々の生活を根本的に変えられるかどうか、原発が今我々に問うているのだ。それは他の人の責任ではない。我々自身、あなた自身の問題なのである。
 人間は先へ走りすぎた。便利でなくてもいいからもっと人に優しく、不安のない世界に戻して欲しい。
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by weltgeist | 2011-06-27 22:26

メルキオール・ブルーデルラム、「シャンモル修道院祭壇画」、最終回 (No.1104 11/06/26)

d0151247_22363329.jpg メルキオール・ブルーデルラムの「シャンモル修道院祭壇画」について三日間にわたって書いてきたが、今日がその最終日である。
 シャンモル修道院祭壇画が描かれたのは西暦1393-1399年頃と言われている。西洋ではフランスとイギリスが百年戦争(1337~1453年)をやっていた時代だ。当時のフランドル地方はフランス側についたりイングランド側についたりする戦争の荒波のまっただ中で、王様はしばしば殺されたり、隠謀で交代させられた厳しい動乱の時代であった。同じ頃、日本は室町幕府(1336~1573年)足利義満の時代である。
 そんな世の中が騒然とした時代に、シャンモル修道院は当時ブルゴーニュ公国の首都だったディジョン郊外にフィリップ豪勇公(ブルゴーニュ公)がブルゴーニュ公爵家の墓所として建設したものである。着工は1383年で、1388年には主要な建造物がほぼ完成したという。ここの修道院にはふんだんなお金がかけられ、当時の普通の修道院は12人の修道士なのに対し、24人もの修道士を抱え、内部は様々な美術品で贅沢に飾られていたらしい。日本でも24人もの坊さんを抱えたお寺は相当大きな寺である。そこまでしたシャンモル修道院がいかに豪華でお金を掛けていたかが分かる。
 ブルーデルラムは1391年にフィリップ豪勇公の宮廷画家になっていて、修道院のためにせっせと作品を描かされていたことだろう。彼は豪勇公のあと、後継者となった長男のジャン1世(無怖公)にも引き続き仕えたが、1409年を最後にブルゴーニュ公家の記録からは姿を消しておりその後の消息は伝わっていないという。
 とここまでは分かったが、ここからはシャンモル祭壇画を見ての小生の推測の話である。この祭壇画が当時の美術界での最高水準を持つ傑作であるのは間違いないが、昨日も書いたように、これが聖書のイエス伝を表現したものだとすると、まずベツレヘムでの誕生と、羊飼い又は東方三博士の礼拝が欠落しているのは不思議である。
 また、イエスがエジプトに逃亡したところで終わっているのも中途半端だ。そもそもイエスのような聖者がエジプトに逃げたところで物語りを終えるのは、画家の仕事としても納得できないであろう。イエスが活躍する肝心の場面が出てこないのは前菜だけでメインがないディナーのようなものである。ブルーデルラムは多分、この祭壇画を一連の連作のスタートと考えたのではないかと思うのだ。つまり、エジプトから戻ると数々の奇蹟を起こし、十字架に架けられて最後は復活するまでの壮大ストーリーを描く構想を持っていたと考えられるのである。
 現在ブルーデルラムの真筆として残っているのは、この祭壇画しかないが、昔はもっとイエス伝を描いた作品があったたと考えるのが自然である。実際、フランス革命後の共和国政府はシャンモル修道院の美術品を破壊したり、略奪した記録が残っている。ブルーデルラムがこの祭壇画一点しか仕事をしなかったとは思えない。もちろん、これは古典美術に素人な小生の推測にすぎないのだが・・・・。

d0151247_23162776.jpg シャンモル修道院祭壇画があるディジョンはパリから310㎞、パリ・リヨン駅からTGVで1時間40分で行くことができる。パリを朝一番のTGVで出れば十分日帰りは可能である。ここの名産はディジョン・マスタード。町の中には専門店が沢山あり、様々なマスタードが売られていておみやげにもピッタリである。祭壇画のあるディジョン市立美術館は入場無料。ロベール・カンパンのキリスト降誕や、クラウス・スリューテルのフィリップ豪勇公の墓碑彫刻(も見ることができる。また、シャンモル修道院で「モーセの井戸」を見たり、ボーヌまで足を伸ばしてロヒール・ファン・デル・ウエイデンの最後の審判を見学できればパーフェクトなプチ旅行が堪能できるだろう。

この祭壇画の話を最初から読みたい方はこちらをクリックしてください。
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by weltgeist | 2011-06-26 23:24

メルキオール・ブルーデルラム、シャンモル修道院祭壇画、その3、右パネル (No.1103 11/06/25)

 昨日に続いてフランス、ブルゴーニュー地方の古都、ディジョン市立美術館で巡り会ったメルキオール・ブルーデルラムの「シャンモル修道院祭壇画」の右パネルである。パネル全体は一昨日の全体写真を参照していただきたい。
 メルキオール・ブルデルラムは謎の多い画家で作品も一点しか残っていないことから、参考とする資料も少なく、ここでの説明文を書くのも手探り状態である。うまく説明できているか、不安なところがあるが、小生なりの感想を続けて書いてみたい。
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 さて、昨日取り上げた左パネルは受胎告知と聖母マリアのエリザベツへの訪問であった。今日取り上げる右パネルは「神殿奉献」と「エジプトへの逃避」である。ブルーデルラムの祭壇画はこの4つで終わっている。しかし、ルカ福音書の記述に従えば、エリザベツへの訪問から神殿奉献の間に非常に重要な馬小屋でのイエスの誕生と、それを祝う羊飼いたちの礼拝のシーンがある。ブルーデルラムはなぜかこれを割愛して神殿奉献に飛び越えているのだ。
 ベツレヘムでのイエスの誕生と羊飼い、あるいは東方三博士の礼拝は、受胎告知と並んで多くの画家が最も好んで描くシーンなのに、それを飛ばして神殿奉献に進むのにはなんらかの訳があったのだろうか。資料不足の小生には残念ながらそれを知ることはできなかった。
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 右パネルの左側に描かれた「神殿奉献」とは、モーセの律法で子供が誕生した八日目に幼子に割礼をほどこすため神殿に上がることである。「モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるためにエルサレムに連れて行った。それは、主の律法に母の胎を開く男子の初子は、すべて主に聖別された者、と呼ばれなければならない、と書いてあるとおりであった」(ルカ福音書2:22-23) この時点ではまだ旧約のユダヤ教しか存在していなかったから、敬虔な信者であるヨセフとマリアはユダヤ教の神殿に行き、ユダヤ教徒としてイエスに割礼を受けさせたのである。もちろん、今のキリスト教徒はそんなことはしない。
 神殿にいたシメオンはイエスを抱き、この子がやがてイスラエルを救う神の子であることを悟り、イエスを祝福する。描かれている五人の人物のうち、左端がシメオン、イエス、マリア、そしてグリーンのターバンの男がマリアの夫ヨセフ、右端は女預言者アンナである。ここで注目されるのはシメオン、イエス、マリアの三人は後光( Nimbus =光背)があり、すでに神と同格の扱いになっていることだ。右端のアンナは預言者だが、後光はない。彼女が左手のかごに持つのは、モーセの律法に書かれた鳩のひな二羽である。「主の律法に、山ばと一つがい、または家ばとのひな二羽と定められたところに従って犠牲をささげるためであった」(2:24)という細かい記述をブルーデルラムは見逃さずに描いている。
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 神殿奉献のアップ。「シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。”主よ。今こそあなたは、あなたのしもべをみことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。”・・・シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。”ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また立ち上がるために定められ、また反対を受ける印として定められています。」(2:28-34)シメオンはイエスがやがて多くの反対者を産みながらもイスラエルを救う救世主であることを見抜いているのである。
 アップで見るとマリアの顔は悪しき修復で崩れているが、シメオンの存在感のある描写力はすごい。この絵が600年も前に描かれたとは信じがたいことである。
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 パネル右側の「エジプトへの逃避」だが、この出来事についてルカ福音書は何も書いていない。この話はマタイ福音書2章の記述によるものである。ブルーデルラムはそれぞれの福音書をつなげて一つのストーリーをつくったのである。だが、神の子であるイエスがなぜエジプトまで逃げなければならなかったのだろうか。それは当時国を治めていたヘロデ王が、神の子がベツレヘムに生まれ、その子がやがて自分を滅ぼすだろうことを恐れ、ベツレヘム周辺の幼児を皆殺しにするよう命じたからである。危険を感じたヨセフとマリアは幼いイエスを抱いてエジプトに逃げるのだ。このことについて聖書は次のように書いてある。「主の使いが夢でヨセフに現れて言った。”立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。”そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ち退き、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」(マタイ福音書2:13-15)ロバに乗ったマリアとイエス。まだ赤ん坊のイエスの頭に小さな後光が描かれているのがかわいらしい。この絵は殺人者から追われて逃げる暗いテーマだが、ロバの表情といい、また、夫ヨセフのいかにも貧しい庶民だが、生き生きした姿で描かれているところがほほえましい。

以下、明日の最終回に続きます。
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by weltgeist | 2011-06-25 23:57

メルキオール・ブルーデルラム、シャンモル修道院祭壇画、その2、左パネル (No.1102 11/06/24)

 昨日に続いてフランス、ブルゴーニュー地方の古都、ディジョン市立美術館で巡り会ったメルキオール・ブルーデルラムの「シャンモル修道院祭壇画」の話である。(小生の性格からして、きっと話がしつこくなると思うので、こういった話題に興味のない方は申し訳ないですが、このスレッドが終わるまでスルーしてください。)
 さて、謎多き画家・ブルーデルラムの唯一残存する「シャンモル修道院祭壇画」は変則的な形をした左右二枚のパネルからなり、新約聖書におけるイエス・キリスト誕生の由来を4つのシーンで時系列的に描いたものである。今日はそのうちの左パネルの二つのシーンをとりあげたい。最初が「受胎告知」、右が「聖母マリアのエリザベツへの訪問」である。
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 パネルの全体的な形は前日の No.1101 を参照していただくとして、まずパネルの大きさだが、167 x 125 cm の板にテンペラで描かれている。祭壇画は教会の信者が遠くから見ても分かるように大きめに描くのが一般的だが、この祭壇画は想像していたより小さい。
 全体の構成は左の「受胎告知」が室内、右の「聖母マリアのエリザベツへの訪問」は屋外でしかも険しい山岳地帯の風景を描いている。
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 左パネルのイエス誕生の物語のスタートは、処女・マリアの処女懐胎 (Virgin birth of Jesus ) の告知である。大天使ガブリエルがマリアのもとにやってきて彼女が神の子を宿ったことを告げる有名なシーンで、これまで非常に多くの画家がこの受胎告知の場面を描いている。聖書ではこの場面は次のような言葉で語られている。
「御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。この処女はダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。御使いは入って来ると、マリアに言った。”おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。”しかし、マリアはこの言葉にひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。”こわがることはない。マリア。あなたは神からの恵みをうけたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。”」(ルカ福音書1:26-31)と書いている。 
 ガブリエルが伝える神のお告げは、彼の持つテープにラテン語で書かれている。いわば現代の漫画に使われる吹き出しの手法をここで使って、神の言葉をより明瞭に人々に伝えようとしているのである。建物は室内のような屋外のようなしゃれた東屋風の作りで、すでにこの時代から遠近法を用いて描かれている。二人の間には白い百合の花が置かれている。これはマドンナリリーと言ってマリアが純潔な処女であることを象徴するものである。他の画家の作品でもガブリエルはしばしば白い百合を持って登場している。
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 神の意志を伝えるために遣わされる御使い(天使)の中で、もっとも重要な場面で登場するのが大天使( Archangel=アークエンジェル ) だ。大天使の中でも一番人気が高く大活躍するのがガブリエル。今回の受胎告知のようにうれしい知らせを告げる時にしばしば出てくる。例えば、旧約聖書でダニエルが夢を見たときも「(ガブリエルが)素早く飛んできて私に告げて言った。”ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを告げるために出て来た。あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを告げに来た。あなたは神に愛されている人だからだ。」(ダニエル書10:22-23)と書いている。これ以外の大天使としては裁きと戦いの守護神ミカエルやトビト記に出てくるラファエル、エノク書に出て来るウリエルなどの大天使がいる。
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 突然お前は神の子を宿ったと言われて戸惑うマリア。(マリアの顔がボツボツしているのは後世の修復の失敗によるのではないかと思われる)前日の全体写真を見れば分かるように、マリアの左上の空には父なる神・主がいて、口から吹き出した聖霊がマリアに金色の雨となって降り注がれている。金色の雨を注意して見ると、聖霊の象徴である鳩が今にもマリアの中に入ろうとしているのが見てとれる。マリアがまとう衣はこの時代は伝統的に青とされている。また、また、マリアが読んでいる本は旧約聖書のイザヤ書の部分と思われる。そこには「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ書7:14)と書いてある。つまり、旧約聖書の預言がここで成就したということである。
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 こちらは左パネルの右側部分にある「聖母マリアのエリザベツへの訪問」である。前記ルカ福音書によればマリアの親類であるザカリアの妻エリザベツは子宝に恵まれない不妊の老婆だった。ところがマリアが受胎する6ヶ月前に、ザカリア、エリザベツ夫妻の前に同じようにガブリエルが現れ、「こわがることはない。ザカリア。あなたの妻エリザベツは男の子を産みます。名前をヨハネとつけなさい」(ルカ福音書1:13)と告げられる。後にイエスに洗礼を施す洗礼者ヨハネの母もこのように神の力によって子を得るのである。そして、妊娠の不安を抱えたマリアがエリザベツを訪ね、彼女と三ヶ月一緒に暮らしたと聖書には書いてある。このときマリアは自分が神から祝福され、自らの胎内に神の御子が宿っていて、やがて救世主を産むことを確信する。エリザベツは「あなたは女のなかの祝福された方。(と言い)、・・・マリアは(答えて)言った。わがたましいは主をあがめる。わが霊は、わが救い主なる神の喜びをたたえます。主はこの卑しいはしために目をとめてくださったからです。」(ルカ福音書1:42-46)と言って自らが卑しい人間の分際でありながら神の御子を産むことの喜びを語っている。ここでイエスの誕生の前半の場面は終わるのである。

明日は続けて右パネルについて書きます。
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by weltgeist | 2011-06-24 20:20

メルキオール・ブルーデルラム、シャンモル修道院祭壇画、その1 (No.1101 11/06/23)

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 メルキオール・ブルーデルラムという画家をご存じだろうか。今から600年も前に活躍したフランドル(現在のベルギー、オランダ、フランスにまたがる地域)の画家で、作品は上にある祭壇画一点しか残っていない謎多き画家である。 彼の人物像についてウイッキペディアには次のように書かれている。
メルキオール・ブルーデルラム (Melchior Broederlam (1350年頃 - 1409年以降))は初期フランドル派の画家。イーペル出身と言われ、1381年から1409年にかけてブルゴーニュ公フィリップ2世らに仕えていた記録が残されている。ほぼ確実にブルーデルラムの作品であろうと考えられているのは板に描かれた祭壇画のわずか一作品だけで、西洋絵画史上その他のブルーデルラムの作品は確認されていない。
 ブルーデルラムはキャリア初期に長期間イタリアに滞在している。イタリアで空間の表現手法と、トレチェント期の影響を受けた立体表現とを身に着けた。1381年からフランドル伯ルイ2世とブラバント公爵家の宮廷画家となり、ルイ2世が死去した1384年からはルイ2世の娘婿で後継者のブルゴーニュ公フィリップ2世に仕えた。ブルーデルラムはイーペルを拠点に活動していたが、北部フランスのエダンにあった、現在は残っていないフィリップ2世の城の装飾に大きな役割を果たした・・・・


 小生、ブルーデルラムがこのシャンモル修道院の祭壇画(1393-1399年頃)を描いたことは知っていたが、彼がどんな人物で、その作品が現在どこに保管されているのかまでは知らなかった。そんな絵を見る前に、まだまだ見たことのない絵が沢山ある。たった一枚しか作品が残っていない画家の絵をわざわざ見に行くことなどまずあり得ないだろうと思っていたのである。
 それが2006年にフランス、ブルゴーニュ地方のボーヌという小さな町を訪ねたとき、何と目の前に展示してあるこの祭壇画に出会ったのである。ボーヌには長年見たいと思っていたロヒール・ファン・デル・ウエイデンの「最後の審判」があり、これを見るためにわざわざパリからフランス新幹線TGVに2時間乗ってディジョンまで行き、さらにそこから30分ほど鈍行電車を乗り継いで「最後の審判」が展示されてあるボーヌの「オテル・デュウ」( Hôtel-Dieu 神の家 )に行った。そのTGV乗り継ぎ駅であるディジョンの町の美術館に問題の祭壇画があったのだ。
 このときはボーヌ見学が主で、ディジョンは乗り換えのついでに4時間ほど観光しただけのものであった。ガイドブックからディジョン市立美術館にはロベール・カンパンが1425年頃描いた「キリスト降誕」やウエイデンの「フィリップ公の肖像」、スリューテルの「フィリップ豪勇公の墓碑彫刻」などがあることは知っていた。これを時間が許す限り見学するつもりでいたのである。
 当日はフランスでは珍しいくらいの大雪で、TGVの時間を気にしてディジョン市立美術館の見学は、それこそメインの作品だけを飛ぶように見終えて急いで駅に戻ろうとした。そのとき、入り口でおみやげ代わりに何気なくもらった美術館のパンフレットに何とブルーデルラムの「シャンモル修道院祭壇画」が載っていたのだ。この美術館にそれがある。早足で通り過ぎたその他の絵の中に、これがあったのを見過ごしていたのだ。小生は電撃に打たれたようなショックを受けた。
 帰りのTGVの時間は迫っていたが、急いで係員にこの絵がある場所を聞き、そこに走るように戻ったのである。絵は歴史的価値からいえばものすごいものだろうに、本当に目立たないように展示されていた。600年という時を経ても変わらないブルーデルラムの青を主体としたマリアの姿が小生の前にあった。そのときの驚きと感激。小生は忘我の状態でそこに立ちつくしていた。

以下明日に続く。
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by weltgeist | 2011-06-23 21:39

美とは何ぞや (No.1100 11/06/22)

d0151247_2049947.jpg 左の写真はボルネオ島コタキナバルで撮った地元の踊り子である。この女性を美しいと思うか、そうではないと思うかは人様ざまだろう。小生は美しい女性と思ったからシャッターを押したが、「こんな整形女のどこが美しいのか。お前の審美眼はおかしい」と言われるかもしれない。
 「蓼食う虫も好き好き」と言われるように、美とは非常に主観的なものである。これだという決まりはないと言っていいかもしれない。ある女性を美しいかどうかアンケートをとれば、百人百葉の答えが返ってくるだろう。誰が見てもあの人は美人だというような人でも100%の評価はない。どんなにきれいな女優さんでも「駄目だ」と評価する人はいる。好みが違えばお眼鏡に叶わないのである。
 これは自然の美でも同じである。今を盛りに咲きそろっている花菖蒲を多くの人は美しいと思うだろうが、それでも100%ではない。朝焼けに輝く富士山を見ても感激しない人がいる。芸術はどうだろうか。レンブラントの「夜警」は彼の最高傑作と言われているが、小生は評価していない。ピカソを小生は高く評価するが、彼を駄目という人は数限りなくいる。
 美とはこのように非常に曖昧で、絶対的なものはないと言えるのかもしれない。そんな曖昧な美の概念を哲学者はどう考えているのだろうか。カントは彼の第三批判書、判断力批判( Kritik der Urteilskraft / 1790 ) の中で、美とは「趣味がある対象を利害に関わりなく判断したとき、満足が得られるもの」と言っている。美とは趣味の判断であり、厳密な認識の妥当性を追求する客観的な認識判断ではないことになる。この場合の趣味とは感性(構想力)で感じたものと悟性の概念がマッチしたときに偶然に美しいと感じることである。
 とすれば美は対象にあるのではなく、人間の悟性、理性の中にあることになる。これを押しすすめたのがヘーゲルだ。彼は美学講義 ( Vorlesungen über die Ästhetik / 1835-1838 ) の冒頭で、芸術美こそ優れたもので、自然美は程度の低い物と述べている。「芸術美は精神から生まれたものであるから、自然美より高級なものである。精神が自然よりはるかに高いだけ、それだけその所産ははるかに高く、芸術の所産もそうである。従って芸術美は自然美よりはるかに高いのである。」(岩波書店、ヘーゲル全集18a、「美学」第一巻の上、竹内敏雄訳)と言う。
 花菖蒲は確かに美しい。しかし、それはある季節にだけ開花するものであって永遠の美とは言い難い。美は精神が発露したものであるが、自然のなかにある精神は低い段階にすぎない。「芸術美と自然美の関係は単なる量的差別の意味に解すべきではない。・・・精神的なものこそ真実なものである。存在するものは、この精神性を有する点においてのみ存在するのである。自然美はかくして精神の反映である。自然美はその高級な分子たる精神にあずかる点においてのみ美なのである。」( P.5 )
 カントにとってもヘーゲルにとっても美は精神の反映であるとされた。ここで言われる精神とはそれでは何か。それは自ら思う働きであろう。美は「私が美しいと思うから美しいのだ」ということである。とすれば、「蓼食う虫も好き好き」は十分その正当性を得ることができる。
 「あんなブスの女を彼女にして」という批判は意味がない。本人が最高の美人と思えばそれでもう十分なのである。
 ちなみに美学はドイツ語でÄsthetik=エステーティック、英語でAesthetic、いまはやりのエステサロンはこれから来た言葉である。
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by weltgeist | 2011-06-22 23:12

そろそろネタ切れです (No.1099 11/06/21)

 このブログも今日で1099回。最初は軽い気持ちで始めたが、まさかここまで回数を重ねて頑張るとは思ってもいなかった。毎日思い浮かんだことを書くだけなので、書くための材料には事欠かないが、文章はちょっとマンネリ化気味ではある。それでもまだまだ書きたいことは沢山ある。文章だけなら書くスタイルを変えればもう少しは続けられそうな気はする。
 しかし、問題は写真だ。こちらは1000回以上やってきてもうストックの底が見え始めている。デジタル写真を始めた経験が浅い小生には撮り溜めした写真のストックが少ない。文章はできてもこれに合わせた写真を掲載するのが正直、非常に苦しくなってネタ切れになりつつあるのである。
 写真がなければカメラを持ちだして撮影に行けばいいのだろうが、そんなにうまい具合に良い写真が撮れるものでもない。それに最近はカメラを持って出歩くことがおっくうになっている。
 写真は撮り手の思想がもろに出てくる正直なものである。撮影者が何を狙ってこのカットを撮ったのかは、出来上がった写真を見ると歴然と分かる。ただきれいだからと風景や花の写真を撮ったり、珍しいからと蝶や鳥の写真を撮るのもたまにならいいだろう。しかし、きれいだけでは人は認めてくれない。クモマツマキチョウのように珍しい蝶を撮っても、興味のない人にはモンシロチョウとなんら変わらないものにしか見えないだろう。ただ仲間の間でしか評価されないものを毎回撮り続けるわけにはいかないのだ。
 しかし、誰が見ても何か心を動かすような優れた写真を撮ることは難しい。そんな写真は滅多に撮れないし、現在の自分にはそうした写真がない。これからもブログを続けていくとなると、ただ何かが写っているだけのクオリティが低い写真を出していかなければならない不安がある。そうならないためには、デジタル以前に撮ったフィルム写真のストックから選び出すしかない気がしている。
 だが、我が部屋の隅に置かれた膨大なスライドやモノクロプリントを見ると腰が引けてしまう。段ボールの箱をひっくり返し、気に入ったものを選び、さらにスキャンしてブログに使えるようにしなければならない。膨大なエネルギーを要するそんなガッツは今の小生にはない。どうしたらいいだろうか・・・・。
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by weltgeist | 2011-06-21 23:14