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エビでタイを釣った時代の話 (No.987 11/02/28)

 釣りの対象魚の中で、もっとも美しい魚といえば、日本人はタイをあげる。姿形の美しさ、とりわけ桜の花のような色をした魚体は素晴らしい。おめでたい席にマダイが使われるのも当然といえよう。そのマダイをまた友達からもらった。どうやら結構いい型が何枚か釣れたらしい。「タイがあるから取りに来ないか」との連絡に、いそいそとクーラーを持って行ったらご覧の通り、クーラーに入りきれない特大サイズでビックリしてしまった。素晴らしい大物をお相伴にあずかって今日はほくほくの一日である。
 釣り、とくに船の沖釣りをする人なら誰もがあこがれるマダイであるが、ここまでの大型はなかなか釣れない。同じ友人から昨年末にも大物マダイやヒラメをもらったが、どうやら彼は腕のいい船頭さんを見つけたようで、このサイズを結構釣っているらしい。釣り方はいま主流のオキアミのコマセ釣りであるが、彼はそれを自分なりに工夫した独特のテクニックを開発したようだ。
 小生がマダイ釣りを覚えた40年ほど前は、現在とはかなり違った釣り方をしていた。東京湾竹岡沖や外房大原沖での釣りは、まさに「エビでタイを釣る」方法だった。リールも使わない「手羽ね」と呼ばれる竿か、ビシマと呼ばれる太いミチイトに、テンヤといってハリにオモリがついた独特の仕掛けを使った。潮の速さに比べて異常に軽いオモリがついたテンヤバリに、サイマキと呼ばれる生きた車エビを付け、海底付近まで沈めたら、竿を大きくシャクって餌のサイマキが踊っているように見せる操作をする。 
 しかし、これがとても難しい。軽いオモリしか付いていないテンヤでは海底までオモリが届いているかどうか分かりにくいのだ。それがよくつかめないから適当にやっていると、船頭がやってきて「この馬鹿たれ、タチ(底)がとれてないじゃねえか」と何度も怒鳴られた。そのうえシャクリ釣りではタイのアタリがあったら、すぐに糸を持って2~3手たぐり寄せてアワセをくれる。これが慣れないと遅れて取り逃がすのだ。すると、また怖い船頭の雷が落ちる。昔のタイ釣りは非常に怖い釣りだったのである。
 だが、最近はオキアミを使ったコマセ釣りが盛んになり、テンヤ・サイマキを使ったシャクリ釣りは廃れつつある。リールには水深を示すカウンターが付いているし、ビシと呼ばれる重たいオモリが海底に着けばだれでもその感触は分かる。イージーでかつタイを釣りやすいオキアミのマキエ釣りが、「エビでタイを釣る」という言葉は死語にさせたのである。しかしその反面、最近の船頭さんはお客の釣り人にたいへん親切になった。無闇に怒鳴ったりはしないのだ。これも時代の流れであろう。
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 魚の王様であるマダイは「腐っても鯛」である。縁起のいい魚としてその名前の御利益を得ようと、マダイ以外の魚が沢山 「タイ」の名前を借用している。ざっとあげれば、クロダイ、イシダイ、イシガキダイ、ヘダイ、チダイ、キダイ、ヘノコダイ、キンメダイ、アマダイ、コショウダイ、エボダイ等々、中にはタイとはまったく色形が違った魚までちゃっかりとタイの名前をいただいている例もある。マダイとは縁もゆかりもない魚たちから、「俺もタイと呼ばせてくれ」と言われるほどの人気者なのである。
 大相撲で優勝した力士が「ごっつあんです」と言いながら片手で持って見せるのも、結婚式の席で振る舞われるのもマダイである。福の神様である恵比寿様がニコニコしながら抱えているのはかなりの大ダイだ。タイは福を呼ぶ魚なのだ。そんな幸福を呼ぶ魚だから他の連中も「タイ」の名前を借りているのである。小生も幸福を呼ぶタイをわが家に呼び込んだ。今週はきっといいことがあるのではないかと少し期待しているのである。
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by weltgeist | 2011-02-28 23:46

革命で希望に満ちた社会は実現されるのだろうか (No.986 11/02/27)

 チュニジアからエジプトに至る独裁者追放のうねりはリビアにも広がり、独裁者が民衆から権力の座を奪い取られるようとしている。チュニジアでもエジプトでも革命はとりあえず民衆側の勝利に終わった。人々は勝利を祝い、これからは自由で幸福な社会がやってくると喜んでいる。しかし、圧制者がいなくなれば人々は幸福になれるだろうか。
 かってマルクスは資本主義の弊害で人々は搾取され続け、悲惨な状況は日ごとに強まるが、やがて怒りに耐えきれなくなった民衆の革命的蜂起によって、搾取のない幸せな社会が生まれてくると予言した。その予言は1917年のロシア・ボルシェヴィキ革命によって実現された。スイスに亡命していたレーニンはロシアで起こった二月革命のニュースを聞き、ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)へ戻り、十月革命を起こして「ロシア社会主義ソビエト共和国」を樹立した。
 ここでマルクスの予言した共産主義への一歩として社会主義革命が実現したのである。力強いレーニンの演説に民衆は希望の火を見、圧政から解放されると驚喜した。だが、その後のソ連で理想的な社会が生まれたかというと、答えはノーである。帝政ロシアほどの悲惨はなくなったかもしれないが、新しい悲惨が生まれた。体制に反対する沢山の人が政治犯として囚われた暗い時代が出現したのである。

 ちょっと次元が違う話かもしれないが、現在日本で政権を握っている民主党も、自民党の長期政権にノーを突きつけた国民の支持で実現したものである。前回の選挙で民主党が圧勝したとき、これで少しはましな国になるかなと国民は本気で思った。しかし、蓋をあけてみれば状況は自民党とまったく変わらない。すぐに国民の内閣支持率も急落し、誰がやっても結果は同じだという幻滅だけが残った。
 今やかっての民主党と同じ事を言っている自民党も、政権与党に荷担した公明党も、そしてその他諸々の弱小政党にしても、きれい事を言うだけで、実際に政権をとれば同じ穴の狢(むじな)になるだろうことが我々に分かってしまったのである。誰がやっても将来に期待は持てない。絵に描いた餅は描けても、現実を変えるまでの力はないのだ。
 それはチュニジアでもエジプトでも、そしてリビアでも同じではないかと思う。リビアでカダフィが倒されるのは時間の問題だろう。この後で多少の紆余曲折はあっても、民衆の側が勝利するのはほぼ間違いない。しかし、その後で明るい社会が実現するかどうかは分からない。40年前のカダフィだって、最初は王政を打倒して民主主義を目指すと言っていた。それがここまで腐敗してしまった。「権力は腐敗する」」という言葉は真理なのである。
 結局、人間という奴はどうやっても理想は実現できないと悲観的に考えてしまう。それは長い人類の歴史を見れば明らかである。十人十色で人はそれぞれ考え方が違う。理想を言う人間が権力を持つと自分の利益誘導を計る我田引水的な考え方を出すから、一丸となって理想に突き進むことなど土台無理なのだ。人間にはそうした能力が欠けているのである。だから状況が変わっても新たな不幸を造り出すだけではないかと思ってしまうのだ。
 しかし、それでもリビアのような国では、いまより少しはマシな民主主義が根付くだろう。少なくとも自分の意見をおおっぴらに発言できる程度になれば、それで良しとしなければならないのかもしれない。人間は一気に理想を実現することなど無理なのだ。遅々とした足取りでしかないが、少しずつ少しずつ良くなることを期待するしかないのである。
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by weltgeist | 2011-02-27 22:25

哲学者の食事の仕方について (No.985 11/02/26)

「食べるとは、破壊によって(存在を)わがものにすることである。それと同時にある種の存在で自分の口をふさぐことである。・・われわれが食べるとき、われわれは味わいによって、この存在の若干の性質を認識するにとどまるものではない。それらの性質を味わうことによって、それら(の存在)を我がものにするのである。」
ジャン・ポール サルトル 「存在と無」 第4部Ⅱ(松浪信三郎訳)
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 哲学者というとしかつめらしい顔をして、堅苦しい論理を振り回す人物を想像する。だが、以前もサルトルについて書いたように、彼は他の哲学者とは一線を画した独特の論理展開をする。上の文章のように、哲学者が食事の味わい方などを、自分の最も重要な書物のなかで書いているのはサルトル以外にはいないだろう。
 しかし、それでも哲学者だけあって、物を食べるということは「存在の破壊であり、その存在をわがものにすることである」なんて形而上学的な難しい言葉で言っている。単純に「物を食べる」と言えばすむことを、何か分かったようで分からない難解な言い回しで表現するのが哲学者の特徴である。
 サルトルがこんな言い回しで食事論を述べるのは、彼がフランス人の伝統を引き継ぐグルメだからではないだろうか。サルトルは上の文章のあとに「風味は複雑な建築構造と微分的な素材を持っていることが分かる。・・それゆえ牡蠣(かき)あるいは蛤(はまぐり)が好きだとか、蝸牛(かたつむり)あるいは小海老が好きだというようなことは、われわれがこれら食物の実存的な意味作用を見抜くことができさえすれば、決してどうでもいいことがらではない。・・それらは、すべて存在をわがものにしようとするある種の選択をあらわしている。・・存在論はここでわれわれを見放す。」とも言っている。
 人間はまず食べなければ生きていけない。存在(食べ物)をわがものにすることで腹を満たす必要があるのだ。牛でも豚でもニワトリでも魚でも、牡蠣でも小海老でもいい。とにかくそれを口に放り込み味わうことで、「わがものにする」のである。食べ物、つまり存在は微妙な味の差を与えるが、ここでは存在論などという七面倒なことなどどうでもよろしい。とにかくそれらの「存在」をまず食べて味わって初めて人は「実存する」と言えるのである。
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 世界中でもっともおいしい料理を食べさせる国はどこか。色々な意見があるだろうが、小生のつたない経験の範囲で言わせてもらえば、フランスではないかと思う。中華料理もたしかにおいしい。しかし、料理に格調があるという点で、自分はフランスをあげたい。ノングルメである小生の鈍感な舌から判断してもフランスはおいしい。かなり独断的な意見になるかもしれないがフランスを旅行していると、どんな小さな田舎町の小さなレストランに入っても期待を裏切られることがないのだ。フランス人の舌は肥えていて、たいへんな美食家の多い国だと実感する。サルトルはその伝統を引き継いでいる人なのである。
 おいしいものを食べたいと思うのは人間の本能的な欲望であろう。その欲望はまずおいしいものを腹一杯食べたいと思うことから始まる。快楽主義を唱えた哲学者・エピキュロスも次のように書いている。
一切の善の始めであり根であるのは、胃袋の快である。知的な善も趣味的な善も、これに帰せられる
エピクロス「断片」(出隆・岩崎允胤訳、岩波文庫)
 人間はまずは食べることが先決である。食い意地がはっていると言われようが、人はとにかく食べなければならない。ただし、それが美味であるかどうかは二の次である。エピキュロスは快楽主義者と言われるが、彼が追い求めた快楽とは精神的な面であって、食欲を満たすというような肉体的欲望充足ではない。
 貧しい家庭に育ち、子供時代にひもじい思いをしたと言われるエピキュロスが言う「胃袋の快」とは、とにかく腹に何かを詰め込むことで人は生きるスタート地点に立つという意味である。おいしいものだけを追い求めることではないのである。
 ノングルメの小生も、エピキュロスと同様食べる物についてのこだわりはない。もちろんおいしいに越したことはないが、食事は生きるためのものだから、そこそこ食べられれば文句はいわない。しかし、それにしてもサルトルは、食べる毎に「自分は小海老の存在を今破壊している」なんて考えているのだろうか。もしそうならやはり哲学者というのは変な人種だと思う。
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by weltgeist | 2011-02-26 23:24

リコーGX200初出動 (No.984 11/02/25)

 購入したばかりのリコーのコンデジ・GX200を持って初めて前の山へ散歩に出かけた。いつもはニコンのD300を肩にかけて行くのだが、今日はこれはやめてポケットに入るサイズのGX200だけで試し撮りである。
 しかし、散歩のときはお供に必ず肩から下げて持ち歩いていたD300がないとなぜか肩のあたりが寂しい。小生が常用しているD300は、ボディとレンズを入れると1.7㎏以上の重さになる重量級である。とくに標準レンズとしている17-55㎜は筐体が大きくかさばる。これをボディに付けるとズシーンとした重さになり、持って歩くにしてもかなり根性を要求されていた。それが今回は無いことに最初は少し戸惑ったが、しばらくすると体の身動きがすごく楽になってきたことを実感した。ストラップで肩が締め上げられるような圧迫感がないのがうれしいのだ。
 不精者の小生はGX200がどのくらいの重さがあるか調べてはいない。しかし、一眼レフに比べたら月とすっぽんほどの違いがあり、ほとんど重さを感じない。ポケットに入れるには少し重いかもしれないが、手軽に持って歩くには全然問題はなさそうである。これで写りが良ければ申し分ないのだが、どうだろうか。
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 山道を歩いて最初に撮ったカットがこれ。何か落ち葉でいっぱいの壁を背景に撮っているように見えるが、実は道を覆う落ち葉の上に小生の影が斜めに伸びているところを撮ってみたものである。データは絞り優先Aモードで、F6.8、1/1250 秒、ISO400、jpg、Fine。コントラストの出具合はなかなかよろしい。
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 この場所は小生の散歩コースのほぼ中間点にあり、休憩を入れる所。いつも座って休むベンチから東の方向を撮ったものである。データ的には上の写真と同じで、F5.7、1/1250 秒である。

 二枚の写真はいずれもほとんどレタッチをしていない。カメラ内蔵の画像エンジンがたたき出してきたものをそのまま掲載している。これを見ると、いつも使っているニコンの画像データとはだいぶ色の傾きが違う感じを受けた。全体に柔らかい感じで、やや赤(R)ないしマゼンタ(M)がかかっている。逆にニコンは赤が弱くやや硬めの画像データである。参考までにニコンで少し前に撮ったデータも下に載せておくが、カメラによって色の出方もこれだけ違うのだ。
 ところで二枚目の写真で写っている細かな木の枝が、思った以上に解像しているのには驚いた。以前持っていた防水コンデジはひどい写りだったので、あまり期待はしていなかった。ここまで解像できるとは思っていなかったのである。このような細い枯れ枝が密集しているところを撮るのは、レンズの解像度を調べるには絶好である。上のサンプルをピクセル等倍で拡大してみると、木の枝の細かいところまで描写していて、GX200はかなり健闘している。
 本日のテスト結果、リコーGX200はブログ用予備カメラとしては十分な性能を持っていることが分かった。あとは、撮影シーンごとにどのようにカメラを設定して撮影するかの技術を身につけるだけである。
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 こちらは今月初めに同じ散歩道をニコンで撮ったものである。時間や場所が若干違うから厳密には比較にならないかもしれなが、ニコンはこんな感じである。
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by weltgeist | 2011-02-25 22:38

志(こころざし)なかばにして・・ (No.983 11/02/24)

 ニュージーランドの地震で被害にあった学生諸君は、不運としか言いようがない。これからの人生に役立つ英語をマスターしたいと思ってたてた志(ころろざし)が、この地震で打ち砕かれてしまった。少しでも自分の能力を高める努力をしている人に、なぜこのような仕打ちが起こったのだろうか。
 人の価値に差はないと言え、たとえばカダフィや金正日みたいな独裁者がのうのうと生きていて、真面目な学生諸君が悲しい経験をしなければならない。物見遊山の観光ではない。勉強して自らを磨こうとした人たちをねらい打ちしたような今回の地震に、世の中の不条理を感じてしまう。関係する方々はさぞかし無念な思いをしていることだろう。
 自らの状況を努力によって新しい道を切り開こうとしている志の高い人を見ると、人間のホットな思いを感じ、応援したい気持ちになる。それが報いられないまま地震で挫折していくことはたいへん悲しい。
 今回の事故を見て誰もが感じるのは、自分にこのような災難が降りかからなくて良かったという思いだろう。必ず起こると予言されている東海大地震が、いつか自分たちの頭上にも襲ってくるとしても、それは今回ではない。ニュージーランドは日本から遠く離れた外国で、とりあえずは他人事である。起こればマグニチュード8クラスの大地震と言われる東海、東南海大地震への不安を感じても、すぐにそんなものは忘れてしまうだろう。
 事故は確率の問題であり、自分が生きている間にそんな大地震に遭遇しないかもしれない。かりにあったとしても、その時たまたま事故の場所を離れていて助かるかもしれない。とにかくそれは運でしかない。誰もそのことは分からないのだ。
 ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」の序夜・「ラインの黄金」の中で運命を司(つかさど)る三人の女神(ノルン)が出てくる。その一人が運命の糸を紡ぎ出し(誕生)、もう一人がそれを伸ばし(生)、最後のノルンがハサミで糸を断ち切る(死)。人の一生なんてこんな運命の女神に支配されたはかないものかもしれない。
 まだがれきの中に埋まっている人たちがなるべく多く助かって欲しい。できることなら運命の女神に頼んで、糸にハサミを入れることなく、全員の命をつなげてもらいたいと思う。
 とりわけ高い志を持つ若者たちの未来を遮断して欲しくない。早く切り捨てて欲しいのは自分の欲望のためには民衆を平気で抑圧する圧制者たちだ。彼らには天誅をくわえて欲しいが、世の中なかなか思い通りにはいかない。
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        *画像は今夜のNHKニュースからDLしました。
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by weltgeist | 2011-02-24 23:13

次ぎのコンデジはGX200に決定 (N0.982 11/02/23)

 4日前、No.978 で書いたように、4年ほど使っていたコンデジが壊れてその後釜を探していた。一応候補としてリコーのCX4、キャノンのIXY30S、カシオの EX-FH100 の三つをあげていたが、予算と性能のかねあいからどれにするか決めかねていた。ところが 程度が良い中古のGX200が予算内であると聞き、急遽こちらを購入することに決めた。
 GX200は蝶の接写で定評がある機種で、一番最初はこれが最有望機種であった。しかし、カメラ屋に行って聞いたら、小生の予算ではお呼びでない高級ランクの製品と言われ、諦めていたものである。それが中古なら予算の範囲内で買えそうと聞き、迷うことなく購入を決断したのである。
 カメラのような精密機器を中古で買う場合当たり外れがあると言われる。しかし、小生はコンデジにそれほどの機能を要求しているわけではない。想定していた機種よりランクが上とは言っても、しょせん一眼レフにはかなわない。ほとんど釣りのときしか使わない予備用カメラであるし、前のコンデジは4年も使っていたものである。それにくらべれば、まだ新しいGX200が格安で入手できるのは御の字なのである。
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 本日購入して早速いじってみたが、買ったばかりで使い方がよく分からない。しかし、黒ずくめのフェースは結構自己主張が強そうで、「接写なら拙者にまかせておけ」と言わんばかりの頼もしいツラ構えをしている。
 カメラはそれぞれメーカーごと、機種ごとの癖がある。とりわけデジカメでは、撮影素子に取り込まれたデータをどう処理するのか、カメラの画像処理エンジンの優劣が重要となる。これは同じメーカーの製品でも型式によって全然違う。以前小生が使っていたニコンのD70、D200、D300はそれぞれまったく別なカメラのような画像データをたたき出していた。
 D70では撮って出しといって、メディアに写ったものをそのままプリントしても良かったが、これは素人受けしたもので、一見するとカッチリ写っているようだが、後から手直しして使うときは限界が早く出てしまう。一方のD300は撮影したデータを後で画像ソフトで手直し(レタッチ)することを想定したものになっているので、撮って出しはやや物足りない感じがある。こちらは画像ソフトで処理することを前提しているのだ。
 このように、デジカメはそれぞれみんな特有の癖があって、それをうまく乗りこなすことが必要なのである。リコーのGX200はどのような癖があるのか、それを見極め、得られた画像データをどのように現像していくのか、しばらく使いこなすまで時間がかかるかもしれない。
 現在小生は PhotoshopCS3 という画像ソフトで撮ってきたデータを処理している。撮ったものをそのまま何の処理もしないで出すことはあまりない。微妙な色の傾きや彩度、露出から、ときにはよりクリアーに見せるために画像の縁のエッジを際だたせるシャープネス処理などを Photoshop でやっている。GX200がそうした処理にどこまで対応するのかまだ分からない。
 しかし、明日から早速試し撮りして、どのように写り、またどのような画像処理を施せばいいのか、調べてみるつもりだ。恐らくこれからしばらくブログで使う写真はGX200のものが増えてくることだろう。
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by weltgeist | 2011-02-23 22:03

脱皮と完全変態 (No.981 11/02/22)

 昨日書いたように、このブログを始めるに当たって他人の悪口だけはここで書くまいと誓った。それが守れているか自信はないが、できるだけ人の良い面をみてあげ、そうした人たちと出会えたことに感謝の気持ちを持とうと心掛けている。
 世の中腹が立つような悪いことばかりが目に付く。しかし、それを思うとこちらの気持ちも暗くなるだけである。気持ちの持ち方次第で人の感情などどうにでもなる。悪いことがあっても、それはいつか良い方に変わる契機だと見るようにしている。全ての面を否定的ではなく、肯定的な良いこととして楽天的にとらえようと思っているのである。
 例えば今日転んで足を怪我したとする。そうなると明日楽しみにしていた釣りもいけなくなるだろう。以前の小生ならそんなときひどく落ち込んだものだが、最近は「もし明日釣りに行っていたら、船が沈没して遭難したかもしれない。むしろ、これは運命の神が釣りに行くなと警告しているのではないか」という具合に考えることにしているのだ。
 この考え方を聞いて、「こじつけだ」と人は思うかもしれない。しかし、そう考えれば足を怪我したことの意義も違ったように見えてくる。ものは考えようである。足を怪我したのと同じような悪いことが我々の回りには沢山ある。病気、失業、事故、破産等々、悪いことは枚挙に暇がないが、それらを視点を変えて良いことに向かう契機と考えるのだ。災い転じて福となすである。いつまでも悪いことにこだわるより、別な明るい未来を考えた方がずっといいと思うようになったのである。
 しかし、こんな考え方を昔からやっていたわけではない。若い頃の小生は悪いことが起こるとすぐに他者に責任を転嫁するどうしようもない人間だった。小生の古い友人たちは、「あいつ、何をきれい事を言ってるんだ。そんなこと言える人間ではないだろう」と思われるほど自分勝手で自己中心的な人間だったのである。
 そんな欠陥人間であった小生も、次第に歳をとって知恵がついてきた。まわりにあることの全てを良い方に解釈し、それを感謝して受け入れた方がハッピーになれると分かってきたのである。だから悪いことがあっても他の人のせいにして自分だけが「良い子」になるまねはしたくない、その人を悪く見ないように心掛けたいのである。しかし、実際にそれを完全に実行することはたいへん難しい。いつも中途半端にしかできていないが、ぜひそういう人間になりたいのである。
 人間はどこまでいっても仕方のない出来損ないである。欠点だらけで、完全無欠な人など誰もいない。どんなに高貴な人でも一皮むけばエゴイズムがうごめいている。そんな人間の欠点を突っついたところで気分の悪いことしか生まれてこない。お互いが欠点だらけの人間だと認め合うことで、ずっと楽な気持ちになれるのではないだろうか。
 今自分のまわりにあることが悪いことばかりだと思っている人は、物事を楽天的な良い方向に見直すよう自分を変えることを勧めたい。そうすれば世界はずっと明るく希望に満ちた姿で見えてくると思う。人間の良さは絶えず自分自身を変革していくことができる点だ。今の自分を乗り越えて、新しい自分を築き上げることは可能なのだ。これが人間の特性である。
 小生が好きな蝶は変態ということをする生き物だと生物の授業で習った。変態といっても満員電車の中で女性の体を触るすけべオヤジのことではない。卵から幼虫、サナギと成長するに連れて姿を変えて、最後は蝶になって飛び立っていく虫たちの成長過程のことである。気持ちの悪いイモムシの姿を脱ぎ捨てて、最後はまったく別なきれいな蝶に生まれ変わって大空に飛び立っていく。
 その劇的変換を見ていると自然の驚異を感じてしまう。自分もかくありたいと思いつつ、日々変革の努力をしていきたい。
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by weltgeist | 2011-02-22 23:57

ブログ掲載1000回を目前にして (No.980 11/02/21)

 このブログを始めるとき、毎日更新だけは欠かさず続けたいと思っていた。それが本日980回となり、1000回まであと20日、予定でいけば3月13日には達成できそうなところまで来た。100回も書けば飽きて止めてしまうだろうと思って始めたので、1000回まで行くとは考えもしなかったのである。
 塵も積もれば山となるで、毎日書いていたら、ついに1000回のゴールが見えてきたという次第である。しかし、毎日更新といっても、物理的に更新できないときがある。旅行で家を開けているときとか、小生の場合は突然の病気で入院したなんてことも何回もあった。そうした時を除けば、ほぼ更新を休んだことがない自分自身に少し驚いている。
 自分のブログは長目の文章に写真を付けたものである。長い文を書くには多少時間的余裕が欲しい。短時間でチョイチョイっと書くわけにはいかないのだ。だから外出で帰宅が遅れると、長い文章を書く時間がなくなってしまう。一昨日の No.977 で書いた外国人学生によるミュージカルの時など、家に戻ったのが午後11時を過ぎていてほんとうに困った。このように時間的に余裕の無いことが毎月1~2日は必ずある。ところがそんなときでも不思議と締め切の午前零時に間に合わなかったことがほとんどないのである。
 ただし、それには裏がある。蛇の道は蛇で、ちょっとインチキをやらせてもらっているのだ。時間内に間に合わないときは、とりあえずできた部分だけアップしておき、そのあと内容を修正するという反則をやっているのである。小生のブログは午前零時直前にアップすることが多い。この直後に読まれたものは実は未完成で、翌日再度見直したら、昨晩と全然違っていたなんてことがしばしばあるはずである。
 しかし、弱音を吐かせてもらえば、毎日更新することはたいへんきつかった。とくに苦しいのはテーマが決まらないときだ。何を書いたらいいのか言葉が出てこないときが一番苦しい。そんなときはスキップして逃げ出したいと思ったことが何度もある。だが、頑固な性格である小生は、一度決めたらそれを破ることがなかなかできない。書かないと何か自分に負けたような気がして、スキップできないのだ。それでも更新しなければと無理矢理「やっつけ仕事」をやると、内容のない、つまらないものになってしまう。誤魔化したものは、それなりでしかないのだ。
 それともう一つの問題は写真だ。まずは当日書いたテーマに合わせた写真を選ぶのが難航する。そんなに旨い具合にテーマに合った写真などあるわけがない。どうしても駄目なときは逆に手元にある写真を見て、それに合わせたテーマで文章を書くこともある。しかし、それでも写真のストックは足らない。昨日掲載した椿の写真のように書いているテーマと全然関係のないものとか、自分的にはクオリティが低すぎて恥ずかしいものまで仕方なくアップすることもあった。
 そんな苦労までして何で毎日更新にこだわるのかと、何人かの友人から言われた。仕事でも何でもないことをひたすら死守する小生を友人たちは不思議な目で見ているのである。それは確かに無駄な行為であるかもしれない。しかし、振り返って見ると、毎日書き込みを続けるところに今の小生の存在意義があるのではないかという気がしている。こうして980回まできてしまった。最初は数人の友人しか読まなかったこのブログにも、文句も言わずに読んでくれる人がいるようになった。そうと分かればこちらも手は抜けないのだ。
 しかし、まもなく1000回に達する。1000回は区切りとしてはいい数字である。その後も毎日更新にこだわるのか、まだ何も考えてはいない。でも、いままでは早く走りすぎたので、このあたりで少し休憩したい気持ちがあるのも確かである。まだ漠然としているが、1000回の後は気が向いたときだけ書く、ということで、少し楽をしたい気持ちが少しずつ現れてきているのである。
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このブログを始めるに当たって自分なりに決めたことが二つある。その第一はもちろん、石にかじりついてでも毎日更新することだが、第二は全ての人に感謝の気持ちを持って接しようと思ったことだ。だから、自分のブログでは政治家とか特殊な場合を除いて、人の悪口だけは書くのをやめようと思った。それでも怒りにまかせて時々悪態をつくこともあるが、基本的には人に感謝する気持ちを絶やさないよう心掛けている。この石像が何を意味するのか、ラテン語は分からないが、左の女性は感謝の気持ちを込めてこうべを下げていると思い、このカットを選んだ。
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by weltgeist | 2011-02-21 22:39

早起きは三文の得か? (No.979 11/02/20)

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 朝早く起きるのが苦手で、いつも目を覚ますのが午前9時少し前である。今朝は9時には家を出なければならない用事があったので、早めに起きるよう目覚まし時計をセットしていたにもかかわらず目が覚めたのが8時半だった。これはえらいことになったと大あわてで支度して9時10分頃家を出たら、予想通り10分の遅刻で目的地に到着した。時間は正直で遅れれば遅れたなりの結果しかもたらさない。もっと早く寝て早く起きるべきなのだろう。
 「早起きは三文の得」という言葉がある。早く起きればいいことがあるという言い伝えだ。この説を信じれば小生は朝寝坊することで毎日三文の損をしていることになる。しかし、それでは三文とはどのくらいの金額だろうか。眠いのをがまんしてでも早起きすべき価値のあることだろうか。
 辞書で調べたら、ほんのわずかな金額を言う場合に三文という言葉を使うようだ。例えば、昔は売れない作家のことを「三文文士」と呼んでいた。三文とはたいした額ではないことの代名詞なのだ。むしろ布団の中でまどろんでいる方がいいと思える程度の差でしかないのである。

 早起き々・・という言い方は英語でも同じような言葉がある。
The early bird catches the worm. 
「早起きの鳥が虫をつかまえる」、という意味だ。早く起きれば他の鳥が来る前にごちそうの虫を独り占めできるのである。アメリカでも朝寝坊して起きない子供たちに、お母さんが上の言葉を言って、「早く起きろ」とせかしていることだろう。
 ところで、三文の得という言葉を広辞苑で調べていたら、早起きは三文の「」となっていた。何で「得」ではなく、「徳」なのか、ネットを調べると、もっともらしい説がいくつかあげられていた。だが、どうやら早く起きる方が道徳的にも徳のある生き方という意味で「徳」が正しい使われ方のようだ。早起きした鳥が虫を見つけるのは分かる。しかし、人間が早起きしたところでお得なことがあるとも思えない。むしろ、いつまでも惰眠をむさぼっていることは社会的にもまずいという意味で広辞苑の編集者は「徳」をとったのだろう。
 早起きは三文の「」ととらえるようになったのは現代社会の特性かもしれない。同じ意味で、「先手必勝」とか「早い者勝ち」という言葉もある。とりわけスピードがある現代では先を制する者が勝者になる。もたもたした人は置いていかれ、敗者として落ちこぼれてしまう苛酷な競争社会である。早起きは三文の「得」は「早く先行した者」だけが勝者になる現代でこそ絶対必要な要件なのだ。
 しかし、そのために現代人は限りなきストレスを負わされている。なぜ人より早く行かねばならないのか。遅くてはいけないのか。蓮舫議員のように「二番手ではなぜいけないのか」と疑問を感じている人はほんとうに少ないのである。
 「残り物には福がある」という言葉や「急がば回れ」なんて言い方もある。早いだけがいいわけではない。皆が早足で歩いているときは、むしろゆっくり行く方がいい場合もあるのだ。戦場カメラマン・渡辺陽一のようなゆっくりした話しぶりが受けるのも、世間があまりにも早く動きすぎるからだろう。
 若い人は結論を急ぎすぎるきらいがある。急ぐ必要などない。人生って短いようでいて実は長い。先にいってどうなるかは誰も分からないのだ。「早い者勝ち」なんて考えにとらわれることをちょっと止めてみたらどうだろうか。むしろ「残り物に福がある」と思ってどっしりと構える人の方が最終的には大物になると小生は信じているのである。
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by weltgeist | 2011-02-20 23:53

またコンデジが壊れた (No.978 11/02/19)

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 一昨日、アジ釣りの準備で釣り専用カメラを点検していたら、動作fがおかしくなっていた。パワーボタンを押すと一瞬電源が入った後、すぐに切れてしまう。これはバッテリーの残量が不足していると思い、充電して再びカメラにセットしようとすると、今度はバッテリー収納部の蓋がパコパコ状態で、カバーが完全には閉まらない。当然ながら電源も入らないで壊れてしまった。
 このコンデジは完全防水のため、バッテリー収納部は防水パッキンで隙間が出ないようになっている。ところが頻繁に蓋を開閉するからこの部分が壊れやすいのだ。以前にも同じところが壊れ、修理に2万円以上かかった。たいした故障でもないのに、購入時の値段の半分以上が修理代である。この時は買い換えも考えたが、防水カメラはあまり機種がないため修理して使うことにした。それが今回同じ場所がまた壊れたのである。
 しかし、もう一度修理するのも馬鹿らしい。中古でもいいから安いコンデジを予備カメラとして買おうと調べたら、どうやら今のコンデジは新品でもかなりお安くなっていて、前回の修理代程度でそこそこの新品が買えそうである。それを友人に話したら「**さんの使い方ならリコーのGX200がいいんじゃないかな」というアドバイスをもらった。さっそくどんな製品なのか、いつもレンズなどを買っているカメラ店に偵察に行って見ることにした。
 しかし、友人の勧めたGX200は店頭にはない。店員さんに聞くと「取り寄せ」だそうで、代わりにリコーCX4というものを勧められた。これは丁度10日ほど前に新製品のCX5が出て、旧製品になったばかりのお買い得品だという。値段は前回の修理代とイーブンな23800円である。だが、年金生活者の小生にはこの値段はちょっと予算オーバーである。小生は2万円という予算を頭に入れて来ていたのだ。これだと3800円まだ高い。
 話次第では即決してもいい気持ちでまずは「2万円でどうだ」と値切の話を切り出す。すると「CX4は新製品が出た10日前まで3万円上で売っていたものですよ。今の値段は超お得な格安だ」といって値引きには応じそうもない。なかなかガードが固そうである。しかし、こちらも無い袖は振れない。予算は2万円以下だと告げ、撮りたいのは「釣りの現場でのスナップと、蝶の接写だ」と言うと、キャノンのIXY30Sというコンデジを勧めてきた。こちらも接写が強い上に、最近31Sという新製品が出て、お得になっていて16800円だという。
 ここで今までリコーしか入っていなかった小生の頭にキャノンが食い込んで、気持ちが少しぐらつく。世の中にはリコーしかないと思い込んでいた石頭に、キャノンという伏兵が割り込んだのだ。しかし、値段としてはいいが、キャノンのコンデジはまったく想定外だったので、どこまで使えるのかイメージがわかない。それと、妙に丸っこいデザインで手に持っても滑り落ちそうなところが気になる。
 迷っているところに、店員さんが次のお勧め品としてカシオのEX-FH100というのを持って追い打ちをかけてきた。何とこのカメラは一秒間に40コマもの連射ができるというのだ。ニコンやキャノンが1秒間に8コマだ10コマだと騒いでいる間に、カシオは40コマまで作ってしまったのである。40 / 秒なら空を飛んでいる蝶だって撮ることができるだろう。こちらも2万円以下と実に魅力的だ。
 しかし、ここまで来て小生の頭の中ではリコーとキャノン、それにカシオがバトルを始めて、まったく判断できなくなってしまった。もちろん即決は中止。今は家に戻ってリコーとキャノン、カシオのカタログを見ている。これがいずれもおいしそうなことを書いていて、小生を惑わせるから余計迷うのだ。来週の頭までには機種を決めたいと思っているが、どれを選んでいいのか分からず、今はまったく判断できないでいる。
 小生の使い道は二つ。釣りのスナップと蝶の生態撮影のためで、メインはブログ用だから解像度とか画素数といったことには全然こだわりはない。しかし、どうせ買うなら、使いやすくていい製品を買いたい。どなたか、上のようなカメラを使っている方がいたら直接アドバイスをコメント欄に書いていただき、背中を押してくれると助かるのだが・・・。
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by weltgeist | 2011-02-19 22:48