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今日は大晦日 (No.935 10/12/31)

d0151247_2254366.jpg 何かこの頃時間が過ぎるのがすごく早い。少し前に2010年の元旦を迎えたと思ったら、もう今日は大晦日。あっという間の一年間で、じっくり賞味するひまもないまま今日に至ってしまった。ということはほとんど中身のない、薄味な人生を過ごしてきたということだろう。若い人と違って、自分に残された未来は少ないのだから1日たりともおろそかにしてはいけないのに、ずいぶん無駄な生き方をしてきたことになる。
 明日は新しい年で来年の抱負と希望を明るく語ることが相応しいとすれば、今日は今年1年の締めくくりとして、自分にとって悪かったことをとりあげて反省する時である。
 それで今年一番悪かったことを思い出してみると、小生の場合、腰痛だ。これは一昨年から継続してきたものだが、今年は一段と悪化して、夏には予定していたインドヒマラヤも中止せざるを得なかった。エアチケットまでキープしてあったのに、残念ながらキャンセルせざるを得なくなってしまったのである。
 このほかに何か悪いことがあったか、考えてみると不思議と思い出せない。きっと沢山あったと思うのだが、半分アルツ状態だからすぐに物事を忘れてしまうのである。いやなことがあっても、少し時間が経つとケロッと忘れて覚えていない。アルツも使い方によっては悪いことではないのだ。
 そういうわけで今年一年、インドに行けなかったことを除けば小生にとってはそこそこ良い年だったと思っている。それで、ちょっと先輩づらをして言わせてもらえば、嫌なこと、悪いことはきれいさっぱり忘れて良いことだけを頭の中に刻み込んでおくことをお勧めする。その方が人間幸せになれるということだ。脳天気でアルツの小生は、それを意識しないで自然にできている。忘れろ、なんて命令しなくても退化した脳が勝手に忘れてくれるのだ。ただ、小生の場合、問題なのは悪いことだけでなく、良いことも一緒に忘れてしまうことである。
 こうやってだんだんボケがひどくなって最後は何も分からなくなる。それで別な世界(あの世)に行ってお終い。ところが、そんなボケが始まる歳になって、小生、人生の意味が少しずつ分かってきた気がする。本当はもっと若いときに分かってほしかったけれど、そのときは分からない。無欲で色々なことにこだわらない年齢になって初めて人生の意味を解く鍵が与えられるのだ。自分はその鍵を得た、と漠然ながら思っている。

「私のたましいよ、目をさませ。
   十弦の琴、竪琴よ、目をさませ。」
                 詩編 57:8

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by Weltgeist | 2010-12-31 22:11

小生にとって今年最大のニュースは西湖のクニマス発見だ (No.934 10/12/30)

d0151247_23165648.jpg 今年一年で一番大きなニュースと言えば、小生にとっては田沢湖のクニマスが西湖で60年ぶりに発見されたことだ。もし西湖のマスが田沢湖にいたクニマスと同じもので、しかも独立した種であるとすれば、これはたいへんな発見である。
 このニュースを聞いた当日小生はさっそくその話題を当ブログで取り上げ、サケ科魚類分類学の権威である大島正満博士の論文も紹介した。その後発見者の「さかなクン」は天皇からもお褒めの言葉をもらったほど日本中が興奮した。しかし、冷静になって考えてみると、まだまだ乗り越えなければならない問題点がいくつもあることに気づいた。
 西湖で今回見つかった魚が田沢湖にいたクニマスと同じであり、大島博士が言うような独立した「種」となると、それを科学的に証明しなければならない。これが簡単なようでいて意外に難しいのではないかと思う。なぜなら魚の分類というのは、案外アバウトで「科学的」というには少し疑問が残る方法で行われてきたからだ。
 サケ科魚類を分類するとき判断の材料となるのは、鰓耙=サイハと呼ばれるエラのトゲの数やヒレの条(筋)、鱗の数などの違いである。ところが、これがかなりアバウトで、実は1尾、1尾微妙に数が違うのだ。人間の両手の指は10本と決まっているのに、魚はそれが曖昧なのである。だからイワナやヤマメの鰓耙やヒレの条数などを調べても9~13本といった、ある程度幅がある範囲でとらえられている。
 基準となる数値の曖昧さをどう判断するか、それは分類する人の考え方に大きく左右されるということである。大先生が「これは別種だ」と言えばそれが通用した。昔の分類は科学というよりは、一種の思想、哲学だったと言っていいのだ。分類する研究者の考え方一つで、種になったり亜種になったりするのである。
 例えばロシアでは極東からヨーロッパまで、非常に姿の異なるイワナが沢山いるが、モスクワ大学のサバイトバというイワナ分類学者は、これらをすべてひっくるめて数種類の種に分類している。一方、大島博士はイワナのわずかな違いから、日本のイワナは5種、2亜種( 1961年 ) と分けた。彼のやり方でロシアのイワナを分類したら、100種を越えるくらい細かい違いで種を分けているのである。そんな曖昧さがあった大島の研究はその後激しい論争にまでなって、3種になったり2種になったりと目まぐるしく変わっていったのである。
 クニマスが Oncorhynchus kawamuai  Jordan & McGregor 1923 という学名で独立種とされたのは、まさにそうした曖昧な分類学の時代になされたものである。最近では昔の曖昧さを排除し、より科学的に分類する方法としてDNAの分析を取り入れた遺伝学が主流となって、DNAバーコーディングという方法が世界的には確立しつつある。
 今回発見されたクニマスは、改めて遺伝学での科学的分析を待たねば、どのような魚なのか結論は出せないのだ。DNAバーコーディングでクニマスとヒメマスとの間に、大きな差異は無いという結果が出るかもしれない。しかし、単なるバーコードの差だけでクニマスを判断するのはちょっとロマンに欠けた気がする。
 霊長類の研究や、独特の進化論を発表した京大の今西錦司博士の趣味がイワナ釣りであることは広く知られている。彼は日本のイワナの分類に関する論文の中で次のように書いている。「大衆の立場に立った私は、学者がわざわざ(イワナを)ルーペで拡大して見なければわからないような、一枚々々のウロコの特徴だとか、その他とにかく大衆が手に負えぬような形態学上の微細な特徴などをよりどころに細分し、それぞれに学名や和名を与える。その一人よがりな態度をつねづね苦々しく思っていた。・・もし違った種類なら、その違いが大衆にもはっきりうつり、大衆が納得しうるものであってこそ、初めて違った種類としてとりあつかうべきだ」(今西錦司、イワナ属、その日本における分布 1962 ) といっている。
 科学的分析ももちろん重要だが、外観を見ただけで判断する人間の直感というものも我々には重要なのである。科学一辺倒の世界では人間のロマンが入り込む余地はないのだ。
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by weltgeist | 2010-12-30 23:48

Dedication 献家式 (No.933 10/12/29)

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d0151247_20495735.jpg わが家で遅めのクリスマスパーティをやった昨日が、Bさんたちが日本にやってきてまさに22年目の記念日だった。そのおめでたい日の翌日、すなわち本日、Bさんが購入した家のDedication 、日本語で適当な言葉がないが、あえて言えば献家式というものをやった。キリスト教徒であるBさんたちは、新しい家を手に入れたら、それを神に感謝する儀式を今日やったのである。
 日本では家を建てる前に「立て前」と言って神主がお払いをする儀式があるが、キリスト教徒ではできたあとに持ち主が神に感謝の気持ちを捧げるらしい。
 Bさんからその式をやるから、日本語での聖書の朗読をして欲しいと言われ、式に招待された。しかし、こうした献家式に出るのは初めてのことで、どのようにやったらいいのかもよく分からない。
 とりあえず家に行くと、Bさんを通して知り合った日本人が我々を含めて4家族いる。きれいにリフォームされたリビングでBさん夫人が、まず22年前の昨日、1988年12月28日の日本来日から始まって、今日この家を手に入れたまでの経緯を英語で話す。それをTさん夫人が日本語に通訳していく。アメリカに留学経験もないTさん夫人がここまですごい英語を話すことにも驚いたが、Bさんたちの日本での22年間の生活話もたいへん面白かった。
 彼らは最初日本に来たときはまさかここに永住するとは思っていなかっただろう。だからアパートやマンションでの賃貸住まいをしてきたのだが、この22年の間に8回も引っ越しすることになってしまった。それでついには日本に腰を落ち着かせる決心をし、わが家からほど近い場所に一戸建てを購入したのである。
 しかし、この家を買うに当たってもすんなり決まったわけではない。アメリカの家に比べれば小さい家ばかりの日本で、自分たちの生活スタイルにあった家を見つけるのは容易ではなかったようだ。いくつかの物件を見ているうちに、最終的にこの家にたどり着いたのである。
 Bさん夫人がそれに至る興味深い遍歴のドラマを話してくれたが、この家に最終的に決めたのはまさに神の導きがあったからだという。そこまで導いてくれた神、主、イエス・キリストへの感謝として聖書の朗読をする献家式をしたいというのである。
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 式はまず家全体への祈りをあげたあと、すべての部屋で、それぞれお祈りをしていく。リビング、ゲストルーム、キッチンから風呂場、トイレはもとより、寝室も一つずつ全員で見て回り、その前で参加者がそれぞれ聖書の場所を読むのだ。聖書朗読は、まず英語パートをBさんファミリーと、アメリカの大学に留学中の日本人H子嬢が読んでから、日本人が日本語の部分を読む。小生が担当したのはガラテア書5:22~25であった。
 そして、すべての部屋を回ったあと、Bさんが作詞した”Bless this house,O Lord, We pray "( おお、主よ、この家に祝福が来たらんことを、我らは祈る ) という歌を全員で歌う。
 先月から続いた引っ越しと家のリフォームは、今日の献家式で一応の区切りがついた。部屋を回ったら、まだ引っ越しの段ボール箱が開けられないまま残っていたが、Bさんもこれでホッとしたことだろう。小生にとっても、何から何まで初めて目にする珍しいことばかりで、興味は尽きない一日だった。
 まさに Bless this house,O Lord, We pray の心境である。Bさんの家に神の祝福が来たらんことを、小生は心から祈っている。
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by weltgeist | 2010-12-29 22:10

遅めのクリスマスパーティはローストターキーで盛り上がった (No.932 10/12/28)

d0151247_21505751.jpg 多くの会社はそろそろ正月休みに入ることだろう。今年一年を振り返り、嫌なことはすべて忘れる忘年会を今日あたりやった現役諸氏は沢山いたのではないだろうか。リタイアした小生には仕事上での忘年会というものはもうない。しかし、引っ越しで忙しかったBさんファミリーと忘年会を兼ねた遅めのクリスマスパーティを、共通の友人であるSさんを入れて本日わが家でやった。
 クリスマスと言ってもあと4日で正月だから忘年会でもあり、早めの新年会でもある。どちらにしてもサラリーマン諸氏がやるような酒を飲んで騒ぐ、にぎやかな忘年会とは少し違う。皆がそれぞれのものを持ち寄るポットラックパーティ形式で、メインディッシュはローストターキー。冷凍のターキーをBさんにいただき、わが家はそれにスタッフィングを詰めてオーブンで焼くのと、カレーを準備。Sさんには手作りのケーキを持ってきて頂いた。
 ローストターキーは以前Bさんにやり方を教わって以来、毎年感謝祭前後からクリスマスにかけて何度もやっているので、わが家では妻のレシピに完全に入ってしまっている。オーブンに入れるまでの下準備はちょっとたいへんそうだが、オーブンに入れてしまえば180度で4時間前後焼く(詳しいレシピはこちら)だけ。
 初めてやったときは右も左も分からずたいへんそうだったが、最近では手慣れたもので、パーティが始まる1時間前には焼き上がった。しかし、大きなターキーから肉を剥がしとるにはBさんの持つ電動ナイフがいい。少し早めに来たBさんに電動ナイフで肉と骨をバラしてもらい、それを皿に盛りつければ完了。
 さてターキーはまずまずの焼き具合でおいしかった。焼き肉とか鍋料理と違って大人数で肉をお腹一杯食べるにはターキーはうってつけである。BさんがもってきてくれたサラダやSさんのケーキまで食べてお腹が一杯になってしまった。そして話は今年一年のことになっていく。今年はBさんたちにはいいことがいっぱいあった。まず自分の家を買ったこと、それと長女のJちゃんがアメリカの大学を卒業して日本での就職が決まったことだ。
 Jちゃんのことになったら、15年前の七五三の時、彼女が日本の着物を着て撮った写真をSさんが持っているという話になった。するとBさん夫人が「子供たちの写真ならある」と日本語で言いだした。
 一瞬、彼女が言っていることは自宅のアルバムに子供たちの写真がある、という意味だと解釈したら、ハンドバッグの中から古いモノクロの写真をとり出した。写真は全部で5枚。そのうちの2枚はBさん夫妻がそれぞれ一歳前後の赤ちゃんだった頃のもの、あとは二人の子供たちが1~2歳ころの写真である。
 何と50年も昔の自分や子供たちの幼い頃の写真をいつも持ち歩いていたのだ。日本でも生まれたばかりの子供や孫の写真を「かわいい、かわいい」と言って持ち歩く(最近は携帯の待ち受け画面が多い・・・)人はいるが、いい大人になってまでそれを持ち歩く人はまずいないだろう。家族を大事にするアメリカ人だからの発想ではないかと思うが、こうしたことはアメリカでは一般的なのかどうかは聞き損ねた。明日はまたBさんの家で新築祝いを行うので、そのとき聞いてみるつもりである。
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by weltgeist | 2010-12-28 23:20

山は乗り越えられる (No.931 10/12/27)

険しい山岳はその向こうに行こうとする旅行者にとっては障害であるが、登山家にとっては絶好の素材である。事物が示すもろもろの抵抗は自由にとっては一つの危険であるどころか、かえって自由が自由として出現することを自由に対して許すものでしかない。
ジャン・ポール サルトル、「存在と無」第4部、第1章、Ⅱ。(松浪信三郎訳)


 昨日は年賀状作りで、フィギュアスケート全日本での浅田真央選手の活躍ぶりを見ることができなかった。おかげで何とか年賀状はできたが、浅田選手の二位入賞は今日のニュースではじめて知った。
 オリンピックで銀メダルをとったあと、かってないスランプに陥り、このままでは駄目になって世代交代していくかもしれないと気をもんでいたが、見事に戻ってこれたのは彼女自身の努力のたまものだろう。テレビのインタビューで、「とりあえずホッとしました。やっとこの大きな山をひとつ越えたと思うので、自分もすごく強くなれたと思います」と語っていたのが印象的だった。 
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 浅田選手の復活は、様々なスランプに陥っている人に、大いなる勇気を与えてくれたのではないだろうか。越えられないほどの高さでそびえる山を前にして、「自分には登れない」と諦めるのではなく、必ず乗り越えられるのだと信じてそれに挑む。彼女はこれまでの不調にあっても、より安易な道を選ばなかった。「ラストチャンスに自分は強いということを信じて(トリプルアクセル)を跳んでみました」と言って、あえて難しい道にチャレンジしたことを語っている。そうして高い山を乗り越えて、さらに強い自分を見つけたのだ。
 冒頭にあげた文章でサルトルが言うように、イージーに向こう側に行きたい旅行者にとって山は障害でしかない。しかし、それに真正面から挑む登山家にとっては自分を高める絶好の場となるのだ。これまで自分が生きていくうえで立ちはだかってきた数々の障害物は、あとから見れば自分をより高めてくれる一里塚のようなものである。そうした一里塚を一歩一歩踏み越えて行った人だけが高みに登り詰めることができるのだ。浅田選手はそのことを実感していることだろう。
 誰もが長い人生において苦しいことに出会う。人生に平坦な道などないのだ。ときにはあまりに悲惨すぎる状況に直面して絶望するかもしれない。無神論者であるサルトルでさえ「事物が示すもろもろの抵抗は自由にとっては一つの危険であるどころか、かえって自由が自由として出現する」根拠であると、まるでキリスト教宣教師のような言い方をして「人の前に立ちはだかる山」の意味を肯定的にとらえている。それは結果として人をより豊かで深みのある者に育てる「試練」と言っているのだ。
 どんなに苦しくてもきっと抜け出せる道はある。人が乗り越えられない山はないのだ。むしろ山があるから我々は成長できる。我々はそう信じて頑張るしかないのである。
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by weltgeist | 2010-12-27 22:42

いよいよ師走の年末モードに突入した (No.930 10/12/26)

 皆さん年賀状は済みましたか。不精者で腰が重い小生、いやなことは先送りしていたが、すでにタイムアップ。もうそろそろ作らないと元旦に間に合わないかもしれないと思いつつ、年賀状の製作をようやく始めた。しかし、昨年はアドビの「イラストレーター」で作ったので、今年も同じようにやろうとしたら、以前作ったやり方を忘れていて、どうやったらできるのかうまくいかない。
 最近は年賀状製作ソフトが沢山出ていて、「すぐ作れる年賀状」とか「簡単一発年賀状」といったものがコンビニでも売られている。あれこれ考える面倒なイラストレーターよりこっちの方が楽そうと思えて、一番簡単に作れそうなソフトを本日買ってきた。
 さて、これで簡単に年賀状も完成だ、と思っていたら、どっこい簡単には解放してくれない。何と製作ソフトのインストール法から分からないのだ。焦って説明書を読むが、色々な賀状の例題は出ているものの、肝心のインストール法が不親切で分かりにくい。四苦八苦して何とかインストールはしたものの、その後の操作も複雑で、まごついている。何が「簡単一発」だ、と文句を言ってももう遅い。面倒だが今夜中には何とかめどをつけないとヤバイのである。
 しかし、年賀状が終わったとしても明日以降も何かとやらなければならない嫌なことが控えている。家の片づけ、すなわち大掃除をしなければならないのだ。これを考えただけで憂鬱な気分になる。できることなら妻に全部丸投げして、自分はしらばっくれていたいのだが、うまく逃げられるかどうか分からない。
 昨年も大掃除をやったとき、小生担当の「書斎&釣りの部屋」の部分はほとんどできていなくて、妻から厳しい叱責を受けた。何度も言うようにここには小生が68年間、溜めるに溜め込んできたガラクタが雑然と入っている。これを捨てない限り根本的には部屋は片づかないのだ。
 しかし、不要品を捨てようとすると、何か資源の無駄使いをするようで心苦しくなり、捨てる決心がつかなくなる。捨てようとするより残そうとする気持ちの方が強いからいつまでたっても、ガラクタがなくならないのだ。
 数日前の新聞にガラクタを上手に処分するには、過去一年間に一度も使わなかった物はあれこれ考えずにそのまま捨てろ、と書いてあった。家にあるガラクタは一年どころか20年くらいまったく使わない物まで残っている。小生にはそれも捨てることができないのだ。良く言えば資源保護に気を配る人だが、悪く言えば優柔不断の怠け者。きっと来年もまだゴミのなかに埋もれて、しこしこパソコンをいじってブログを書いていることだろう。
 やだ、やだ。正月なんて誰が考えたのだろうか。12月31日と1月1日、大晦日と元旦との間には決定的な差などない。毎日が同じ時間の繰り返しじゃないか、と文句を言っても誰も助けてはくれない。とりあえずは今夜中に年賀状を完成させるためにも、今日の書き込みは以上で終わらせたい。
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本日中に年賀状を作り終えなければならない多忙な日にもかかわらず、少し前に手に入れたロシア産ウスバキチョウの再展翅に手を出してしまった。左が入手直後の標本。前の持ち主が展翅に失敗したようで、触覚が変に曲がっていて左後翅もおかしいので、触覚がまっすぐになるよう展翅をやり直した。そんな暇などないくせに、こんな馬鹿なことをやっているのだ。これだから小生の年末ゴミ片づけはきっとうまくいかないだろう。
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by weltgeist | 2010-12-26 21:27

アルブレヒト・デューラー版画・素描展は素晴らしい (No.929 10/12/25)

d0151247_21264363.jpg 昨日、芸大の第60回チャリティコンサートで、ヘンデルのメサイアを聴く前に、上野の国立西洋美術館で、「アルブレヒト・デューラー版画・素描展」を見た。西洋絵画の有名作品の日本公開というと、肝心の作品以外はくずみたいな二流品を寄せ集めた客寄せインチキ展覧会が多いが、今回はデューラーの渾身の作が157点もあり、強烈な風圧を感じるほど手応えのある展覧会であった。
 しかし、デューラーの版画はどれも長辺が30㎝未満の小さなものばかりである。一枚ずつを注意深く見ないと、単に変わった版画があるだけの印象しか受けない。だが、この小さな版画に顔をくっつけるようにして見ると、突然見える世界が違ってくる。わずか数㎝のごま粒みたいな絵に、信じられないほど繊細な線が描かれている。しかも、これが木版や銅販に切れ込みを入れて描いた版画であるというのだから驚く。
 デューラー展を見に行くに当たって十分な満足を得るためには、二つの条件を満たすことをお勧めする。第一は平日の人の少ないときに行くことだ。人が押し寄せて遠くからしか見えないと、極小の絵の中にあるデューラーの超人間的な魔力を見ることができない。とにかく前の人が見終わるまで根気よく待ち、自分が正面に立てる順番が来たら、ほとんど顔をくっつけるくらいまで近づいて細部まで徹底的に見ることをお勧めする。(但し後に待っている人のことも考えて短時間にすますこと)
 細部を見るのに役立つのはルーペだ。二番目の条件としてルーペを持っていくことをお勧めする。百円ショップで売っているもので十分だが、易者が手相を見るときに使う天眼鏡タイプがいい。昆虫観察やネガのピントを調べるタイプは見える範囲が狭すぎて使いにくいだろう。今回天眼鏡タイプで一点ずつしっかりと見た結果、以前、ロンドン大英博物館で見たときは気づかなかった「メレンコリア1」(こちらをどうぞ)でのデューラーの失敗箇所もはっきり見えた。魔方陣の「5と9」に分からないよう修整を加えている。天才デューラーも時には失敗するのだ。
 さて、デューラーの版画で絶対見落としてならないのは、上記、「メレンコリア1」や、「書斎の聖ヒエロニムス」、「騎士と死と悪魔」などだが、他のものもむろんすべて素晴らしい。
 今回の展覧会で小生が驚いた作品は作品番号101番と102番の「枢機卿、アルベルト・フォン・ブランデンブルグ」のポートレートだ。やや横を向いた顔で目の部分が、まるっきり絵の具で描いたようにリアルに見えた。なぜここまで版画で描けるのか、ルーペで見たら、何と小さな瞳の部分に1㎜にも満たない線が何本も描かれている。そして、窓ガラスの反射と思われる4個の白いアイキャッチまで描かれているではないか。
 この絵だけでも写真に撮りたいと思ったが、撮影は禁止されている。仕方がないから、この絵のために展覧会カタログを購入しようと思い、見本を見たら、印刷では目の部分が潰れていて台無しになっているではないか。
 だから、メレンコリアと共に、ブランデンブルグのポートレートも是非顔をくっつけて凝視してほしい。印刷では分からない。本物でぜひ鑑賞していただきたいのだ。
 ちなみにドイツ、マグデブルグ大主教であったアルベルト・フォン・ブランデンブルグは、ローマ教皇庁と結託して免罪符であぶく銭を稼ごうとした黒幕である。お金を払えば天国に行けると吹聴したことにマルティン・ルターが怒り、これが元で宗教改革が始まった歴史的人物である。ベルリンのブランデンブルク門の由来ともなった彼について知りたい人はこちらをクリックしてください。

展覧会は撮影禁止なので、添付した版画は小生の画集からスキャンした物である。上が「ドクロのある紋章」(1503年)、下が「尾長猿のいる聖母子」(1498年)いずれも今回の展覧会に出品されているもので、本物はこの画集より全然すごい。印刷物では分からない一本一本の細い線が、人間技とは思えない細密さで描かれている。ここまでできたデューラーはまさに天才以外の何者でもないだろう。
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by weltgeist | 2010-12-25 22:19

クリスマスイブに相応しくメサイアを聴いた (No.928 10/12/24)

 ついに今日はクリスマスイブになってしまった。皆さんは家に帰ってケーキを食べながらジングルベルの歌を聴いていることだろう。また、子供たちはサンタクロースのプレゼントを夢見ながら、すでに布団の中で眠っていることだろう。
 小生たちのクリスマスイブは、例年になく豪華にすごした。昼間、上野の西洋美術館に行き、「アルブレヒト・デューラー版画・素描展」を見て、夜は東京文化会館で開かれた芸大のチャリティコンサートで、ヘンデルの「メサイア」を聴いてきたのである。
 先月の28日、アドベントの第一主日に聴かせてもらったメサイアのハレルヤコーラスのビデオを見せてもらって、久しぶりに生のメサイアを聴きたくなって、本日上野まで出かけてきたのである。だが、コンサートが終わったのが、夜の9時半、わが家に着いたのが午後10時45分であった。このため時間的余裕が無くなってコンサートのことだけで手一杯になりそうだ。デューラーの展覧会の模様は明日書くつもりだ。
 今夜のメサイアは全体的には迫力がある力強い演奏だった。しかし、この曲は旧約聖書イザヤ書の言葉をベースにした宗教音楽なので、なかなか難しい曲である。美しい声でただ歌えばいいというものではない。イザヤ書は旧約聖書の中でもとくに難解なもので、ここに書かれた罪とか苦悩といった言葉がそのまま歌詞として使われている。それをどう読み取って音楽家がどう味付けしていくか、聖書が分かっていないと難しいのだ。
 罪の意識で心が悩んでいる場面を歌うときは、苦しみがにじみ出るような歌い方を、救世主が出現してきて人々が皆救われたなら喜びに溢れた歌声を出すことで、深みの増した音楽となる。どれも同じ調子で歌えば単調になってしまうだろう。今回は芸大の学生諸君によるチャリティコンサートなので、難解なイザヤ書の言葉に含まれる意味を深く感じ取って歌うにはテーマが大きすぎた気がする。いくら優秀な学生を集めている芸大生と言っても、西洋の宗教であるキリスト教を理解することまでは難しい。彼らの音楽的スキルは高度だと思うが、思想的にはもう少し深みを感じるところまでいってほしかったと感じた。しかし、個人的にはソプラノを担当した歌手・村元彩夏さんは、音も味付けも素晴らしかった。また、コーラスも合格点を上げたい出来映えだった。そういう意味で小生の独断的判断をいわせてもらえば全体的には「良い」演奏だったと思う。
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今日のコンサートとは全然違う、先月28日 ( No.902 ) に紹介したAndre Rieu のLive From Radio City Music Hall in New York City 2004 の Hallelujah Chorus の部分(ユーチューブ版、3分27秒)をもう一度ここで紹介しておこう。古典的なオラトリオというより現代的な演奏でとても若々しい。そしてなによりいいのは、演奏者が歌詞の「ハレルヤ、(主をほめたたえよ)」の意味を正しく受け取り、全身でその喜びを歌い出していることだ。
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by weltgeist | 2010-12-24 23:55

クリスマスを前に、イエス・キリスト誕生の意味を考えた (No.927 10/12/23)

 明日がクリスマスイブ。ようやく押し迫ってきたこの機会に神の子、イエス・キリストの誕生はどのような意味があるのかを考えてみた。イエス・キリストは神の子であるとキリスト教徒は信じている。しかし、それでは神とはどのようなものだろうか。そして、絶対的な存在である神がなぜ有限な人間の姿をしてこの世に出現してきたのだろうか。
 出エジプト記でモーゼは神の山、ホレブにやって来たところ、山火事に遭遇する。その燃えさかる柴(英語だとbush)の中から「モーゼ、モーゼ」と神が呼ぶ声を聞いた。その声にモーゼは恐れを感じ、顔を隠しながら、あなたの「名は何ですか」と神にたずねる。すると「私は”私はある”というものである」(出エジプト記3:14)と謎のようなことを言っている。ちなみにこの部分を英語の聖書では「I AM WHO I AM 」 と全部大文字で書いてある。
 この短いやりとりの中に神と人間との間に広がる無限の隔たりが語られている。神は絶対的なものとすれば、有限な人間にそれを知ることはできない。だが、そのままでは神と人間との間は永遠に引き裂かれたままで終わってしまう。永遠なものと有限なものとがどこかで橋渡しをしなければならないのである。神はモーゼの前に現れたとはいえ、モーゼが顔を隠したということは、卑しき罪人である人間と絶対者の間には越えられない深淵があることをここで物語っているのである。
 仮に神を見たとしても、それを何らかの言葉で表すことは、無限なるものを有限な人間の立場でとらえることになる。神はスーツ姿で眼鏡を掛けていた、とか、「バラク・オバマに似ていた」といった具体的な表現をした時点で無限なものが有限なものに変質してしまう。具体的にどういうものかは示せないが「私はある、確かに存在している」と言っているのである。
 しかし、そんなわけの分からないことを言ったところで、人間はもっと具体的に神とはどんなものか知りたくなる。神は絶対的であることは分かるけれど、それだから人間には分からないという言い方では納得できないのだ。出エジプト記の中でもエジプトからシナイ半島に逃げたユダヤ人たちが「神とはこんなものではないか」と考えた様々な偶像を造り出し、そのつど神の怒りに触れている。仏教で仏像をあたかも神と信じ、礼拝するのと同じである。人間は偶像でもいいいから具体的なものを示さないと信じられないのである。
 だが、旧約聖書時代の神は絶対的なものとして罪深い人間どもの愚行を哀れみながらも、偶像のような姿で人間の前に出ることを神自身が徹底的に拒否していた。神は人知の及ばぬ彼岸にあって、人間がとやかく言うことなど許さなかったのである。この断絶は救世主、メサイアの誕生を預言するイザヤ書の次の言葉で新約聖書の時代に引き継がれる。
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は不思議な助言者、力のある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」(イザヤ書、9:6 ) その男の子が生まれるのが、「ベツレヘム・・・、イスラエルの支配者になる者が出る、その出ることは昔から、永遠の昔からの定めである」(ミカ書、2:2 ) と言って、いつかベツレヘムに神の御子が現れるからそれまで待てと言っているのである。
 つまりベツレヘムで生まれたイエス・キリストこそ旧約時代に埋められなかった神と人間との溝を橋渡しするものである。処女、マリアを通して人間の姿をして生まれてきた神なのだ。だから、ここではモーゼが顔を隠したのと同じことをする必要はない。イエスは神であるとともに具体的な人間の姿をして現れたのである。
 後にイエスが十字架に架けられ一旦死んだ後復活したとき、死んだ人間が生き返ることなど信じられないといったトマスに、イエスは腹の槍の傷跡を実際に手で触らせている。イエスは神であると共に人間でもあることをここで人々に示したのだ。
 疑り深いトマスに対してイエスは「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ福音書20:29 ) と言って人が具体的な姿形のないものを信じることの難しさを述べている。
 こうしてイエスは罪と絶望、猜疑に苦しむ人間を救うためにベツレヘムの馬小屋で生まれてきたのである。クリスマスをキリスト教徒が祝うのはこの日に神と人間の間に架け橋が結ばれたからなのである。
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マリアが神の子を産んだことを報告する神殿奉献(しんでんほうけん)のシーンを描いた中世の謎の画家、メルキオール・ブルーデルラム(Melchior Broederlam (1350?-1409年? ) のシャンモル修道院祭壇画。この祭壇画を実際に見たことがある日本人はどのくらいいるだろうか。小生、この絵に出会うまでにはちょっとしたドラマがあった。いずれこの絵について書いてみたいと思っている。
(フランス、ディジョン市立美術館にて撮影)

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by weltgeist | 2010-12-23 22:08

バージョンアップで旧製品がお払い箱になるよぅ (No.926 10/12/22)

 友人から添付ファイル付きのメールが送られてきた。通常のワードファイルなので何の疑念もなく開こうとしたら開けない。ファイルを見たら ****.docx と見慣れない拡張子がついている。普通ウインドウズの拡張子は3文字で、ワードなら doc というのが正しいのだが、今回のファイルには x という文字が付いて4文字になっている。
 どうやら最新のワードで作った文章を保存すると、上のような4文字の新しい拡張子が付くらしい。しかし、そうなると古いワードしか持っていない人は最新のファイルは読めないことになる。要するに古いユーザーは見捨てられたのだ。文句があるなら新しいワードを買えということだろう。
 ソフトウエアーもハードウエアーも日進月歩で進歩する。最先端の物でも購入した瞬間から陳腐化は始まる。これは仕方がないかもしれないが、古い物で頑張っているユーザーを見捨てないでもらいたいものだ。小生が使っているワード2003は文章を書くだけなら十分。当分これを使い続ける気でいるのだ。最新の機能を盛り込むには、古いレガシーな物は、新機能を圧迫するから邪魔だと言って切り捨てられるのは御免である。
 現在PCで使っているOSの Windows XP だって SP2 のサポートが今年の7月で打ち切られている。Windows XP なんて古くさいものは使わずに、さっさとWindows 7 に切り替えろということだろう。こんなことはPC業界では常識的に行われているようだ。
 例えば現在小生はデジタルカメラで撮ったデータを処理するのに PhotoshopCS3 という画像ソフトを使っているが、こちらも同様である。この CS3 というのはいまや時代遅れで CS5 までバージョンが進んでいる。そして問題になるのは、今使っている CS3 だと最新のデジカメで撮ったRAWデータの現像ができないのだ。新しいカメラが出た時点でそれに対応するアップデートを無償でするのが普通なのに、それをしない。必要なら CS5 を買えというのである。仮にそれを買ったとしても、このメーカーの姿勢では、数年先には同様にその後出た新製品のカメラには対応できなくなることだろう。次々と新しいソフトを買い換えていくしかない。ユーザーに冷たい会社なのである。
 しかし、それとは逆にお客様を大事にしていくところもある。実はニコンのデジタル一眼レフは50年前のレンズが今も現役で使えるのだ。1958年に発売されたニコンFに付けられたFマウントと呼ばれるレンズは当時画期的なものだった。それから半世紀、ニコンの一眼レフ用レンズはずっとこのFマウントを頑なに踏襲しているのである。
 だが、いかにニコンが優れたカメラとはいえ、50年前の規格をそのまま続けることには無理がある。昔のカメラなら十分だったろうが、最近のデジタルカメラはできるだけ大きめのマウントにした方が、光を多く取り込めて有利となる。時代に合わせるなら、マウントも変えていかなければ将来の伸びが制約されるのである。
 昔はニコンもキャノンも似たようなコンパクトなマウントだったが、時代の流れを読んだキャノンは、途中で決断してレンズのマウントを大きく変えた。これで古いキャノンのレンズを持つユーザーは切り捨てられたが、キャノンは将来へのアドバンテージを得たのである。一方のニコンはすでに販売した数百万本のレンズが駄目になることにこだわった。
 しかし、一旦はキャノンに水を開けられたと思われたニコンが、何と従来のFマウントのままフルサイズのデジタル一眼レフでも問題のない製品を造り出したのである。それもライバルのキャノンが驚くほど高性能な物を造り出したのだ。
 古い物は新しい物に切り変えていく。これは企業にとって大事なことかもしれないが、同時に信用を切り捨てていくことでもある。昔ながらの伝統にしがみついているだけでは、どんどん小さくなって最後は消えるだけかもしれない。しかし、やり方次第ではニコンのように道を開くことはできるはずである。コンピュータソフトの世界でも、古いものをバッサバッサと切り捨てていくだけでなく、ユーザーをもっと大事にする姿勢がとれないものだろうか。
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現在小生が使っている画像編集ソフトの PhotoshopCS3 で茅葺き屋根の古い民家を撮った写真を油絵風にして遊んでみた。旧製品だってこの程度はできるのだ。それが今の最新カメラに対応できない製品になるということは、ソフトメーカーがユーザーを大事に思っていない証拠である。頭にくるのはこの会社は、少し前から、3世代より以前の旧バージョンのユーザーは正規料金(8~10万円)で買えと言っていることだ。小生はCS3だからCS5まではバージョンアップ価格(2.5万円)で買えるが、CS6になったら新規ユーザーと一緒になってしまう。まったく、お客を単なる金儲けの対象にしか思っていないのだ。
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by weltgeist | 2010-12-22 23:55