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良寛和尚、その1、足(た)るを知る生活 (No.904 10/11/30)

孤鉢千家飯     孤鉢(こはつ)千家の飯
布衣一身軽     布衣(ほい)一身軽し。
飽食何処作     飽食(ほうしょく)してなんのなすところぞ
騰々老太平     騰々(とうとう)として、太平に老いん。     
     良寛詩集より
                          
d0151247_18561692.jpg ものすごいまでの物質文化の中で、物にあふれ、豊かに生活している現代人にとって、江戸時代末期、「貧」こそ自分の生きる道だとして、越後の片田舎でひっそりと生きた良寛和尚(1758-1831年2月18日)は現代への強烈なアンチテーゼを提示している。上の詩の意味は、「たった一杯の飯にすぎない鉢だが、私は方々の家から喜捨を受けてきた。粗末な衣服をまとっているが、この衣は身軽で軽快だ。おいしいものを腹いっぱい食べて、どうなるのか。それより私はうっとりと、心やすらかに老いたいものだ。」というものである。
 我々は生活を豊かにしようと必死になって働き、何とか生きている。食も衣服も、少しでも良い物を手にしようと夢中になって努力しているのである。だが、良寛はそんなことに精を出すことの無意味さを何度も何度も繰り返し詩や歌に歌っている。みすぼらしい身なりに誰かが同情して、彼の小さなお鉢に飯を喜捨してくれたとしても、近くに空腹な人がいればそれを少しも惜しむことなく渡してしまい、自分は我慢する。良寛は自分のためより、まず人のために生きた心優しい和尚さんなのだ。
 雪深い越後がどれほど厳しいか。冬の寒さは半端ではない。そんな場所にろくな防寒着もなしに放り出された自分を想像すれば、良寛の生活がどれほどたいへんだったか容易に分かるだろう。寺泊の南、国上山(標高313m)山頂にある国上寺からかなり山道を歩いた猫の額ほどの平地に良寛の五合庵があった。庵といっても今風の洒落た茶室のようなものではない。粗末な掘っ立て小屋で、冬になるとすきま風が容赦なく吹き込む。雪深い道を歩くにもわらじを裸足で履いて歩いたことだろう。そんな生活を我々ができるだろうか。ところが、良寛はむしろそうした貧しき生活こそ心が安らぐのだと言っている。

方外君莫羨     方外(ほうがい)を君うらやむことなかれ
知足心自平     足(た)るを知れば、心おのずから平らなり。
誰知青山裏     たれか知らん、青山のうち
不有虎与狼     虎と狼とのあらざるを。


 上の詩は、「あなたは人を羨ましがるが、足ることを知りさえすれば、どこにいようが心はおのずと平静に保てるものだ。奥山に住んでいる方がかえってどん欲な虎や狼がいないことを誰も知らないのだ」という意味である。人を羨むことではない。今の自分で満足する、足るを知ることができればいいのだ。そうすれば悩みも自ずから消えて心の平安が得られるだろう。人は私が山の中で不便で貧しい生活をしていると思っているかもしれないが、山奥でひっそりと暮らしていれば、虎も狼も出てこない。人を襲う虎や狼はむしろ町を徘徊しているのである。
 現代人が様々なストレスに襲われるのは、法外ともいえるほど大量の物を欲しがりながら、なおそれに満足できないからである。絶えず他人の動向が気になり、自分より良い物を持ち、良さそうな生活をしている人を羨む。自分もそうなりたいと思い、その思いが達せられないと落胆する。自分自身に確たる信念がなく、足るを知って満足することができないのである。他人と比較し、他人を羨ましがることが自分の惨めさをいっそう引き立たせるのだ。
 曹洞宗の禅僧であった良寛は、宗祖・道元禅師が正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)のなかで「学道の人はまず須(すべから)く貧なるべし。財におぼれれば必ずその志を失う。」という言葉を書いているのを読み自分もそう確信したと言う。(清水書院刊、山崎昇著、良寛 P.58 )
 貧しさの中で満足すること、これこそストレスのない、心の平安をもたらす原点と良寛は思っていたのである。そのことで現代人には到達しえないほど豊かな精神の高みに達していたのだ。欲望はどこまで追求しても限りなく続いてくる。それを追い続ける限り結局人は幸せにならないのである。

以下明日に続く。
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by weltgeist | 2010-11-30 21:05

猫に小判 (No.903 10/11/29)

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 猫に小判という言葉がある。猫が欲しいのはかつおぶし。小判はいくらあっても腹の足しにはならない。小生が欲しいものは何だろうか。若い頃は欲しい物が沢山ありすぎたが、いまは何か枯れた心境になっていて、あまり欲しい物がない。強いて言えば健康である。だが、健康はいくら欲しいと思ってもなかなか思うように手にすることはできない。
 68年も自分の身体を酷使しているとあちらこちらにガタが来る。できることなら耐用年数を過ぎた部品は、車のように新品と交換したい。しかし、それはできない相談であるからポンコツ車と同様だましだまし使っていくしかないのである。
 いま一番困っているのは何度も書いるように腰だ。これだけはお願いだから新品に交換してもらいたいと思っている。先日のカワハギ釣り大会のときも腰から左足にかけて猛烈な痛みが走って、釣りどころではない状態だった。船縁で立って竿を操作していると、船が波で揺れる。それに合わせて足腰でバランスをとることが腰に堪えるのである。こんな状況だから、大好きな釣りができなくなるのももうすぐかもしれない。
 だから痛みのない健康な体が欲しい。それもできることなら高校生の頃の若くて力に満ちた体が欲しい。五体満足な若々しい体で何の心配もない状態にしていただけるなら最高である。そしたら今年断念したインドヒマラヤなんか、へっちゃらで行けるだろう。だけど健康で動けるようになると、きっと小判も欲しくなるはずだ。あれこれ動き回るのに潤沢な軍資金は不可欠だからだ。とにかく一つ満たされると次が欲しくなる。まことに人間の欲望はきりがない。
 だが、世の中うまくできていて、そうは問屋が卸さない。それなりのところで我慢しろという意味で、小生の体は適度に不健康にされているのかもしれない。そうして消えゆくように体は朽ち果てていく。体が衰えていくことを止めることはできない。時間は誰にも平等にやって来るのだ。招き猫に小判を持ってきて欲しいとは思うけど、本当に欲しいのは永遠の若さと健康だ。猫さん、何とか招いてもらえないだろうか。
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 本日はお手軽ドライブで、埼玉県の南西部に行ってきた。体は動かなくても車は便利だ。座っていれば目的地まで運んでくれる。幸い天気もいい。以前から行って見たいと思いながら果たせていなかった川越の町とその周辺を見て、それから荒川を越えて桶川、大宮方面に行くという予定で11時に家を出たのである。
 しかし、前にも書いたように小生が出かける時は、必ず何か裏に魂胆がある。以前から地図を見て、この方面にミドリシジミという小さな蝶が生息する場所があると睨んでいた。車は川越に向かうより、自然とそちらの方に向かって行く。結局気がつけば川越の町は横をかすめただけで、さいたま市方面に行ってしまった。
 写真は戻ってくる途中、上尾で見た夕暮れの公園。初めて来た所だが、川面に紅葉したメタセコイア(多分? )らしき木が映っていてとてもきれいだった。
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by weltgeist | 2010-11-29 23:35

メサイアとハレルヤコーラス (No.902 10/11/28)

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 まもなくクリスマスだが、まだ11月だというのに小生、早々とクリスマスプレゼントを頂いた。キリスト教徒は11月30日に一番近い日曜日から、イエス・キリストが誕生したクリスマスイブまでの4週間をアドベント=Advent と呼ぶ重要なシーズンで、もうクリスマスの気分なのだ。日本語では待降節(たいこうせつ)とか降臨節(こうりんせつ)と言われる2010年アドベントは、最初の日曜日である今日が第一主日となる。それからイブ前の第四主日まで、毎週一本ずつろうそくに火を灯して救世主、メサイアの誕生を待ち受ける希望とお祝いの期間なのである。
 それで第一主日である本日、ヘンデルのメサイア(救世主)の中にあるハレルヤコーラスのビデオを見せてもらった。しかし、このビデオは荘厳な宗教音楽にしては異例で、どこかアメリカのファーストフード店内が最初に出てくる。皆がコーヒーを飲んでいるうちに一人の女性が小さな声で「ハーレルーヤ・・」と歌い出すと、次の人がまた「ハーレルーヤ・・」」と繰り返し、最後は全員が「ハレルヤ、ハレルヤ(主をほめたたえよ)・・・」という大合唱で終わる。これを見た小生たちは、伝統に従って最後は立ち上がって素晴らしい演奏を堪能した。
 人はなぜハレルヤコーラスのとき立ち上がるのか。それは1742年4月13日、この曲がアイルランドのダブリンで初めて演奏されたとき、「ハレルヤ」の歌声に感極まった聴衆の一人が思わず立ち上がった故事に由来する。これについてシュテファン・ツバイクは「ヘンデルの復活」の中でダブリンでの初演の模様を次のように書いている。
ハレルヤが初めて鳴り渡ったとき、聴衆の一人が思わず起立した。するとそれにつれてすべての聴衆がいっせいに立ち上がった。こんな力につかまされるとき人は地にへばりついてはいられないと皆は感じた。そして、彼らの声がせめて一インチだけでもいっそう神に近づいて、神に畏敬の礼拝を捧げるために彼らは起立したのであった」(片山敏彦訳、ツバイク全集5、P.120 )
 ヘンデルのメサイアは3部からなるオラトリオという宗教音楽で、全部聴くと2時間半はかかる大曲である。この大曲をヘンデルはわずか3週間で書き上げたといわれている。しかし、ドイツからロンドンに移り住んでいたヘンデルは、優れた音楽をいくつも作曲したにもかかわらず、演奏会は赤字で借金がかさみ、作曲もうまくいかず、体は以前起こした脳梗塞の後遺症ですぐれない状態にあったという。
 その頃のヘンデルはロンドの酒場で酒浸りになって才能が枯渇した自分を呪っていたのである。だが、すべてが行き詰まってもはや生きている意義も感じなくなっていたヘンデルのもとに、以前作曲した「サウル」の台本を書いた詩人・ジンネンスから次の作のための台本が送られてきて、ぜひヘンデルに曲を作ってもらいたいとの依頼があった。台本は旧約聖書、イザヤ書の言葉を主に、詩編、黙示録などの言葉(英語)を使いながらメシア、救世主を渇望する内容のものであった。
 虚しさの極にいたヘンデルは最初その台本を忌々しげにながめ、「誰がそんなことするものか」と思い、依頼を無視していた。ところが、何気なく台本に目をやると最初のフレーズが浮かんでくる。五線紙にそれを書き写していると、さらに次のフレーズが浮かぶ。そして、しばらくするともう作曲のことで頭がいっぱいになり、我を忘れて曲作りに没頭し始めるのである。
 それまで作曲ができないと悩んでいたのに、今や神が乗り移ったかのように曲の構想がわき上がる。何も考えない。何もしなくても一つ一つ連なる音がハーモニーとなって次々と浮かんでくる。彼はそれを譜に書き出す手を休めることができないほど創造力に満たされていたのである。それから三週間、少しも休むことなくぶっ通しで作曲して、あの2時間半に及ぶ大曲・メサイアを書き上げた。書き終えた直後のヘンデルについてツバイク次のように書いている。
ぐったり疲れきってヘンデルは立ち上がった。ペンは彼の手から落ちた。自分がどこにいるのか判らなかった。もう何も見えなかった。聴こえなかった。ただ疲労を、途方もない疲労を感じた。ひどくめまいがして、思わず壁に寄りかかるのだった。急に力が抜けていた。身体は死ぬほど疲れ、感覚が混乱していた。まるで盲者のように壁を手探りして歩いた。それから寝床の上に倒れると、死んだように眠りに落ちた」(PP.113-114 )ヘンデルはそのあと17時間眠り続けたと言われている。
 「もう自分は駄目人間だ。死んだ方がマシだ」と思っていたヘンデルに何ゆえこのような奇蹟が起こったのだろうか。救世主がこの世に降臨したように、絶望していたヘンデルの上にきっと神が乗り移ったのだろう。わずか三週間という短期間であのような大曲を完成させたことは、人間の所行とは思えない。この三週間の間、ヘンデルは神そのものになっていたのである。

なお、これは今日見たビデオとは違うが、Andre Rieu のLive From Radio City Music Hall in New York City 2004 で Hallelujah Chorus の演奏がユーチューブにある。古典的なオラトリオの雰囲気はないが、現代的な演奏でむしろ若者にはお勧めではないかと思う。時間は3分27秒。観客がスタンディングオベーションするシーンも入っているので是非聴いてみてほしい。
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by weltgeist | 2010-11-28 20:51

ブログデータの保存法が分からない (No.901 10/11/27)

 ブログもとうとう900回を越え、目標としている1000回達成が視野に入ってきた。しかし、ここまできて疑問というか不安に思っていることがある。これまで書いてきたブログをどうやってバックアップしたらいいのか分からないのだ。900回全部の文字データはテキストファイルで一応保存してはいる。しかし、写真も含めたものはhtmlファイルで保存するにしては膨大すぎる。小生のPCの能力を超えそうなので、そうした保存作業は一切やってきていないのだ。
 結局小生の場合はエキサイトブログのサーバーがずっと保存してくれることを期待するしかないのである。しかし、これだって永遠に保存はしてくれないだろう。第一にブログを書いている人が毎日アップするデータ量はものすごいはずである。日々爆発的に増えて、サーバーの容量は圧迫され続けることになるのである。
 以前はブログをやっていたが止めて、ブログは放り出したままという人も沢山いるはずだ。止めても前の書き込みを削除しないで残していると、これがサーバー負荷の要因となる。そのままにしている人はいつかブログを再開したいし、過去の記録として残してもおきたいだろう。新陳代謝で古い物が消えて新しいものが更新していくなら、容量の増加は少ないが、削除がなければ一方的な増加ばかりで、最後はビッグバン状態になるかもしれない。サーバーが限界に達して「もうこれ以上できません」とお手上げ状態になるのではないかと心配しているのである。
 今のところ小生は毎日更新をできる限り続けたいとは思っているが、サーバーの不具合による前のデータ消滅、あるいはサーバーを管理するエキサイトが管理を放棄する事態が起こるのではないかを恐れているのである。そうした事態になる前に、どなたか良い保存の方法をご存じの方がいたら教えてもらいたいと思っている。
 しかし、htmlファイルを一個ずつ保存していくしか方法がないのなら、やりたくはない。それなら運を天にまかせて書きっぱなしで走り続け、行き詰まったところで考えてもいいのかな、とも思っているのである。

 もう一つデータの保存で悩むのは写真だ。フィルムと違ってデジタルではその量が格段に増えている。とくに最近のデジカメは画素数が大きい。ということはファイルのサイズも大きいわけでこれを収納する方法に悩んでいる。現在データは4台シリアル接続してある内蔵ハードディスクでパーティッションを切った一つのドライブに保存してあるが、複数HDDでのRAIDは組んでいない。万が一このドライブがクラッシュすると、データは全部失われてしまう
 フィルムのように物として残るものなら安全だが、HDDは数年で壊れるのが普通である。それなのに小生は薄い氷の上を歩くような危険な真似をずっとやり続けているのである。もちろん絶対に無くなって欲しくない物はDVDに焼いているが、DVDメディアそのものだって耐久性に疑問があって永久保存はできない。外付けHDDでもクラッシュの危険性はあるから逃げ道がない袋小路を歩いている感じがしてならないのである。
 すべては虚ろいやすい危険な状態にある。そしてその状態が非常にヤバイことを知っていながら何らの対処もしていない。そんなチャランポランな状況って実は自分の生き方そのもののような気もする。一寸先は闇。先のことはどうなるか分からない。しかし、人生だって現にこうして生きている以上これを続けていくしかない。そんな人生と同じで、とにかく成り行きに任せるしかないかな、と思っているのである。困ったことではあるが・・。
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今日の森の道の状況はこんな具合である。葉っぱはまだ緑が残り、本格的な紅葉にはもう少し時間がかかりそうである。これから葉っぱが全部落ちた冬枯れまで毎日撮影したいと思っているが、そうなると写真データでたちまちハードディスクが一杯になってしまうだろう。使用しなかったものは毎日削除しているが、こうした写真データの管理は面倒でやりたくない。しかし、嫌いでもやらざるをえないのだ。
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by weltgeist | 2010-11-27 21:49

わが森は紅葉でなく、黄葉している (No.900 10/11/26)

 昨年キルギスに一緒に行ったYさんが現在京都を旅行していて、「寂光院の紅葉は日光なんか目じゃないほどきれいだ」とネットに書いていた。紅葉の京都いいだろうなぁ。とくにYさんは仏像が好きだから、古都の旅を堪能しているようでうらやましい。
 小生が紅葉の時期の京都に行ったのは37年ほど前、妻と婚前旅行で一泊したとき以外にない。昨日書いた金閣寺や詩仙堂などを回って、京都がこんなに紅葉が堪能できる素晴らしい所なのだということを初めて知った。しかし、あのとき以来紅葉でない時期も含めて、京都には大阪に出たついでに一度寄っただけでずっとご無沙汰している。
 小生、南は与那国、西表島から、小笠原、北は知床、宗谷岬まで日本中を歩き回っているくせに、京都には全然行っていないのである。その理由ははっきりしている。京都にはいい釣り場がないからだ。
 思い出してみると小生の旅は釣りと関係する僻地ばかり行っている。もちろん有名観光地も行くが、そこが旅の目的地ではない。行き先は観光客など絶対に来ないとんでもない釣り場なのである。例えば先日書いた男女群島。東シナ海に浮かぶ5つの島からなる無人島で、そこへ行くには昔は五島列島の福江、最近は平戸から高速船で行っている。五島にしても平戸にしても有名観光地で、10回以上訪れているのに、いまだ一回もそこを観光したことがないのである。
 そんなだから紅葉の京都がいいのは分かっていても、37年間も行っていないのだ。妻が「京都に行きたい」と言っても、「京都なんてお寺ばかりだろう。お寺はどれも同じで、一軒見れば飽きちゃうじゃないか」とか何とか言ってお茶を濁している。
 ところが、もし京都鴨川がものすごくきれいになって、いい魚が釣れるなんてことになれば、とたんに風向きが変わってくる。釣りができるとなると、今度は無性に行きたくなってしまうのだ。しかし、現実には鴨川が釣り場となることはまずあり得ないので、優雅な京都観光なんてことはいつまでたっても実現できないのである。
 36年間も連れ添った妻は小生のそうした悪癖を知り抜いているから、たまに「**へ行こうよ」と旅行のプランを出しても警戒してなかなか乗ってこない。一緒に旅行しても小生はすぐに釣り場に直行。放り出されて何度も痛い目にあっている妻は小生のプランの裏にある魂胆を見抜いているのである。
 悪いことには最近は蝶の採集までやるようになって、この傾向がますます強まっている。釣り場だけでなく、蝶の好ポイントで旅先を選ぶから、妻と旅行できるのはシーズンオフの真冬か海外旅行しかないのである。先日霧ヶ峰に行ったのは小生としては異例のことである。釣りも蝶もシーズンが終わっているから、重い腰を上げただけなのである。
 しかし、そんな遠征のような旅もリタイアして以来、体力的にも金銭的に厳しくなって回数が減ってきている。代わって浮かび上がってきたのが、わが家の前にある武蔵野の森の散策だ。もちろん釣り場があるわけでもないし、無闇に蝶を採集できるわけでもない。季節の変化を感じつつただ森の中を歩くだけである。寂光院の紅葉とは比べようもないが、お金も手間もかからない。それなりの紅葉、というか黄葉(こうよう)もある森を歩くのはたいへん気持ちが良いのだ。
 こんなお手軽な場所で満足できるようになったということは、小生の行動力がそれだけ弱くなってきたのかもしれない。しかし、今の小生、そのお手軽散歩を心から楽しんでいる。わざわざ遠くまで行くことはない。わが森で十分だと思い始めているのである。
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これが本日小生が歩いた森の道の黄葉。すでに木々は黄色く色づいているが、森全体が真っ黄色になるにはあと一週間くらいはかかるだろう。それが終わると寒い冬に突入する。わが家からほんの数分で行ける場所でこうした四季の変化が感じられることに感謝したい。
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by weltgeist | 2010-11-26 23:27

昭和45年11月25日と「豊穣の海」 (No.899 10/11/25)

d0151247_22131931.jpg このブログでいつか書評を書いてみようと思っている本の中に、手塚治虫の「火の鳥」と三島由紀夫の「豊穣の海」があった。いずれも命は永遠に転生する、いわゆる輪廻転生をテーマにした壮大なストーリーである。生命とは何か、人は死んでどうなるのか、果たして生まれ変わるのか、これを手塚と三島はどう考えていたのかについて、いつか取り上げてみようと思っていたら、今日11月25日が三島の命日だということをテレビが報じていた。それで多少準備不足ではあるが、急遽、三島と「豊穣の海」について書いてみることにした。
 昭和45年11月25日は小生と同じ世代の人間にとっては驚きの日であった。三島が自分が作った「盾の会」の会員をつれて市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部を襲撃し、自衛隊員たちにクーデターを呼びかけ、切腹自殺をした日である。
 あの日から今日で40年、小生の記憶も定かではなくなっていたが、今日のテレビを見て三島が総監部のバルコニーから自分がデザインした制服姿で檄を飛ばす姿を思い出した。彼は東部方面総監(陸将)を縛り上げ、市ヶ谷駐屯地の全隊員を正午前に集合させることを要求。12時きっかりにバルコニーに現れると、集まった自衛隊員に声を張り上げて何か演説を始める。しかし、マイクを使わない三島の声は上空を飛ぶ警察のヘリコプターの音でかき消されてほとんど聞こえない。
 取材に駆けつけたジャーナリスト(名前は失念した)が近くにあった棒の先に集音マイクを付けてかろうじて聞き取れたのは自衛隊員たちに戦争放棄を決めた憲法第九条を否定するために共に立ち上がって、義のために死のう、というものだった。
 だが、自衛隊員たちの反応は冷ややかで、この奇妙なパフォーマンスを「ふざけるな」というヤジと冷笑を持って迎えたのである。三島は演説の予定を30分くらいと想定していたようだが、冷淡な聴衆に諦めたのか、7分で演説を止めると最後に「天皇陛下万歳」と言って、総監室に戻り、そこで切腹自殺をするのである。

 三島の行動はあまりに突飛すぎて当時の小生の理解を超えたものだった。それまでに「金閣寺」や「絹と明察」などを読んでいて、完璧なまでに美しい日本語を書く作家であるとは思っていたが、軍服姿の軍人のりりしい美しさに嫉妬した主人公が、軍人の短剣を収める皮のサヤにわざと傷をつけたり、美の極致と思う金閣寺に火を放って燃やしてしまうという彼の美意識には何かついていけないものを感じていた。
 確かに文章はうまい。すばらしい日本語といっていいだろう。しかし、旧貴族階級の雰囲気を漂わせる三島の世界は、一市井の野人にすぎない小生とはかけ離れた世界に見えていた。それと、憲法を改定して戦前の軍国主義を目指す彼の右翼的な主張に違和感を感じていたのである。
 ただ、彼が切腹した11月25日の朝には、連載していた「豊穣の海」の最後の原稿をしっかり書き終えて、出版社宛の封筒に入れておいたことに小生は興味をひかれた。切腹して死ぬと覚悟を決めていた人間が、連載の最後の部分をきっちりと書き終えてから事に及ぶというのがいかにも三島らしいと思ったのである。手書きで書かれた原稿には一切書き直し、書き加えといった「迷い」がなく、流れるような見事さで連載の最後が書かれていたという。それを聞き、小生は豊穣の海を読んでみようと思ったのである。
 物語は貴族の子息、松枝清顕が金閣寺の主人公と同じような屈折した美意識の持ち主で、幼なじみの伯爵令嬢・綾倉聡子を一旦は突き放しながら、他の貴族と婚約したと知るや、嫉妬心も手伝った複雑な心境で聡子に関係を強要し、妊娠させてしまう。破談になった聡子は出家する。彼女と会いたい清顕は春の雪が降る中で、拒絶する聡子を待ち続け、肺炎にかかって死んでしまう。だが、清顕は死ぬ直前に親友である本多繁邦に転生しての再び会おうと約束して死んでいくのである。このときの清顕は20歳であった。
 主人公はこの本多繁邦と、その後何人も出てくる清顕の生まれ変わりと思われる人物との関わりあいで展開していく。複雑なストーリーは三島の見事な筆の力でグイグイと読者を引き込んでいくが、圧巻は第三部の「暁の寺」である。本多はインドのベナレスに行き、ガンジス川岸で荼毘に付される沢山の屍体を見、輪廻転生を信じる人たちのすさまじいばかりの光景に圧倒される。ベナレスの体験を次のように書いている。

 ヒンヅー教徒は墓をつくらない。本多はゆくりなくも青山墓地へ清顕の墓参に行ったとき、この墓石の下には確実に清顕がゐないと感じたときの、あの戦慄を思ひ起こした。
 屍は次々と火に委ねられてゐた。縛めの縄は焼き切れ、赤や白の屍衣は焦げ失せて、突然黒い腕がもたげられたり、屍腿が寝返りを打つかのやうに、火中に身を反らしたりするのが眺められた。・・・四大へ還るための浄化の緩慢、それに逆らふ人間の肉の、死んだあとになおほのこる無用の芳醇、焔のなかで、赤いものがひらいたり、つややかなものが蠢めいたり、火の粉と共に黒い粉が舞ひ上がったり、あたかも何ものかの生成のやうに、焔ごしにたえず閃いてゐる動きがあった。・・
 ここには悲しみはなかった。無情と見えるものはみな喜悦だった。輪廻転生は信じられてゐるだけでなく、田の水が稲をはぐくみ、果樹が実を結ぶのと等しい、つねに目前にくりかへされる自然の事象にすぎなかった。


 死んだ人間の体は焼かれて最後はガンジス川に流される。人が永眠する墓は必要ないのだ。なぜなら、人間の霊魂は永遠に生き続けて次の赤子に乗り移るからだ。誕生と死は無限な連鎖でつながり、肉体だけが単なる物として滅びていくのである。インドではそれがごく自然なこととして信じられているのだ。だから人の死は悲しみではない。新たな転生への喜びであることを本多は教えられるのである。
 本多は清顕の死後、彼の生まれ変わりと思われる飯沼勲や、自分は日本人の生まれ変わりというタイの王女、ジン・ジャン、そのあとさらに静岡県の清水で安永透という青年と出会う。彼らはいずれも清顕と同じく20歳で死んでいく。それも例えばシン・ジャンが毒蛇に噛まれて死んだように、特別な死に方をすることで清顕の生まれ変わりであることを三島は暗示しているのである。だが、仮に人の霊魂が輪廻転生するにしても、生まれる以前の自分が何者であったかを知っている人などいないだろう。三島はそれでも転生を信じたのである。だから彼は切腹したではないだろうか。
 彼が輪廻転生を信じたきっかけは多分ベナレスでの強烈な経験ではなかったろうかと小生は推測している。インドという国は好きな人はどっぷりはまってしまうらしい。小生、本当は今年の夏にインドに行く予定をしていたが腰痛がひどくて結局行くことができなかった。三島のベナレス体験を思い出し、来年こそインドに行こうと思っている。d0151247_2237611.jpg


 豊穣の海は第一巻が「春の雪」、第二巻「奔馬」 、三巻「暁の寺」、四巻「天人五衰」の4部からなるかなりの長編である。右上の写真の左側が第一巻の春の雪。右は第三巻の暁の寺。
 小生は三巻の表紙に描かれた寺院の絵がタイ、バンコックにある「暁の寺」だと思っていた。ところが、実際にバンコックに行って暁の寺を見たら、左の写真のようなもので、絵とは違っていた。表紙の絵は同じバンコックにある「エメラルド寺院」であることが分かったのである。
 奥付を見たら三巻の初版は昭和45年7月10日になっている。まだ切腹事件の前であったが、三島はこの間違いに気づかなかったのだろうか。それとも気が付いたけど、自衛隊襲撃直前で忙しくて諦めたのか、よく分からない。しかし、暁の寺は確かに三島がいうように、一見の価値のある特異なもので、バンコックに行く機会があったらぜひ見ておくことをお勧めする。ただし、写真の塔に登る階段はものすごく急で怖い。高所恐怖症の人は登らない方が無難である。

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by weltgeist | 2010-11-25 23:56

日本の家は余ってくる (No.898 10/11/24)

 11月20日付けの朝日新聞に「30年後の日本の空き家率をシミュレーションしたら、40%を越える」という記事が出ていた。老朽化で無くなる戸数と新規住宅着工数がこのままのペースで変わらないとすると、2040年の空き家率は40%、着工ペースが半分に減少しても36%もの空き家が出てくる(野村総合研究所)のだという。少子化による世帯数の減少や土地の高層化のほか、バブル崩壊によって「投資目的の値上がり待ちの不動産」が大量に放出された「土地余り」の結果である。
 これは実際に家を買ってローンを払っている身には重大な数字である。ようやくローンが終わっていざ売却しようとしたら、買い手がいない。資産価値どころかお荷物を背負い込むことにもなりかねないのだ。土地の少ない日本では不動産は常に右肩上がりで高騰すると信じられていた。苦しくてもローンを払い続けていれば最後は自分の資産になるという持ち家神話は、年功序列で給料がエスカレーター式に上がっていく神話と共に、いまや崩れつつある。
 持ち家神話の崩壊は、30年も先のことではない。実はもう始まっているのだ。2008年度の世帯数5千万に対して、住宅は5750万戸。すでに750万戸、13%も余っているのである。こうなると持ち家の人は考え方を変えなければならないだろう。将来家が資産価値として残るという期待は過度には望めなくなるのだ。
 だが、これは新しく家を買う人にとっては家が安くなるからチャンスが増えることにつながる。とくに中古住宅では値崩れを起こし、買う側の選択肢は広がってくるだろう。そもそも日本の住宅は築30年を超えたものは一様に査定がゼロとされていた。古家はむしろ取り壊し費用を要求されるなど、マイナスの評価さえされかねないのだ。
 しかし、「日本の住宅建設技術は世界一。設計、施工、メンテナンスの三拍子が揃った住宅は最低でも100年は持つ」のだという。欠陥手抜き工事の住宅と優良物件を一様に「査定ゼロ」とひとくくりにするのは間違いなのだ。昔は「不動産に掘り出し物なし」といわれてきたが、じっくり探せば古い家でも思わぬ優良物件に行き当たる可能性が増えているのである。そうした優良な古家なら多少手直しすることで快適な家に変えることができる。無理なローンを組まずにマイホームの夢を実現できるのだ。
 昨日紹介したBさんの家がまさにそれである。Bさんは上で書いた設計、施工、メンテナンスの三拍子が揃った優良中古住宅を周囲の相場より格安で購入し、さらに自分なりの住みやすい形にでメンテナンスしているのだ。
 どうしても日本人は新築にこだわるようだが、これからは中古住宅がねらい目になるといえよう。ただし、それは上で言った設計、施工、メンテナンスの三拍子が揃ったものであることが望ましい。安かろう悪かろうという家は築30年を待たずに陶太される。古くなっても資産価値はそれほど下がることのないしっかりできた家だけが残っていく時代がやってくるであろう。
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昨日紹介したBさんが本日新居に引っ越してきた。手伝いが必要かなと見に行ったら、専門の引っ越し業者が全部やってくれていて、ヘルプは不要。この前見たフローリングの張り替えはリビングとダイニングがほぼ完成。壁、天上なども含めて新築みたいにきれいになっていた。良い家を選べば古くてもこのようにまだまだ使えるのだ。
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by weltgeist | 2010-11-24 22:46

自らの手で自宅をリフォームするすごい人たち (No.897 10/11/23)

 アメリカ人のBさんが、わが家の近くで中古の住宅を買った。日本の家にしては敷地は広いが、家は築年数が長いので、ほぼ土地値のお買い得な物件である。しかし、大手が分譲した建て売り住宅なので、家の造りはたいへんしっかりしていて、ほとんどガタがない。メンテナンスしていけば、まだ数十年は問題なく住めそうな良い家であった。
 Bさんが今回家を買ったのは日本に永住することを決意したからである。多くのアメリカ人がリタイアする頃になると故国アメリカに帰国する。しかし、彼らは日本を好きになり、日本に永住しようと決めたのである。それで小生たちも購入に関して多少のお手伝いをさせてもらったのだが、アメリカ人の家選びというのは日本人と違って、とても興味深かいものがあった。最初新築の分譲住宅も見たが、アメリカのゆったりした家で育った彼らにはどれも値段の割に土地が狭く、結局今回の敷地が広い中古住宅となった。
 しかし、Bさんによればアメリカでは中古住宅を購入するのは普通のことで、築100年を越えるような古い家でも十分売れるし、住めるという。日本では新築にこだわりがちだが、アメリカでは中古に全然抵抗感はないらしい。中古でもじっくり時間をかけて自分の住みやすい家にメンテナンスして長く住むのがアメリカンスタイルのようだ。
 だが、今回購入した家の基本構造はしっかりしていたが、長年使っていたものなので水回りが古いとか、床、壁紙に前の人の生活感が残って汚れているといった、いたしかたがない面があった。また純然たる日本家屋だから、それをアメリカ人の生活に合わせるためには多少のリフォームは必要だろう。それをどうするのかと思っていたら、業者に頼まず「自分でやる」と言い出した。
 家を直す場合、普通はプロのリフォーム屋さんにお任せするのだが、「アメリカでは自分でリフォームする人も多いよ」とBさんはこともなげに言う。しかし、まったくの知識も技術も持ち合わせていない素人にそんなことができるわけがないと思っていたら、Bさん、本気でその作業を始めてしまったのである。
 最初は壁紙。前の人が使っていた汚れがひどく、これは壁紙を貼り替えなければ駄目だろうと思っていたら、何とペンキで塗り替えてしまった。ペンキといっても多分壁専用の塗料があるのだろう。Bさんはインターネットでそれを見つけ、またメンテのやり方も研究したそうで、一日で壁はまったく新築みたいにきれいになって、どこから見ても素人がやったようには見えない。
 しかし、この程度で驚くのはまだ早い。壁の次は床だ。以前の住人が使っていた絨毯をはがして、ウッドのフローリングにチャレンジしたのである。ここまでくると素人ができる範囲を明らかに超えている。うまく行かないんじゃないかなと思っていたら、これもネットで見つけた床材屋さんから購入した床板の素材を部屋のサイズに合わせてカッティングし、まるっきりプロが仕上げたように貼り付けていく。
 小生にはとてもできないことだが、Bさんはこれをやっているのが「とても楽しい」とうれしそうにいう。こういうところがやはり彼はアメリカ人なのだ。床張りの作業も今日で終えて、明日はいよいよ引っ越しの日を迎える。最後の仕上がりまでは見ていないが、Bさんのことだからきれいに仕上げたことだろう。
 アメリカ人というのは、皆このような大工仕事をして家をメンテナンスしてしていくのだろうか。「楽しい、楽しい」というBさんを見ていると、この次はもっと途方もないこと、例えば自分で風呂をリフォームするなんてことをやり出すかもしれない。それにつけても小生はこれまで家の中をどうかはすべて専門業者にお任せっぱなしだった。素人には何もできないと頭から思い込んでいたが、やればできるのだ。カルチャーの違いをまざまざと見せられる思いがした。
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最初に見たときは壁が結構汚れていたが、見違えるほどきれいに直してしまった。床は張ってあった絨毯を剥がし、クッションのような物を敷いた上にウッドの床材を貼り合わせていく。このような四角い部屋はあまり問題ないが、斜めになったコーナーの部分など、変則的な場所に合わせて床材をカットし、貼り合わせるのは相当難しい。しかし、そうした場所も完全に仕上げていく彼らのすごさには舌を巻くばかりであった。
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by weltgeist | 2010-11-23 22:46

幼児期の郷愁 (No.896 10/11/22)

 郷愁という気持ちは幼児期に形成されて、そのあとしばしば成人になっても影響を与えるらしい。我々の世代で「お母さんの味」はみそ汁や漬け物であるが、今の若者ではお母さんの味はインスタントラーメンやコンビニのおにぎりになると聞いた。小さい時の味覚が「母の味」として焼き付いているのだろう。
 とすると郷愁を感じるのは長くても100年を越えるものはないだろう。古文書などから昔のことを知ることができても、それが懐かしい郷愁にまではならない。だから年をとると口癖になる「昔は良かった」といっても、それはせいぜい数十年前のことにすぎない。江戸時代の生活は良かったなどというのはナンセンスである。
 幼児期の体験は記憶中枢の奥深くにしっかりと刻まれ、その人の精神面における中核的な役割を演じるという。小生がいまも覚えている幼いころの記憶といえば、第二次大戦の爆撃で焼け野原になった道を通って小学校に通ったときのことである。
 小学校に通う道の脇にある小さな川の流れがとても清冽で、オイカワやウグイが沢山いた。魚を獲る網もない時代だったから、これを手づかみでつかまえるのはたいへんだったが、学校帰りの子供たちがみんなでワイワイ騒ぎながらそれをやったのである。塾など無い時代だから学校が終われば子供たちは野外で遊び回ることが当たり前だった。そんなことを散々やってきたので、今のような釣り好きな小生が生まれたのではないかと思っている。
 しかし、今はそんな自然が色濃く残る原風景など、どこにも残っていないだろう。子供たちは外で遊ぶことがなくなり家と学校、塾の間を往復するだけの味気ない生活をしている。そんな子供たちの原風景とはどのようなものになるのだろうか。
 最近の若者を見ていると、小生が若者だった頃とは明らかに違う。草食系とか、無気力、無関心な若者が増えているという風潮は確かに感じられる。それは彼らが育った環境が小生の時代とは全然違うからだ。その違いを忘れて「今の若者は駄目だ。昔は良かった」というのはナンセンスである。彼らの育った世界は小生たちとは全然違ったものとして脳裏に焼き付いているのである。
 小生が小学校に上がったとき、学校も大部分が米軍の爆撃で焼けて、体育館みたいな建物しか校舎が残っていなかった。二部授業といって、学年を午前の組と午後の組に二分割して、狭い建物を時間で分けて使っていたのである。屋内で授業ができない時間は野外授業となって外の校庭で勉強した。あの時の一年生の半分は履き物がなく、裸足の生徒が沢山いた。そんな貧しい生活で育った小生の世代と、今の若者はまったく違った環境で育ってきているから比較する方が無理なのである。
 我々の価値判断なんてその程度の曖昧なものでしかないのだ。自分の判断は絶対的だと思うかもしれないが、実は非常に個人的な幼児体験に左右されているのである。その記憶と合致しないものは受け入れられず「今の若い者は駄目だ。昔はそんなじゃなかった」と言い張る。こうした困った爺さんに、現代の若者は、「この糞じじい、はやくくたばってしまえ」と心の中で叫んでいることだろう。
 しかし、思い出せば小生が青年の頃も爺さんから同じようなことをいわれていた。「今時の若い連中は・・・」と。いつの時代も変わらないのである。
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by weltgeist | 2010-11-22 23:50

メロメロだったカワハギ釣り大会 (No.895 10/11/21)

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 毎年この季節に開かれる、腕自慢が集まるカワハギ釣り大会に参加した。場所は三浦半島松輪港。午前4時に家を出て第三京浜、横浜横須賀道路を経て、三浦半島の先端近い松輪港には午前6時到着。7時に2艘の船に分かれた40名の釣り人が一斉に沖のポイントに向かう。参加しているメンバーは、みなカワハギ釣りにはうるさい名人そろいである。口には出さないが「俺が優勝候補だ」という自負がみなぎった人ばかりだ。
 そんな中に入る小生、以前はこの大会で優勝したこともあるのだが、最近1年以上カワハギ釣りをやっていない。釣り方のコツどころか体も道具も鈍っていて他の人のような自信を全然なくしているのだ。出発直前、竿や仕掛けなど釣り道具を点検したら、リールが全然動かなくて糸が巻き取れないではないか。どうやら手入れをしていなかったので、内部がさび付いてしまったらしい。そのほか、ハリやオモリも揃っていないという、何とも準備不足な心細い船出となってしまったのである。
 幸いなことにリールは友人から借りることができたが、使い慣れた自分の右利き用と違って左手用である。うまく使いこなせるだろうか。そんなことを考えたらとても「優勝」など望めそうもない。恥をかかない程度の釣果を上げておとなしくしていようと思っていた。ところが、どっこい、蓋を開けたら恥をかかないどころか、大恥をかく結果で終わってしまったのである。
 小生が乗ったB丸には20名、片舷に10人ずつが座る。小生は舳先から右舷3番目である。一番先端には若い女性、そのとなりが以前チャンピオンになったK君、右にはMさんがいる。そして釣りが始まったとたんにまずMさんが1尾、続いてK君。小生には小さなトラギスの外道。ま、腕の差からいえば順当な結果と自分をなだめていたら、次ぎに舳先の女性が釣った。そして再びK君、さらにはMさんがカワハギをゲットし、小生だけが蚊帳の外に取り残されていくではないか。
 午前10時を過ぎる頃には左右の人たちは7~8尾は釣っているのに、小生は未だ音沙汰無しの坊主である。前評判では今の東京湾のカワハギは好調だからトップは50尾は釣るだろうといわれていた。それなのに小生はまだ1尾も釣っていないのだ。これには正直焦った。最後の検量の時、みんなの前で、「釣れませんでした。坊主です」と宣言しなければならないと思うと、神に祈りたい気持ちになってきたのである。
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 その祈りが通じたのか、11時少し前にようやく最初の1尾が釣れてきた。ゼロ尾から1尾に昇格したのである。たった1尾とはいえこの差は大きい。ゼロと1との間には無限の差があるのだ。少し安心して、まずはこの魚をカメラに収める。本当はそんなことをやっているより、少しでも頑張って差を縮める努力をすべきなのだが、この魚を撮影しておかなければブログに載せるカワハギの写真は撮れないかもしれない。次のカワハギが釣れる保証jはないと思いつつ撮影したのがこの写真である。
 カワハギはこのおちょぼ口ですばやく餌を掠め盗る。釣り人が竿先に神経を集中していても、ほとんど何のアタリも感じさせぬ巧みさで餌を盗んでいく。それを察知してハリに掛けるには、鋭敏な神経が必要である。鈍感な人にはカワハギは釣れないのだ。ところが本日の小生が釣れないということは、まさに鈍感な人そのものであることを自ら証明していることになるのである。
 それでも午後になって少しずつ釣れるようになって、最後は5尾で納竿することができた。幸いビリにはならなかったが、小生にとって屈辱的な釣果であることに変わりはない。表彰式のとき一番沢山釣った人の釣果を聞いたら、トップのSさんが20数尾だったという。
 予想通りというか、予想外というか、ともかくトップと小生の釣果はあまりにかけ離れた数字なので彼が正確に何尾釣ったのかは興味がないし、知りたくもなかった。何で駄目だったのか。準備不足、腕の差等々、色々理由はあるが、いえばすべて負け惜しみになる。小生はただただ悔しさと復讐心に燃えて松輪港を後にしたのである。
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by weltgeist | 2010-11-21 23:06