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メタボの特効薬は二食主義 (No.759 10/06/30)

 下のタヌキの写真のように下腹が出たメタボな体型をしていた小生、これは何とかしなければいけないと一念奮起して、半年ほど前から一日二食主義のダイエットに励んでいる。これで体がすごく軽くなって快適である。出っ張っていた腹は凹み、どんどん体が痩せてきて、現在は高校生だった頃のベスト体重であった58㎏をキープしている。メタボで悩んでいる方々には、二食にすれば痩せることは間違いないとお勧めしたい。
 しかし、言うは易しくやるは難しい。人間の体はどうやら一日三回は食事をしないと体が持たないように出来ているらしい。それを二回にすると、猛烈に腹が減ってくる時間が出来て、我慢出来ずに二食主義が挫折するのだ。とくに、仕事をしている人は食事時間と勤務時間との調整が難しいから、困難かもしれない。
 小生の食事タイムは朝食がだいたい午前9時頃、昼食兼夕食が夕方の4時から5時くらいである。一回に食べる量は三食食べていた頃に比べると、かなり多めにはとっているから昼間空腹を感じることはない。ところが夜行性人間である小生が床に入るのは午前1時から2時頃である。そうなると午後11時頃、すなわちちょうど毎日のブログを書いている頃おなかが減ってきて、時々腹が「グーグー」と鳴ることがある。それでも間食など一切しないようにしている。
 しかし、夜中の空腹感も我慢していると、次第に体が慣れてきて、平気になってくるものであることが分かった。小食になったから胃袋も自然と小さくなってきているのだろう。最近は一日二食にしてもあまり空腹感は感じなくなってきている。だから、これは訓練次第で誰でも可能なのではないかと思っている。ただし、毎日晩酌などの習慣のある人は難しいかもしれない。「痩せなくてもいい」、「おいしい物を食べ続けていたい」、「毎日うまいお酒を飲みたい」、そう思う人たちがメタボになることは自業自得として納得してもらうしかないだろう。
 一日二食で体はスリムになったが、困るのは洋服が体に合わなくなってくることだ。先日古いズボンを履いたら、ぶかぶかでベルトをつけてもズボンが落ちてしまう。どのくらいユルユルになっているか調べたら、20㎝もたるみが出たていた。一番太っていたときはこれで丁度良かったのだから、腹も相当凹んだことになる。以前は年々体重が増加し、洋服がきつくなって着れなくなるのが悩みの種だったが、逆も真なりで、今度は痩せてすぎて以前の服が着られなくなっているのである。
 しかし、痩せるということは良いことだけではない。若い頃ならともかく、ある程度年をとってきてから痩せると、外見が貧相に見えてくる。見てくれを気にする人はほどほどくらいがいいだろう。若い女性はガリガリに痩せた姿に憧れを持つようだが、これも限度問題である。痩せすぎず、太りすぎずの中庸が一番美しく見えるのではないかと思う。
 あまりに痩せすぎると、体が変調をきたす心配もある。やりすぎるとカーペンターズのカレンみたいに拒食症で死に至ることもあるからだ。小生、別に血糖値が高い糖尿病の予備軍というわけでもない。だから過度に痩せすぎる必要もないのだが、とりあえずはいまのペースで二食主義をもう少し続けてみたいとは思っている。
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by weltgeist | 2010-06-30 22:13

電話の盛衰とスカイプの台頭 (No.758 10/06/29)

 小生が小学校低学年の頃は、電話がある家はほとんどなく、緊急の時は近くの電話がある家にかけて呼び出してもらっていた。小学校の生徒名簿には住所のあとに電話番号を書く欄があったが、****(呼び)といって、近くの電話のある人の番号に電話して呼び出してもらっていた人が大半であった。
 今そんなことをしたら非常識な人間に思われるだろうが、昔は電話のある家の人は文句も言わずに「**さん。電話だよーっ」と言って取り次いでくれた。面倒でも電話のない貧乏な人のために自分の電話を使わせてくれたおおらかさがあったのである。そんなだから子供が電話を使うなんてことは考えられなかった。大人でもごく緊急の場合の重大なことの連絡用に使われていたのである。通話も要件だけを話してすぐに切っていた。
 普通の家に電話が引かれるようになったのは、昭和30年代の始め頃で、次第にどの家でも電話が入るようになっていった。そして、外で電話するには公衆電話が沢山設置された。一通話は10円で、何時間でも話すことが出来たから、通話内容も要件だけでなく世間話までする長電話が普通になっていった。とくに公衆電話では長電話が常識で、誰かが先に使っていると、くだらない話を延々と続けているのを待っているしかなかったのである。
 それが時間制になり、3分10円くらいとなって、多少長電話で待たされることはなくなったが、意外に不便だったのは小銭の10円玉を沢山用意しておかないと電話が掛けられないことだった。百円玉は使えるがこれだとおつりが帰ってこない。100円分使っても使わなくとも、100円はNTT(もとい、昔は日本電信電話公社)に入ってしまうのだ。その後テレホンカードが出来て多少の不便さは解消されたが、外出先から電話するにはまず公衆電話を探さなければならない。そしてうまく見つけても、先客が使用している場合は終わるまで待つ必要がある。
 ところが、急いでいる時に限って、先客がいつまでも長電話をしている。こちらは一分一秒でも早く連絡したいときに電話が出来ないとすごくストレスがたまってしまうのだ。相手が大きな声でくだらない内容の通話をしているのが聞こえてきたりすると、「早く終われ」と思いつつ電話ボックスの外でイライラしながら待ち続けたことが何度もある。
 そんなことも携帯電話が普及してからは懐かしい思い出になってしまった。最近は公衆電話もすっかり見なくなったし、テレフォンカードなんてとっくに過去の遺物になりつつある。携帯は国民一人一台に近づきつつあるから、電波の届く所ならどこでも自分の好きなときに好きなように使うことができる。便利で有り難い世の中になったと言えよう。
 携帯電話が発達してきて、振り込め詐欺なる新たな犯罪も起こるようになったが、便利であればその闇として困ったこともついて回る。これもある面では致し方がない付随物とも言えよう。
 電話が個人段階まで普及するにつれて、電話の機能も信じられないほど便利な物に進化している。しかし、それはまた自らの足もとを崩していく没落への進化過程でもある。ネットが多様化し、通常の電話回線に頼らない新たな通信手段がいくつも出てきているからだ。
 現在最有力なのはスカイプだ。ネットを使ってテレビ電話が通信と同時に出来る。まだまだその利用者は少ないから、自分の番号はある程度好きなものが選べる。普通の電話は03-****-****と数字であるが、スカイプでは例えば、鈴木一郎さんという人がいたとすれば、自分の番号を Ichirou Suzuki とローマ字で登録することも出来る。
 これは早い者勝ちだから、もしだれもこの番号を登録していなければ、それが世界番号となる。鈴木といった日本人に多い名前はすでに誰かが登録している可能性があるが、小生のような**というやや特別な名前は、まだほとんど空きがあり、小生の実名にちょっと工夫しただけで登録出来た。今後スカイプは急速に発達するから、早い物好きの人なら、とりあえず自分の番号を登録しておくのがいいかもしれない。
 スカイプだと世界中どこでもただで何時間でも話すことが出来る。こうなると高い通信料を払って電話を使うことが馬鹿らしくなる。今後、携帯用の小型パソコン、ネットブックにスカイプがインストールされれば、ますます携帯は危うくなっていくだろう。今日の覇者は明日の敗者に入れ替わることは歴史の宿命である。ということはスカイプとて万全ではない。新製品は旧製品を陳腐化させ、廃盤へと追い込むが、その新製品もさらに次の新製品にいつかは食いつぶされていくのである。
 ところで、携帯電話全盛時代で一言言いたいのは、今や小学生でさえ携帯を持っていることに小生は疑問を感じていることだ。生身の人間が実際の言葉を交わし合うコミニュケーションが、バーチャルな携帯メールに取って代わられようとしている現実に危機感がある。子供に携帯などいらない、と小生は思っているが、世のお母さん方は、「やれ誘拐だ、変質者が心配だ」と言って子供に携帯を持たせている。呼び出し電話しかない時代に少年期をすごした小生、小学生の頃友達と電話で話をした記憶なんてない。伝えたいことがあれば出向いて行って、直接相手の顔を見ながら話したものである。
 電話やメールで伝えるものは、その人の生身のものではない。コミニュケーションとは言葉や文字だけでなく、人間の体全体、例えば顔の微妙な表情などを含めて自分の思いを相手に伝えるものである。電話やメールに真のコミニュケーションがあるとは思われない。最近は電話でしか他人と話しが出来ない子供もいると聞いている。やはり便利と言われる物にはそのマイナス面もあることを知るべきであろう。電話より、メールより、生、相手の目を見て直接話すことの重要性は、いまも変わらないのである。
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スカイプの初期画面。左に登録してある人を選択して、右にある「発信」をクリックすれば、相手のスカイプが鳴って、通話が出来るようになる。ビデオカメラをセットしておけば、テレビ電話にもなる。通話は世界中どこでも、いつまで話しても無料である。
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by weltgeist | 2010-06-29 23:01

野球賭博と相撲協会のまずい対応 (N0.757 10/06/28)

 相撲の世界がまた大揺れになっている。野球賭博に関わった力士や親方が何人か懲戒処分となり名古屋場所はどうやら開催するようだ。しかし、むりやり開催したところで、満身創痍の状態では見ている方もすっきりしないものがあるだろう。
 野球賭博がどのようなものなのか小生にはわからない。処分のきつい人たちは掛け金も多ければ、常習性もあるということで厳罰に処せられたのだろうが、友達同士の内輪でやるささやかな賭け程度のものも限度を超えれば法律的には「犯罪」となるということである。
 とすれば小生もときどき法律を犯していることになる。釣りに行って、今日一番大きな魚を釣った人が帰りの食事をおごるといった賭けなどしばしばやっているし、学生時代千点10円くらいの単位で賭け麻雀をやったこともあるからだ。誰もがやっている日常的な賭けが、ここまで大きな問題になったことには、賭け金の規模が大きく、そのバックに暴力団の存在があるからだろう。
 相撲協会は、このところずっと不祥事ばかり起こしながら、その処理の仕方をいつも間違えて世間の不審を買っている。公益法人としての体をなしていないから、何かあっても内輪の問題としてなあなあで解決しようとして、失敗しているのだ。伝統にあぐらをかいていて、ガバナンスがなっていないのである。問題が大きくなる前に親方や、協会が適切な指導をしていれば始末書程度ですんだ問題が、ここまで大きくなってしまったのは、指導的立場にあった親方や協会の甘い判断があったからと思わざるを得ない。
 関取の多くは中学卒業して、相撲界に弟子入りし、そこで大人になっていく。ここで指導する親方自身がしっかりしていればこんな問題は起こらなかったろう。ところが、社会的常識を身につけていない無能な親方みずから野球賭博に入れ込んでいたというのだから指導者の資格はないと言える。社会的な常識を学ぶことができないまま幕内に入り、頂点である横綱にまで上り詰める。そうした人がその後の後進を指導する立場になる今の体制では、親方から相撲の勝負に勝つ技術は教わっても、人間性を磨き上げるという面が欠落した人間が出来てしまうのは当然だろう。
 賭博に関わった力士たちは、恐らくことの重大性を認識しないまま深みにはまっていったのだろう。そんな人たちに「相撲を止めろ」「角界から永久追放しろ」という意見が吹き出していて、彼らは寝耳に水の心境になったことだろう。やっていたことが「犯罪となる」という簡単な社会的常識さえ教わっていなかったのではないかと思われるのだ。
 しかし、どんな人間でも完全ではない。いつも間違いを犯す危うい人たちばかりである。そんななかで、「法律を破ったから追放だ」というのは酷すぎる気はする。心の底から反省している人には更正の道を残してあげることも必要だと思う。
 もちろん、「反省してます」と言いながら、内心では舌を出してほくそ笑んでいる人もいるだろう。そうした人と、真面目に反省した人とをどこで線引きするかの難しさもある。
 以前から何度もしつこく言うが、小生の信念は「人は変わることができる」である。その人が心の底から自分を反省し、立ち直ろうという気持ちがあれば、彼は以後間違いを犯すことは少なくなると思いたい。「悪い、反省してます」と口先だけで逃げる人は、また同じことを繰り返すかもしれないが、心底反省して悔い改めた人まで十把一絡げに処分するのは粗雑な問題処理法だと思う。
 なぜならこの世の中に自分が完全に正しいと言える人など一人もいないからだ。誰でも間違いを犯す。重要なことは、間違いを犯しても、立ち直る道筋を用意しておいてやることだ。それが出来るのは人を心を信じる気持ちがあるかどうかに掛かっていると思う。ただ止めろと騒ぐ人は、まず自らを顧みて一度も悪いことをやったことがないのかを問うてみるがいい。人を許し、信じることの意味をもう一度考え直してみてほしいと思う。
 小生の意見に「甘い」という人はきっといると思う。「彼らは信じられない」という人が多数いることは分かっている。しかし、それでも人を信じるということがなくなれば、人間社会は嘘が蔓延し、希望がなくなってしまうだろう。だから小生は反省した人の「良心」を信じたいと思っているのだ。
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本日の話題とは何の関係もない秒5コマの連続撮影で撮ったキアゲハの「お遊び写真」である。カメラが動かないようしっかり腕で支えていたが、実際にこうした連続画像で見ると、画面がひどく動いていることに自分自身が驚いている。ここまでカメラが動くとなると、しっかりした写真を撮るには三脚は必携だと思った。
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by weltgeist | 2010-06-28 23:19

高原川の鮎解禁 (No.756 10/06/27)

 岐阜県の高原川に鮎釣りに行き、先ほど戻ってきた。徹夜で行ったため、寝不足で、今は猛烈に眠くて、半分寝ぼけたようなもうろうとした気持ちのなかで書いている。このため、今回の釣行はあまり詳しいことは書けそうもないので写真を見てご判断いただきたい。
 さて、待ちに待った高原川の鮎釣り解禁に備えて、昨夜(26日)午前零時に仲間と3人で東京を出発。中央道松本インターから安房トンネルを経て高原川に着いたのは午前4時頃だった。家を出る頃から雨で、途中で少し強めの雨になり、「今日はカッパを着ての釣りになるな」とは思っていた。しかし、まさか川が増水するほどではないだろう、と思いつつ双六谷の橋の上から川を見て、びっくり。ご覧のように川幅一杯まで濁流が流れる大増水で、とても釣りなど出来そうもない。どうやら、夜のうちに飛騨地方では相当の大雨が降ったらしい。
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 小生にとっては今年初めての鮎釣りで、張り切っていたのにとんでもない歓迎を受けてしまった。午前6時頃、普段なら早すぎる時間だが、今日は解禁だから起きているだろうと、たかはらがわさんに電話して状況を確認した。彼が言うには今回の増水は夜中の1時ころ集中豪雨的な雨が降ったらしく、今後数日間鮎釣りは無理だという。それではどこか雨の影響の少ない逃げ場となるような川はないかと聞くと、東の方に行くほど雨の影響はないのでこちら方面を探せという。長野県内の川として、天竜川、木曽川があげられるが、ここは同じように増水しているかもしれない。釣りが出来る可能性が高いのは千曲川である。これなら松本まで戻って長野道、上信越道を経ての帰り道だから、もし増水で駄目でも諦めはつくと思ったのだ。
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 千曲川はほぼ平水で釣りは出来そうである。上山田温泉付近から川沿いに上小地区まで見ていくと、すでに釣り人が竿をだしているのが見える。写真は千曲川本流、上田付近。水は薄い笹濁り程度で、問題なく釣りは可能のようだ。しかし、どこもみな釣れている様子ではない。それに千曲川本流はあまり川がきれいではない。ここの鮎は型がいいと評判だが、何か泥臭い感じがして食べてもおいしいと思わない。鮎釣りには強いこだわりを持つU氏の意見に従って、本流はパスして水のきれいな支流の依田川で釣りをすることに決定。
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 美ヶ原、霧ヶ峰を源流に持つ依田川は、さすがに水がきれいである。しかし、ヤマメが住む川だけに水温がやや低く、午前中はアタリが遠かった。写真は丸子橋上の瀬を攻めるOカメラマン。
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最初に釣れたのがこの鮎。ヒットしたら、グングン下流に走り出し、糸をが切られるかもしれないほど強いファイトをした。プロポーションの立派ないい鮎で、これをオトリに取り替えたら、すぐに次ぎの鮎が掛かってきた。しかし、その後はなぜか順調とは言い難く、結局足が痛くて釣りを止める3時までの間に5尾の鮎しか釣れなかった。U氏とO君はまだ釣りを続けていたが、小生は竿を仕舞ってその後は蝶を追ったりしながら二人の釣りを見ていた。足の痛さは半端ではないので、このままだとまだ本格的な釣りは無理かも知れない。
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by weltgeist | 2010-06-27 23:15

湿地帯のミドリシジミ撮影は失敗だった (No.755 10/06/26)

d0151247_20591634.jpg 興味の無い人には蝶だの鳥だの花の写真を撮っても毒にも薬にもならないつまらない写真に過ぎないと先日悪口を書いたばかりだが、今日はまたまた蝶の写真を掲載することとなってしまった。従って、蝶に興味のない人はきっと面白くないからスルーしていただきたい。
 つまらない写真になりやすい蝶の写真をなぜまだ撮っているのか。それは小生が蝶が好きだからではあるが、それ以上に感じるのは蝶ならいくら撮ってもプライバシーは関係ないからだ。何の気苦労もなしに思いのままに撮影できるのは本当にストレスがなくてよろしいのである。
 今回のターゲットはミドリシジミ。ゼフィルスといってこの時期に木々の梢の所を飛んでいる緑色に輝く翅を持ったきれいな蝶である。大きさは翅を広げて2㎝くらいの比較的小さなシジミチョウである。蝶の種類としてはそれほど珍しいものではないが、彼らは湿地帯に生えるハンノキを餌にしているので、この木があるところにしかいない。
 とくに東京周辺では湿地帯の多くが埋め立てられて、水田や宅地になって生息地が極端に少なくなっている。小生が散歩する前の森にも非常に小さな湿地があり、ここに10本弱のハンノキが自生している。こんな少ない木でも「もしかしたらミドリシジミがいるのではないか」と思って昨年は10日くらい通って、ようやく一度だけ目撃することが出来た。東京周辺でも湿地帯とハンノキがあれば細々でも生息出来ることを確認したのである。だが、昨年その姿をカメラに納めることは失敗した。ミドリシジミの習性がよく分からず、無闇に出かけたから無駄な空打ちばかり繰り返してしまったのである。
 今年は昨年の敗退に懲りて、餌のハンノキが生えている湿地帯を何カ所かマークしていて、そこを重点的に調べてみることにした。そして昨日、ワールドカップ、デンマーク戦が終わった直後の午前5時半に家を出て、その場所でついにミドリシジミと出会うことが出来たのである。
 だが、ミドリシジミがいるのを見つけただけではまだ駄目である。彼らはいつもはハンノキの梢付近にいて、夕方には群れになって飛び回っている。10m以上ある高い場所だからそれを撮影することなど難しいのだ。ところが、連中は朝方はハンノキの下周辺にある草のうえなどに降りてきていることを先輩から教えてもらった。それを狙って昨日の早朝に出かけたのである。
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 狙いを定めた湿地帯に行くと、教わった通り下草の上にミドリシジミが降りてきているのを発見した。それが上の写真である。昨年は 高いところで激しく飛び回るのに手も足も出なかったが、それが今目の前で休んでいる。さすがに先輩のアドバイスは適切だ。しかし、まだ薄暗くて光量が足りないから最初の一発は外部ストロボを焚いて撮ってみたが、それでも逃げないでいる。気温の低い朝はまだ連中も半分寝ぼけているのだ。
 しかし、ただ葉っぱに止まっているだけの蝶の写真などそれこそ面白くない。数枚撮ったところですぐに飽きてしまった。出来れば彼らの特徴である緑色に輝く美しい翅を開いて、朝の光の中を飛び立っていくところが撮りたかったのである。だが、そう思っても相手は言葉が通じる人間とは違う。自然の中で思い通りに生きている虫だからこちらの命令など聞いてくれるわけはないのだ。翅を開けといくら小生が念じても気が向かなければ開いてはくれないのである。
 ここからは待ちの時間をどこまで耐えられるか、忍耐の問題となる。ミドリシジミは時々少し移動するが、まだ梢に上昇していく気配は見せない。上に飛び立つ直前には翅を広げるだろう。小生は彼らが上に飛んで行くコースを想定して、その方向にカメラを向けてチャンスを待つ。だが、翅は止まっているときでも一瞬開くことがあるのだが、ものの0.5秒くらいで閉じてしまうから撮影のチャンスとはならない。何度かそのチャンスを逃がしているうちにヤブ蚊とブヨがいっぱい飛んできて、半袖で無防備の両腕に容赦なく食いついてくる。藪の中で、ひたすら待ち続けるのは楽ではないのだ。
 最初のミドリシジミはどうやら雌のようで、10分ほどじっとしていたと思ったら、いきなり梢の方に上昇してしまった。早すぎてとてもシャッターを押すチャンスなど無かった。8時半までの間に、3頭ほどが同じように下草に降りて来ているのを見たが、どれも翅は開かない。時々開きそうな思わせぶりをする奴もいるが、小生を見透かしたかのように開かない。そして、9時前には全部がまた梢に向かって素早く飛び立ってしまい、結局昨日の撮影では狙ったアングルのものは全部駄目だった。
 家に帰ってその成果をPCで拡大して確認したが、下のような中途半端なものを撮るのが精一杯であり、昨日の作戦は完敗に終わってしまった。まもなくミドリシジミ発生のシーズンは終わる。明日は鮎釣りの予定だから蝶のリベンジは出来ないだろう。体は一つしかないのだ。鮎釣りも楽しい、しかし、蝶の撮影も再挑戦したい。それができるのは来週の月曜日以降だが、そのときまだ彼らがいいるかどうかは分からない。ミドリシジミとて都合があるだろう。久しぶりの鮎釣りも楽しみたいという欲張りな小生の都合に彼らが合わせてくれるかは保証の限りではないのだ。
 一期一会、すべてはそのときそのときの一瞬で終わりである。「後でまた撮ろう」なんて考えは甘いのだ。
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by weltgeist | 2010-06-26 21:45

明後日の鮎釣り準備で大忙し (No.754 10/06/25)

 明後日の日曜日は久しぶりに鮎釣りに行く予定をしている。しかし、数ある釣りの中でアユ釣りくらい敷居の高い釣りはない。道具立てが極めて特殊で、しかも複雑である。鮎釣り専用の竿はもちろん、仕掛けは複雑で繊細きわまりない。これにオトリを入れる缶とか釣れた鮎をしばらく生かしておく引き舟、さらに川の中に立ち込んで釣るから、ウエーダーかウエットタイツが必要と、かなりの重装備を用意しておかなければならない。
 しかも鮎の釣り具は高い物が多い。とくに鮎竿は馬鹿みたいに高額である。安いものでも数万円、高い物は40万円ほどする。単なるカーボンの筒でしかない鮎竿が何でそんなに高いのか。値段相応の性能差があるのかと疑問を持たれるだろうが、使っている立場として言わせてもらえば、やはり数万円の普及品と20万、30万円の物とでは性能の差は明確に出てしまうから、高くてもこうしたものを買いたくなってしまう。年金生活で苦しい小生でも今持っている鮎竿は定価が30万円を越えたもので、これ以下だと快適な鮎釣りは難しくなると思っている。
 こんなであるから何の道具も持っていない初心者がいきなり鮎釣りを始めることは難しい。また、かりに同行する人に道具一式を借りたとしても、9m以上ある長い鮎竿を自在に扱い、髪の毛より細い糸で出来た仕掛けをトラブルなしに使いこなすのはなかなかたいへんである。鮎釣りをやるなら覚悟を決めてじっくり腰を据えてやらなければならないのだ。
 だがこうした間口の狭さ、敷居の高さをクリアーすると、鮎釣りくらい面白い釣りはないことに開眼するのである。生きたオトリを野鮎の縄張りの中に誘導していくと、怒った野鮎がオトリに体当たりの攻撃を仕掛けてくる。このときオトリの周りにつけられた掛けバリに野鮎は引っかかってしまうのだ。わずか20㎝ほどの鮎なのに、ハリに掛かるとまるで雷に撃たれたような衝撃を受ける。鮎釣り師は野鮎のテリトリーにオトリを誘導させ、うまくハリに掛けさせて取り込むまでの一連の操作がたまらなく面白いと感じているのだ。
 鮎釣りは循環の釣りと言って、釣れた野鮎をすぐにオトリとして使う。オトリが元気なほど野鮎が攻撃を仕掛けてくるからだ。だから、初めは不調でもうまく野鮎を掛けることができれば、オトリが元気なものに代わって、次の鮎を掛けやすくなる。わずか1尾オトリが代わっただけで、劇的に状況が変わって、次から次へと釣れ続くことがしばしばあるのだ。
 ところが、これが逆に釣れないと、オトリはどんどん元気がなくなり、それだけ野鮎を掛けることも難しくなってくる。悪い方へ悪い方へと落ち込んでいくのである。しかし、たまに弱ったオトリに野鮎が掛かることがある。多分、交通事故のようなことだろうが、それが釣れたことで、またオトリが元気になって先ほどまでの不調はどこへ行ってしまったのかと思うほどの上昇基調に転じることがあるのだ。
 このように目まぐるしく変わる状況に釣り人は驚喜したり絶望したりしているのである。釣れているときは「俺って、釣りの天才ではないか」と思う反面、一度釣れなくなると、さらに落ち込んで最悪の気分になってしまう。鮎釣りの面白さは、こうした運気に翻弄されるところにあると言ってもいいだろう。それは丁度いまやっているワールドカップと同じである。大会前の日本は全然勝てなくて不安視されていたのが、カメルーンに勝ち、本日またデンマークにも勝って予選通過したら、急に元気がでてきたのと似ている。ベスト8どころかベスト4も夢ではないと思い始める我田引水的な楽観論。それは入れ掛かり状態の鮎釣り師の発想とまさに同じなのだ。
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by weltgeist | 2010-06-25 23:57

キルギスの民族紛争に思うこと (No.753 10/06/24)

 いよいよ参議院選挙が始まった。菅内閣信任の意味を持つ今度の選挙で、主な争点は消費税のアップになってしまった。少し前まで沖縄の基地をどうするか、普天間に基地を作るのか大騒ぎをしたのが、もうそんな問題はとっくに解決したかの話になっていて、民主党も自民党も同じように消費税を10%に上げると仲のいいことを言いはじめている。政党同士が激しく戦い合って、決着が付かなければ銃を出してでも戦うなんてことはないから、日本の政治情勢は平和であると思ってしまう。
 しかし、世界の政治情勢を見るとあちらこちらで人が死ぬほどの混乱が起こっている。争いの火種は尽きないようだ。驚いたのは、小生が昨年行ったキルギスでも今年の4月に反政府デモで87人もの死者を出し、前大統領のバキーエフが追放され新政権が出来たことだ。前政権は汚職がひどく、国民は新しい政権が希望を与えてくれると期待したのだ。しかし、その期待は裏切られたようで、6月に入ると南部の地方で前政権がらみでキルギス系住民とウズベキスタン系住民との間で民族衝突が起こり100人以上の死者が出ている。この地域を不安定にし、現政権を打倒するという危険な政治的意図が見え隠れしているのである。
 かってユーゴスラビアでも使われた手で、こうした民族紛争(The ethnic conflict )にまで発展させて新政権に揺さぶりをかけるのである。住民は銃を使って対立民族を殺害し始めたから、悲惨な民族衝突の新たな始まりがキルギスでも起こりつつあるかもしれない。
 昨年、我々が行ったときは、表面上は何の問題も感じさせないほど平和な様子だった。人々は温厚で、親切、人なつっこく、銃を持って撃ち合いをするような人たちには見えなかった。しかし、住んでいる住民の間では複雑な民族対立があったのだろう。パルナシウスという蝶を採るには最高の場所だったキルギスに今年はもう危なくてとても行けそうもない。小生、個人的には平和だった去年のうちに行っておいて本当に良かったと思っている。
 昨年キルギスで出会った人たちはみんないい人ばかりだった。彼らは今回の暴動でどうなったのだろうか。銃をとって戦いに参加したのだろうか。温厚だった人たちの中に流れる民族の血がわずかなきっかけで沸騰して、爆発する民族紛争。これは理屈ではない。血が心に訴えるのだろう。それだけに一度問題が起こると、数十年、いや数百年にわたって尾を引いて、和解を得るのは容易でないことは歴史が教えている。
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今回の暴動の中心地となった南部のオシの町も、昨年は平穏で、小生がオシの町中で捕虫網を出して蝶を採りだしたら、この子たちが面白がってついてきた。右の女の子はキルギス系、左は多分ウズベク系ではないだろうか。二人はたいへん仲良しのようだったが、今回の民族対立でその仲がどうなったか気になる。(左の女の子の左手に注目。また、右の女の子はすでにイヤリングをつけている)
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パミール高原の入り口にあたるダロートコルガンという町の近くで出会った人たち。右の黒っぽい帽子を被っているのは多分ウイグル族、左の白い民族帽を被っている人たちがキルギス系なのだろう。民族についての知識のない小生には正確に区別することは出来ないが、どの町でもこのように多様な民族が入り交じって生活しているから、一度衝突が起こると根深い問題に発展するのだろう。
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北パミールに入ってすぐのところで馬に乗った青年に出会った。顔つきからして東洋系だから、彼も多分キルギス人だろうと思う。
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パミール高原の山の中で出会った遊牧民のお母さんと子供。住んでいる所は町から相当離れた山奥で、電気も来ていないようだった。写真を撮らせてもらったら、「チャイ、チャイ」と言われた。多分「お茶を飲んでいけ」という意味だったんだろうが、このときは蝶の採集に忙しくて折角の誘いを断ってしまった。あとから思うに、お茶をごちそうになれば彼らの生活の一端が見えたろうに、残念なことをしたと思っている。
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これもキルギス南部のアラベルパスという場所でテンシャンウスバシロチョウを採っていたら、彼らがやって来て、何かロシア語で聞いてきた。ガイドの通訳で、小生の捕虫網が魚捕りの網に見えたらしく、「魚は捕れたか」と聞いてきたのだ。それでロシア語で「バーボーチカ=蝶」と言ったら、「日本からわざわざ蝶を採りにきた物好きな奴だぜ。それなら俺たちで見つけてやろうじゃないか」とでもロシア語で言ったのだろう。草の間に隠れているテンザンウスバを全員で探し出し、何頭もつかまえてくれた。言葉は全く通じなかったが、たいへん人なつっこい人柄に心は十分通じ合えた。彼らも今度の紛争でひどい目にあっていないか気に掛かる。(真ん中の少年の左手の上にテンザンウスバが止まっている)
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by weltgeist | 2010-06-24 23:09

肖像権とプライバシー (No.752 10/06/23)

 今日は妻の知り合いがかわいい男の子を連れてわが家に遊びに来た。まだ2歳になったばかりのこの子がとてもかわいく、すぐに小生とも仲良くなった。しかし、せっかく家に来たのだから小生のカメラで記念写真くらい撮ってあげようとしたら、うまく撮れない。子供写真を撮り慣れていない小生はめまぐるしく動く子供についていけず、子供の写真撮影の難しさを実感した。
 小生の周りで新しくデジタルカメラを買う人は、たいていが自分の子供の記録を撮るのが目的である。そうした人はわが子の一番いい仕草、表情を撮っていて、撮影技術も上手になっていることだろう。そんな人に負けないよう小生も慣れない手つきで頑張ってみたのが下の写真である。うまくいったかどうかはともかく、久しぶりに子供を撮ってみて、彼の表情だけは何とかとらえたとは思っている。子供を撮り慣れている人からは、色々言いたいことがあるだろうが、自分ではギリギリ及第点はとれたと大甘の判定をしているので、ここはお許しいただきたい。
 ところで、撮影した画像を知り合いに渡すのとともに、このかわいい子供を小生のブログの写真に使いたいが、どんなものだろうかとたずねた。知り合いは、「子供だけの写真なら誰だか分からないから問題ない、使ってもいい」とのうれしい許可をくれた。
 小生のブログでは蝶や花、鳥の写真は多くても、人物の顔が分かる写真は極端に少ない。プライバシーの問題があるから、人の顔を出したくてもおいそれと使う訳にはいかないのだ。どうしても使う場合は、「ブログに使ってもいい」という許可を受けた人に限っている。それ以外の人は顔にモザイクを掛けた不自然な写真を使用しているが、これでは面白みが半減する。だから差し障りのない蝶や花の写真になってしまうのである。
 しかし、蝶や鳥、花の写真はきれいではあっても、それ以上のものにはなり得ない。珍しい蝶や鳥の姿などをうまく撮れれば自分としては満足だろうが、それに興味のない人に見せても「それがどうした」と言われて芳しい反応は得られない。単なる自己満足の写真でしかないのだ。
 いい写真というのは、多くの人に感動を与えるものである。蝶好きな仲間内だけでしか「良い、悪い」が言えないものは、それなりの価値しかない。誰にも万人に共通する関心、それは「人間」を主題にして撮影したものに他ならないと思う。だからせっせと人間をテーマにした写真を撮りたいと思っているのだが、プライバシーの壁は厚く、それを乗り越えていくことは難しいのだ。
 そんなことばかりやっていると、写真界には大きなブレーキがかかって、良い写真を生み出す機会が無くなっていくことだろう。プライバシーは個人を守る重要なものではあるが、同時にそうした保護の壁に守られることが人間の活動を弱くする元凶ともなるのだ。蝶や鳥、花ばかりに目を向けて、人間に関心を示さないカメラマンが増えていることに危機感を感じているのである。
 今日はそんな制限なしに撮影出来た絶好の機会でもあったと言いたいところであるが、実はこの子と遊ぶのに夢中になって写真はほんの少ししか撮れなかった。小生、この子にどうやら好かれたらしく、「山羊爺ちゃん」というあだ名を付けられてしまった。小生の白いヒゲが山羊に似ていることからつけたのであろう。この子に髪の毛やヒゲを引っ張られて遊んだのだが、こんなかわいい子供なら何をされても文句など言えない。今日は「山羊爺さん」に徹した楽しき一日であった。
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by weltgeist | 2010-06-23 22:54

勝ち組人間なんか目指すな (No.751 10/06/22)

 昨日はリタイアした「偉い人」の困った話を書いた。今日はその続きで、現役でいる「偉い人」のことについて小生の極めて個人的な見解を書いて見たい。世の中にいっぱいいる「偉い人」が本当に偉い人なのか、もう一度ここで自分の意見を表明しておきたいのである。
 偉い人は社会的には一応成功者と評価されている。最近はやりの言葉で言えば「勝ち組」に入った人である。勝ち組に入ることは競争に打ち勝ったのだから、生活の不安はないし、将来に明るい展望を開くことが出来る。
 現在のような過剰な競争社会では、勝ち組に入ることは非常に重要である。彼が思い描く人生の夢の多くがそれで実現できるからだ。しかし、勝つ者がいれば負ける者もいる。確率的には負け組の方が圧倒的に多い。勝ち組、負け組の社会は、ごく一部の人だけがいい思いを出来る不公平社会である。それだからこそ、人は勝ち組入ろうと猛烈に努力するのである。
 だが、それでどうしたと小生は問いたい。勝ち組に入ったから、本当に幸せになれたのか、小生は一人一人に聞いてみたい気がする。これは小生の非常に限られた範囲での経験でしかないが、そうした勝ち組の人の多くに胡散臭(うさんくさ)いにおいをかぎ取れてしまうのだ。自分の人生を自信たっぷりに語る勝ち組人間を見ると、「なんて単純な奴なんだ」と思えてしまうのである。
 勝つことがすべてで、人生の価値観もそのことにしか置いていない。他にある大切なものを捨てているのだ。一番大きな捨て物は、周りにいる人たちとの信頼関係だ。家族、仲間、友達のことを思うより、第一に自分が勝ち上がって行くことだけを考える。その過程で、邪魔となれば友人さえたたき落としかねない危険な価値観への盲信である。
 小生にいわせれば、そんなことまでして手にした「勝ち組」なんて、糞食らえである。そんなものに入らなくても結構。負け組人間として細々と生きて行く方がよほど人間らしく生きられる気がするのだ。
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ロートレックが描く絵はどこか陰がある人物を描いたものが多い。この華やかな女性は「勝ち組」に入るだろうか。青白い病的な肌の色と、悲しげで血走った目にこの婦人の暗い心の内が現れているように見える。一見すると華やかでありながら、この人はひどく辛い人生を歩んできている気がしたのである。(パリ、オルセー美術館で撮影)
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by weltgeist | 2010-06-22 23:03

内面からにじみ出る豊かな人間性 (No.750 10/06/21)

d0151247_224426.jpg およそ人と話しをしていてつまらないのは「深みのない人」だ。とくに「俺は偉いんだ」という態度を前面に押し出してくる人ほどその内容、実体がないことが多く、そんな人と一緒にいるとうんざりしてくる。本人は「自分ほど優れた人間はいない」と自信満々に思い込んでいる。だが、その根拠がくだらないもの、例えば大会社の重役だったとか事業の成功で大金持ちになったといったたぐいの「肩書き」にすぎず、それが人間を支える一番重要なものだと疑っていない。まったく浅薄な考えに凝り固まっているのである。
 小生のようにリタイアして仕事から離れた人間になると、現役時代に支えていた様々な肩書きなど我々の間では全く意味がなくなってくることに気が付く。ところが、リタイア直後の初心者は「俺は大会社の重役だった」「どこそこ大学の教授だった」といった「偉い肩書き」がいつまでも続いていると錯覚している。新しい環境に入って誰もが同じ人間として平等にスタートするはずなのに、現役時代の栄光がまだまだ続いていると誤解しているのだ。かって偉い人だったほど昔の栄光から抜け出せないでいるのである。
 実は先日、そうした人の一人から、小生、頭ごなしに命令されて不愉快な思いをしてしまった。某外資系企業の「お偉いさん」であったと噂されるその人は、以前から「おれより偉い者はいない」という態度で他の人に接していたから、いつしか誰からもまともに相手にされないようになった。ところがそこにたまたま小生が近づいてきて、恰好の「部下」に見えたのだろう。いきなり小生に無礼な態度で命令を言ってきたのである。
 しかし、彼の「名誉のバックボーン」をなしていた物は本当の意味で人間の価値を決めるものだったのだろうか。現役時代は会社組織の中で上役・部下の関係が、厳然と保たれるのは仕方がないが、それが必ずしも人間の価値を決めるものとはなりえない。現役を離れた生身の人間になれば、大金持ちも大企業のトップも、平社員も、フリーターも皆同じ一線に並ぶはずである。誰もが平等になったときには人の価値は別な面、すなわちその人の持つ人間性の深みから評価されてくるだろう。高い人間性を持った人は、自ずから尊敬の念を集め、皆から認められてくるものなのである。
 そうした人間性は何も言わなくとも、その人と接すれば自然ににじみ出てくるようなものである。人にひけらかす必要もなければ、隠す必要もない。それは長い人生の間に培われたその人の内面の苦闘から自然に身に付いてくるものである。無理矢理造り出したものではない。即席には造れない長い試練を乗り越えることで、少しずつ輝きを増してくるものではないかと思っているのである。
 人間、偉い人になる必要はない。それより深みのある、人間性豊かな人になりたいと思っている。苦難を恐れるな。努力を怠るな。自分を磨くことを心がけ、それを人に決して誇ってはいけない。ごく当たり前のこととして静かにしっかりやりとげれば、人間性は自然と豊かになっていくと小生は信じている。
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ルーカス・クラナッハ作。ザクセン選帝侯・フリードリヒ3世 の肖像。宗教改革ののろしをあげたマルティン・ルターをワルトブルグ城にかくまい、ここでルターは新約聖書のドイツ語訳を書き上げている。左上は写真を撮ったときの記録を失念したが、多分、長男のフリードリッヒ1世だと思う。(上のフリードッリヒ1世はベルリン絵画館、下のフリードリッヒ3世はルーブル美術館で撮影)
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by weltgeist | 2010-06-21 23:57