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明日から入院のためブログ更新はしばらく休みます (No.731 10/05/20)

 病気のスーパーマーケットとあだ名されている小生、明日からまた入院となった。前回に続いて脊柱管狭窄症の治療のためである。退院の日取りは分からない。多分10日から15日くらいはかかるのではないだろうか。長年悩み続けている腰痛難民がの最後の拠り所としての入院である。
 今まで何度も希望を裏切られ、そのつどつらい思いをしてきたが、今度こそ痛みの元を取り除いてもらいたいと思っている。これまでの経験からみてそれは容易なことではないだろう。しかし、今の小生には藁をも掴みたい気持ちになっている。某医科大学のT先生の治療を信じてやるしかない心境にあるのだ。
 そんなわけで、明日からブログの更新がまた出来ない。いつもここを訪れていただいている皆さんには申し訳ないが、退院してくるまでの間、休筆させていただきたい。
 まもなく鮎釣りが解禁になるというのに、ベッドで寝ているのは情けないけど、仕方がない。釣り仲間は皆楽しい解禁を迎えることだろうが、その間、小生は本を読むか、病院のテレビを見るくらいしかやることがない。くだらないテレビで時間を無駄にするのはもったいないから、もっぱら読書に専念するつもりだ。本日はそれに備えて図書館の制限一杯の10冊まで本を借りてきている。自宅にいれば雑用で落ちついて本を読むことも出来ないが、病院では読書の時間はたっぷりある。
 今回のことは好きな読書の時間を神様が与えてくれたのだと思って、普段読めなかった本と読書三昧するつもりである。前回の入院のとき、病院のベッドで変な座り方をして本を読んでいたら、友人のマダムパスカルさんやチャトラママさんから、「腰を痛める良くない座り方」だと注意された。今回はそうした座り方にも注意を払って、とにかく、今度こそ治して帰還したいと思っている。
 韓国に鮎釣りに行く秋山さん、うらやましいです。B巨匠にはよろしくお伝えください。「ロシア諦めていません」とお願いします。たかはらがわさん、かわおやじさん、turikiti23さん、そのほか釣友の皆さん、みんな良い鮎釣りをして、小生の分まで釣りまくってください。小生は、しばらく病院でピットインして体調を整え、「真打ち」としてうかがいます。
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主よ。私の祈りを耳にいれ、私の願いの声を心にとめてください。私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが応えてくださるからです。  詩編86:6-7
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by weltgeist | 2010-05-20 21:40

村上春樹、「1Q84」を読んで失望 (No.730 10/05/19)

d0151247_204791.jpg 今まで世間で話題になったベストセラーと呼ばれる本で良かったと言われるものは、小生の場合ほとんど無かった。経験からベストセラーで馬鹿売れした本はろくでもない物ばかりだから、近づかないようにしていた。しかし、村上春樹の1Q84が300万部も売れたと聞き、ここまですごいとその理由を知りたくもなる。それで小生としては異例の本屋さんでの購入で1Q84を読んだ。出来れば図書館から借りたかったが、1Q84はいくら待っていても「貸し出し中」でこのままだとあと1年くらいは待たないと読むことが出来そうもないと言われ、「本屋」に行ったのである。と言ってもそれは古本屋のブックオフ。あれだけ売れたのだから古本で出ているだろうと思ったら、見込み通りBOOK1と2がそれぞれ950円で売られていた。定価の半額である。
 最近さらにBOOK3が出たのでセットとなると3冊全部ないと揃わないことになる。とりあえずBOOK1だけを購入して、面白そうなら2と3も買うことにした。そして、とにかく1だけは読んだ。しかし、正直言って全然面白くない。こんな小説のどこが良くて300万部も売れたのか理解出来なかった。BOOK1を最後まで読むのもはっきり言って苦痛だったが、今日はその感想を述べたい。

 小生、村上春樹の作品を読むのは今回が初めてである。ただ、彼が一昨年イスラエルの文学賞の受賞式で「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵の側に立つ」と言ってイスラエルのガザ侵攻を非難したことに人間的な興味を持っていた。だから彼の作品はきっとヒューマニズムに貫かれたものだろうと、何の疑問もなく1Q84を読み始めたのである。
 物語は「青豆」と言う「女仕置き人」と「天吾」という小説家の卵の話が交互に出てくる構成で、出だしからなかなか緊張した場面で読者を引き込む。文体もストーリーの展開も各所に伏線を仕込んでいて、何か推理小説を読んでいくような面白さはある。さすがに世界的な評価を受ける作家だけあって、こんな構成は並の小説家には書けないだろうな、という気がする。
 しかし、読み進んでいくうちに、何か引っかかるものがある。ストーリーとしては面白いのだが、それ以上に小生の読書欲をそそるものがないのだ。読んでいて「もうこれ以上読みたくない」という気持ちになってしまうのである。そんな苦痛がどこからきているのか、最初は分からなかった。疑問の始まりは主人公の青豆と天吾の現実性の薄さである。交互に登場してくる青豆と天吾は、村上の巧みな文章で個性的な人間として際だって書かれているのだが、何故か実在感を感じさせないのだ。
 青豆はブランド物のファッションに身を包み、一流ホテルのバーで高級そうな酒やワインを飲んでいながら、人を殺し、男を漁ってセックスをする。だが、単なるスポーツトレーナーをしている30弱の女性が、そんな優雅な生活など出来ないことはすぐに分かる。若い世代、20代くらいの人なら魅力的な存在と映るのだろうが、小生の年代では「こんな若者はいない。虚構の中の人物だ」という気持ちが起こって、ついて行けなくなってしまうのだ。
 文学に登場する人物は必ずしも実在感がなくても構わない。カフカの「」や「審判」に出てくる主人公「」は、およそ現実離れした人間である。しかし、それでも読者はカフカの持つ魔術的な力で不思議な現実感を持った人間として「」を了解出来ている。ところが、1Q84で登場する人物、青豆も天吾も、ふかえりも、戎野も、柳屋敷の老婦人も、タマルも、その他沢山の人々のいずれもが、小説という虚構の中でしか登場出来ない人物であると読めてしまうのだ。どの人物も読者から突き放された所にいて、読者の心の中に入り込んで、気持ちを引っかき回してくれるような人物とはならない。いつも自分とは縁のない別世界の冷たい人形が動いているようにしか見えないのだ。
 1Q84で小生が期待したのは村上春樹の「卵の側に立つ」と言ったヒューマニズムである。ところが、ここに登場する人物たちはいずれもリアリティがないだけでなく、人間のネガティブな面しか出していない一面的な人物として書かれている。恰好いいクールな人間ではあるが、冷たく利己的で、自分だけの判断で世の中を動かして行こうとする。麻布のお屋敷に住んで夫の暴力を受けた妻たちを助ける老婦人にそれが典型的に現れている。暴力をふるった粗暴な亭主は悪い奴だ、という皮相的な理由だけで青豆に殺させるのである。たしかに妻を暴力で痛める人間は悪い奴かもしれないが、少なくともノーベル賞候補になるような作家なら、「人間における悪とは何か、罪とは何か、そしてどのような罰をうけるのがふさわしいのか」ということへの彼なりの解釈を示して欲しかった。人の価値を非常に単純な善悪だけで判断し、「悪」と評価された者は始末される。人間ってそんな単純なものですか、と村上に問いたい感じである。
 要するに、彼は「卵の側に立つ」と言いながら、実は人間の本質が見えていないのだ。逆に人間の中には卵をぶっつけられるような悪辣な存在がいて、それを「正義感に燃えた仕置き人」がやっつけるのが「善」であるという前提に立っている。しかし、やっつける人間の側にそんな権利があるのだろうか。視点を変えれば彼だって「悪い面」があるのに、それを見ていない。それは村上の人間観、すなわち人間に対する愛情がどこかで欠けていることから来ているのではないかと小生は思った。
 登場人物のすべてに、人間のネガティブさだけが見えて、読者はヒューマンな思いを見いだせないのである。アブノーマルなセックスで過ごす主人公たちにはやりきれなさしか感じない。だから読んでいる我々は主人公に感情移入出来ないのだ。本の中にとけ込むような没入感を持って味わう感動というものがないのである。
 正直いって、1Q84は小生が敬遠していた「ベストセラーブック」の一つに過ぎないと思った。小説としてのテクニックのうまさは認める。しかし、それだけが文学ではない。我々は最後のページを読み終えて本を閉じたとき感じる深い感動を求めているのである。今回はBOOK1しか読んでいないので、1Q84全体の評価とするには危険かもしれないが、小生この後の2、3を読むのは時間の無駄だと判断した。
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by weltgeist | 2010-05-19 23:42

外国からやってきたお客様、アカボシゴマダラ (No.729 10/05/18)

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 月曜日に薬師温泉でフィリピンからの渡り鳥であるオオルリを見たと思ったら、今朝はまた中国からやって来たお客様を見た。我が家の猫の額ほどの庭で白っぽい蝶、アカボシゴマダラがバタバタやっているのを見つけたのだ。この蝶は本来日本に生息していたものではなく、中国大陸からやってきた「外来種」である。まだ生まれたばかりでうまく飛べないようで、手で簡単につかまえることが出来た。
 風に乗って大陸から飛んで来たものが日本に定着したのか、それとも誰かが放蝶したものが居着いたのか定かではない。昨年の4月に紹介したホソオチョウは人為的な放蝶によるものだが、アカボシゴマダラの日本侵入は良く分からないが、住み着いてからの生息域拡大はホソオチョウの比ではなく、急速に範囲を広げている。そのおこぼれが我が庭にまで波及してきたのだろう。
 外国からのお客様といえばアカボシゴマダラだけではない。今日はアラスカ、アンカレッジに住んでいるOさんが久しぶりに日本に帰国したというので、昼間新宿で会った。彼は山屋でマッキンレー登山でアラスカに行った折りに雄大な自然が残っていることに感激し、日本での仕事をさっさと辞めてアンカレッジに住み着いてしまった。アラスカを心から愛し、ここで全人生をまっとうしようと本気で思っている人である。ところが最近老人性眼病で目が見えにくくなってきた。治すには手術しかないのだが、医療先進国アメリカでもアンカレッジは田舎、いい手術を受けるならシアトルまで行かないと駄目と言われ、それならいっそ日本でと、一時帰国したらしい。
 アメリカの医療費は馬鹿高で、以前彼が心臓のバイパス手術を受けた時、術後の集中治療室の値段は一日2千ドル、一般病棟二人部屋に戻っても千ドルだったというから、貧乏人はアメリカで病気にはなれない。小生、現役時代は「リタイアしたらしばらく海外でのんびり暮らすぞ」と思っていたが、こうしたOさんの苦労話を聞いて今ではその願いは引っ込めている。入院ばかりしている小生のような人間は海外で暮らすことは難しいのだ。治療費ももちろん問題だが、お医者さんに病状を説明するにも、外国語だとこちらの考えを100%伝えることは難しい。そんなことを考えると、ある程度元気な時まで海外で暮らすにしても、最後のところで日本に戻ってくるのがいいのではないかと思っているのである。
 しかし、Oさんはアンカレッジに住み着いてすでに30年以上たっている。小生が最初に知り合ったのは1983年だから、それだけでも27年も経過したことになるが、その間一貫してアラスカを愛し、ここに骨を埋める覚悟はずっと変わらなく持ち続けているようだ。今年は長年住んだ家からもう少し広い家に買い換えたというから、まだやる気は満々とみた。小生より3つくらい年上なのにすごい馬力の人だと感心する。彼のような強い人でなければ老後まで海外で暮らすのは難しいのではないだろうか。
 別れ際に小生が小型のFMラジオを買いたいので、歌舞伎町のドンキホーテに付き合ってもらったら、狭い所にあらゆる商品が詰まっているドンキホーテの展示方式に目を丸くして驚いていた。土地がいくらでも余っているアラスカでは、こんな狭い場所に「これでもか」というくらい商品を詰め込む店はない。広々した店内でゆったりと商品を品定めするアラスカ方式に慣れていた彼は日本の変貌ぶりに浦島太郎のような気持ちになったと言っていた。
 今日の歌舞伎町周辺には中国や韓国からのお客様と思われる人たちが沢山いて、中国語や韓国語があちらこちらから聞こえてきた。アカボシゴマダラやホソオチョウと同じく外国からのお客様でひしめいていたのだ。お店も変われば歩いている人の流れも変わってきている。Oさんが「新宿も変わったなぁ」という言葉にはとても実感がこもっていた。
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by weltgeist | 2010-05-18 23:58

野球場の思い出 (No.728 10/05/17)

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 人間は時としておかしな物を造り出す。上の写真は所沢にある西武ドーム球場である。遠くから見ると、まるで銀色のお皿を伏せたような異様な姿に見える。以前は屋根の無い普通の野球場だったが、雨の日は野球が出来なくなるからと、このような屋根が被せられた。これでどんな雨降りでも「雨天中止」はなくなった。しかし、野球に全然興味のない小生にとっては、何か悪趣味な建物にしか見えず、これまで敬遠していて近くを通ることはあっても一度も中に入ったことはない。 
 たまたまこれを撮影した日は野球ではなく別なイベントが開催されていたようだが、もちろんこの日もパスした。野球で来なくても興味あるイベントなら行ってもいいかな、という気に少しはなるが、残念ながらわざわざ中に入って見たいというところまではいかない。おそらく小生にはこれからもずっと縁のない建物となることだろう。
 ドーム球場に入ったことのある人によれば、中はすごくきれいで面白いところだという。しかし、考えて見ると小生は西武ドームどころか東京ドームにも行ったことがないのだ。いやいや、さらに思い出すと以前の屋根の無かった後楽園球場も行ったことがない。
 小生が野球場と呼べる場所に行ったのは、まだ大学生だった頃の6大学野球戦で神宮球場に「行かされた」ことがあるだけである。このときは「行った」のではない。「行かされた」のである。元々運動神経が鈍く、スポーツは好きで無かった小生は、どこの大学の野球部が勝とうが興味はなかった。それが、応援団に入っていた同級生に「頼む。一緒に行ってくれ」と頼まれて行ったのである。彼は怖い応援団の上級生に「お前ら応援出来そうな同級生を集めてこい」と言われ、小生たちを狩り出したのだ。もし、同級生が球場に行く学生を見つけられなかったら、彼は「根性がなってない」と言われてヤキを入れられると話していた。
 当時の大学応援団は不自然なくらい長目にした特性学生服に角帽という独特のスタイルで、これが彼らには恰好よく見えたのだろう。美的意識からして特殊な人たちだった。山岳部など大学の運動部は多かれ少なかれ、旧日本軍まがいのミリタリズムが当たり前だったが、応援団は特別な階級社会を作っていて、4年生は天皇、3年生は貴族、2年生は平民、1年生は奴隷と言われるほど徹底していた。1年生の奴隷はたいへんで、先輩によるしごきは日常茶飯事である。小生を神宮に連れて行った同級生も、最初は先輩を恐れていたが、卒業する頃には「天皇」並になり、後輩をあごで使っていたのを覚えている。奴隷も3年我慢すれば天皇にまで出世出来るのだ。
 その連中に睨まれて嫌々ながら神宮球場まで行ったのだが、わが大学の野球部の戦いぶりを見ていると、不思議と愛校心が湧いてきて、「野球も見ると面白い」とその時は思った。しかし、思ったのはその時だけで、球場に行ったのもこれ一回きりで、後は行っていない。考えてみると、小生にとって野球場に行ったというのは希有な体験だったわけで、球場に連れて行ってくれた応援団の同級生には感謝してもいいのかもしれない。
 今の大学でも応援団というのは健在であの独特なスタイルを踏襲しているのだろうか。アメリカの大学ではフットボールを応援するチアガールがとてもかわいらしいが、まさか、こんな風にはなっていないだろう。応援団はどんなに時代が変わっても、あのスタイルとミリタリズムは絶対捨てないはずである。しかし、最近はファッションの考え方も変わってきている。先日わが家にステイしていったアメリカの大学生たちは、日本の地下足袋やニッカーボッカーが格好いいと言っておみやげに買っていった。同じように美意識も逆転して、あの応援団スタイルがインターナショナルな世界ではとても恰好良い物と思われているかもしれないのだ。もしそうなら、応援団は世界のファッションの最先端を行くわけで、小生は美意識において全く遅れをとったことになる。まさかそこまで行ってはいないだろう。いや、そこまで行って欲しくないと思っているが、昨今の変ちくりんな現実を見るとそれもあながちあり得ないことではない気がするのだ。
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by weltgeist | 2010-05-17 23:57

草食化日本の将来 (No.727 10/05/16)

 先日、サラリーマンをやっていた小生が課長職を命じられたとき、それを拒否した話を書いた。昭和50年代初頭で出世を断る馬鹿者は小生くらいのものと思っていたら、5月6日にNHKが放送した「激論! 若者VS大人」という番組を見て、今の若者が当時の小生そっくりな考えを持っていることを知り驚いた。
 まず第一に現代の若者は出世したくないと思っている。これってまさに小生が本部長に「課長になれ。ただし、それにはヒゲを剃ることだ」と言われて断った言葉そのものである。NHKによれば2009年に新入社員となった若者にアンケートをとったら、食べていけるだけの収入があればいいという人が47.1%もあったという。だから収入も一ヶ月10万円もあればいいと欲がない。お金への欲望が薄くなっているようだ。
 仕事を探すにも収入の高い低いは気にしない。何故ならお金持ちだから幸せとは限らないことを彼らは知っているからだという。出世したいという上昇志向がなく、仕事より趣味が大切。お金より自分らしい贅沢をする方が幸せなのだ。今の若者のキーワードは普通であればいいである。小市民化が大勢なのだ。彼らは一日が仕事だけで終わるのは意味がない。生活はやらなければならないから、オンオフはしっかり切り替えているが、酒も飲まず、車も持たず、仕事が終わればサッサと家に帰り、自分のやりたいことをやる。仕事を終えたらできるだけ早く自宅に帰るのは20代が一番多く71%もいる。仕事より趣味、職場より自宅なのだ。このへんも当時の小生とほとんど変わらない考え方である。
 番組ではそうした考えを持つ若者に対して40代以上の「大人」が「若い皆さんは幸せ過ぎる。甘え過ぎだ。皆さんが普通の生活を望むなら、普通以上の努力をしなければそれも得られない」とか「足(たる)を知る生活もいいが戦う生活も必要だ。みんなは足を知ることで満足するというが、では誰が食べさせるのか」「平社員でいいや、というのは、決められた仕事をやるだけでいいという発想だ。上に行くということは高い意志決定ができる立場になることでもある。それを望まないのか」と反論していた。
 この番組を見た小生と同年代の人たちはきっと腰を抜かすほど驚き、「大人」側の意見に「そうだ、そうだ」と肯いたのではないだろうか。40年前に今の若者と同じような考え方を持っていた、いわば先輩である小生も実はびっくりしてしまったのである。小生の頃は非常に少数の異端者にすぎなかったのが、今は社会的には普通になっているらしいのだ。
 もっとも、番組に出演した「若者」が今の若者全員の意見を代表しているかどうかは分からない。もしかしたら、NHKが草食系の人だけを意図的に集めたのかもしれないし、「大人」の方も良識的な意見の人だけを集めたのかもしれない。そのあたりは分からないが、少なくとも日本国の現状が大きく変わってしまったことは間違いないようだ。ある大人が言ったように、今の若者は幸せ過ぎる、恵まれ過ぎていることが、こうした人間を生んだと言えよう。
 当然のことながら日本の経済成長力は低下せざるを得ない。2000年度のGDPは日本は世界3位だった。それが2008年には19位まで下がっている。これが世界の中の日本の現状である。今の若者の状況がごく普通のものだったとすると、さらに日本は低下傾向を強めていくことだろう。
 番組は最後のまとめで批評家の宇野常寛氏が「まず言っておきたいのは、経済成長は今の日本にもあった方いいとは思う。しかし、草食化が日本を滅ぼすという考えこそが今の日本の経済成長を阻害していると思う。戦後の高度成長期の日本は草食系もいれば肉食系もいた雑食系社会だった。草食系は無理矢理肉を食わされたし、肉食系は出る杭とみなされ、たたいて引きづり降ろす社会だった。昔は本当の肉食的な生き方は出来なかった。なぜそうした雑食を強要する社会になったかというと、戦後みんなが一緒でなければいけないというような考えがあったからだ。しかし、今は草食系が多いにしても、肉食系もいるのだから、こいつらの足を引っ張る邪魔をしなければいいと思う」と言う発言には納得した。
 とにかく日本の成長力が落ちて他国から置いてけぼりを食う状況はこの番組を見て強く感じた。しかし、40年前に草食若人だった小生を思い出すと、確かに今の若者と共通した所は多いが、一つだけ違ったと思うのは、自分は出世は拒否したし、仕事が終われば酒の付き合いもせずにさっさと家に帰り、夜はひたすらバイトの雑文書きに身を入れていた。今の若者と同じように結婚して7年間車も持たず、自分のやりたいことをやり通したけれど、それと同じくらい仕事にも精を出したことである。
 そのことで結果的には人にも多少は認められたし、自分のやりたいことをやって来たという充実感もあった。最後の方で40代の人が「自分の充実感とは仕事を一生懸命やって結果的に仕事から得るものだ。それで感謝されたり、やりがいを感じたりする。結果的にそれでお金が入ってくる」という意見に大賛成である。草食系でいい。ただし自分の生に責任を持って全力で生き抜いてほしいのだ。そうすれば結果はきっとついてくると思うのである。
 しかし、40年来の先輩草食男として、今の草食系を見ると、やる気を感じない者ばかりが見えてしまう。自分探しといいながら怠けているだけの若者ではないかと感じたのも確かである。これが小生の感想である。
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             画像はNHKテレビからのキャプチャーです。
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by weltgeist | 2010-05-16 22:14

ある野鳥の死 (No.726 10/05/15)

 昨日の午後、薬師温泉を出て山の上の方に登っていったら、足もとから青いきれいな鳥が飛び立った。背中がブルーに輝くたいへんきれいな鳥で、思わず飛び去った先を見たら、なぜかポトンと地面に落ちた。というよりほとんど飛べないで、羽根をバタバタしているだけである。
 普通、鳥は警戒心が強くて、人間の姿を見ると高い木の上に飛んで逃げるものだが、地面にいるというのは何か変である。どこかに傷でも負っている様子で、まるでカルガモのように地面を歩いていく。どうやら飛ぶことは出来ないようで、3mほど行って動かなくなった。「おっ」と思い、忍び足で鳥に近づくが、1mくらいまで近づいても逃げないでじっとしている。それで急いで撮ったのが下の写真である。鳥はうずくまるようにして、不安そうな顔を小生の方に向けている。
 だが、最初の写真をデジカメのモニターで見ると露出不足で暗い写りとなっている。多分鳥はしばらく動かないだろうから、内蔵ストロボを照射しても大丈夫ではないかと、一瞬カメラの方に目を向けてストロボを立ち上げる動作をしていたら、鳥が再びバタバタと羽根を動かして逃げだした。しかし、空を飛ぶことは出来ないからまた数m先の草むらの中で立ち止まっている。
 何か悪いエサを食べたのだろうか。農薬のかかった野菜類か、毒虫でも食べて苦しんでいるのか、それとも怪我をして羽根が思った通りに動かせないのか、あるいは寿命で生を終えるのか、小生には分からない。しかし、彼が死に直面していることだけは確かのように思えた。この鳥はすでに死を覚悟しているのだろう。それを見たらかわいそうになり、追いかけるのを止めた。これ以上は彼に苦痛を与えるだけだからそっとしておこうと思い、撮影も中止したのである。
 小生は犬や猫などを飼ったことがあるから、ペットが死んでいくことを何度も経験している。しかし、このように完全な野生生物が死につつあるのを間近で見るのは初めてである。象は死ぬときは誰にも知られることなく「象の墓場」に行って自らの生涯を終えると言われている。以前小生が飼っていた猫のべーちゃんも、死ぬ少し前に積んである本の隙間に隠れていた。本の間から明るいところに引き出したら、数日後に妻の腕の中で死んだ。
 どんなものでも死を見るのは悲しい。しかし、これが自然の摂理。受け入れなければ、世の中には死なない年寄りがどんどん増えて、最後はパンクしてしまうだろう。こうして世代は交代していくのだ。エジプトのファラオは不老不死を信じてミイラを造ったと聞いたが、死んでいくから物事も美しいのだと思う。手塚治虫の「火の鳥」のように永遠に生き続ける不死鳥は、実は幸福ではなかった。彼は死にたくても死ねないことに悩みつづけなければならないのだ。
 昨日の青い鳥の名前がわからなかったので、本日、前の山で鳥を撮っている「鳥撮り屋さん」に下の写真を見せたら、「これはオオルリだよ」と教えてくれた。夏になるとフィリピンの方から飛んでくる渡り鳥だという。暖かい南の島から南シナ海を越えてようやく日本にたどり着いたところで、彼は天命をまっとうしたのだろう。
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鳥という生き物は本来木の枝の間を飛び交うものだが、この鳥、オオルリは何故か地面でバタバタしていて、小生が近づいても逃げない。何か重大な事態が彼の身の上に起こっているのだろう。この写真を後でPCで拡大して見たら、彼は口を開けて小生を威嚇しているような表情をしていた。じっと目を見開き、「こっちへ来るな」と必死で叫んでいるようだ。鳥にしても怖い人間がこんな近くまで来てカメラを向けたりしているのを見て、恐怖心に駆られたのだろう。珍しいカットが撮れたと思ったのだが、せっかくの写真に変な陰が背中の部分に入ってしまい、幸福な鳥の象徴である美しい青色がほとんど見えなくなってしまったのが残念である。
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by weltgeist | 2010-05-15 22:05

群馬県、薬師温泉で息抜き (No.725 10/05/14)

 このところあまり外出していないので、今日は久しぶりに日帰り温泉に出かけた。行き先は群馬と長野の県境にある薬師温泉。この周辺には伊香保、草津、万座、四万など温泉の有名どころがゴロゴロあるが、今回は山奥の一件宿をうたう薬師温泉を選んでみた。薬師温泉はもちろん天然温泉。しかし、最近は天然温泉と言っても信用出来ない。入浴剤を入れて誤魔化すような「天然」温泉が多い。だが、ここは本物だという。その証拠を示すために、宿のすぐ脇から吹き出る源泉の模様を常時テレビのモニターで中継していた。ここの温泉はかけ流しであるが、天然温泉でもかけ流しまでしているところは全国で3%しかない。うちは数少ないかけ流しをしているほんま物の天然温泉であると言っていた。
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関越道渋川伊香保インターを出て、吾妻川沿いの国道135号を万座方向に進み、中之条から左に入ると、丁度新緑が始まった山が見えてきた。まだ芽吹いたばかりの木ノ葉は淡い薄緑色で、季節的には一番良い時期かもしれない。気持ちのいいこの山沿いの一本道を詰めた所に薬師温泉はある。
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渋川インターを出て1時間弱で薬師温泉に到着。ここはかやぶきの郷と言われ、入り口からご覧のような茅葺きの民家である。ガイドブックによれば、この門は合掌茅茸切妻造りで、東北地方の庄屋の家を素材に組み立てたのだという。
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門をくぐると、各地にあった古い茅葺き古民家を移築させた棟が10近く広い敷地に並んでいる。益子から持ってきた陶芸家、濱田庄司の家を移築した古民家(中では濱田親子の作品展をやっていた)の向かい側にあるのが本陣。ここで受付して温泉に入ったのだが、内での撮影は遠慮したため残念ながら肝心の温泉の写真がない。しかし、江戸時代より2百年の歴史を誇る秘湯だけあって、温泉は素晴らしかった。
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入浴と囲炉裏炭火焼き料理がセットになった湯遊パック(4,500円)が好評というので頼んだ昼食がこれ。野鳥と野菜、キノコの炭火焼き、お吸い物などが出たが、小生には少し物足りなかった。
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さて、温泉にも入り、お昼も食べたところで、温川沿いに上流の方に蝶でも飛んでいないか見にいく。しかし、まだ季節が早すぎたのか蝶は一頭も飛んでいない。代わりに沢沿いでウドの群落を見つけた。
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by weltgeist | 2010-05-14 22:37

普天間、鳩山首相を非難出来るのか (No.724 10/05/13)

 これまで鳩山首相は「普天間問題を5月末までに決着させる」と言いながら、結局、それが無理な状況になり、皆が公約違反だと批難し始めた。しかし、我々に首相を批難する資格があるのだろうか。最近までマスコミの論調は首相の決断力の無さを批難するものばかりだったが、最近少し風向きが変わってきたようである。
 今朝の朝日新聞には「痛み受け止めぬ本土にがっかり」という記事が載って、沖縄県民の本土への不信感を特集していた。沖縄はこれまでもずっと米軍基地の問題で犠牲を払わされてきた。自民党前政権が辺野古埋め立て案で我慢しろと、沖縄県民に言い含めてきたのが、鳩山首相の「最低でも県外を実現したい」と言う言葉で少し希望が出てきたと思ったのだ。
 しかし、フタを開けてみれば、それはぬか喜びで、沖縄県民には失望だけが残った。沖縄は我々本土にいる日本人全体に対して失望しているのである。今回の朝日新聞の記事にはある県民の次のような言葉を紹介してあった。
 「私は鳩山さんには期待しています。県外移設を引き受けようとしない、痛みを受け止めようとしない本土の日本人に、がっかりさせられているのです」と言って、少なくとも鳩山首相は前政権よりはマシだと評価している。しかし、それにしても本土の人間の冷たい態度にはがっかりしたというのだ。本土が拒否することは、結局沖縄に負担を強いることになるからだ。別な人は「沖縄は日本だと、本土は本当にそう思っているのか」という怒りの言葉を述べている。あきらめの気持ちが沖縄ではジワジワと広がっていて「日本にとって沖縄とは何なのか。思いは島全体にさざ波のように広がっている」と書いている。
 面倒なことは首相に丸投げしておきながら、それが難しいと分かると首相を無能呼ばわりし、自分のところに火の粉が降りかからないようにする身勝手な本土の人に沖縄は失望しているのだ。県外となればどこかの県が引き受けなければ道は開けない。だが、どこもわが家の近くに基地が来るのは困るから反対だと言う。ということは「沖縄県民の皆さん、我慢してください」と言うに等しいのである。人ごとのように思う本土人から見放された沖縄の気持ちを新聞記事は書いているのだ。
 小生は沖縄の負担を減らすには全国の自衛隊の基地に分散して移せばいいのではないかと短絡的に考えていたが、沖縄の海兵隊は台湾海峡の有時に備えて、台湾に近い沖縄に一部を残さなければならないらしい。そこから出てきたのが徳之島案のようだ。しかし、ここで徳之島側から猛烈な反対運動が起こった。徳之島住民は「何で徳之島なんだ」と思ったろうし、他県の人は「自分の所で無くて良かった」と胸をなで下ろしたことだろう。
 だが、「うちの近くに米軍が来るのは反対だ」と言う人には、日本の防衛をどうするのかと問いたい。米軍が日本から撤退すれば、自衛隊を核武装で強化させなければ、今の極東情勢には対応できないだろう。それとも、現在の九条の「自衛」のままの軍隊で隣国の覇権主義にビクビクして暮らすのか。
 県外の移設先とされた徳之島の気持ちも分かるが、ただ反対だけでは沖縄の人々は余計失望感と本土に裏切られた思いをするだけだろう。問題は県外を徳之島だけに限定するから「何で徳之島が」と思うのだ。負担は全国民が均等に負わなければならないことである。本土の人間はババ抜きと思い、疫病神が自分の所に来なければいいとしか思っていない。実に冷たく、身勝手な人たちばかりでやりきれない気がする。
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by weltgeist | 2010-05-13 23:27

先頭走者の孤独 (No.723 10/05/12)

わたしは光だ。ああ、わたしが夜だったらいいのに。しかし、わたしの孤独は、わたしが光にとり囲まれているということ。ああ、わたしが暗くて、夜めいたものだったらいいのに、そうしたら、わたしはどんなに夜の乳房を吸うことだろう。
フリードリッヒ・ニーチェ 「ツアラトストラはかく語った」9、夜の歌


 最近、日本の物造りが危ういと言われている。韓国、中国の製造業に追い上げられ、このままでは日本は駄目になるのではないかという危機感が蔓延しているようだ。少し前は韓国、今は中国の怒濤のような力に圧倒されている感がある。だが、やっていることをよく見ると大半が先進国の物真似で、まだ真に先頭を走る画期的な製品を作れる段階までは行っていないと思われる。もちろん、彼らの潜在的な力を見ればいずれ日本を追い抜いて行くかもしれないが。
 昭和30年代頃の日本はまさに今の中国と同じで、よそ様(欧米)が作った物をちゃっかり真似て、せっせと稼いでいた。偽物天国と言われようが、鉄面皮に人の物真似をし、いつしか日本独自の物を作っていったのだ。そうした歴史を振り返ると、物真似、偽物天国の中国が日本やアメリカを追い越して、トップランナーの牽引役を担う時がくることことも遠い時期ではないかもしれない。
 だが、もし先頭に立ったとすれば、トップランナーとしての悩みが出てくる。先の見えない真っ暗闇の中に自分が進むべき道をはっきりと示し、誰もがなし得なかった「本物」を自信を持って造りだす能力を持って初めてトップと言えるのだ。先頭走者のゼッケンを見ながらついて行くだけの気楽な追随者、エピゴーネンとは違う厳しい現実に直面しなければならないことになるのである。
 コロンブスの卵、ニュートンの引力など、後になれば誰でも分かることである。しかし、それを最初に見つけるのが先頭走者の役割なのだ。人の物真似ばかりで終始する会社は、そこそこのところまで行っても、真似した会社を追い越すことは出来ない。先頭走者と肩が並ぶところまで来るのはたいへんかもしれないが、そこから先を走る能力がない者は挫折する。先頭走者は物真似屋とは比較にならないほど独創的な創造力と知見が要求されるのだ。追い越した者の前には、地図もなければ道路標識も信号もない。無限に広がる真っ暗闇の原野を自らの光で照らしながら、道を造って行くしかないのである。先頭として露払いをしながら猛烈に突き進むことが宿命づけられるのだ。そして振り返れば、それを真似て必死についてくる後続の鼻息がすぐ後ろに迫っている。追い越した者は今度は自分が真似され、追われる立場に逆転するのである。
 それは企業だけでなく、個人の場合も言える。世の中には凡人の能力を飛び越した天才が沢山いる。天才は誰もが届かなかった高みまで登り詰めているから、彼の仕事を助けるお手本もない。ただ、自らの力で独自の世界を切り開いていくしかないのだ。しかし、真に能力のある先頭走者、天才はそんなお手本を真似する必要などまったくない。むしろまだ誰も歩いたことのない処女地に自らの足跡を記すことに嬉々としながら歩む光栄をも得るのだ。
 ニーチェが「ツアラトストラはかく語った」で言うのは、そうした天才、高みに上り詰めた超人の孤独である。真っ暗な天空の中に光り輝く超人の姿はニーチェそのものである。それは誰にも近づき得ない輝かしい栄光でもある。しかし、それだけに苦しく孤独なものなのだ。彼は凡人が潜む夜の気楽さを思い、「わたしが夜めいたものだったらいいのに」と弱気なことをいいながらも、常に先頭走者を走らなければならない孤独感に苛(さいな)まれ、最後は狂気の中で溺れて行くのである。
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永遠の美女、ビーナス誕生を描いたボッティチェリもまた誰もが追いつけない高みまで登り詰めた天才の一人だ。フィレンツェにあるこの絵は、描かれてから500年以上経過しているのに、いまだにこれを追い越す者が出ていない。彼は恐るべき天才と言えよう。
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by weltgeist | 2010-05-12 23:55

本日の腰痛治療の結果 (No.722 10/05/11)

 先月末に某医科大学病院で脊柱管狭窄症の検査入院をした。今日はその検査結果と今後の治療についてT教授からお話を聞いてきたので、前に約束していたようにその結果報告をしたい。
 T先生の診察で結論からいうと、やはり小生の神経は椎間孔付近で骨に当たって痛みが発生するのだという。それを治すには当たっている周囲の骨を削って、神経の刺激をとる手術をするか、神経にブロック注射をして痛みを遮断するか、あるいは鎮痛剤で痛みを和らげつつだまし、だまし生活するか、三つの選択肢があると言う。
 一番効果があるのは手術だ。これなら山登りのような激しい運動でも出来るようになる可能性はある。しかし、それでも痛みが残る場合があるのだ。足腰の痛みというのは単純ではなく、脊柱管狭窄とは別なことから痛みが発生している場合があるらしい。だから100%治るかどうかはやってみないと分からないところがある。それと骨を削る手術だから術後しばらくは無理な運動は禁物となる。小生は痛いところを手術でパッと切り取って、すぐさま釣りや山登りに行けると思っていたら、とんでもない。今から手術したら、今年いっぱいはおとなしくしていなければならないと言う。手術の道もバラ色ではないのだ。
 ではブロック注射はどうか。先月の入院時の検査で造影剤と同時に痛み止めも打ったが、そちらの効果はほとんどなかった。というか、逆に痛みが増すような状況になっている。うまくいけば痛み止めが効いて痛みが消えるが、全然駄目なこともあるのだ。こちらも当てにならないところがあるのである。しかし、先生によれば、前回は造影剤が主体だったが、今度は患部がはっきり分かったので、ここに痛み止めを打つのは効果的かもしれない。「もう一度入院してやってみる価値はある」と言う。
 この夏ある程度山や釣り場を歩けるくらいになるために手術を期待していたが、それは時間的に難しい。追いつめられた小生に残された道は、再度入院してブロック注射にチャレンジするしかないのである。
 仕方がない。小生はもう一度入院して、今度は本格的な痛み止めの注射をしてもらうことに決めた。なるべく早い時期に入院させてもらい、痛みを一日でも早く取り除いてくださいと先生にお願いしたのが本日の結論である。
 まったくこの病気には痛めつけられてばかりいて、解決は先送りになったが、とりあえずはまだ、希望の光だけは少し残っている。あくまでも完治を信じてこれからも頑張るつもりだ。従って、しばらくするとまた入院でブログも中断しそうである。やっぱり「俺の人生入院ばかりの病気人生」であるのは間違いない。
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このバラの花はなぜか小生の今のもの悲しい気持ちを表しているかのように、暗い空に向かってひっそりと咲いていた。
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by weltgeist | 2010-05-11 23:53