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明日からしばらく更新出来ません (No.711 10/04/22)

 小生の腰痛による脊柱管狭窄症(正確には小生の場合は椎間孔狭窄症)はいよいよ抜き差しならぬところまできてしまった。先日、某医大でMRIを撮って診てもらったら、「入院してじっくり精密検査&治療しましょう」ということになり、明日から入院です。「病気のスーパーマーケット」を自認する小生、昨年の5月から一年間で三回目の入院。「俺の人生入院ばかり」を実践中です。
 そんなわけで、どんなことがあっても毎日更新することを目標にブログをやって来ましたが、残念ながら病院はPCの持ち込み禁止のため書き込みが出来ず、一時休止します。色々不安を抱えての入院ですが、無事退院出来たら、小生と同じ病で悩む腰痛、脊柱管狭窄症持ちの皆さんのためにも、必ず経緯を報告いたします。先生の話では一応一週間程度で退院だと言ってます。
 それまで一時休筆させてください。
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今日の添付画像は、義姉の家で取れた今年のタケノコ。思い出せば、昨年の丁度今頃、同じように義姉にもらったタケノコを食べて黒い***が出て、胃潰瘍、入院となった。あの時は繊維質の多いタケノコを食べ過ぎて胃がやられたと思ったのだが、原因は腰の痛みを和らげるために飲んだ鎮痛剤・ボルタレン。これが悪さをして胃内から大量出血したのだ。タケノコは犯人ではなかったが、いまでもタケノコを見ると苦しかった昨年のことが思い出されてしまう。
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by weltgeist | 2010-04-22 19:43

悲しきディナーショー (No.710 10/04/21)

d0151247_22325652.jpg 友人がある芸能人のディナーショーに行って来たらしい。出演したのは演歌歌手で、少し前まで一世を風靡した大物である。最近はあまり出てこないな、と思っていたら、こうしたところで活躍しているのだ。一度芸能界で華やかな光を浴びた人は後になってもつぶしが効くという話を聞いたことがあるが、これを聞いて納得した。
 「それで楽しかったの」と聞いたら、「握手までしてもらって最高」とうっとりした顔をしていた。芸能人の歌を生で聞きながらおいしい物が食べられるのだから一石二鳥である。歌手の歌声も往年のままで、少しも陰りを感じさせない迫力があったと言う。
 友人の目的はこの歌手を見ることで、ディナーは余計な付録らしい。しかし、主催者の方はディナーで高級な食事をさせるのがメインで、歌手は客寄せの看板にすぎない。お客も主催者も満足だし、歌手も仕事になったのだからみんながハッピーな企画なのだろう。ただ、歌っている歌手の立場から見て、お客が飲食したり私語をして自分の歌に集中してくれないのはどんなものだろうか気になった。
 通常、クラシックの演奏会なら演奏が始まれば観客は咳一つ出来ない。音を立てないように静かにしているのが常識である。咳が出たくなっても我慢して、楽章のインターバルに「ゴホン、ゴホン」とやるのが最低の礼儀である。普通の演奏会ならそこまで厳格ではないだろうが、例えばポプコーンのような物を音を立てて食べたら、回りからひんしゅくを買う。それがディナーショーではナイフやフォークでガチャガチャ音を立てることが許されるのだろうか。実は小生、そうしたディナーショーに一度も行ったことがないから実体は良く分からないのだが、お客は食事も歌手の歌も同時に楽しむことを目的に来ている。クラシックのようなうるさいことは言われないのかもしれない。
 しかし、食事のウエイトがあまりに高くなると、歌手としてメンツは丸つぶれである。失礼な言い方をさせていただけば、歌手の歌もその程度のものということになる。サシミのツマ程度の価値しか認めてもらえないのは悲しい。そう言えば、先日別な友人がある大物女優のディナー&トークショーに行った話をしていた。誰もが知っている大女優で、さすがにまず別室でディナーを楽しんだ後、女優のトークを静かに聞くイベントらしい。これが当然の形であろう。
 一生懸命歌っているのに、相手は飲食しながら適当にしか自分の歌を聴いていない。そんな目にあえば、歌う側はとても悲しいだろう。昔の栄光はもう戻って来ない、それが「芸人」の宿命だと言っても、屈辱感はぬぐいきれないと思う。
 そんなことを考えながら今日のブログ用の写真を選んでいたら、アメリカでロックシンガーが歌っているカットを見つけた。彼女が歌っているとき、観客は手拍子をしたり大声を上げて声を掛けたりしていた。クラシックの演奏会しか知らない小生は、ビールを飲みながらも歌手の歌に合わせて声を掛ける聴衆とが一体化した独特の雰囲気を見て、こうした楽しみ方もあることを思い出した。
 ディナーショーを少しけなしてしまったが、楽しい飲食をしながら「元大物歌手」のショーを身近に見れて一体化した思いをした人も沢山いるのだろう。ディナーショーに呼ばれる歌手にとっても、自分の歌を喜んで聴いてくれる人を肌身で実感出来るのだから、それは悪いことでないのかもしれない。
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by weltgeist | 2010-04-21 22:28

釣りバカは死ななきゃ治らない (No.709 10/04/20)

 釣り師という人種は本当に人間的な愛すべき人が多い。欲張り、ケチ、大ボラ吹き、短気など大よそ人間の悪い癖のほとんどを持っているのが釣り師と誤解されているが、本当はこれくらい人間的な趣味人はいないのである。彼らの行動パターンは常識人とは一種違った独特のものがあるから誤解されやすい。例えば、面白いのは釣りには穴場というものがあるが、これをどう扱うかだ。穴場は魚が良く釣れるのに人に知られていない場所である。それを見つけたら誰にも教えないで自分だけで長く楽しみたい。ケチだからなかなか人には教えないのである。ところが釣り師という人種はそれを隠しておくことが出来ないのだ。自分がいい釣りをするとどうしても他の人に自慢したくなるからだ。
 大きなヤマメをバカスカ釣ったりすると、嬉しくてついつい他の人に「俺はヤマメの大釣りをしたぞ」と言いたくなってしまう。だが、そうなると、当然、聞かされる方は「何処でそんなに釣れたんだ」という話に発展する。そこまで言いながら「これは俺の穴場だから教えない」などと言えば、仲間から総スカンを食う。大釣りをやった本人だけが密かに穴場を楽しむことはよほどの偏屈でない限り出来ないのである。
 釣り師が3人集まると、すぐさま始まるのが穴場の情報交換である。ただし、これはバーター取引だからただではない。相手のいい穴場を聞くには自らの情報をも提供しなければならない。自分は何も教えないで人から情報をただで聞こうとする人は最終的には皆からつまはじきにされて相手にされなくなる。さしづめネットで各種の情報をただで手に入れながら、お礼の気持ちも表さず、当然のような顔をして去っていく人などは、仲間から真の穴場を教えてもらうことは出来ていないだろう。
 以前、ある高名な釣り人の家に遊びに行って、彼と釣り談義を大声でしていたら、となりの部屋にいた奥さんが、小さな娘に向かって「あの人たち、バッカみたーい」と言っているのが聞こえてしまったことがある。娘に「決してお父さんみたいな馬鹿になるな」と実地教育しているのだ。友人は釣り場では優れたテクニックで人より沢山の魚を釣り上げて賞賛される人物であるが、家庭ではまったく馬鹿扱いを受けていたのである。釣り場で颯爽(さっそう)としている彼が、好きな釣りに行くために涙ぐましい努力をして奥さんを納得させていることを、このとき知ったのである。
 釣友である秋山医師が「釣りを趣味としているワタシの心得」の中で「釣りバカになっても、バカ釣り師にはなるな」と言うことを自身のブログで書いている。釣りバカであることは、多分、大方の釣り師がその通りであると思う。竿を持ったとたんに理性を失って、「釣りたい。釣りたい」の思いに駆られてしまう。しかし、そこまで「釣りバカ」でないと魚は釣れないのだ。人が釣れているのに自分だけアタリがないとき、「釣れても釣れなくてもいい。おれはこうして自然の中にいれば気分がいいのだ」なんて中途半端な気持ちの人は釣り師失格。「ちきしょう、絶対釣ってやるぞ」くらいの強い意気込みがないと、今の魚は釣れないのである。
 だが、同時に「バカ」である必要はない。竿を持ったときは一時的に理性を失った釣りバカになっても普段は頭脳明晰な頭のいい人が大部分である。もちろん、秋山さんもたいへん頭のいい人といつも感心している。だが、小生はどうか? 
 うーん、これこそ頭の痛い問題である。小生はもちろん「釣りバカ」であるが、最近は同時に「バカ」でもあるのだ。とりわけ、この数年、脳の機能低下で頭の回転がすこぶる悪くなっている。「バッカみたーい」と言った友人の奥さんと同様、妻から「あたまが悪い」と指摘されることが多くなって、焦り気味でもある。しかし、もう悪くなった頭の機能は回復しない。「バカは死ななきゃ治らない」の通り、このままなるべくボロが出ないよう、目立たないようにして、バカの進行を少しでも抑えるしか手がないのである。
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ビッグコミック・オリジナルの人気漫画、釣りバカ日誌。漫画が書かれてすでに30年、小生は第一回目からの熱烈な読者である。伝助はいよいよ小生の大好きな釣りの王国、アラスカに行くことになった。どんな面白い話になるか、巨大なハリバットやキングサーモンを伝助がどう攻略するか楽しみである。
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by weltgeist | 2010-04-20 15:02

ギフチョウの代わりにへぎ蕎麦を食べて帰ってきた (No.708 10/04/19)

 一昨年の丁度今頃、新潟県の能生に50年来の友人である船釣りの大御所、田原泰文氏とギフチョウを見に出かけ、ものの見事に坊主を食らってしまった。だが、あのとき(08年4月20日)ギフチョウは見れなかったが、沢でイワナ釣りや山菜をとることが出来た。その顛末を「ギフチョウのかわりにイワナが釣れた」というタイトルでブログに書いておいた。
 まだ蝶のことをよく知らなかった二人は、新潟の里山に行けばギフチョウが見られそうという、アバウトな計画で能生へ行ったのだが、そんな簡単に見れる蝶ではなかったのだ。十分な事前の情報収集と、発生時期の正確な読みが必要なことが分かったのである。
 それで、今回のリベンジは事前に情報を収集して、ギフチョウが発生するピンポイントをバッチリ調べておいたから多分問題ないだろうと思っていた。ところが、春の思わぬ天候不順がまたまた小生の判断を狂わせてしまった。新潟地方は低温のためギフチョウの発生時期が遅れていたのである。このところの寒さにこちらも少し遅らせ気味に出かけたが、それでもまだ早すぎたのだ。ギフチョウどころか、モンシロチョウも見ないひどい冬の状況のままであった。
 長いトンネルを抜けるとそこは雪国だったの通り、関越トンネルを抜けたら、こちらはまだ冬景色。ギフチョウどころか桜も咲いていない。こんなだから全く蝶の姿を見ることなく、返り討ちの状態で帰って来ざるを得なかった。結局今回のリベンジ版はタイトルの通り「ギフチョウの代わりにへぎ蕎麦を食べて帰ってきた」で終わってしまったのである。
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このところずっと悪天候が続き気温の低い日が続いていたので、新潟のギフチョウ最盛期を予測するのは難しいと思っていた。それでもネットでいくつか発生したとの情報を見て、そろそろOKではないかと思って、関越トンネルを抜けたらご覧の通り。小生の読みはたいへん甘かった。新潟はまだ雪が沢山残っていて、ギフチョウどころか桜も咲いていない厳しい状況だったのである。ネットに掲載している人たちはどこで撮影したのだろうか。恐らく秘密の場所があるのだろうが、まだまだ蝶については駆け出しの小生にそれを探し出す能力はない。
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昨年、小生自身が何頭か出会った場所も含めて何カ所か回ったがいずれも時期尚早。蝶など何もまだ発生していないのだろう。山の木々も硬い芽の段階で新緑の季節にはあと半月はかかるのではないかと思われた。山古志村にて。
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小千谷ちじみと錦鯉の里として知られる小千谷は、蕎麦の名所としても知られている。つなぎに「ふのり」を使ったへぎ蕎麦は、「へぎ」と呼ばれるせいろ(写真)に、一口ずつ食べられるように盛ったもので、歯ごたえのあるおいしい蕎麦だった。たまたま我々が入ったお店「わたや」は平成天皇が苗場に来たとき、何度か賞味されたという由緒あるお店らしく、タレも独特の味がして、さすがだと思った。
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これが今回目標にしたギフチョウ。だが、残念ながら、この写真は今日狙った新潟産のものではない。昨年の3月に神奈川県藤野町で撮った「保護された蝶」である。出来ればネイティブな新潟のギフチョウを田原氏に見せたかったが、今回も望みは叶わなかった。
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by weltgeist | 2010-04-19 23:12

「俺の意見が絶対だ」という人の迷惑度 (No.707 10/04/18)

 バブル華やかな頃、ある人から北海道の国立公園内にある特別な私有地が売り出される情報があるので、その土地を購入して高級リゾートホテルを建てたいが、小生にそのホテルの支配人にならないかと言われたことがある。以前彼に「自分は北海道が好きだから住んでみたい」と言ったことを覚えていたのである。それでその人の計画を聞いて当惑してしまった。どこかの経営コンサルタントが造ったと思われる計画書を見たら、土地の購入代金だけで10億円近い金額であった。ホテルの建築費から、その後お客が来てどの程度儲かるかの青写真まで、計画書はすべてバラ色に書かれていた。コンサルタントの試算によれば東京から毎週50名くらいのツアー客を見込んでいて、数年で黒字になるはずであると言う。
 しかし、彼の計画書を見せられて「この人が・・」と思ってしまった。あまりに自分本位の予測で、このまま進めば行き詰まるのは目に見えている。小生は「まず、土地代が高すぎる。北海道の原野など二束三文の価値しかないだろう。足もとを見られていないか。それと一泊3万円以上するホテルに毎週50名ものお客を本当に呼び込めるのか疑問だ」と答えたら、「お前はそんな貧乏人の発想だから駄目なんだ。世の中、お金を持っている人はすごく沢山いる。これからはそうした金持ちを相手にした仕事が受けるのだ。それが分からない奴は話しにならない」と怒られてしまった。
 結局この計画は土地は買えても国立公園内にホテルを建てる許可が難しいことで、中止になったから良かったものの、世の中には自分の考えが絶対正しいと信じて危険な橋を渡る人が沢山いると思った。俺の言ってることは絶対に正しい、間違いないのだ、と力強く言って人の意見を聞かない。いわゆる自信家と呼ばれるタイプの人だ。たいてい彼らの主張は根拠が薄弱で、ろくでもないことを「間違いないと信じ込んで」胸を張っているだけである。彼はその後ゴルフ場経営に手を出し、最後は散々な目にあっている。
 現実の物事は複雑だから単純に白黒に分けることが出来ないのに、「あれか、これか」と単純化して決めていく人が後を絶たない。ある一面だけを見てパッと決めていく。あらゆる可能性を考えて慎重に行動する前に、目の前に広げられたいい面しか見えなくなって、判断力を曇らされているのである。
 物事は深く考えれば考えるほど、様々な答えが出てきて簡単に結論を出すことなどできるものではない。自分がある判断をしたら、「別な考え方もあるかな」と少し冷静に物事を見る訓練は必要だろう。「俺の考えは絶対だ」と言い張る人ほど、その主張の裏側から見ると、穴だらけの間違った判断で行動していることが多いのだ。
 しかし、性急にことを進めたがる激情型人間は実は経験の浅い若者に多い。例えば若いカップルが愛し合って結婚したら幸せな人生がくると夢見る。自分たちの愛は絶対だから永遠の愛は壊れないと信じて結婚するのだ。アメリカ人の離婚率の高さは、そうした思い込みの危うさを如実に表している。
 一方で「すべては疑わしい」と言って少しも判断しないのも困り者だ。優柔不断はときには他人に迷惑をもかける。確かに判断を急ぎすぎて失敗することは少ないが、判断が遅すぎてチャンスを逃がすことがある。会社勤めをしていると、そうした判断の遅い上司に出会うこともある。先走りすぎて失敗する上司も困るが、能力のなさが判断の遅さに現れる上司も最悪である。走りすぎても、のんびりでも駄目。うまく判断しながら生き抜く道は意外に狭いのだ。
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自分の将来というものは見通すことが出来ない。先行き何が起こってくるか分からないのに、人は時々人生の岐路ともなる重要な判断を迫られることがある。自分の判断がどのような結果を生むのか、それは一種の賭のようなものである。人はいつカジノの入り口に立たされるかわからないのである。
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by weltgeist | 2010-04-18 22:21

地球の異常気象には泣かされっぱなし (No.706 10/04/17)

 カラマーゾフの兄弟の長い感想文が終わって、今朝はいままであった重圧から解放された気分で起きたら、外に雪が積もっていた。都心に住む人には雨だったかもしれないが、やや山間部にあるわが家では、7~8㎝くらいの積雪であった。テレビのニュースを見たら41年ぶりの積雪だという。4月に入っても寒い日が続いていて、今年の天候はどうなっているの、と言いたいほどおかしいようだ。
 暖かい春になったら蝶を見に行こうと思っていたが、これでは計画がたてられない、4月の初旬から予定していたギフチョウ探索計画が全然遂行出来ていないのだ。あまりの寒さに蝶たちも「春だ」と感じられないから、サナギから羽化することを躊躇しているようだ。このままだと今年はギフチョウの姿を見ないでシーズンが終わりそうで心配だ。地球が温暖化していると言われるにしては、今年の日本の寒さは異常すぎる。
 ところが、フィリピンにいる友人の話だと、あちらはエルニーニョの影響で連日40℃以上の猛暑が続いていると言う。中国南部では記録的な少雨で、大地はカラカラに乾ききっていて、水不足が続いているらしい。中国南部を水源とするメコン川下流のインドシナ半島諸国では、メコン川の水位が下がって、これまた深刻な被害が生じている。オーストラリアも雨が極端に少なく、異常なまでに乾燥しているから山火事が絶えないようだ。日本ではあまり注目されていないが、今年のエルニーニョは例年になく強烈らしいから、この後も異常気象は続くことだろう。
 と思うと、アイスランドでは火山が噴火して、欧州の空港が閉鎖され、沢山の人が飛行機に乗れずに取り残されている。これも一種の異常気象現象であろう。地球全体がどこか狂ったようで、それにどう対処したらいいのか、人は右往左往している状態である。
 気の毒なのはこの時期、ヨーロッパに旅行していた人たちだ。欧州域内はもとより日本に帰国する飛行機も飛ばないから、どこかのホテルに缶詰になっていてるしか手がないだろう。それも添乗員付きのツアーなら何とか添乗員がホテルや帰国便の手配をしてくれるだろうが、個人で旅行しているとたいへんだ。ホテルの手配と、日本に戻る飛行機のシートを確保を自分だけでやるのはものすごくたいへんである。
 先日わが家にステイしていたインディアナからの大学生たちは、アメリカ国内の乗り継ぎ便がキャンセルされ、アトランタに2日間も置き去りされたらしい。一応航空会社がホテルは用意してくれたと聞き、「良かったじゃないか、ついでにアトランタ観光も出来て」と言ったら、「朝一番から空港へ行ってキャンセル待ちをしなければならないから、観光なんてとんでもない」と言っていた。とにかく海外旅行はきっちりスケジュールを決めてから行くのが普通だから、途中でこうしたトラブルがあると滅茶苦茶になってしまう。
 小生も84年にアラスカから帰る時、北極回りでヨーロッパから飛んで来る便がオーバーブッキングで乗れなくなり、アンカレッジに留め置きされたことがあった。あの時はアンカレッジ空港だけでキャンセル待ちのあぶれ組が50人以上いて、うまくいっても一週間くらいは待たないとシートがないと言われて、困った経験がある。幸い、アンカレッジ空港で働く友人に頼んで、普段は客を乗せてはいけないトランジットオンリーの某欧州系航空会社のシートを無理矢理取ってもらったから2日ほど帰国が遅れただけですんだが、普通だったらたいへんなことになっていたろう。
 ま、今日の雪は小生には寒さをぶり返した程度でたいした影響は無かったが、甚大な被害にあった人は沢山いたことだろう。小生にとって、さし当たって困るのは冬物をクリーニング屋さんに出してしまったから、外出するときの上着が無いことだ。最近とくに寒がりになっているので、薄着で行くと寒さが堪えてつらいが、飛行機が飛ばないで困っている人に比べたら、屁みたいなものである。自分がそんな目に遭わなかった幸運を感謝して、少々の寒さは我慢しようと思っている。
 しかし、油断は禁物。フィリピンの現状を聞くと、今の日本が寒いのはほんのひとときで、この寒気が通り過ぎると、いきなり真夏日、それも37~38℃くらいの暑さがやって来るのではないかと心配している。とにかく、今までの気候概念が通用しないような異常事態が世界中で発生しているから、ゴールデンウイークは真夏日なんてこともあり得るのかもしれないのだ。
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by weltgeist | 2010-04-17 21:53

カラマーゾフの兄弟、最終回、ゾシマ長老の死 (No.705 10/04/16)

 今日はカラマーゾフの兄弟の最終回である。最後の締めくくりとしてどうしても語られなければならないのはロシア正教のゾシマ長老のことだ。彼はイワンが提示した大審問官の無神論に対峙する人物であるが、最後に死んでいく。そのことでドストエフスキーは謎のような出来事を書いているが、それが小生にはよく分からない。もちろん1962年、20歳の時読んだのは分からくて当然だが、今67歳の人生経験を積んで読み直して、大審問官などの問題は理解出来たのに、ゾシマ長老が死んだところから後の出来事の意味がいまもって分からないのである。
 ゾシマ長老の遺体はロシア正教の葬儀のやり方によってお湯で体を拭かれて清められたあと長老が使っていた庵室に置かれる。そして沢山の人が偉大な聖人の死を悲しんでやって来る。ところが、こともあろうに長老の遺体から腐屍のにおいがしてくるのだ。非の打ち所のない人が、死んで嫌なにおいを発することに人々は「聖人が何故? 」と思い始めるのである。この意味をどう捉えたらいいのだろうか。
 長老の弟子であるヨシフ主教は「聖者の遺骸は腐敗すべきものにあらずというのは正教の教えではない」と反駁するが、人々が「神様のおさばきなのだ」と言う言葉が次第に大きな声となってくる。アリョーシャにはどうしてこんなことが起こったのか理解出来ない。彼は、自分が慕うゾシマ長老の奇怪な死後の出来事にショックを受け、神学校の同級生ラキーチンの「ウオッカでも飲もう」という誘いに乗って、アリョーシャの一番上の兄、ドミトリーに好意を持っている奔放な女、グルーシェンカの所を訪ねる。
 哀れな孤児だったところをケチな男やもめの老人に拾われ、自身もケチで意地が悪い女として育っていくグルーシェンカ。だが、彼女は純粋性を失わないアリョーシャと会って自分の生き方が間違っていたことを悟る。そのとき、彼女は「私は意地の悪い女だけど、一本のネギをやったことがあるの」と、不意におかしな話をする。「ネギって何の話だ」とまどうラキーチンにグルーシェンカは次のような話をする。
 ある意地悪な婆さんが死んで地獄の池に堕ちたとき、天使が来て「お前は生前に何か良いことをやったことがあるか」と聞かれ、畑からネギを一本抜いて乞食女にやったことがあると言う。すると、神が「それでは一本のネギを婆さんの所に差し出してつかませ、うまく岸までたぐり寄せれば地獄から出してやれ」と天使に命じる。天使が差し出すネギを婆さんがうまくつかみ、おおかた引き寄せた。このままいけば地獄から救い出せると思ったとき、周囲にいた餓鬼が一斉に婆さんにしがみついてくる。ところが婆さんは「助け出してもらうのはわたしだ。これはわたしのネギだ」と言って餓鬼を足で蹴散らす。するとネギはたちまち切れて婆さんは再び地獄に戻ってしまった。
 何か芥川の「蜘蛛の糸」を思わせる話だが、彼女はここまで話すと急に激しく泣き出すのである。自分が育ってきた苦しく悲しい生活と比較して清廉なアリョーシャの態度があまりに優しく見えたのだ。だから、「ネギのお婆さんは私だ、私は意地の悪い女だ」と言って泣き出すのである。アリョーシャはグルーシェンカの涙を見て、「この人は長年苦しんできたが、心からの反省の言葉を言った。そのことですでに一切のことが許されている」と感じるのである。彼はゾシマ長老を訪ねた殺人者の男や、若くして死んだ長老の兄のことと同じ「許しの思想」をその女の涙の中に見ているからである。
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ゾシマ長老の死後、アリョーシャが夢を見て悟りを開いた「カナの婚礼」。婚礼に招待されたキリストが宴会のぶどう酒が無くなったと言われて、水をぶどう酒に変える奇蹟を起こしたシーンである。この場面を何人かの画家が描いているが、最も有名なのはパオロ・ヴェロネーゼが1563年に描いた左右9.9m、高さ6.6mもある巨大な「カナの婚礼」だ。これはルーブル美術館の中で最も巨大な絵の一枚となっている。ヴェロネーゼは宴会の中央にある主賓席にキリストを座らせ、花嫁、花婿は左の端の方に描いている。

 だが、どうしても分からないのは、なぜ長老の遺体からにおいが出てきたかである。その意味がアリョーシャにもよく分からない。長老の遺体が置いてある庵室に戻ったアリョーシャは、僧が聖書を朗読している声をボーッと聞いている。僧はヨハネ福音書2章にあるガリラヤのカナでキリストが最初にやった奇蹟の所を読んでいた。カナの町では婚礼があり、キリストも母マリアと参加する。ところが婚礼の途中でぶどう酒がなくなったとき、母がキリストに「ぶどう酒がありません」と言う。キリストは水がめに水を汲むように命じると水が良いぶどう酒に変わる話だ。アリョーシャはこの箇所を読む僧の声を遠くに聞きながら睡魔に襲われて眠ってしまう。そして「キリストがはじめて奇蹟をおこなうにあたって、人間の悲しみではなく喜びを訪れた。人間の喜びを助けた。・・・そして真実で美しいものは、一切を許すという気持ちにみちている。・・それはあの人、ゾシマ長老の言われたことだ」と夢の中で思い始めるのである。
 夢の中にはゾシマ長老もが現れて、アリョーシャに「新しい酒を飲もう。偉大な新しい喜びの酒を酌もう。見ろ、なんと大勢の客であろう。そこにいるのが新郎と新婦だ。・・ここにいる人はたいていネギを与えた人ばかりじゃ。お前も今日、一人の渇した女に一本のネギを与えたのう。はじめるがよい、せがれ、自分の仕事をはじめるがよい。お前にはあの方の太陽が見えるか。お前にはあのおかたがみえるか」と夢の中で語りかけてくる。
 「われわれには限りなく慈悲深いあのおかたが見える。今も深い愛のお心がわれわれといっしょになって、われわれと遊びたわむれている。そうして客の喜びがつきぬために、水を酒に変えて、新しい客を待ち受けている。永久に絶ゆることなく、新しい客を招いておいでになる」そう長老が言ったところでアリョーシャは目が覚める。
 そして、「ふいに足でも萎えたかのように地上にがばと身を投じた。彼はなんのために大地を抱擁したか、自分でも知らない。またどういうわけで、大地に接吻したいという押さえがたい欲望を感じたか、自分でもその理由を説明することが出来なかった。しかし、彼は泣きながら接吻した。大地を涙でうるおした。そして自分は大地を愛する、永久に愛すると、夢中になって誓うのであった」「彼が大地に身を投げたときは、かよわい青年にすぎなかったが、立ち上がったときは生涯ゆらぐことのない堅固な力を持った一個の戦士であった。彼は忽然とこれを自覚した。アリョーシャはその後一生の間、この瞬間をどうしても忘れることが出来なかった。あのとき誰かがぼくの魂を訪れたような気がする」と思ったのである。

 この後も小説は父親殺しのミステリーとして長々と続くのだが、エッセンスの部分はここまででほぼ紹介出来たと思う。しかし、大審問官の問いなどは分かっても、ゾシマ長老の遺体がにおいを発し、それを契機にアリョーシャが大地に接吻して悟りを開いたことはいまだよく理解できていない。単純な解釈を許してもらえば、ゾシマ長老の遺体が臭ったということは、どんな聖人であっても人である限りみな罪人である。聖人など誰もいない。しかし、その罪は許される、いやすでに許されていると言うのがドストエフスキーの思想だったのではないか。
 アリョーシャは苦難に満ちたこの世が創造主である神が言うように、「すべて良し。この世は楽園なのだ」ということを心の底から理解したから大地に接吻したのだ、と自分は考えている。もちろんこの解釈は全然自信がない。むしろ、、このブログを読んでいる皆さんの優れた解釈を聞きたい気持ちである。また、この小説を読んだことのない方はこれを読んで、あなた自身の解釈をしてほしいと思っている。人間の実存の根源に迫るすごい小説であることは間違いない。ぜひ読むことをお勧めしたい。

今回がカラマーゾフの兄弟の最終回です。
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by weltgeist | 2010-04-16 23:08

カラマーゾフの兄弟、その6、罪と許し (No.704 10/04/15)

 カラマーゾフの兄弟について書き始めたとき、予定として3回くらいの連載でないと詳しい感想は書けないかなと思っていたら、今日ですでに6日目である。こうした面倒くさい話が苦手な人から「いい加減にしろ」と文句を言われそうな長さになってしまった。とにかく自分としても早めにこのスレッドを完成させたいので、この小説の重要なキーマンであるゾシマ長老については少し端折り気味にして、明日にはそのまとめで最後にしたいと考えている。
 そこでゾシマ長老だが、彼はイワンが言う大審問官の対局をなす人物で、長老を物語の中に入れることで大審問官の苦悩が「楽園に至る必要悪」にすぎないことだとドストエフスキーは言いたいように見える。ゾシマ長老はイワンの無神論を乗り越える鍵を握る重要人物なのだ。昨日書いたように彼は旧約聖書ヨブ記をあげて、この世は苦しいことだらけだが、結局すべては「良きもの、楽園」なのだと述べている。世の中のひどい状況は表面的なことで実は「楽園はおのおのの人に隠されています。だから自分でその気になれば、明日にもその楽園は間違いなく訪れて、生涯失われることはない」と大審問官とはまったく違った逆説的なことを言う。しかし、それでは具体的にこんな苦しい世の中のどこが「楽園」になるのだろうか。ゾシマ長老は自分が経験したある犯罪者との交流のことを語り始める。
 それは彼がロシア正教の僧になる以前にある決闘騒ぎを起こしたとき知り合った謎の男のことである。実は男は14年前に人を殺した殺人者なのだが、警察は別な人間を犯人として誤認逮捕する。幸運なことに逮捕された男は取り調べの苛酷さから途中で死んでしまうのだ。死人に口なし。男は人殺しの罪を負うことなくその後町の名士にまでなるのである。しかし、警察からは逃れたが、自分の良心から逃れることは出来なかった。殺人によって彼自身への神の罰が始まるのである。男は外面的には温厚で、町の慈善事業なども積極的に行い、妻をもらい、子供にも恵まれる。しかし、心の片隅にはいつもあの殺人のことがあって、彼は人知れず地獄のような責め苦に苛まれるのである。
 そんなときゾシマ長老の清廉な生き方を人づてに聞いて訪ねてくる。しかし、男はしばしば長老の元に来ながらも、いつも何か悩み事を隠しているようでいて、なかなか本心を言わない。そして、あるとき決心をしたように彼は「自分は人殺しで、その罪に苛まれている」ことを告白する。人を殺すなど経験のない小生には男の苦しみがいかほどのものか、想像も出来ない。しかし、男は耐えられいほどの良心の呵責を受けたのだろう。「ついに自分の犠牲となった血、自分がほろぼした若い生命が、恐ろしいものすごい形をおびて、彼の心を襲うようになった。血が復讐をはじめたのである」とドストエフスキーは書いている。
 男の話を聞いた長老はあなたがいま告白したことで「14年の間地獄の中で暮らしたあなたに、天国が訪れようとしています。行ってみんなに告白しなさい。いっさいは過ぎ去って真実のみがのこるでしょう」と男に言う。だが、この期に及んでも、彼はまだ世間体や家族のこと、自分の名誉が失われることなど、様々なことを考え自首することを躊躇している。彼は迷いに迷った末に、ついに警察に自首するのである。
 しかし、すでに14年前に「犯人」は死亡して解決済みの事件に警察は困惑し、結局は証拠不十分扱いになり放免される。男は自首したときの心労でひどく体が弱っていて、とくに精神は発狂寸前のようになっていた。警察は彼の頭が狂ったから今回の「あり得ない殺人」を思いついたと考えていたのだ。
 町の人はゾシマ長老がこの件の背後にいるとして、みんなが彼を批難する。ところがそれが長老にはうれしくてたまらなく感じるのだ。それは男が自らの保身を捨てて、わが身の罪を認めた罰を欲したことに、神が慈愛を持って彼を守ってくれたからである。神は悩める罪人を救い上げてくれたのだ。
 釈放された男を訪ねた長老は彼の命がすでにわずかしか残っていないことを悟る。男の前に出ると彼が「とうとう成就した」と長老に言う。すでに死期を悟った男は「神様がぼくをあわれんでおそばに呼んでくださるのだ。もう死期の近いことは知っているが、14年の後にはじめて歓喜と平和を感じることが出来た。ぼくは自分のなすべきことをはたすやいなや、忽然として心の中に天国が感知せられた」と言って晴れ晴れした顔を長老に見せる。そしてまもなく息を引き取るのである。
 ここでドストエフスキーが言いたいのは「人の罪とその許し」である。昨日ヨブ記で述べたように、この世は地獄のような苦しみに満ちた世界かもしれないが、それでも「良きもの」なのだ。人は誰もがどうしようもない罪人である。だが、それでも神からみれば「良き者」なのだと書いているのである。苦しみがあるから人は歓喜に至れるのだ。

以降は明日に続く。明日は最終回です。多分・・。

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モスクワ、聖ワシーリー大聖堂。ロシア正教の聖堂は昨日のハリストス復活大聖堂もそうだが、屋根がどれもねぎ坊主みたいな恰好をしていて、おとぎの国に出てくるお菓子で出来た教会のような建物が多い。
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by weltgeist | 2010-04-15 22:58

カラマーゾフの兄弟、その5、ロシアの僧侶とヨブ記 (No.703 10/04/14)

d0151247_21504497.jpg 大審問官の考え方は、人間はパンさえ与えておけば幸せなのだ、ということである。それをキリストは「人はパンのみで生きるのではない。神の言葉で生きる」と言って、人にパンをあげるより自由を与えた。パンをもらうことを現代的な言葉に変えれば、「物欲を満たす」と言うことである。しかし、いくら物欲を満たしたところで、それは決して人を幸福にはさせない。人間の欲望は限りがないからだ。あれが欲しい、これが欲しいと思って手に入れても、すぐに別な物が欲しくなる。パンをもらえば人間が幸せになれると考える大審問官の考えは単純過ぎる。
 しかし、イワンが訴えたのは、エデンの園にずっと閉じこめておけば人間は幸せだったのに、神様は「お前たちは自由だ。これからは自分で全部自分の面倒を見ろ」と言ってそこから追い出した。そのため、人間はものすごく悲惨な目にあっている。これをどうしてくれるのか、と神に訴えたのである。
 その答えが次の6編、「ロシアの僧侶」で語られる。それは三男アリョーシャの師匠であるゾシマ長老の生涯の物語を通して言われる。彼の死の直前、アリョーシャはゾシマ長老からその生い立ちを聞いて、大審問官の問いかけの答えを見つけるのである。
 恐らくロシア正教でも相当の高僧と思われるゾシマ長老がまだ修道士見習いであるアリョーシャに自らの生い立ちを話すこと自体が異例だが、ゾシマ長老によればアリョーシャは長老の若い頃にそっくりだったという。そこで彼を呼んだのだ。そして、最初に言う言葉は、「おまえは僧院を出ていっても、色々な敵を作り出すであろうが、その敵さえおまえを愛するようになる。また人生はおまえに数々の不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸福になることもできれば、人生を祝福することもできる」ということを言う。これを上の大審問官の言葉と重ね合わせると、ゾシマ長老の考えがよく分かる。人は自由で苦痛を得たけれど、それがあるから幸せにもなれる、と考えているのである。
 その思いをゾシマ長老は彼が幼い頃若くして死んだ兄の言葉から最初の啓示を受けたと言う。兄は不治の病でまもなく死ぬのが分かっている危篤状態にあった。それを母は泣いて悲しむ。すると兄は「お母さん、泣くのはおやめなさい。人生は楽園です。ぼくたちはみんな楽園にいるのです。ただぼくたちがそれを知ろうとしないだけなんです。もしそれを知る気になったら、明日にもこの地上に楽園が現出するのです」とものすごいことを言い出すのである。彼は自分の命が数日しか残っていないことを知っていながら「日にちなど数えることはないじゃありませんか。人間の幸福を知り尽くすためには一日だけでたくさんです」「ああ、わたしの周囲には、こうして神の栄光が充ち満ちていたのだ。わたしはそれにまるで気がつかないでいた」のだと言って、神を賞賛し、自らが得た幸福感を言うのである。
 他の若者は元気で生きているのに、長老の兄だけが不治の病で死にかかる。これってひどく不公平で残酷な話だが、それなのに兄は「人の幸せは一日もあれば十分だ。私は幸福だ」と言い切る。イワン、大審問官が聞いたら怒り出すような神の仕打ちである。それをなぜ兄はそのように言ったのだろうか。ゾシマ長老は子供の頃最初に読んだ旧約聖書、ヨブ記の話をする。その話はこうである。ウツの地にヨブという正直で潔白な人が住んでいた。彼は神に対する信仰心が厚く、家族にも恵まれ、財産も羊7千頭、牛5百頭も持つ裕福で幸せな生活をしていた。そんなヨブは主(神)にとって模範的な人だった。そこに悪魔がやってきたので、主は悪魔に「お前はヨブを見たか」と問う。信仰心の厚いヨブを悪魔に自慢したかったのだ。すると、悪魔は「ヨブが信仰心が厚いのはあなたの優しい庇護があるからで、それが無くなればたちまちヨブはあなたを恨みますよ」と言って挑発する。「何ならあなたがヨブの生活を滅茶苦茶にしてみてはどうですか」と言われ、神は悪魔の提案に乗るのである。
 悪魔はヨブの子供らと家畜の群れをことごとく滅ぼしつくした。彼にはこの世のありとあらゆる苦難、苦痛、悲劇、恐怖などがこれでもかというくらい沢山襲ってくる。幸せの絶頂にいただけにその落差は余計ヨブを苦しめた。だが、人が不幸だと感じるあらゆることに見舞われたヨブは、ここで大審問官のような不平は言わない。ヨブは次のように言う。
「私は裸で母の胎(たい)から出てきた。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
(ヨブ記1:21)

 自分はこの世に裸で生まれてきた。その後得た財産などあったところで、最後はまた裸で帰るのだ。そんな苦難などひとときのことに過ぎない。彼は悪魔が企てた不幸の連続攻撃にも一向に信仰心が揺らぐことがないのだ。もし我々が例えば会社が倒産し、家は破産で財産も無くなる、その同時期に事故で子供を亡くしたらどんなに悲嘆し、運命の苛酷さを恨むことだろうか。ところが、ヨブは悪魔が企てた人生最悪の災難でも神に対する信仰を失わないのだ。
 だが、ここでドストエフスキーはヨブ記に対して面白い解釈をしている。「主はどういうわけで自分の聖者中で最も愛する寵児(ヨブのこと)を悪魔の慰みに委ねてしまったのだろうか」という疑問である。なんのために主はそんなことをしたのか。たんに悪魔に自分を慕う者を自慢したかったからなのか。これについては確かに謎である。しかし、ゾシマ長老はそれに対して、創造主は天地創造のとき、自らが造ったものを見て「それを良しとされた」(創世記1:12)つまり「神はヨブを見て、再びおのれの創造したものが良きものであり、自分の創造が正しきものであることを誇られたのである」という答えを与えている。
 神が造ったものはすべて良しなのだ。ヨブは悪魔に誘惑されても、神を裏切らないことを、ここで再確認したとゾシマ長老は言うのである。そうして、辛い過去を過ぎると「昔の悲しみは人生の偉大な神秘によって、次第に静かな感激に満ちた喜びに変わっていく」とアリョーシャに言って聞かせる。苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、恐ろしいこと、それらはすべて神の「良き創造物」なのだ。だから、どんなに苦しいことでも必ずそれを抜ければ栄光が待っている。ここにキリスト教が言うところの神の試練の考えがある。人は苦しみ抜いてこそ幸せを得ることが出来ると言っているのである。パンだけでは決して幸福にはなれないのである。

以下明日に続く。
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ロシア、サンクト・ペテルブルグ、ハリストス復活大聖堂(Собор Воскресения Христова)。1881年のロシア皇帝アレクサンドル二世の暗殺で血が流された場所に建てられたことから血の上の救世主教会(Храм Спаса на Крови)とも呼ばれているロシア正教会の聖堂である。
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by weltgeist | 2010-04-14 22:49

カラマーゾフの兄弟、その4、自由と実存 (No.702 10/04/13)

d0151247_20282521.jpg カラマーゾフの兄弟の次男イワンが三男アリョーシャに語る大審問官の話は、16世紀のスペインに気まぐれで再臨してきたキリストに対して、カソリックの大僧正である大審問官が「今更この世の中に戻ってきても迷惑だ」とキリストに文句を言う話であった。マタイ福音書4:4で言われた「人はパンのみで生きるにあらず、神の口より出る一つ一つの言葉で生きる」と言ったことをとらえて、大審問官は人は神からパンをもらう代わりに自由をもらったと解釈する。しかし、この自由が人間には荷が重すぎるのだ。自由のない奴隷のような生活でも、パンがもらえるならマシだと言うのである。奴隷には自由の不安がないからだ。ところが、キリストはそれをしなかった。大審問官によれば、キリストはそのことで「人間を幸福にする唯一の方法をしりぞけた」ことになると言うのである。
 「人間や人間社会にとって自由ほどたえがたいものは他にないからだ。このまっ裸な焼け野原の石を見ろ。もし、おまえ(キリスト)がこの石をパンにすることができたら、全人類は感謝の念に燃えながら、おとなしい羊の群れのようにおまえのあとを追うて走るであろう」。人はエデンの園で動物と変わらぬ暮らしをしていた時は何の不安もなかった。それが禁断の木の実を食べて楽園を追放されて以来、ずっと不安で苦しい人生を歩むことになった。悪魔が石をパンに変えろと言ったのは、その状況を変える絶好のチャンスだったのに、キリストはそれを退けたと大審問官が考えているのである。
 大審問官によれば神は人間に自由を与えた。しかし、それは耐え難いものだ、ということになる。この考えに対して、すぐ思い浮かぶのはサルトルとニーチェだ。実存は本質に先立つ、それ故人間は自由だ。しかし、その自由を得たことで人間は自らの人生を自らの責任において切り開いていかなければならない。それは極めて苦痛なことで、人間は自由という名の刑に処せられているとサルトルは言う。逆にニーチェは「神は死んだ」と宣言することで、神の支えを失って自由になった人にはニヒリズムが重くのしかかってくることになる。神の死が虚しい人生の永劫回帰として現前してくると考えているのである。
 しかし、イワンの大審問官はサルトルともニーチェとも違う思想である。決定的な違いは「人間の自由は神によって与えられたもの、神が保証したもの」という点だ。サルトルの自由は最初から神の支えなど必要なかったし、ニーチェは神が支えていたのに、それが死んだ(つまり人々が神を信じなくなった)ために、人間はニヒリズムにならざるを得なくなったことである。しかし、イワン、つまりはドストエフスキーが言うのは、人間は神から自由を与えられたことで逆に苦しんでいるということだ。
 だが、これこそ実は人間の本質ではないだろうか。人間は自由だが、それはまた途方もない苦痛を伴うものである。自由とその重圧感、これが人間である限り避けようのない現実なのだ。エデンの園で動物と変わらない生き方をずっと続けることなど出来ない。より人間らしく生きていこうという意志、すなわち自己の実存を全責任において引き受ける決意があるかどうか、このことが大審問官の章で問われているのである。
 大審問官はキリストに「今我々が悩んでいる自由の苦痛をお前はどう責任を取るのか」と迫る。それに対して、キリストは一言も言葉を発せず、大審問官に口づけするところで、大審問官の劇詩は終わる。大審問官へのキリストの接吻。これがイワンの疑問への解答である。この謎めいた解答をどう受け止めるか、作者は我々読者に聞いているのである。だが、今の小生にはこの意味がものすごく良く分かる気がする。
 イワン、いや大審問官はこの世で悲惨な人生を送って悩んでいる無数の人間の代表なのだ。この世はイワンが言う幼児虐待のような悲惨な状況が至るところで見受けられる。それを人類の代表として神に訴えているのだ。しかし、苦悩があるからこそ人間らしい世界も見えてくるのである。神はそうした試練としての世界を我々に与えたのである。だから我々はその中でもがきながら、自らの光明を見つけていくしかない。
 大審問官の問いにキリストが何か言えば、人間に与えた自由を侵すことになる。神自らが人間の自由を否定することになるのだ。キリストは人間の苦しみを見て「頑張れ」と我々を力づけてくれているのである。キリストの接吻を小生とは違った意味で解釈する人もいるだろうが、小生には苦難の道を歩む人間への優しい励ましと思えるのだ。それは「罪と罰」のラスコーリニコフが、シベリアの流刑地で大地に接吻したのと同じ発想である。いや、以前、このブログで取り上げた「貧しき人びと」の中で、苛酷な運命に落とし込められながらも、それを神の意志として引き受けた、あのマカールの寛容と同じ流れのものであると思う。
 無神論者、イワンは大審問官という架空の人物を創作することで、神を否定しようと思いながら、心の底で常に救い主としての神を希求しているのだ。イワンは大審問官の最後で「ぼくはすべては許されていると思う」と言って創作劇の話を終えている。そう、すべてはすでにキリストの十字架上の死で許されているのである。ここにおいてイワンは自らが無神論者と言いながら、すでに神の懐に飛び込んでいると小生は解釈している。そして、イワンの言う人間の苦しみは次のゾシマ長老によってキリスト教的に乗り越えられるのである。

以下明日に続く。
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by weltgeist | 2010-04-13 22:09