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Bさん夫妻はアメリカに一時帰国 (No.689 10/03/31)

 日本に住む外国人はいずれは母国に帰っていく。海外駐在している日本人だって、最終的には日本に帰って、そこで余生を過ごすのが普通だろう。小生に英語を教えてくれているBさんも、日本が大好きな外人と言っても、いつかはアメリカに帰っていくのではないかと漠然と思っていた。
 ところが、Bさんは一大決心をして日本に永住することにしたようだ。何と日本に永住するために家を買ったのだ。先日も軽くふれたが、彼らはアメリカの年金制度のために、5年間の間に一度は6ヶ月以上母国にいないと年金の権利を失ってしまう。この変な条件を満たすために、今回6ヶ月間アメリカにいなければならない。そのため、今日、夫妻はアメリカに帰っていったのだが、今まで住んでいた賃貸住宅の契約を今月末まででおしまいにして、日本に戻った時ずっと住む家の購入を決めて行ったのである。日本に本気で骨を埋めようと決心しているのだ。
 家の購入に至るまでの様々な事務手続きや契約などは不動産に詳しい彼の同僚(日本人)がやってくれたので、詳細は分からない。しかし、購入した家に住めるのはまだ先のことなので、賃貸の契約が切れて、アメリカに行くまでの8日間だけわが家に泊まっていたのである。
 Bさんの借りていた家はわが家から200mくらいの近さにある一戸建てだった。近いからお互いにしばしば行き来する近所付き合いをしていて、普段彼らがどんな生活をしているか、おおよそのことは知っているつもりだった。しかし、今回8日間という短い期間でもわが家で過ごすことになって、日本に住むアメリカ人のライフスタイルは我々と違う面が沢山あることに気が付いて興味深かった。
 生活のスタイルは当然ながらウエスタンであるから、寝るときはベッド、食事は洋食となるのだろうが、わが家にベッドはない。狭い日本の家屋にベッドのような大きな物を置くと部屋が余計狭くなる。わが家には布団しかないのだ。前回の学生諸君も布団だった。今回も畳の部屋に布団を敷いて寝てもらった。布団については在日25年にもなるから、何度も経験していてほとんど問題はなかったようだ。
 心配したのは食事だ。これについては妻が一切の決定権を持っているので、小生がとやかく言う権利はない。すべては彼女の判断にお任せである。どんな風にやるのか見ていると朝はパン、夜はみそ汁付きという和洋折衷の食事を出してくれた。またB婦人がメキシカン料理を振る舞ってくれたりしてこれも何とかクリアー出来た。
 我々と違うと感じたのはお風呂だ。彼らは毎日シャワーを浴びるが、バスタブにお湯を張ってそれに浸るという習慣は全然ないようだ。疲れて帰ってきて、お風呂にドップリと浸かれば、疲れもとれるし、暖かくて気持ちがいいと思うのだが、日本人みたいにバスタブに入らなくても全然平気らしい。
 最初の日、Bさんがたいへん疲れていたようだから小生がお風呂にお湯を入れて、勧めたら、こうしたお風呂に入るのは5年ぶりくらいだ、と言っていた。自宅にあったお風呂は一度も使ったことがないと言っていた。シャワーだけで物足りないと思わないようだ。それでいて風呂が嫌いというわけではない。近くにあるスーパー銭湯に行くのは大好きだから、どうもこのあたりがよく分からない。
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 しかし、一番興味深かったのは彼らのコンピュータに対する接し方だ。Bさんの仕事は雑誌の編集なので、アメリカに帰る前に原稿の整理と簡単なラフデザインを決めて、アメリカにいるデザイナーにメールで送っておかなければならない。それらの仕事はすべてコンピュータで出来てしまうらしい。原稿のリライトから全体のイメージまで、コンピュータでやるため、朝から晩までほとんどコンピュータにかかりっきりなのである。小生も結構コンピュータは使う。しかし、そんなの比較にならないくらいコンピュータにかじりついているのである。
 写真は帰国の日の今朝のものだが、まだ二人ともコンピュータを使っている。成田空港に向かうには朝の10時半には家を出なければチェックインに間に合わないのに、今朝もこのようにコンピュータにベッタリ張り付いていて、片時も離れないのだ。もうこの人たちはコンピュータがなければいられないまでになっているようだ。
 ところで、いままでBさんには英語を教えてもらっていたから、8日間も同じ家で一緒に暮らしていればきっと英語のいい勉強が出来たろうと皆さん思うだろう。だが、実際には全然出来ていない。Bさんたちは日本語が上手で、すぐに日本語になってしまうのだ。せっかくの良い機会を自らの怠惰で逃してしまった小生と妻の英語力は一向に向上しないままであった。いや、いや、もとい。向上しなかったのは小生だけで、妻は結構英語で話していたから少しは成果があったのかもしれない。
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帰国前夜の昨晩はBさん夫妻にディナーをごちそうしてもらった。わが家から案外近い所にあったお店だが、一度も入ったことがなかった。ところがこれがおいしいのだ。彼らはそうした穴場的なレストランなどを日本人より良く知っていてうまくそれを利用しているのである。夫妻のこうした笑顔が見られるのは半年後である。
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by weltgeist | 2010-03-31 23:57

腰痛に少し希望の光が見えてきた (No.688 10/03/30)

 腰痛難民として様々な病院をさ迷って来たが、少し前から最後の望みを託して、ある大学病院の整形外科で診察してもらっている。この病院は昨年、パミール高原に行く前にも診てもらっていて、そのとき撮ったMRIでは脊柱管狭窄症と断定できるほど脊柱の間隔は狭くなっていない、痛みの原因は別のところにあるのではないかと診断した病院である。
 このとき担当のT先生は、「MRIの所見ではあなたは痛いと言ってもまだまだたいしたことはない。手術するようなものではないから、薬で抑えることにしたらどうか」と言われ、痛み止めを処方された。それでパミールは何とか乗り切ったが、ハードなパミールの山登りの無理がたたったのか、その後急激に痛みが激しくなってきた。すぐにT先生のところへ行けば良かったのだが、大学病院が小生の家からかなり遠い場所にあることもあって、足が遠のいていて、整体などに通ってさらに痛みを悪化させてしまったのである。
 今年になってまた顔を出したら、小生が昨年「山を歩ける体にしてくれ」と無理矢理頼んだことをT先生はよく覚えていて、小生の顔を見ると「また今年もどこかヤバイ所に行くつもりですか」と聞いてきた。どうも小生はかなり無茶をやる人間と思われているようなのだ。
 もちろん、その推測は当たっている。実はまだブログにも書いていないが、今年も結構きつい場所に行く計画を密かにたてているのだ。そのためにも痛い足腰は絶対になおしておきたいのである。
 今日撮ったMRIは昨年とは違う角度からもう少し脊柱の変形を見ようというリクエストで撮ったもので、それを見たT先生は小生の腰痛の原因は今まで疑っていた「脊柱管狭窄症」ではなく、「椎間孔狭窄」という病気の可能性が高いのではないかと診断した。昨年も先生が言ったように、脊椎管は確かに狭いところはあるが、痛みの原因を引き起こすほどひどくはない。今回別の角度から撮ったMRIの画像からは、むしろ椎間の孔から出て枝状に伸びている神経が、一カ所曲がっていて、それが周囲の骨とすれていることが見えると言うのだ。
 もちろん、まだ確定的ではない。正確な診断をするには背中の神経に造影剤を入れて撮影して見る必要がある。そのためには、数日間の検査入院が必要だというので、多分、来月にはまた入院しそうだ。昨年の胃潰瘍、脳梗塞に続いて3度目の入院である。そして、椎間孔狭窄とはっきり診断できたら、最後はここの部分を直すためにさらに2週間以上の入院になるかも知れないのだ。やはり小生は入院ばかりの人生で一生を終えるのは間違いなさそうだ。
 帰りしなにT先生は、「入院前は出来れば痛みがはっきり出ている方が患部を見つけやすい。だから、それまであなたは好きなことをやっていていいです。やりたいことをやってください」と言ってニヤリと笑った。
 小生、これまでなるべく痛くならないように、毎日痛み止めをきっちり飲み、不必要な運動は痛みを増すから控えていたが、次回の検査入院まではそれもやる必要がないというのである。「そうか、そうか。それなら遠慮なく、来週早々には磯釣りに、そしてその後は本格化するギフチョウのシーズンに合わせて、どこかの山に行こうか」と考え始めている。懲りない男はこういうことばかりやっているから、いつまでたっても病気が直らないのである。

腰痛に悩んでいる人で小生の悩める病歴を最初から知りたい人はこちらをクリックしてください。
またいよいよ苦難の道を歩き、ついには腰痛を一応克服した道を知りたい人はこちらをクリックしてください。
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マルティン・ルターが翻訳したドイツ語版の旧約聖書、トビト記の挿絵。スズメの糞が目に入って失明したことに絶望したトビトを皆が介抱しているところのようだ。このあと、息子のトビアスが大天使ラファエルと旅をして、チグリス川でつかまえた大魚の胆嚢(たんのう)を父親の目に塗って失明を直す病気治療の話であるが、現在の旧約聖書でトビト記は「外伝」とされ正式な聖書の書とはみなされていない。
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by weltgeist | 2010-03-30 23:57

浅田真央選手の金メダルおめでとう (No.687 10/03/29)

 イタリア・トリノで行われたフィギュアスケート世界選手権で、浅田真央選手が素晴らしい演技で一位の金メダルを獲得した。バンクーバーの金メダリスト、キム・ヨナ選手は今回二位の銀メダルだった。バンクーバーでの浅田は痛恨のミスをしてヨナに負けたのだから仕方がない。しかし、前回の負けを自ら課せられた試練としてしっかり乗り越えたのだろう。むしろ、バンクーバーの負けがあったから今回の世界選手権で浅田選手が優勝したと我々は思いたい。彼女は悔しさを全身で受け止めて、それをバネに今回の完璧な滑りをして栄冠を勝ち取ったのである。闇の苦しみから明るい栄光の中に戻ってきた彼女に心からおめでとうと言いたい。
 バンクーバーでは確かに滑りの技術、美しさではキム・ヨナの方が優れていた。浅田選手が敗れても仕方がないかもしれないが、今回のキム・ヨナは何か芯のない抜け殻のような印象を受けた。恐らく彼女はオリンピックにすべての照準を合わせていて、それで手にするものを全部得たから、その後の虚脱感がまだ続いていたのではないかと思う。今回の世界選手権の前に一週間しか練習時間がなかったと本人が言っているところを見ると、もしかしたらこれを期に引退するのかもしれない。
 ただ、なんとなくすっきりしなかったのはフリーの採点内容だ。キム・ヨナはダブルアクセルが半回転しか出来ていなかったし、トリプルサルコーでは転倒までしているのに、ほぼ完璧に滑った浅田真央より得点が高かった。浅田、129.50点に対し、キム・ヨナ、130.39点というのは何か釈然としない。以前から言われていた採点に対する疑惑の噂が真実ではないかと思ってしまう。昼のテレ朝で佐野稔さんも「僕は転んでいる人を世界一にしてはいけないと思った。ジャッジの点の付け方に、日本人的には怒っています」とコメントしていた。それでも浅田選手は勝ったのだから文句を言うべきではないかもしれないが、気持ち的にはすっきりしないのだ。
 くしくも同じときに例のボクシングの亀田興毅が27日に行われたWBC世界フライ級王座統一戦で敗れ、「採点に疑惑があるのではないか」とクレームを付けて、再戦を要求している。以前、自分が勝った時、回りから「判定がおかしい」と言われても、知らぬ存ぜぬを決め込んでいたのに、立場が逆転するとこうも勝手なことを言い出す。例の怖いお父さんが「採点がおかしいやろ。おのれの首取ったる」と日本ボクシングコミッション事務局長を殺すような脅し言葉を言ったというから、すごい人である。
 スポーツの得点といっても人間が判定するものだから、完全なものを期待する方が無理かも知れない。火のない所に煙は立たないのたとえ通り、時にはそうした裏工作があるのだろうが、それがあまりにひどいものだと、結局ファンも呆れて足が遠くなってしまうだろう。選手にはそうした裏工作が使えないほど完璧な演技をして、有無を言わせない勝利を勝ち取ってもらうしかないのだ。佐野さんは「今回の浅田選手は今シーズン最高の出来で、最後のステップは神様が乗り移ったかのようだった。僕は満点をつけてもいいくらいと思った」と語っていた。浅田はそれを自ら実践して勝利したのだ。
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トリノのフィギュアスケート世界選手権フリーで、渾身の滑りをする浅田真央選手。近寄りがたいほどの迫力ある滑りは佐野稔さんが言うように、神が乗り移っているかのような素晴らしいものだった。写真画像はテレビ放送からキャプチュアーしました。
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by weltgeist | 2010-03-29 23:26

しゅろの日曜日、枝の主日 (No.686 10/03/28)

 キリスト教徒は今日の日曜日を「しゅろの日曜日」(英語では Plam Sunday =パーム・サンデー)と呼んでいる。なぜ今日がしゅろの日曜日というのか、聖書を調べてみたら、ヨハネの福音書12:12-13に「大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝をとって、出迎えのために出て行った」と書いてある。彼を歓迎するために信者が道にしゅろの葉を敷き詰めた絨毯(じゅうたん)を用意して、恭しく迎えた記念すべき日なのである。
 しかし、この日はその後イエスがユダヤ教の司祭たちに捕らえられ、殺されることにつながる重要な一週間の始まりの日でもある。エルサレムに入った彼は翌週には逮捕され、総督ピラトの裁判を経て、金曜日に十字架に架けられて殺され、さらに3日後の日曜日に復活する。復活した日曜日がイースター、すなわち復活祭である。だから「しゅろの日曜日」からイースターまでの目まぐるしい一週間の展開は特別重要で、この週をキリスト教徒は「受難の週」、または「聖週間」と呼んでいる。
 今年は今日が「しゅろの日曜日」であるから、イースターは来週の日曜日、4月4日ということになる。前にも書いたことがあるが、かってのキリスト教の暦は旧暦を使っていて、イースターも春分の日の後に来る最初の満月の日曜日とされていた。従って、イースターは日本のような固定した休日ではなく、月齢で変わってくるから毎年違った日になり、今年は4月4日なのである。
 ところで、「しゅろの日曜日」の語源となったヨハネ福音書の記述を、他の福音書で確認してみると、それぞれ違った表現になっている。マタイ福音書21:8では「群衆の大ぜいの者が自分たちの上着を道に敷き、ほかの人々は木の枝を切って来て道に敷いた」とあり、しゅろとは書いていない。同じようにマルコでも「多くの人が自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は、木の葉を枝ごと野原から切ってきて敷いた」(11:8)とある。ここではどちらも木の枝になっていることから、カトリックでは「枝の主日」とも言っているのである。主日とは「主の日」という意味で、ラテン語ではドミニカと言う。
 しかし、これらの記述の違いは大きな問題ではない。ここで注目することは、イエスはとても恰好良い人として、威厳を持ってエルサレムに入城していないことだ。彼は世間で愚鈍と言われているロバに乗って行くのである。それも弟子にわざわざロバを連れてくるように指定してであるから完全に意図的である。もし彼が神ならどんな状況だって設定出来たはずなのに、ドンキホーテの従者、サンチョみたいに、わざとロバに乗っていくのはなぜだろうか。ここにはキリスト教の神に対する本質が見えてくるのである。
 これは彼がクリスマスの時、みすぼらしい馬小屋で生まれたのと同じ思想で、神はイエスをごく普通の当たり前の人間として世に送り込んでいるのである。主は自らの分身であるイエスを、不完全で罪深い人間として世に送り込み、その犠牲によって罪をあがなおうとしたのだ。だから、ヨハネ福音書12:13では続けて「ホザナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」と人々に歌わせるのである。ホザナとはヘブライ語で「我を救い給え」の意味である。
 人々はロバに乗った人、イエス・キリストを救世主、メシアがやって来たと見て叫んでいるのだ。こうして彼はエルサレムに入り、人類の罪を一心に背負って十字架に架けられて行く。ロバは神が人間の背丈まで降りてきていることの暗示である。

 今日の「枝の主日」にふさわしい過ごし方はどうあったらいいのか。小生、今夜はモーツアルトが書いた「主日のための夕べの祈り K.321」という曲を聞いて静かに過ごした。あまり馴染みのないモーツアルトの宗教曲であったが、心にしみいるような演奏だった。この曲を知ったのは2006年にNHKハイビジョンで放送したニコラウス・アーノンクールがウイーン・コンツエントウス・ムジクスを指揮(合唱・アルノルト・シェーンベルク合唱団 )したものの録画テープである。詩篇の朗唱とマリアが讃えるマニフィカートで締めくくられた6つの楽章の最後には頌栄(神の栄光の賛美)がついていて、バッハのマタイ受難曲とは違った意味での深い感動を呼ぶ音楽だと感じた。この曲を聞きながら、今日の「枝の主日」の意味と、イエスのロバの意味を改めて考えて過ごしたのである。
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イエス・キリストが日曜日にエルサレムに入って来たとき、人々は道にしゅろの葉や自分が着ている上着を敷いて主を出迎えたとあることから、この日を「しゅろの日曜日」と呼ぶ。しかし、待ち望んでいた救世主は、高貴な姿をしていない。それどころか、愚鈍なロバに乗って行くのである。多くの宗教は神の偉大さを表すために、金銀などの宝石や豪華な装飾、威厳に満ちた荘厳な寺院などで人を圧倒させるのだが、キリスト教の本質はそうした虚飾を避けて、神は我々と同じ次元に降りてきていることを示している、と小生は解釈している。豪華絢爛たる装飾で飾ったところで、しょせんそれは人間の次元での物にすぎない。神jはそんなちっぽけな者ではないのだ。
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by weltgeist | 2010-03-28 23:56

慢性的な借金体質が産んだ危機 (No.685 10/03/27)

 上司だったW氏はたいへん頭の切れる人で、小生は彼を仕事の上でも個人的にも信頼していた人物だった。ある日その彼が「**君、これからの日本はたいへんなインフレになると俺は思うが、君はどう思う」と意見を聞いてきた。小生は「経済のことは分からない」と答えたら、W氏は日本の財政赤字がひどくなって、将来的にはきっと国債などは償還できなくなる。そのためには借金をチャラにする「スーパーインフレを意図的に起こすかもしれないからそれに備えておく方がいいぞ」と言っていた。なるほど、先日の北朝鮮のデノミと似たようなことをやれば借金はなくなるのだ。
 今はデフレの世の中だから、インフレは考えにくいかもしれないが日本の財政赤字の深刻さを考えたら、十分ありうることである。2010年の予算案の歳出は92兆円で、税収は37兆円。足りない分44兆円は国債発行でしのぐという。年収370万円の人が440万円借金して920万円の生活をしようというのだ。借金が税収より多くなったのは戦後初めてというから、これは危機的状況なのである。
 国や地方全体の公的債務残高は949兆円にもなり、GDPの1.97倍である。IMFの試算では2019年には公的債務残高が個人金融資産を上回り、これ以上の借金は出来ない状況になると予測している。このままだと10年たたないうちに日本の財政はお手上げになるのである。
 EUではギリシャの財政危機がユーロ経済圏を揺るがしている。ギリシャは最終的にはIMFの緊急融資を受け入れざるを得なくなるだろう。90年代には韓国やタイがアジア通貨危機でIMFのお世話になり、厳しい緊縮財政を余儀なくされた。同じような危機のマグマが日本でも静かにエネルギーをためつつあるのだ。景気の悪さを食い止め、景気浮揚策としてジャブジャブ歳出を増やすしかないところに追い込まれた日本は、それでも一向に景気が上向かないで借金だけが増えている。その結果は恐ろしいカタストロフィーに向かっているように見える。ギリシャの厳しい現状は決して人ごとではないのだ。
 国の財政に関わる問題を小生のような素人が論じる事柄でないことはよく分かっているが、自民党と同じ轍を踏んで、意味もない子供手当のようなばらまきをやったり、国民新党のいいなりに09年度第2次補正予算を2.7兆円から7.2兆円に膨らませたりする政府の脳天気さを見ていると心配になってくる。金もないくせに、借金で大盤振る舞いばかりやっていて「大丈夫か」と思ってしまうのだ。
 今や1000兆円に迫りつつある借金はいつ、どうやって返すのか。それを考えるとスーパーインフレは現実味のある解決策と見えてしまう。スーパーインフレが起これば年金暮らしの小生など真っ先に干上がってしまう。「米10㎏が100万円」なんてことになって、今でもスズメの涙だった年金はアリの涙にもならなくなるだろう。大学で哲学を教えてくれたS教授は、1930年代にドイツに留学していてスーパーインフレを経験し、パン一つが何万マルクもしたと話してくれた。しかし、当時の日本円は強かったおかげで、本屋の棚に並ぶ数十冊の本をひとまとめに買っても、わずかな円ですんだ良き時代だったと言っていた。
 願わくば日本の景気が回復して、税収が増えて欲しいが、それは多分これからも期待出来ないだろう。W氏が言うようにインフレで財政赤字の借金をチャラにする事態か、ものすごい増税によって借金を返していくしか道は残されていない。そうなれば、現金を持っていても意味はなくなる。手持ちのお金の価値がどんどん下がっていくから物を買っておく方がマシかもしれない。銀行も企業も倒産が相次ぎ、生活は猛烈に苦しくなるだろう。
 W氏の予測は当たって欲しくないが、今回のギリシャの騒動を見ていて、何故か彼の予測通りの方向に進んでいる気がしてならなくなってきた。我々は破滅からどう身を守ったらいいのだろうか。その道が小生には読めない。
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by weltgeist | 2010-03-27 23:28

オオタカの苦い思い出 (No.684 10/03/26)

d0151247_20393338.jpg わが家の前の森の、いつもは閑散とした場所に沢山のカメラを持った人がいる。何事かと近づくと、みんながシラーッとした顔をしてとぼけている。何かいいものを見つけたのを知られたくないから隠している雰囲気である。これはおかしい。何かあると、直感した小生は「俺はあんたたちのことなんか興味ないよ」というふりをしながらも、それとなく周囲を見渡した。
 カメラマンたちのレンズはいずれも400㎜以上の超望遠だから、鳥を狙っているのは間違いない。しかし、どんな鳥なのか、鳥の知識の乏しい小生にはよく分からない。ところが、数日してその正体が判明した。オオタカがいると言うのだ。
 以前テレビでオオタカのヒナを盗んでいくけしからんやからがいるというので、埼玉の奥の方でヒナが巣立つまでボランティアが徹夜で張り番しているいるという報道をしていた。それほど貴重な鳥がここにいるとなると、これはニュースである。早速ウイッキペディアでオオタカの写真(右)を見たら、ご覧のように腹の部分が白っぽい鋭い顔つきをした猛禽類の鳥であった。
 2006年12月に公表された環境省のオオタカ保護指針調査結果によれば、その繁殖個体数は約2000羽だという。となると、わが家の前にいるものは1/2000ということで、なかなかのレアもののようだ。当然現在は準絶滅危惧種としてレッドデーターブックに記載されていて、捕獲は禁止されているらしい。
 前にも何度も言っているように、小生は鳥には全然興味はないが、それでも珍しいものならせめて姿だけでも写真に撮れないかと思って、散歩に行く時は300㎜のレンズも用意し、鳥撮り屋さんが待ちかまえる近くをしらばっくれながら通っている。しかし、いまだ親鳥の姿は見たことがない。そのかわり、オオタカの巣というものを教えてもらった。高い木のてっぺん付近に沢山の小枝を集めた巣らしき物が見えた。しかし、小生の持つ300ミリのレンズでは遠すぎてほとんど様になる写真は撮れていない。巣の近くで待ち受ければ、そのうち親鳥が近くに現れる時があるかもしれないが、このレンズでは撮ったところでたいしたものは期待出来ないだろう。
 ところで、オオタカの写真を見ているうちに、ずっと昔、小生がようやく一人前になった頃、仕事で鷹を使ったCMを作ったことを思い出した。確か千葉県あたりにあったCM専用の動物を貸し出している動物タレント屋さんからレンタルした鳥が、上にあげたウイッキペディアの鳥の写真と似ている。今思い出すとオオタカだったのではないかと思うのだ。あのとき千葉からやってきたオオタカは、頑丈な手袋を用意した鷹匠が連れてきていた。オオタカは目に小さなアイマスクをかぶせられ、鷹匠の右手にはめた手袋の上に止まって静かに撮影セットが出来上がるのを待っていた。
 動物を使ったCMというのは案外イージーな企画で、どこの代理店でも昔から動物をアレンジしたコンテを考えてくる。しかし、企画はイージーでもいざ撮影となると動物だから、こちらの思った通りには動いてくれない。今でも沢山ある動物が出るCMは、納得出来るシーンを撮るのに相当の苦労をしているはずである。我々が作ったものも、CMコンテに沿ったカットを撮らなければならず、ひどく苦労をした。とにかく自然の中の雰囲気を出すように通常よりはるかに大きめのスタジオを借りて、擬似的に組まれたセットを用意して撮影に備えたところまでは何の問題もなかった。
 セットが出来あがり、いよいよ本番になったときまで鷹はこちらが望む通りのやり方で簡単に飛んでくると思っていたのである。ところが、いざ本番になって、鷹のアイマスクをはずしたら、鷹が照明のライトに怯えて全然飛んでくれないのだ。動物タレント屋さんの話では「どんな状況でも意のままに飛ばすことが出来るように飼い慣らしてある」と言われていたのが全く意のままにならないのである。
 それでも最初は鷹が飛んでくれるのを根気よく待っていた。しかし、長くても夕方までには撮影は終わると思っていたのが、全然撮れないのだ。スタジオの予約は夕方までだったが、このままでは納得出来ないので延長するしかない。だが、鷹はますますいじけて、獲物を襲う精悍な鳥とは思えないほど弱々しい感じになっていた。焦りだしたのは鷹匠で、最後は、鷹匠が鷹を放り投げるようにして無理矢理飛ばせたのである。鷹は壁や床に何度もたたきつけられ、動物の哀れさを感じるほどの悲しい状況であった。
 さすがにこんなことまでして動物のシーンを欲しいと思わないから、我々は急遽コンテを変えて、鷹の鋭い目のアップを使って誤魔化して、何とかその場の恰好だけは付けたのである。
 このときの鷹の一日あたりの出演料(?)は30万円くらいしたはずである。「高いなーっ」と思いつつ、自らの給料の安さを嘆いた。鷹は痛めつけられたが、当時のサラリーマンの平均月給の二ヶ月分を一日で稼いだのである。もちろん、鷹自身が預金通帳を持っているわけではないから、振り込まれたギャラが彼の手に渡らなかったのは言うまでもない。
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by weltgeist | 2010-03-26 23:31

Hand me down =お下がり (No.683 10/03/25)

 毎週小生の家に来て英語を教えてくるBさん夫妻がわが家を訪ねて来た。実はBさんたちはまもなくアメリカに帰らなければならないのだ。よく分からないがアメリカの年金は5年間に一度は、6ヶ月以上アメリカに住んでいないともらう権利がなくなるらしい。彼らは毎年数ヶ月ずつアメリカに帰っているから、通算すれば6ヶ月以上の期間なるのだが、切れ切れは駄目で、連続していないと有効と判断されないらしい。とりあえず、これから6ヶ月間はアメリカに住んだという実績を残すために、一時帰国し、6ヶ月後の10月に日本に戻ってくるのだという。
 何でそんな面倒なことをしなければ年金がもらえなくなるのか、彼らもシステムが複雑すぎてよく分からないらしい。その点では日本も同じだ。社会保険庁の出鱈目で複雑なシステムを知らずに年金をもらえなくなった人が沢山出たのは記憶に新しい。ミスター年金の長妻厚労相になって、こうした不手際はあまり騒がれなくなったが、それでも内容が分かりにくいのは変わらない。小生も自分の年金額がどのようにして決まっているのかいまだ理解できていない。お役所のやっていることは日本もアメリカもあまり変わらないようだ。

 ところで今日は奥さんの方が使っているコンピュータ(マックブック)の液晶画面がきれいなので、「それいいですね」と言ったら、「辺見さんだよ・・」という答えが返ってきた。この言葉の意味が分からず、辺見さんという人からもらったのかと思ったら、「ヘン*・ミー・ダウン、Hand me down =お下がりよ」と言ったのである。日本語的に言えば、ハンド・ミー・ダウンである。しかし、ここまで日本語風に直しても、小生はこの言葉の意味が分からなかった。元々の単語を知らなかったのだから理解しようもないのだ。とにかく、誰かが使っていた物を他の人にあげるお下がりを英語で Hand me down と言うと教えてもらった。
 今の日本では「お下がり」という言葉は死語になっているかもしれないが、小生が子供の頃はどの家庭でも普通にお下がりが使われていた。上の兄弟が着たものが体の成長に連れて小さくなってくると、下の弟に丁度いいサイズとなる。わが家は男ばかり三人兄弟で、小生が長男だったから、お下がりをもらった経験はないが、弟は毎年小生のお下がりで、時々「新しいのが欲しいよ」と文句を言っていたのを覚えている。
 しかし、今は少子化で兄弟が沢山いる家庭が珍しいし、贅沢になった現代っ子は人が着古したお下がりなど着ないだろう。それだけ物が溢れているのか、それとも物を大切にしなくなったのか、あるいは余裕が出来たのか知らないが、どうやら今の子供は恵まれすぎている気がする。
 そう言えば、以前、妻に与えた最初のノートパソコンは小生のお下がりだった。妻は最初は良いも悪いも分からず、与えられた性能の低いパソコンを文句も言わずに使っていたが、やがてそれがひどく時代遅れの低速パソコンと分かるようになった。しかし、それでも妻はハードディスクがクラッシュするまで、文句も言わずにそれを使い続けてくれた。彼女もやはりお下がり経験世代の人間なのだ。
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日本に来てすでに25年になるBさん夫妻。とっくに新婚時代の甘さなどないだろうに、カメラを出したら、サッとこうしたポーズをとれるのはさすがにアメリカ人である。いつまでも恋人同士のように仲がいいのに関心する。少し前に来たDさん夫妻もカメラを構えたら、奥さんが旦那の所にピタリと寄り添った。日本人の夫婦だと、新婚当初の初々しい時を除けば、お互いが無関係のような仏頂面をしていることが多い。こうしたところは見習いたいと思うが、小生のような「年代物」がこんなことをやったら回りから気持ち悪いと思われるだけであるから、もちろんやらない。
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by weltgeist | 2010-03-25 23:40

キタテハのgifアニメ画像 (No.682 10/03/24)

 東京でも桜が開花し、いよいよ春まっしぐらになりそうだ。わが家の周辺でもここ数日の暖かさで、桜が急に咲き出した。春が来たという感じは、やはり桜の花が咲いて初めて実感出来る。気温が暖かくなると木々も芽吹き、まもなく新緑の季節となるだろう。そう思っていたら今朝は冷たい雨で、急激に気温が下がって寒くなってきた。天気予報では明日も雨で寒いそうだから、まだこの時期は油断出来ない。春は三寒四温と言われるのもこんな天気を指しているのだろう。
 それでも四温だった昨日の暖かい日に、わが家の前の森を歩いたら、待ちこがれていた蝶が飛び始めていた。春らしい日差しを浴びてミヤマセセリとキタテハが飛んでいたのに出会ったのだ。ミヤマセセリは生まれたばかりのきれいな翅を輝かせていたが、キタテハは左後翅が切れた個体だった。昨年の秋から成虫で越冬したものが、この暖かさで飛び出てきたのだろう。すでに数ヶ月間も飛んでくたびれているようだった。破れた翅はどこかの藪で引っかけたのかもしれない。生まれた時は傷一つない完璧な姿で成虫になるが、次の世代の卵を産み終える頃にはボロボロの姿になって一生を全うするのである。その点では蝶も人間も同じなのだ。老兵は痛ましい体で力つき、寂しく世を去るのである。
 小生、今年第一号の蝶の写真をこのキタテハに決めて撮ってやろうと思い、カメラを構えて待ち続けるが、忙しげに飛び回るだけで一向に翅を休める気配がない。蝶って案外長い時間飛び回ることが出来るのだ。それでもしばらく待っていたら、ようやく地面に止まった。距離にして20mくらい離れた所だから、止まった場所をよく覚えておかないと、近づいてもどこに止まっているか分からなくなる。キタテハのような保護色の蝶はとくに注意しなければならないのだ。
 そっと足音を立てずに近づくと、忙しげに翅を閉じたり開いたりしているのが見えた。これを105㎜のマイクロレンズで狙える位置まで近づいてから、連射して撮ったのが今日の掲載写真である。別に単なる蝶が写っているだけの面白くも何ともない写真だったが、今回はちょっと新しい試みとして、最近ネットではやっている gif アニメ画像の素材として使ってみたので、ご覧のように翅の開閉が動いているように見える。
 これは3枚の写真を PhotoshopCS3 のレイヤーで一枚の連続物に変えたものである。映画の原理と同じで数枚の写真を連続して開くと、あたかも蝶の翅が動いているように見える。このように複数の画像を一枚ずつ時間を開けて開いてくる gif アニメは、ブログ仲間のゴージンさんに教えてもらった方法で、結構難しい。昨年、ゴージンさんと見に行ったキベリタテハを素材に何度かチャレンジしたが、うまくいかず、今回ようやく出来た習作の第一号がこれである。まだ初心者の出来映えで、ただ蝶が翅を動かしているだけの、なんてことのない写真だが、慣れてくれば自分なりのテーマでもっと楽しい画面が作れる可能性を秘めた技法であると思っている。
 最近のコンピュータの画像処理はとんでもないことまで出来てしまう。撮影した画像のなかに余計なものが写り込んでいても簡単に消し去ることなど当たり前である。撮影画像データはより美しい写真にするために、レタッチをするのが常識になっているのである。かって写真とはありのままの現実を写し取らないと駄目と言われた時代があった。しかし、今は撮ったものをそのまま「生出し」することはほとんどない。写真は美しくお化粧して出すのだ。
 お化粧とは現実を修正して誤魔化すことでもある。お見合い写真で美人に見えた女性が、実際に会ったら落差の大きさに愕然としたという話は良く聞く。これって正確に言えばインチキである。しかし、そんな堅いことを言うのはやめよう。撮られる方も、撮る方も両方とも被写体がきれいに写っている方がずっと楽しいし、お互いにハッピーだからだ。そう考えて小生は画像に修正を加えるレタッチに関してはほとんど抵抗感がないのである。
 しかし、今回の画像、アップしてはみたものの、結構目障りで、うるさい感じだ。これは使い方を誤ったかもしれない。
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by weltgeist | 2010-03-24 22:36

No.678 でいただいたコメントにお答えします (No.681 10/03/23)

 今日は別なことを書く予定だったが、No.678で書いた外来魚の「選択と排除の論理」について、友人の「たかはらがわさん」から長いコメントをいただいたので、これについて小生の考えを述べることにしました。まずたかはらがわさんのコメントを小生なりに要約してみました。論点が失われないよう文章を短く要約しましたが、原文を正確に読みたい方は、No.678 のコメントを参照してください。

たかはらがわさんの第一のコメント
 外来魚の命自体に罪がないのは明らか。駆除している側も同じ事を感じている。ただし外来魚の命の尊厳の問題については、今後の課題。魚類学会では、研究対象とする時の魚の扱いについてのガイドラインが作られていて、その中には動物福祉という言葉も見られる。外来魚を駆除する場合の命の取扱いについても、いずれ議論されてゆくと思われる。
第二のコメント
 外来魚の問題は、日本列島に昔からいる魚たちを、生物(遺伝的)多様性という視点から、重要であると認識するかどうかではないか? 日本列島の生い立ちとともに生き物は種分化してきた。淡水魚のように簡単に移動できない生物は、地史の影響を特に強く受けている。同種であっても、水系が違うだけで遺伝的に大きい差があったりする。こうした違いを残すことの重要性がある。外来魚の捕食等の生態的影響により、こういった多様性(遺伝子資源)が喪失する可能性がある。そのため外来魚駆除が行われているのが現状。
第三のコメント
農作物は問題が少し別。河川や湖沼は公共物であり、そこに住んでいる生物は無主物とされ、漁業権があっても魚の所有権は採捕されるまでは誰の物でもない。一方、農地は、所有権があり農作物もまた栽培者のもの。生物多様性保全の見地から何らかの行動を起こすことは、所有権を侵害することになるため法律的な問題から難しい。今後、ガイドラインのようなものが作られる可能性はあるが、人の食料供給という問題からすると、かなり難しい。
第四のコメント
 人が生きていくためには生物を利用せざるをえない訳で、どの程度まで許されるかという程度の問題は、人間側の都合でいくらでも変化する。結局は、ある時点における人の多数意見が、その程度を決めるしかない。人という種の繁栄を最重要とする以上は、絶対的な真理はないのが一番の問題なのだと思っています。

小生のコメント返信
 小生は自然を地球の歴史全体の中で考えようとしています。自然は長い地球史の中で今に至るまでの間、猛烈な生存競争を繰り返して多くの生き物が繁栄と絶滅を繰り返してきました。恐竜や三葉虫の繁栄と没落に代表されるように、生態系は常にお互い同士が生存をかけた戦いの結果として現在に至っています。そしてこのような生態系のダイナミックな変化は地球が存在する限りこのあともずっと続くでしょう。
 生態系は常に全体的なネットワークの中で膨大なオセロゲームのように変化し続けるところにその特徴があると考えます。絶えず変動するこの複雑巨大な生態系に人間はどこまで関与出来るのでしょうか。長いスパンで考えると、どの種類が価値が高く、どれが低いかという自然に対する価値判断などさして意味がなくなるというのが小生の基本的な考えです。ところが、人間は今の自分に都合がいい立場から価値判断しているのではないかと思うのです。そして、その価値判断が正しいと信じた前提で行動している。
 人間は過去からの生態系史のなかで「現在」という、非常に限られた時間の一部だけを見て、それだけが正しいと思い込んでいるのではないか。また、全ネットワークを見渡してではなく、自分の気に入ったものだけを選別していないか。自分が気に入ったものはGoodであり、その価値実現を邪魔するものはBadとしていないか、人間とはそのように環境に自分の価値観をぶっつけてしか生きようのない生物だと、小生は悲観的に考えているのです。
 ですから、ある特定の生物だけを特別視することは間違いではないかと、思うようになってきたのです。どれも同じ、平等、同価値と見なければおかしいと考えています。すべての生命に尊厳(生き抜く権利)がある、たとえそれが外来生物だろうと、気味の悪い害虫のようなものだろうと差はないと考え始めたのです。
 地球史を生き抜いた生物たちは巨大な生態系のネットワークの中で、人知が及ばないほど複雑なつながりを持って生きています。日本列島にすみついた生き物たちは、それぞれ独特の遺伝的多様性を持っています。それらを守ることは大切かも知れませんが、そこに選別と排除の論理が入り込むと、今言ったすべての生物は同価値という点と相容れない面が出てきて、どちらを選ぶべきか迷いが出るのです。
 生物の多様性を保全すると言っても、巨大な生態系を無理矢理ある一面だけで固定化するに過ぎず、結局、多様性ではなく「自分が選んだ特殊性」を助長する恐れがないかと思うのです。人間のちっぽけな頭でなるべく良い解決法を選んだつもりでも、ざるで水をすくうように、「多様性」がこぼれ落ちてしまう。我々が保護したいと思う種は自然全体のほんの一部にすぎず、その種だけを特別視していないかと疑うのです。山に緑が欲しいと土を掘り起こして植林したとき、その掘り起こしで人間の目にはとまらない無価値な生き物が沢山殺されることなど誰も注意を払いません。これが、大切な植物、たとえば今のわが家の周囲では「野生」のカタクリを掘り起こしでもしたら、たいへんな批難を浴びます。しかし、名もなき雑草なら平気で抜き取り、緑を回復したと、胸を張るのです。池の水を抜いてバスを駆除したと思うが、そのとき人間にはまったく無価値な無数の水性生物が破壊の危機に直面していることに考えが及ばないのです。
 外来魚とか在来種という区別そのものが問題ではなく、自分は自然を保護しているのだ、という勘違いした奢りを持つことを戒めたいと思って書いたのが「No.678 選別と排除の論理」です。保護をしようと人間が手を出せば、どうやっても、どこかに破壊がついて回るのです。一番いい保護とは人間が一切手を出さずに放っておくことです。これを理解していない人たちがいると思い書きました。
 しかし、人間は常に自然に働きかけ、それを自分の都合のいいように改造していくことでしか生存出来ないから、常に選別と排除をしなければなりません。たかはらがわさんのおっしゃる第四のコメント「人という種の繁栄を最重要とする以上は、絶対的な真理はないのが一番の問題」と言うことが現状だと思います。そして、環境を破壊していく人間の行為そのものもまた「自然」であるということです。ここまでくると、結局、我々には問題が大きすぎて分からなくなります。ときどきその答えは人間が滅びない限り得られないかもしれないと、弱気になることがあります。
 魚類学の専門家として自然と保護の関係に深く取り組むたかはらがわさんが、その答えを見つけてくれることを期待しています。
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by weltgeist | 2010-03-23 22:38

マグロのワシントン条約規制の疑問点 (No.680 10/03/22)

 10人兄弟に一人一個ずつのお菓子をあげたが、9人がよそ見をしている間に残る一人が自分の分も含めて8個の菓子を食べてしまったら、食べられた方は怒るだろう。今回カタールのドーハで開かれたワシントン条約改定会議で、日本のマグロがやり玉に挙げられたのは世界中のマグロの80%を日本が独占しているからである。いままではマグロを食べる習慣が薄かった外国人が、「こんなうまい食べ物があったんだ」と気が付くようになって、お菓子を盗み食いされた事態を認識したのである。そして深刻なのはもう新たに食べるお菓子のストックがなくなりつつあることが、みんなに知れてしまったことだ。知らない間に日本人がみんな食べてしまったのである。今年のワシントン条約締約国会議はこの状況下でタイセイヨウクロマグロを絶滅危惧種に指定し、国際取引を禁止するかどうかを協議したのである。
 幸いにして今回はリビアの緊急提案によって、ワシントン条約の規制種に指定されることを免れて、しばらくはセーフの状態となったように見える。漁業関係者も政府もマスコミも一様に安堵の表情を示していた。しかし、みんなハッピーだと思っているが、これって本当に日本にとって良いことだったのだろうか。マグロ好きである小生も、従来と変わらず安くマグロが食べられるのはうれしいが、相変わらず世界のマグロを独占的に食べられる状況が続くとは思えないのだ。
 今回のタイセイヨウクロマグロの禁輸提案で分かってきたのはワシントン条約というもののおぼろげな全体像である。ワシントン条約締約国会議は絶滅の危機に瀕している野生生物の保護を目的として輸出入の禁止を決める会議だが、今回のマグロ騒動をみていると、それは野生生物の保護などとはかけ離れた、まさに政治のバトルと映った。今回の会議で議論されたのは生物の保護というより、自国の政治経済的状況をいかに守るかだったからだ。
 小生は生物を「保護」という大義名分で規制する考え方には抵抗感があり、ワシントン条約で規制された生物の種類についてもかなりの疑問、異議を感じているところがある。しかし、今回のモナコなどEUの主張はタイセイヨウクロマグロの資源が危機的段階に来ていて、このままだと最後の1尾もいなくなるかもしれないということの話をもう少し詳しく知りたかった。ところが、それについて真剣に論議する前に採決されて、議論が終えてしまったことに引っかかりを感じているのだ。
 問題はこれからも安定してマグロが獲れるかどうか、その資源量が十分あるかどうかを知ることだった。もし絶滅に瀕しているようなら今後マグロは食べられなくなるから、何とかしなければならない。モナコ、EUはそれが危機的だと言う。最近は産卵場所に集まってきたマグロを巻き網で一網打尽に獲って畜養することがはやり初めて、急激に生息数の減少を招いているというのだ。
 漁業資源は鉱物資源などと違って、ある程度の漁獲をしてもその生息数が減ることはない。産卵によって子供が生まれるからだ。その割合の分、つまり親魚が産んで育つことが出来る量以内だったら、漁獲しても資源は減らないのだ。漁業が許されるのはその範囲である。それが産卵群を根こそぎ獲って畜養に回すことで、地中海のマグロが危機的状況にまで減少しているといわれ始めている。モナコはそこを言ってきたのである。
 マグロ激減の原因がリビアなどの途上国が大規模に行っている畜養である。そうした国々が反対票を投じることであぶり出されてきた。彼らの裏に日本がいると信じられているのである。そして、これらの国の畜養魚の乱獲はコントロール不能になっている。彼らが根こそぎ的乱獲に基づく畜養を続ければ、やがて地中海からタイセイヨウクロマグロがいなくなると心配しているのだ。リビアのような国をコントロール出来なくなっている「ICCAT」(タイセイヨウマグロ類保存国際委員会)に委ねるより、むしろワシントン条約の付属書Ⅱでの解決を目指す方が理にかなった解決策ではなかったかと思うのだ。全面禁輸される付属書Ⅰと違って付属書Ⅱの規制種なら輸出国の許可があれば適正量を輸入出来るからである。
 それにワシントン条約付属書Ⅱに指定されると魚類の再生産量を越えた途上国の無謀な畜養魚の輸出も出来なくなる。しかも全面禁輸ではないから、量は減っても永続的に輸入することが出来るのだ。一部の畜養に関係する業者は困るかも知れないが、これならクジラのように反捕鯨国からの反発も受けないですむことが出来たはずである。日本はマグロがワシントン条約に指定されることを恐れすぎて、道を間違えたのではないかと思うのだ。長い目で見れば今回の日本のやり方はマグロ漁業の道を閉ざし、我々がさらにマグロを食べにくくなる原因を作ったのではないかと危惧している。
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by weltgeist | 2010-03-22 23:56