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百尺竿頭一歩(ひゃくしゃくかんとういっぽ)を進む (No.658 10/02/28)

 自分は性格的に熱しやすく冷めやすいところがある。たとえば山登り、最初は面白いからものすごく一生懸命やっていた。ところが、ある程度まで上達して山屋の世界で少しは知られた顔にまでなってくると、もう十分満足した気持ちになって、それ以上力を入れなくなってしまった。飽きずに山登りを続けてその後有名なクライマーになった友人も沢山いたのに、自分は何故か急に山登りが面白くなくなってしまったのだ。中学生から高校にかけて蝶の収集に熱中したときもそうだった。最初は人の3倍くらい根性を入れてやったが、ある程度収集が出来上がってしまうととたんに気力が薄くなる。適当なところで「こんなものでいい」と勝手に思って、止めてしまったのである。
 小生が熱しやすく冷めやすいのは、飽きっぽい性格に原因があるのではないかと思っている。好奇心だけは人一倍強いから、すぐにのめり込むところがある反面、ある程度出来るようになるととたんにつまらなくなるのだ。これって、何かを完璧にやり遂げたいと思う人にとっては最悪のことである。目指していたものが手の内にはいると、それ以上興味がなくなって、適当なところで妥協したくなる困った性格の人なのだ。
 だが、どんなことでも、それぞれの道は奥深く、簡単に極めることが出来るものではない。山登りだって仕事だって、究極と言えるところまで登り詰めなければ「飽きた」なんてことは言えないはずである。飽きたからもういいと言ってることは、いい加減なところで勝手に区切りを作って、手抜きしているだけなのだ。
 表題の「百尺竿頭」とは、百尺、すなわち30mの高さにまで立てられた竿のてっぺんにまで登るということである。それは到達出来る最高の地点、究極の位置に立つということだ。だが、そんな位置まで登れる人は、非常に少ないだろう。多くの人は小生と同じで、上に登り始めてもたちまち苦しくなってギブアップしてしまう。人間国宝とか、天才芸術家など、頂点に上り詰めた人はものすごい努力と切磋琢磨を繰り返してそこに到達したのだろう。簡単に「もう十分」などと言って妥協はしないから行き着けたのである。
 しかし、そこまで登り詰めた人でもまだ十分ではない。「ここが究極だ」なんて言ってないで、さらにもう一歩踏み出せというのが百尺竿頭一歩である。これは唐の長沙景岑(ちょうさけいしん)という人が「景徳伝燈録」(けいとくでんとうろく)で述べている言葉で、「物事をやるなら徹底的にせよ」という意味である。究極の高みまで登ってもさらに先がある。そこへ向かへというのだ。世間で言われる頂点なんてたいしたことではない。もっともっと大きな世界にある究極の頂点を「死んでもいいくらいの覚悟」で目指せと促しているのである。
 物事を極めようとしてもそれには限界はない。そこに勝手に限界を書き加えて、「この程度で十分ではないか」と思い込んでしまうのがいい加減な人間のやり方である。仕事を例に取っても本人は十分うまく完成していると思ったものが、他の人から見ると中身が雑で、緻密さがない。本人が「この程度でいいだろう」と決め込んで手抜きしているだけなのだ。百尺竿頭一歩はそうした手抜きをしたがる人への警告であると言える。
 ところで、この百尺竿頭一歩の話は禅問答を記した「無門関」(むもんかん)という書でも語られている。無門関第四十六に「竿頭進歩」という禅の公案がある。そこで言われるのは百尺竿頭一歩が単に頂点を極めるというような話ではない。頂点を極めても、その先には登るべき竿が残っていないから次の一歩は登ることが出来ない。「無」が待ちかまえているのだ。それを無理矢理登ろうとすれば墜落するしかないのである。
 無門関の公案で、登る竿が無くなってもまだ登れと命じられる状況をさして石霜和尚という禅僧が「さあ、お前たちならこんなときどうする」と禅問答で問いつめてくる。禅の修行をしている雲水たちは、これを解こうと必死になって禅を組むのである。
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学生時代に小生に禅の手ほどきをしてくれた安谷白雲老師が書いた「禅の神髄、無門関」のなかでこの「竿頭進歩」を解説している。それによれば、百尺竿頭には二通りの意味が隠されているという。一つは必死に座禅して竿の先まで上り詰めた。これ以上登れないと二進も三進もいかなくなり、思い切って飛んだら、悟りを開くことができたこと。
しかし、悟りを開いてもなお竿の先端にへばりついているようでは、その悟りはなんの意味もない。その悟りさえ捨てて前に進むことが第二の意味だ、と解説している。以前、安谷老師が「悟りを開いたからといって人生が変わるわけではない。その本来の姿に帰るだけのことだからだ。いくら禅で修行をしても何も変わったことは起こらない。ただ、生まれたままの本来の我に帰るだけだ」と印象的なことを言っていたのを覚えている。となると、竿頭進歩とは命がけで竿の先からジャンプすることではなく、ごくごく当たり前の本来の自分の姿に帰るということなのかもしれない。

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by weltgeist | 2010-02-28 23:47

わが暇な一日の時刻表 (No.657 10/02/27)

 リタイアしてから時間とか曜日の観念が無くなってしまった。仕事をしていた現役時代は毎朝7時に起床していたのが、最近は午前8時から9時頃目が覚め、しばらく布団の中でまどろんで、それからおもむろに起きて顔を洗う。眠いのに目覚まし時計で無理矢理起こされるのと違って、自然に目が覚めるから、寝起きはさわやかである。「仕事に行かなければ」と思う義務感もなく、毎日が日曜日状態で朝ゆっくり寝ていられるのは有り難い。
 朝食は9時半から10時。早めに起きたときはテレビのモーニングショーを見ることもあるが、普通はお昼のニュース以外テレビはほとんど見ない。と言って最近は足が痛いので外出もしないから、ずっと家の中にいて、かなり暇な時間があることになる。リタイアした直後は、時間を自分のためにだけ使えるのがとてもうれしかった。しかし、それがしばらく続くと、逆に何故か自分が無駄に時を浪費しているような虚しい気持ちになってくる。時間というのものは少ないと困るし、多すぎてももてあますのである。そのため、時間を有効に使うよう、自分なりの時刻表を制作して、それに沿うような生活をしている。
 外出や用事がある場合を除いて、家にいる時は朝ご飯から夕方までは本を読む時間と決めている。小生の住む市の周囲数市の図書借り出しカードを作って、毎回限度一杯の本を借りまくって、ほぼ一日に2冊くらいのペースで読んでいる。読み方は以前にも紹介した「速読」である。この読書法を覚えてから、本を読める数が飛躍的に増えてるいる。しかし、現在は、西田幾多郎全集に取りかかっているので、さすがに彼の難しい文章を速読で読むことは出来ず、やや苦戦している。
 そうして、夕方5時少し前になると、この日二回目の昼食兼夕食となる。朝が遅いから昼食はなし、夕食と兼用だから一日二食である。人間の食事は一日三回とるのが常識的な回数のようだが、最近は二食にしても全然お腹が減らないから平気である。哲学者カントは、一日一食、午後一時過ぎ頃から夕方4時頃までじっくり時間をかけて食べたという。さすがに一日一食は出来ないが、二食にしてメタボの心配もなく、いまのところ快調である。ただし、足が痛いのだけはどうしようもない。
 夕食後、午後6時から7時にかけてはテレビのニュースを見ていながら、今日のブログのテーマを漠然と考えている。「今日は何を書こうか」と思いながらNHKニュースを見終え、それからブログの制作に取りかかる。
 ブログで一番たいへんなのは文章ではなく、実は写真である。写真はある面、誤魔化しが効かない。だから、本日の一枚を選び、かつそれをブログ用に加工(通常は72dpiで、横幅620ピクセル、高さは成り行きにリサイズ)するのに案外時間が掛かるのだ。写真はそのつど撮ったタイムリーな物もあれば、以前撮ったストックから選び出したりもするが、600回以上続けていると、毎回納得できるクオリティがあるものを選ぶというわけにもいかない。とにかく今日使いたい写真を選んでから、それに合った文章を考え、書いていくというのが、小生のブログを作るやり方である。。
 文章を書き始めるスタートが通常だと午後9時過ぎ。それから締め切りの午前零時までの間に文章を推敲しながら書いていく。これも案外たいへんで、すんなり書ける時もあれば、うまく書けなくてアップする時間が23時59分なんて際どいものもある。ブログを始めた頃は文章を書くのに往生して時間がかかった。しかし、毎回1800から2000字くらいの文章を継続して書いていると、次第に慣れてくるのか、最近は2時間くらいで楽に書けるようになった。そんなわけで、まだ薄氷を踏むような状態ではあるが、「毎日更新」は一応死守できているのである。
 今日も例によってアップは締め切りぎりぎりだが、アップが終わると小生の一日はほぼ終わる。この後、午前1時から2時くらいまでが、締め切りから解放された幸せな時間である。たいていは、知り合いの方たちのブログを訪問したりして、一日を終える。このような日々を過ごして、少なくとも1000回までは自分のブログを書き続けたいとと考えているのだ。
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by weltgeist | 2010-02-27 23:28

過ぎた時間は戻れない。だが未来がある。A bird in the hand is worth two in the bush.(No.656 10/02/26)

 残念ながら浅田真央選手は金メダルを取れなかった。試合後のインタビューで泣いている彼女を見て、無念な気持ちが痛々しいほど分かる気がした。恐らく、自分がやってしまったいくつかの小さなミスを思い出し、後悔の念にかられて涙が出てしまったのだろう。
 出来ることなら時計の針を戻して、その部分を修正したい。だが、この世の中で最も平等なのが、時間だ。これは誰の元にも等しく同じ尺度でやってきて、決して過去に戻ることは出来ない。時間は公平なのだ。起きてしまったことは仕方がない。今回は運命が微笑まなかったと思い、次回、ソチに向けて頑張ればいいだろう。念願の金ではなかったが、銀はとれているのだ。世界第二位なのである。
 浅田選手の場合はまだ次回という舞台で、挽回出来る機会がある。もう挽回することが出来ないミスで立ち直れない人も沢山いるのだ。ちょっとよそ見をしていて、車の運転を誤り、人をひき殺してしまった人とか、うっかりして仕事上で大損害を与えてしまった、あるいはけんかの激情にかられて人にけがをさせてしまったなど、悔やんでも悔やみきれない思いをしている人が世の中には沢山いるのだ。小生も「あのときこうすれば失敗しなかったのに」という後悔ばかりしている。
 しかし、そうした反省が次のステップとなると思えば諦めもつくと思う。以前紹介した人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)だ。それに、今回は真央ちゃんが悪いというより相手が良すぎた。キム・ヨナはたしかに強すぎる。これは真央ちゃんの力でどうすることも出来ない他人の運命である。我々だって、「あいつさえいなければ」と思うことがある。しかし、自分の運命には責任があっても、他人のことまでいう権利はない。悔しいけれど我慢して、次に光が当たってくるのを信じて待つしかないと思う。
 今日は恒例のBさんの英会話個人授業。アメリカ人のことわざに次のような言葉があると教えてくれた。
A bird in the hand is worth two in the bush. 
である。この意味は、七面鳥を撃ちに行ったハンターが仕留めた一羽の鳥は、藪の中にいる二羽の鳥より価値がある、という意味だという。
 藪の中にはもっともっといい獲物が沢山いるように見えるけど、それは見えているだけで、実際に自分の物になるかどうかは分からない。とにかく手に入れた一羽の七面鳥の方がずっと価値があるというアメリカ人のことわざである。
 藪の中には金メダルが見えている。しかし、今の自分の手の中には銀メダルがあるのだ。金はこの次ぎ、4年後にもう一度トライすればいいのだ。
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浅田真央さん、銀メダルおめでとうございます。本当は金メダルの方がよかったのでしょうが、それでも世界で第二位ということはすごい快挙です。今後さらに磨きをかけて4年後の金メダルを目指してください。(画像はNHKテレビからキャプチュアーさせてもらいました)
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by weltgeist | 2010-02-26 20:35

バンクーバーのヨナと旧約聖書のヨナ (No.655 10/02/25)

 バンクーバーオリンピックで浅田真央選手とキム・ヨナ選手の金メダル争いが話題になっている。明日にはどちらが勝つか結果は分かるのだが、今の時点で勝敗が分かっているのは神様のみである。その神様のことを書きつづった旧約聖書の中に、日本語ではヨナ、英語でジョナと呼ぶ男のことが書かれた「ヨナ書」という書がある。キム・ヨナ選手のヨナという名前がヨナ書からとったのかどうかは分からない。男の名前だから関係ないかもしれないが、今日は旧約聖書のヨナの話をしたい。
 普通のユダヤ人の男だったヨナが、ある日突然重大なことを主・エホバ(神)から命じられる。ニネベという街に住む連中がひどく堕落した生活をしている。このままだと主の怒りにふれて滅ぼさざるを得ないから、その前にヨナ、お前が行って「主が怒っているぞ」と伝えて来いとのご神託を受けるのだ。どこにでもいる普通の人間であったヨナはいきなりそんな命令を主から与えられて戸惑ってしまう。彼は主の命令を聞くふりをして、船に乗って別な方に逃げてしまうのである。
 何とも無責任な男だが、ここで分からないのは主がなぜこんなチャランポラン男を選んだかだ。主の神託を伝える人は、旧約聖書では「預言者」と呼ばれる「聖人」である。エリヤやダニエル、イザヤ、エレミアなどの聖人と肩を並べる立派な人物として主はヨナに白羽の矢をたてたのである。主のこの判断は正しかったのだろうか。全知全能の神だからまさか間違えるはずもない。ヨナは十分預言者としての役割を果たしてくれると思ったのだろう。(列王記Ⅱ、14-25にはヨナの父アミタイは預言者と書いてあるから、それなりの血筋を持った人ではあるのだろうが・・)
 ところが、ヨナは目的地のニネベ(イラク戦争のとき激戦地となった現在のモスルの街)とは反対の地中海から船でタルシュシュという方に逃げてしまうのである。現在で言えば職場放棄である。この裏切りに怒った主は、ヨナが乗っている船の回りに嵐を起こさせる。恐れをなした船長はこの嵐の原因が主の命令に背いたヨナにあることを知り、彼を生け贄として海に放り込む。すると嵐は止み、ヨナは巨大な魚に飲み込まれてしまう。以前紹介した「白鯨」のモチーフになった大魚、クジラに食べられてしまうのだ。
 魚に飲み込まれたヨナは恐怖心から必死になって主に謝罪する。彼は「主を信じます」と三日三晩魚の腹の中で祈り続けるのである。すると、あわれみ深い主はヨナの謝罪を認め、大魚の口から彼を吐き出させ、再び最初の命令、「ニネベの街に行って私の言葉を伝えよ」と命じる。ここで第二の疑問が出てくる。主はヨナが本当に改心しているかどうか、きちんと見定めたのかということだ。適当男の言葉は信用できないのである。
 こうしてニネベの街に着いたヨナは、このまま悪いことをやり続けるとたいへんなことになるぞ、と主の言葉を街の人々に伝える。するとあれほど乱れていた連中がヨナの言葉を信じて改心し始めたのである。恐らくヨナはユダヤ人でもないニネベの連中は主の言葉など信じないだろうと思っていたようだ。ところが王様までもが改心して、まじめに主を信じますと言い出すのである。
 旧約聖書が面白いのは、ヨナの告げた言葉で皆が改心したことに、ヨナ自身が非常に不愉快になって主に反抗するようなことまで書かれていることである。絶対連中は改心などしないと思っていたのが、予測が外れて頭にくるのだ。ヨナは絶対者である主に文句を言うという、とんでもなく罰(ばち)当たりな行為にうって出る。あなたが私にニネベへ行けと命じたから、それを嫌がって海に逃げたら魚に食べられてしまった。しかし、救い出していただいたので、とにかくニネベに来たら、ユダヤ人でもない異邦人たちが悔い改めている。これって、私には我慢できない不愉快なことだ、と言って彼はニネベの街から出て行ってしまうのである。
 しかし、イラクの砂漠は猛烈に暑く、日差しを避ける木陰もない。それを心配した主が「とうごま」という植物の種をまいてくれる。とうごまはたちまち大きくなって快適な木陰を造ってくれた。ところが、主はこの後、それを食べる虫を送り込み、あっと言う間に枯らしてしまう。嘆いたヨナはなぜそんな残酷なことをするのかと、また主に抗議する。
 すると「主は仰せられた。あなたは自分で骨折らず、育てもせずに一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしはこの大きな街ニネベを惜しまないでいられようか。そこには右も左もわきまえない12万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか」(ヨナ書4:10-11)という主の言葉でヨナ書は終わる。
 旧約聖書でもわずか4章という極めて短い記述のヨナ書は、とてもドラマティックで人間の弱さ。罪深さをテーマにした興味深い書である。特徴的なのは、普通の人間だったヨナが預言者に仕立てられ、最後は灼熱の砂漠に放り出され、その後彼がどうなったかが書いていないことだ。これを読む人の解釈に任せようというのだろう。全能の神ならヨナが仕事を全うしないことを知っていたはずなのに、それをあえてヨナに任せた。この意味を我々はどのように解釈するか、それは読む人各人の心にかかっているのである。

 明日はいよいよキム・ヨナ選手と真央ちゃんの戦いが行われる。緊張して明日の決戦を待ちこがれる前に、10分もあれば読み終えるヨナ書を読んで、神の意志とヨナのような不完全な人間の生き方について、考えてみてはどうだろうか。
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明日のフィギュアスケート・フリーで、浅田真央選手には頑張ってオリンピックの金メダルをぜひ取ってほしい。日本中が彼女の優勝を心から期待しているのだ。(画像はテレビの録画画面からキャプチャーさせていただきました)
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by weltgeist | 2010-02-25 19:54

自然、他然、天然 (No.654 10/02/24)

d0151247_2121838.jpg 西田哲学の思想的バックボーンになっている「無」を理解しようと、森三樹三郎さんが書いた「無の思想」(講談社現代新書207)という本を読んでいたら、面白い記述を見つけた。自然とは何かという事に対する素朴な疑問である。
 自然という言葉を我々はしばしば使う割にはその正しい意味を知っていない気がする。その例として以下のような話を書いていた。ある人が庭に咲いた花を切って、自宅の花瓶に生けたとき、あれこれ花をいじらず「自然なままに生けたい」と言ったら、客人が「自然だ不自然だと言うなら、そもそも花瓶に自然の花を生けること自体が不自然だ。花瓶という人工物に”自然”を飾りたいなら、むしろ同じ人工的な物を生ける方が自然だ」と言ったというのである。
 それではここで言われる自然とはどういうものだろうか。森さんは中国古人の自然観から説明している。まず、「自然」という漢字の意味を探るには自然という字をバラバラにほぐして見るといい。自然は「自」と「然」になるが、然とは「そのようにあること、または、そのようになることをあらわす助辞にすぎないから、意味の中心となっているのは”自”である」(PP.11-12)  その「自」とはどのようなものだろうか。それは自に対抗する言葉「他」を当てはめるとはっきり見えてくる。「自とは他者の力を借りないで、それ自身に内在する働きによることである」(P.13 )
 だから自然とは「他者の力を借りないで、それ自身に内在する働きによってそうなること、もしくはそうであること」(同)、ということになる。いわば物はそれ自身で自ら「有る」のであって、何か他の物からそうさせられているわけではない。その意味で自然なのである。
 この考え方は三世紀、晋(しん)の時代に荘子の哲学に注を書いたとされる郭象(かくしょう)の「自然の第一義は他者の力を借りないで、それ自身に内在する働きによってそうなること」という考え方に基づいている。郭象は我々のまわりにある物がどうやって出来てきたかを、現代哲学で言う「存在論」的方法で調べていく。すると、万物には様々に異なった趣があり、あたかも主催者が存在していて、そうさせたかのように見える。しかし、それを詳しく調べても、そうした主催者は見つけられなかった。物はそれ自身なのであって、他の何者かがそうさせているのではないことが分かったと言うのだ。(P.15)
 ちょっと分かりにくい表現だが、ここで言う主催者を神とか創造主という言葉に置き換えるとわかりやすい。もし万物に創造主がいるとすれば、万物は創造主(神)の産物であり、その規定に従わなければならない。万物は創造主の規定を受けた「他然」であって、自然ではなくなるのだ。自ら生み出した自由な自然は存在しえなくなるのである。
 ところで「天然」という言葉でも我々はいくつかの誤解を持っている。普通天然とは自然と同意味と考えられているが、天とは神様とか創造主ととれば、万物は天が造った「他然」、天の規定を受ける非自由なものと解釈しなければならない。それを郭象は次のように言って回避している。
 万物が「自己に内在する働きによって、そうなっていること、これを天然というのである。天然と呼ぶのは、それが人為ではなく、自然にそうなっていることを明らかにするためである。従って、その場合、天は我々の頭上にある青天をさすのではない。もともと天とは万物を総括する名称として用いられるものである。従って万物それぞれ天なのである。万物の上にあってこれを支配するものではない」(P.16)  
 ちょっと言葉のレトリックで騙されそうだが、天とは創造主ではなく、自然そのものだというのである。この世の中はそれぞれが自らの働きで現れてくる自然であって、天然、すなわち自由なのである。
 この世の中は「他然」ではなく「自然」だ、と郭象は考えた。すべての物はそれ自身から、つまり有から有が出てきたことになる。何か有と別なもの(この場合、)から生じたら「他然」となってしまうからだ。郭象は「無は無である以上、有を生じることは出来ない」(斉物論篇注)とか「一が生まれてくるのは究極の一からであって、無から起こるのではない」(天地篇注)と述べて、有は無から生じないと断言している。
 そうすると「天下の物は有より生じ、有は無より生ず」(老子、第40章)とか、「有は有をもって有をつくることを能(あたわ)ず、必ず無、有より出づ」(荘子、庚桑楚篇)といったお師匠さんである老荘が言う「無から生じる有」の考えを否定することになる。この矛盾を郭象は「有は有自身から生まれるのであって、有を生ぜしめるような他者は「ない=無い」という意味であると言っている。つまり無から有が生まれるのではなく、論理的な否定の言葉として「無」をとらえようとしているのである。、
 それはヘーゲルが「大論理学」の冒頭で「無」を規定するとき、「無は~である」という言葉で「有る」すなわち有を使わざるを得なかったのと同じ弁証法的方法を駆使して、有と無の矛盾を乗り越えようとしているのである。

 この問題は今後書く予定の西田哲学のところで、再び取り上げたいと思っているが、まだ自分的に西田に納得しかねるところがあるため、こちらはもう少し時間をいただきたい。
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by weltgeist | 2010-02-24 23:09

トヨタ車のリコールとフィットの車検 (No.653 10/02/23)

 わが家のささやかな愛車・フィットが今月末で車検となる。ホンダに預けたら、ブレーキパッドやミッションオイルなどを交換して、全部で13万円だと見積もってきた。年金生活者には大きな出費だが、交通不便なわが家に車は必需品だから維持経費としてこれくらいは致し方ないだろう。現役時代に乗っていたドイツ車に比べてフィットは値段は格安、燃費も良く、買い物に行く程度の使用ではたいへん使いやすい車と満足している。しかし、車の造りという点では別である。安いだけに何とも華奢な造りで、頼りがない。ちょっとこすったりすると、ボディが驚くほど大きくへこんでしまい、車の堅牢さがないことを痛感させられていた。
 こんなやわな車だと、いざ事故でも起こしたとき簡単にぺしゃんこになって危ないから、車検が切れるのを契機に、もっと頑丈な車に買い換えた方がいいのかなと考えたのである。だが、フィットを受け取りに来たディーラーの人に聞いたら、最近の車はどれも外回りの鋼材は薄くしてあって、衝突時はグシャッと潰れながら衝撃を吸収する構造になっているのだと言う。昔は鉄板も厚くて、戦車みたいな頑丈な造りだったが、これだとかえって乗っている人へのダメージが大きくなるから、他の車でも周囲はショックアブソーバー的な発想でやわに造られているらしい。
 そうなると、外枠のペナペナさはフィットも高級車も変わらない。もちろんそれでも中身は全然違って、高い車は走りの性能においてそれなりのことはあるだろう。フィットのような大衆車と違って安全対策などバッチリやってくれているから、安全かつ快適なドライブが出来るだろうと我々は思っていたのである。
 それが、今回のトヨタ車リコールで少し怪しくなってきた。クレームをうまく回避したことで1億ドル経費節約出来たと社内的に喜んでいたら、アメリカの事故多発で窮地に陥っている。先日社長が日本で謝罪会見を開いていたのをテレビで見たが、この人の顔に精気が感じられなかった。何か元気のない、どこか他人事のような会見に、この人は本当に消費者のことを考えているのだろうかと疑問を感じたのは小生だけだろうか。
 アクセルとかブレーキは車にとっては最も基本的なことである。プリウスのブレーキの効き具合を感覚的な問題と片づけるとすれば、車を作るメーカーのスタンスに疑問を感じてしまう。以前、BMWのM5というとてつもなく速い車に乗っていたことがある。この車の加速は恐ろしいくらい速かったが、ブレーキの効き具合も恐ろしいくらい良かった。
 車は速いだけでは能がない。パソコンのマウスの動きを速くして見ればそのことが分かる。速いだけでなく、乗っている人がしっかりコントロール出来るものでなければ危ないのである。小生、以前ソアラを2台買い換えてきた。とても速いと評判の車だったが、それはまっすぐ走るときだけで、カーブになるととたん不安定になる未熟な設計に嫌気がさして、その後、BMWを3台乗り継いだ。しかし、BMWの走りは素晴らしいと思ったが、何しろハイオクでリッター4㎞しか走らない車は、リタイアした人間には乗れない。お安く燃費の良いと評判のフィットにはこうして行き着いたのである。
 別にBMWの肩を持つわけではないが、「 Freude am Fahren 駆け抜ける喜び」と歌っているだけあって、BMWのアクセルとブレーキ、ハンドルのマッチングは絶妙だった。車の速度が遅ければそれなりに、速ければまたそれなりにハンドルの切れ具合、ブレーキの効き具合が違ってくる。車については素人同然の小生でも、ドイツ車の走りの感覚というものが自分で所有してみてよく分かったのである。こうしたトータルな車の完成度では残念ながらドイツ車の方が先行しているように見えていた。その差は今では完全に縮まっていると思っていたのに、今回のリコールが生じたということはまだ追いついていなかったのだろうか、残念に思う。
 こんなことをやっているようでは、世界の超優良企業と言われるトヨタの姿勢が疑われる。小生が危惧するのは、もしかすると今回のことがきっかけとなって、日本の企業が総崩れ状態になるのではないかということだ。まだ本体はしっかり立っているようだが、中の柱にシロアリが棲みついて、内部的に腐食している恐れがあるということである。気が付いたら皆がバタバタ倒れていた。そんな事態まで行ったら日本経済はおしまいである。しかし、今の日本のデフレの進行具合を見ていると、可能性はゼロではないのだ。トヨタよ、しっかりして欲しいと願っている。
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一昨年、アメリカで借りたレンタカーはトヨタのカムリだった。いま盛んに問題になっているトヨタの車である。しかし、このときは日本のフィットに比べて余裕のある走りにすっかり満足して、さすがはトヨタ車だと感心していた。騒がれているような不具合など一切なく、安心してアメリカの旅を楽しむことが出来たのである。(アリゾナにて)
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by weltgeist | 2010-02-23 21:44

優先席でかいま見る人間性 (No.652 10/02/22)

d0151247_1712142.jpg 電車に乗っていて、無性に立っているのが辛くなることがある。疲れて座席に座りたいと思っても、空いていなければ立っているしかない。混んだ電車の中で座れるのは、始発駅で並んで座席を確保した人や、幸運にも目の前の席が空いて座れるようになった人だけの特権である。しかし、途中駅から乗る小生の場合、空いた席を見つけるのは難しい。
 長く通勤している某氏によれば、前に座っている先客がどの駅で下車するかが、長年の勘で分かるという。そうした要領のいい人はおこぼれをうまく利用出来るのだろうが、のろまで勘の鈍い小生にはうまくいったためしがない。いつも人の後塵を拝して立ったままのことが多いのである。
 電車には優先席という特別なシートが用意されている。体にハンディキャップのある身障者やお年寄り、妊婦など保護を必要とされる人専用の席である。こうした席に一見健康そのものと思われる人がデーンと座っているのを見ることがある。中には足を大きく組んで、携帯のメールやゲームに興じている不届きな輩(やから)がいる。こうした連中を見ると、けっ飛ばしてやりたくなるほど腹が立つ。
 しかし、人は外見だけでは分からない。もしかしたら小生のように足腰が猛烈に痛いのに、外見的には健康そうに見えて誤解されやすい人かもしれない。一見して体が悪くて座る席が必要と思われる人ならともかく、回りの人から「あいつ健康そうなのに優先席に座っている」と見られるような「外見健康、内実不健康」な人は針のむしろに座っているような気持ちになることだろう。
 「私はハンディキャップがあります」というようなステッカーでもあれば、他の人から誤解されることもない。座らないと辛いから周囲の白い目を気にしつつ座り続けるしかない人は気の毒だ。しかし、問題は不届きな輩だ。こうした連中は、日常生活においても他人をおもんぱかる気持ちが薄いのではないだろうか。空いている席に座って何が悪いと思っていることだろう。彼らは他の人を押しのけてでも自分の利益を守ろうとするから、他人の信頼を受けることもなくなるのである。

 自分さえ良ければいいという発想は、彼の様々な生活上で表れる。たとえば、レジで支払う計算が間違っていて、加算すべき商品がカウントされていなかったり、おつりを間違えて多くくれた場合だ。こんなとき皆さんならどうするだろうか。これを「ラッキー」と考え、得したと思うだろうか。それとも「計算が間違っているよ」と言って相手のミスを指摘するだろうか。優先席に図々しく座って平然としている人は、多分黙って余分なおつりを受け取ることだろう。
 彼らは釣り銭を間違えたのは自分のミスではない。レジ係が勝手に間違えたのだから、その責任をとるのは致し方がない、という論理で自分を正当化するかもしれない。また、以前に自分は逆の立場で、相手に余分に払って損をしたことがあるからお互い様と考えるかもしれない。泥棒にお金を盗まれたことがあるから盗み返すという論理と一緒のことを考えているのである。ここにはレジ係りという他人に対する思いやりが見事に抜け落ちているのである。
 実は、小生、先日レジで5500円の買い物を1万円札で払ったところ、5500円のおつりを返してきた。レジの人は5500という数字が頭にあったから勘違いして1000円余分に出してきたのだ。ここで小生がそれを黙って受け取れば、1000円得をし、レジは1000円損したことになる。もちろん小生は彼が間違っていることを指摘して、1000円返して4500円受け取った。
 しかし、仮に知らんぷりして1000円余分に取ったとしても、得をしたと言えるだろうか。店員は後で間違いに気づき、「あの男が犯人」だと小生のことを思い浮かべるに違いない。もし、それが馴染みの店だったら、次ぎに行ったときお互いに後味の悪い思いをすることになるだろう。良心の呵責があるから、ほとぼりが冷めるまでしばらく足が遠のかざるを得なくなるのだ。
 こうしたことは法律とか規則といったこと以前の良心の問題である。というか常識である。わずかのお金で嫌な思いをするより、清々しい気分になれる方がずっといい。足を投げ出す輩でも、多少の良心を持つ人間なら辛そうな人に席を譲ってあげたことが過去に一度や二度あったはずである。そのときの晴れやかな気持ちを思い起こせば、他人をおもんぱかることの良さが分かると思うのだ。
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by weltgeist | 2010-02-22 18:14

第三回ブロック注射の結果 (No.651 10/02/21)

 先週の木曜(18)日に三回目のブロック注射をペインクリニックで打ってもらった。最初はひどい腰痛だったのが、最近は左足の付け根の外側が痛くてたまらない状況までなっている。脊柱管狭窄症が悪化してきているのだ。この痛みをなんとか治したいとワーファリンの恐怖も我慢して背中に麻酔薬を注射してもらったのである。
 これまで二回ブロック注射を打ってもらい、一回目は画期的に効いて痛みが驚くほど無くなってきた。これだとブロック注射を続ければ、やがて痛みは消えていく。そんな希望を持って二回目に臨んだのである。だが、二回目は思ったほどの効果は感じられなかった。一回目は最初だから画期的に効いたが、二回目以降は少し痛みが少なくなった程度である。それでもさらに打ち続ければ次第にいい方に向かっていくのは間違いないだろう。そんな思いを抱いて三回目を18日にやったのだ。
 そして、その効果のほどを確かめたく、昨日、初島にK氏とメジナ釣りに行ったのである。本来なら、もう少しハードな磯に渡船で渡った方が釣果的にはいいのだろうが、ブロック注射の効果を確認するのが目的でもあったから、ハードルを下げて初島の堤防からの釣りにしたのである。釣りの様子は、前日のブログをご覧になっていただければ分かるように、あまり好調とは言い難かった。しかし、それ以上に好調でなかったのは、小生の足の具合だ。二日前に打ったばかりのブロック注射が、まったく効いていなかったのである。島に渡って竿を振っていたら、ジワーッという痛みが出てきて、午後にはもはや立っているのも困難なほどになってしまった。
 今回の三回目ブロックでほぼ痛みは消えていくのではないかと自信を持っていたから、ここまでひどい痛みが再発するとは思っていなかったのだ。結論から言えば、今回のブロック注射は全然効いていなかった。いや、痛みのひどさから言えば、注射を打つ前の段階より悪化しているくらいであった。ブロック注射で少し痛みがとれたからと、無理をして釣りに行ったから、せっかく治りかかったものが振り出しに戻ってしまったのかもしれない。
 こうなると、今後の痛みの治療をどうするか考えなければならない。恐らくこのブログを読んでいる方の中にも足腰周辺の痛みに苦しんでいる人が何人かいると思う。小生の経験が少しでもお役に立てばと、「腰痛」というテーマで時々報告を書いているが、どうも先行きは暗いのである。
 このままもう少し注射を続けて様子を見るか、それとも、一旦治療をストップして新たな治療法を探すか、あるいはこれが小生の運命なのだ、と諦めて痛いまま治療もせずに永久的な「腰痛難民」として過ごすか、進むべき道が分からず、途方に暮れているのである。
 昨日は若い釣り人の軽快な身のこなしを見ていて、うらやましくなった。自分も若いときは同じように元気だった。それがまさかこんな体になるとは夢にも思わなかったのである。「俺は若いから健康のことなど全然気にしない」、などと思っている皆さんに言いたい。若い頃の無理は必ず後で効いてくるのだ。体の酷使は後でしっぺ返しとなって自らに襲ってくるだろう。若い頃自分の体を過信し、無理ばかりやってきた小生の失敗を参考にし、決して無理のないよう過ごしていただきたいと思うのだ。

さ迷える腰痛難民の苦しみのこれ以降の展開はこちらをクリックしてください。
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まもなく渓流釣りが解禁になる。山奥の険しい谷川を遡行するには足腰の強さが大事だ。若い頃はこの程度の谷などへっちゃらで釣り歩いていたのだが、今の足の具合では難しいだろう。何とか痛みを治して、今年の渓流釣りも楽しみたいと切実に思っているのである。
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by weltgeist | 2010-02-21 23:31

初島のメジナ釣り (No.650 10/02/20)

 今日は友人のK氏と磯釣りに行った。と言っても本格的な磯ではなく、熱海沖にある初島の堤防からのメジナ釣りである。初島は熱海沖10㎞のところにある小さな島で、熱海港から船で25分。島内には大きなリゾートホテルがあり、人気の観光スポットである。だが、この島に渡る船の発着堤防は足下から水深があり、潮の通しがいいことから、比較的大型のメジナが釣れる場所でもあるのだ。伊豆半島より東京にずっと近く、本格的な磯の装備が無くても、港から大型のメジナが狙える安近短な場所なのである。その初島から帰宅したのが今夜10時少し前だったので、今回は文章を書く時間的余裕がない。写真とキャプションだけの報告である。
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 午前7時30分発の一番船・イルドバカンスⅢ世号で初島の第一堤防に渡る。船が港に到着すると同時に釣り人がそれぞれ思い思いの場所に一斉に走る。できるだけ潮通しの良い場所を確保しないと、自分だけ釣れないはめになるから、船が港に到着した直後のスタートダッシュが重要なのだ。初島で一番いい場所は、ご覧の堤防の先端部分である。朝の第一便が熱海に戻って行く前にガッツのある釣り人がすでにこの場所を確保していた。だが、走るだけの体力がない小生とK氏はもたもたして結局こうした有望ポイントには入ることが出来なかった。
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 静岡からやってきたこの若者の釣り上げたのは、何とカンダイ。もう少し大型になると頭にコブが出てくる面白い魚だ。昔は沢山いたが、今は珍しい魚になっているので、頼んで写真を撮らせてもらった。彼は数日前にもこの場所にきていて、そのときいい釣りをしたので再チャレンジで来たらしい。さすがにポイントを心得ていて、よく釣っていた。小生のブログに顔出しOKもいただいた。
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 初島のポイントは微妙に場所がずれただけで、釣れたり釣れなかったりする。この人はテトラの上から狙っているのだが、2羽のカラスが馬鹿にしたように見ているところを見るとあまり釣れてはいないようだ。
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 小生とK氏は午前中絶不調。全く釣れないため、午後は堤防の付け根の方に移動した。ここは初島観光の人たちがひっきりなしにやってくる「銀座通り」で、メジナ釣りをしている雰囲気など全然ない。観光地のメインスポットに変な釣り人が闖入したような感じで、皆が我々を興味津々風にみていく。そのうちにこの魚がヒットしたら、小生のうしろに人だかりが出来てしまい「大きい」とか「すごい」と言っている。中には小生のファイトを見て「頑張れーっ」と、まるでオリンピックの選手を応援しているような声を掛ける人までいて、少し恥ずかしかった。40㎝に満たないサイズだからメジナとしてはすごいと言われるほどの大きさではない。だが、この魚、その割にはかなり強い力で引いて糸を切られるのではないかと、冷や冷やしながら取り込んだのである。掲載したこの写真をK氏に撮ってもらったとき、最初は後ろに沢山の観光客がいたのだが、カメラを向けたら皆さん遠慮して下がってしまった。本当はそうしたギャラリーと一緒に撮った方が面白いカットになったのではないかと気づいた時は後の祭りだった。
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by weltgeist | 2010-02-20 23:57

人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま) (No.649 10/02/19)

 日本でもお馴染みの話に、人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)というのがある。話の内容はこうだ。中国のある地方に占いの能力に優れた老人がいた。その老人の馬があるとき、手綱がほどけてどこかへ逃げていってしまった。大切にしていた馬が逃げられて、老人がたいそうがっかりしているかと思いきや、「これが不幸であるわけではない」、としょげかえることなく落ち着き払っている。
 村人が不思議がっていると、逃げた馬が他の仲間の馬を連れて戻ってくるではないか。老人は占いから馬が仲間を連れて戻ってくることを知っていたのだ。彼は馬を逃がしたおかげで他の馬も手に入れることができたから、ついていたことになる。だが、この幸運なことにも老人はいっこうに喜んでいない。「これが幸福であるわけではない」と逆のことを言うのである。
 しばらくすると、また老人の占いが当たる。なぜならこの幸運の馬に乗っていた息子が落馬して足を折ってしまうからだ。良い馬を手に入れたおかげで、けが人を出してしまったのである。幸運な馬が疫病神に変身したのだ。ところが、気の毒がる村人に、今度も老人は「これが不幸であるわけではない」と逆のことを言う。というのもその後戦争が勃発して、村の元気な若者は徴兵されてしまったからだ。けがをした息子は戦争にかり出されずにすんだのである。
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 バンクーバー冬季オリンピックを見ていると、全力を尽くしながら、力及ばず敗退していく人や、栄光の表彰台に上がった人など、様々である。しかし、「塞翁が馬」の目から見ると、それも人生の一瞬間に過ぎない気がしてくる。金メダルを取って、勝った人がその後どうなるか、誰も分からない。もしかしたらそれが人生の頂点で後は長く悲惨な下り坂が待っているかもしれない。また、負けた選手はまだ山の八合目で、今回の敗北をバネに次回に勝利を勝ち取るかもしれない。そして、次ぎに勝利を勝ち取っても、さらに先がある。前の勝者が味わったのと同じ下り坂の悲哀を味わうかもしれない。あるいは、そのまま幸せな人生を無難に終えるかもしれない。
 とにかく先のことは分からない。人間の運命には波があり、上げ潮の時もあれば下げ潮の時もある。幸福と不幸は裏返しのセットでついてくる。人間万事塞翁が馬なのだ。
 だから、小生最近は小さなことにくよくよしないことにしている。どうあがいても、物事の評価などそのときのことだけで判断できるものではない。あの時は苦しかった、しかし、その苦しさがあったから今の自分があると思うようなことが沢山ある。とにかく、今の自分がいつまでもそのままあるわけではない。幸福に酔いしれている人には苛酷な言い方だが、幸福な時間は長くない、その後訪れる不幸に備えよと、不幸な人にも同様に、落ち込むな、これが試練となって、もっと良い時が必ずくる、と言いたい。
 人の運命は変わっていく。現在幸福な人は浮かれるな、不幸な人はくよくよするな、人生、塞翁が馬なのだ。そう考えると、生きていく上での苦しいことも少し軽い気持ちになれると思うのだが、皆さんはどうお考えだろうか。
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by weltgeist | 2010-02-19 20:02