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老眼鏡 (No.572 09/11/30)

 若い頃目が良かった小生は、眼鏡というもののお世話になったことがなかった。だから、始めて老眼鏡をかけたときは、その鬱陶(うっとう)しさに辟易とした。近眼で眼鏡をずっとかけていた友人たちは、こんな面倒なものを顔の前にくっつけていたのだと、このとき初めて実感したのである。
 両眼とも1.5というやや遠視気味の目をしていた小生は、遠くのものまで眼鏡無しにはっきり見えたし、暗い場所で辞書のような細かい文字も問題なく読むことが出来ていた。お袋が針の穴に縫い糸が通らないからと、しばしば小生に通してくれるよう頼んできたが、「なんだ、こんなものも見えないのか」と言いつつ、簡単に小さな針の穴に糸を通すことが出来たのである。
 細かい文字が見えなくなって最初の老眼鏡を作ったのは41歳の時である。普通の人は45歳を過ぎる頃からと言われるが、遠視気味だと早いらしい。それに、小生、その頃からすでに解像度の悪いワープロを使っていた。当時の暗くて出来の悪い液晶画面が早くに目を悪くする原因となったのだと思う。最近ではパソコン、携帯は誰も無くてはならないものである。こんな見にくい液晶画面を凝視し続ける現代人は、目が悪くなる一方であろう。
 老眼鏡のことを英語で Readingglass と言う。つまり本を読む時かける眼鏡である。常時かけている眼鏡と違って、本や書類を読むとき以外はかける必要はない。むしろ常時かけていると、遠くのものがぼやけて見えるから危険でさえある。老眼鏡は細かなものを見る時だけ取り出して使えばいいのである。
 しかし、このことが眼鏡に慣れていない小生のような人間には失敗の原因となる。第一は忘れることだ。常時かけている人なら眼鏡を忘れることなどあり得ないだろう。ところが、わが家では朝イチに老眼鏡行方不明事件が発生する。前夜どこに老眼鏡を置いたか思い出せないから、新聞が読めないトラブルが起こるのだ。
 不精者で整理整頓がまったく出来ない小生は、使ったものを片づけることなく放っておくからこのような事態になるのである。さらに困るのは外出したとき忘れることだ。大げさに言えば月に一度くらいの確率で持っていくことを忘れてしまう。最近はスーパーやコンビニで千円くらいの安物が売っているから急場はしのげるが、これは細かい度数に合わせてないから1時間も使うと目が痛くなってくる。あくまでも緊急時のみのエキストラにすぎないのである。。
 面倒なのは、老眼は歳をとるにつれてひどくなることだ。それに合わせて度数の違ったものを作り替えなければならない。小生の場合は3年くらいの周期で度が合わなくなって、これまでに5回ほど作り替えている。しかし、それも60歳を過ぎる頃から進行が止まっている。すでに老眼もこれ以上悪くなれない限界点まで行き着いているのかもしれない。
 ところが、最近、ある異変が起こっている。昼間の明るいところだと、なぜか老眼鏡なしで新聞が読めるようになってきたのである。信じられないことに老眼が治ってきているのだ。嘘だと言われるかもしれないが、本当に老眼鏡無しで新聞の細かい文字が読めてしまうのである。
 そんな馬鹿なことがあるのだろうか。とにかく小生にとってはこのことで老眼鏡から解放される朗報が来たと思って喜んでいた。それが、先日ある方から水を差されてしまった。老人性の眼病である白内障が進んでくると、一時的に老眼が治ったようになるというのだ。言われてみると、たしかに以前ははっきり見えていた遠景がかすんで見えるようになり、昼間明るいところに行くと目がすごくまぶしくなる。どうも白内障が起こって、老眼が一時的に解消したようになってきたらしいのだ。
 先日眼科の先生に診てもらったところ、小生の白内障はまだ初期段階のもののようだが、これが悪化すると怖いらしい。さらに、それ以外にも緑内障とか網膜剥離といった怖い病気があるらしい。とにかくもう若くないのだ。目が見えなくでもなったら、釣りも、蝶の採集も、旅行さえ行けなくなる。小生の人生真っ暗になることだろう。目だけは気をつけないとと改めて思っているのである。
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by weltgeist | 2009-11-30 23:11

新渡戸稲造の語る品行と品格 (No.571 09/11/29)

 体調が悪かったり、急に海外(アラスカ)に出かけたりしてしばらく欠席していたH教授の「新渡戸稲造・武士道を読む会」に、4ヶ月ぶりに参加した。すでに「武士道」本体は読み終わっていて、今は新渡戸の弟子であった矢内原忠雄が書いた「余の尊敬する人物」という本の新渡戸に関する部分を読んでいた。しかし、この本は絶版で入手難のため、テキストは新渡戸に関係するページだけのコピーである。20名近い人数のコピーを用意した世話人には感謝して席についた。
 とりあえず、今日はコピーに移って第三回目、新渡戸が第一高等学校の校長を辞したときの「新渡戸校長辞職告別演説」がテーマであると言われたが、小生、途中参加だから矢内原の本全体のイメージがつかめていない。しかも、何の予習もなしに久しぶりに参加したため、古い口語体で書かれた文章にも少し戸惑いを感じた。言葉使いは格調高いかもしれないが、それだけ意味が分かりにくい。しかし、それ以上に漢字がものすごく難しく、読めない字ばかりで参ってしまった。昔の人の文字に対する能力は今更ながらすごいと思う。
 それと、新渡戸の能力は秀出ていて、数日前に書いたショウペンハウアーが言う、「完璧な思索はペンを借りずにはかどる」を地でいくような抜群の記憶力の持ち主であったことを改めて思い出した。たとえば我々が原稿で他人の語ったことを引用する場合など、しっかり調べてからでないと怖くて出来ない。もし間違えたらたいへんなことになるからだ。だが、新渡戸はそんな調べをすることもなく、スラスラ英語で話したものを秘書が口述筆記で書き取って「 Bushidou =武士道」を英語で書き上げているのである。引用しているところはすべて暗記したものだというから、驚くべき記憶力である。彼こそ、まさにショウペンハウアーが言うところのペン無しに完璧な思索が出来る天才だったのだろう。
 さて、今回の一高校長を辞職するときの演説で、小生の印象に残ったのは、辞職するに当たって在校生に送った最後の言葉である。すなわち
「教育は事務ではない。俗吏のする所ではない。教育は精神である。・・・日本人は幕府政治を経て来て、未だ伸び足りない。才能が十分発揮されて居ない。それを出来るだけ伸ばしてやりたい。一つの型にはめると云ふことは最も教育の本旨にもとって居る。我が輩は諸君に出来る限りの自由を与へ、外に対する責任は引き受けて来たつもりである。第三は品行より品格というふ事を重く見て居る」( P.202 )である。
 上記の文章で引っかかったのは最後の「品行」と「品格」の違いである。品行とは社会の規範を守った行儀のいい行いであり、品格とは品のある人物と解釈していた。以前、ベストセラーになった「国家の品格」を読んだとき、作者の藤原正彦氏は「武士道の精神で国家の品格を取り戻す」という時代錯誤的なことを言っていた。H教授はまさかそんな馬鹿げたことは言わないだろうと思いつつ、ここをどう解釈するか注目していたら、「生きているコイは流れに逆らって泳いでいる。死んだコイは流される」という比喩を使って説明した。
 日本の教育のスタンダードは、残念ながら新渡戸校長が希望した理想と違って、いつも常識の範囲を超えない平均点の人間、均整の取れた人間を作り上げることに汲々としていた感がある。社会の作法とか常識、規範といった「型」の中に無理矢理はめ込んだ金太郎飴人間を作ろうとしていたと言っていい。
 型にはまらないで自由に生きろとは川の流れを泳ぐコイのように、絶えずヒレを動かして流されないように「自己を堅持する」ことなのだろうか。この点についてもう少しH教授の踏み込んだ解釈を聞きたいと思っていたら、他の人が全然流れが違うとんちんかんな質問をされてテーマがずれてしまい、教授の真意まで聞き取ることが出来なかったのが残念であった。
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by weltgeist | 2009-11-29 23:51

蝶と自然保護 (No.570 09/11/28)

 わが家の前に広がる小高い森について、小生は「山」と呼んでいるが、実際は高度差50m程度の武蔵野の丘陵の一部に過ぎない。ここにはコナラを中心とした雑木林があり、「自然」が良く残された場所と言われている。林の中を歩くと、実に気持ちが良く、人工的な都会の喧噪から離れた快適な気分を味わうことが出来る。小生にとって、いまや無くてはならない癒しのフィールドである。
 ところが、先日、この森で捕虫網を持って蝶を採っていたら、歩いてきたおじさんに「ここは自然を大事にしている場所だ。蝶など採るな」とえらい剣幕で怒られてしまった。小生、普段この森では写真を撮るだけで、蝶を採集することはしないのだが、たまたまその前日にきれいなヤマトシジミを見て採りたくなり、翌日森の開けた所で網を振っていた。それを見られてしまったのである。
 小生を見つけたおじさんは、大事な自然を破壊する不届き者と思ったのだろう。「とんでもない奴だ」と怒鳴ってきたのだ。しかし、あまりの剣幕の強さにこちらもムッとして「この場所で蝶の採集は禁止されていない。法律的には何の問題もない」と反論したが、後味の悪い思いをしてしまった。このおじさんにそれ以上言い返しても面倒なことになりそうだから、網をたたみすごすごと帰宅した。
 こんなことが今年、3回ほどあり、蝶を採集する人たちは世間から「自然を破壊する人たち」と見られていることが、身にしみて分かった。だが、我々は本当に彼らが言うように自然破壊者なのだろうか。また、そうしたことを言う人たちが本当に自然を守れているのだろうか。むしろ守ろうとして、自然を破壊しているのではないかと思えるのだ。世間一般が「自然」という言葉をあまりに安易に考えすぎている気がする。「自然とは何か」を真剣に考えずに、ただ、短絡的に行動することで自然を守るどころか、逆に破壊しているのではないかとさえ思うのである。
 小生が散歩する森にしても、「自然」が残っているように見えるが、実は数百年にわたって徹底的に破壊されつくされた二次林である。自然があるといっても、それは一見すると自然ぽく見える似非(えせ)の自然に過ぎないのだ。そうやって人は周囲の「自然」を管理、破壊することで生きて来たのである。
 今日も森の道に面した木々の枝を公園職員が切り落とし、整備をしていた。コナラの枝にはアカシジミやミズイロオナガシジミの卵が産み付けられていて、冬を越した翌年にはきれいなゼフィールスと呼ばれる蝶に変身する。それがこの作業でばっさり切り捨てられているのである。以前、わが家の前側の森にあったわずかな草地が、公園整備のために刈り取られ、それによってこの草地をねぐらにする数千頭もの虫たちが殺されると書いた。何気なく刈っている草も、虫たちにとっては生きていくために欠かせない食草である。また、草の中でしか生活出来ない虫やそのほかの生き物が、この行為で殺されていることに草を刈っている人は気が付かないのである。
 成虫で空を飛ぶ蝶は美しい。しかし、幼虫は気持ちの悪い芋虫、毛虫の形をしている。蝶を殺すのはまずいが、芋虫は庭の草花を食べる害虫だからと殺虫剤で殺しまくっている。自分たちが心地よく見えるものだけを保護するのが自然保護だと勘違いしているのだ。きれいな花や目に付く大事なものは保護しても、気持ちの悪い毛虫やゴキブリを保護しようなどと言う人はいない。自然の生き物には重要とか不要といった価値観の違いはない。どれも大切な生命であるはずなのに、自分なりの色眼鏡、価値観でランクづけして自然を見ているのである。それは日本の捕鯨やマグロの捕獲を、食生活の異なる国が批難するのと同じ構図である。鯨を捕るなと憤慨している人も、同じ穴のむじなであることに気づいていないのだ。
 蝶を採ったからと言って「自然を破壊する」と思うのは短絡的過ぎる。確かに小生は生きた蝶を殺し、展翅板に貼り付けて標本にするという残酷なことをしている。しかし、それは自然を壊そうとしてではない。むしろ自然をより身近に、より良く接したいから蝶を捕獲しているのである。その点で小生に文句を言ったおじさんより、はるかに自然の重要さについての意識を持っていると、胸を張って言える。
 自然という概念は極めて複雑である。真の自然とは何か、保護とは何かを考えると、答えは簡単には見つからない。人間である限り、毎日自然を破壊した「恵み」で生活しているからだ。牛を殺し、豚を殺す、etc.・・・。 自然破壊を止めることは人間を止めることでもあるのである。
 日本人は稲作によって日本の自然を徹底的なまで破壊してきた。湿地帯を水田に変え、そこに稲という単体植物だけを埋め尽くすことで、多様な生態系を単一化してきた。しかも、稲はいま盛んに問題視されている外来種であることを何人の人が意識しているだろうか。ブラックバスやカミツキ(ワニ)ガメ、アライグマなどは駆除が叫ばれながら、稲はさらに増殖に力を入れている。不思議なアンバランスの中で我々は今も生きているのである。
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このきれいなヤマトシジミの画像を見て、ちょっと採ってみたくなり網を振ったら怒られてしまった。本州以南ならどこでも沢山見られる普通種で、カタバミを餌にして成長する。空き地の草刈りでまず殺されるのがこのヤマトシジミの幼虫である。何気ない「草取り」の行為で膨大な数のヤマトシジミが殺されていることを知っている人はほとんどいない。
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正面の葉っぱを注意して見て欲しい。森のエノキを食べているアカボシゴマダラの幼虫がしがみついているのが見える。このように大切な木々を食い荒らす害虫だが、後では立派な蝶に変身する。ところで、このアカボシゴマダラ、実は中国大陸の蝶で、いつの間にか東京周辺まで生息域を広げてきた「外来種」である。
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by weltgeist | 2009-11-28 23:33

クリスマスセールとイルミネーション (No.569 09/11/27)

 毎週金曜日の午前中はBさんの英会話の授業。Bさんが言うには感謝祭の翌日である本日(11月の第4週金曜日、今年は27日になる)から全米では一大クリスマスセールがスタートすると教えてくれた。アメリカでの個人消費はほぼこれからの一ヶ月間に集中するのだという。セール初日はどんな店も売り上げアップで黒字になることから、別名、ブラック・フライデーとも呼ばれている。それだから、スタート当日の売り上げが今年一年の傾向を占う材料にされるらしい。
 この期間になぜそんなに消費が集中するかと言うと、クリスマスプレゼントがあるからだ。小生の子供時代の経験では、クリスマスプレゼントは親が子供の靴下に入れておいてくれるものと相場が決まっていた。だが、アメリカでは夫婦間、親子間でお互いにプレゼントを交換するというからたいへんだ。妻や夫、友人、子供がそれぞれ何かを買ってあげるのだから、子供のおもちゃといった程度の物ではすまない。すごいのは、車とか、家とか、超高い宝石なんて物もあるらしい。相手が喜ぶプレゼントを買っておかなければならないのだ。そして、当日までお互いが内緒にしていて一斉に「セーノッ」と出し合って、サプライズを楽しむらしい。日本ではバレンタインデーに女性がギリチョコを買うのにたいへん苦労しているが、米国ではこれを全員でやるからたいへんな騒ぎになってしまうのである。
 小生の場合、確か小学校4年生くらいまではサンタクロースがトナカイのそりに乗ってプレゼントを届けてくれるものと信じていた。「良い子でいないとサンタが来ないぞ」と脅かされて、急にいい子ぶった記憶がある。しかし、サンタが親であることが分かったとたんに、クリスマスプレゼントは無くなってしまった。夢が現実化すると共に、プレゼントも消滅したのである。そんな素朴な時代だったから消費傾向に影響するようなものでもなかった。
 しかし、アメリカでは大きな消費はこの期間にするというから、とても大事な時期なのだろう。ところがそんな大事な時に出鼻を挫く嫌なことが起こってきた。先日、日経ビジネスで「ドルの為替レートは1ドル50円まで暴落する」という記事に、そんな馬鹿なことがあるか、俺は信じないぞと書いたら、今日は1ドルが84円まで下がってしまった。
 しかし、為替というのは軟体動物みたいな生き物に似ていて、掴み所がない。84円までドル安円高になっても、明日は分からない。もしかしたら史上最安値の79円を超えて、50円を目指す態勢をとるかもしれない。そうなると、小生が馬鹿にした日経ビジネスさんに「恐れ入りました」と頭を下げなければならない。だが、潔くないかもしれないが、小生は50円説などまだ信じてはいない。79円は割っても、そこまでひどくはならないと楽観視しているのだ。だって、もし50円になったら日本経済は破綻し、全員が路頭に迷う事態になるかもしれないからだ。
 そんな暗雲漂うクリスマスセールと共に一斉に始まるのがクリスマスの飾り付け。先日パリのシャンゼリーゼ通りのイルミネーションが始まったとニュースが伝えていた。恒例のニューヨーク、ロックフェラーセンター前のクリスマスツリーも点灯されたのではないかと思う。日本では最近お馴染みになりつつある個人宅のクリスマスイルミネーションがボチボチ始まっている。
 わが家に近い何軒かの家でも点灯を始めるところが出てきた。別にクリスチャンでもないのに、との批判もあるだろうが、悪いことではないと思う。不景気をぶっ飛ばす意味でも派手にやっていいのではないかと思う。とくにわが家の近くにはものすごいイルミネーションをする家が何軒もあって、これが一斉に点灯すると「クリスマスイルミネーション団地」の様相を呈してくる。最近はそれが評判になり、近隣の人が車を連ねて見学にくるほどの「クリスマスイルミネーションスポット」となっているようである。
 余裕がないわが家は、数年前に高さ1.5mほどのミニクリスマスツリーを買って、玄関の外に飾っていた。しかし、周囲のすごいイルミネーションの中に入るといかにもみすぼらしい感じで、恥ずかしいから最近は室内の居間に置いている。外の派手なイルミネーションには比べようもないが、小さなLEDが点滅するのを家の中で妻と見つめているだけで厳粛な気持ちになれる。ささやかなツリーでも十分クリスマスのお祝いは出来るのである。
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アメリカにはこのように、クリスマスのデコレーションだけを専門に売っているお店がある。冬のシーズンだけでなく、一年中クリスマスで商売が出来てしまうのだ。店内には日本には無いようなクリスマスグッズがいっぱい売られていた。米ワシントン州シアトル郊外にて。
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by weltgeist | 2009-11-27 23:47

感謝祭に思うこと (No.568 09/11/26)

 先週の日曜日に前倒しで感謝祭を祝ったが、今日が本物の感謝祭、サンクス・ギビングデーである。米国では今日は休日で各地でターキーを食べるお祝いが行われることだろう。さて、感謝祭というのは、誰かに何かを感謝する日である。問題は誰に何を感謝するかだ。そもそも皆さんは感謝するようなことがおありだろうか。感謝というより、あまりの不景気、殺伐とした世の中に怒りの気持ちを持った人の方が多かったのではないだろうか。
 小生にとっても、この一年は病気続きで散々であった。胃潰瘍、脳梗塞、腰痛と連続した体の変調に、感謝の気持ちを失いそうな時が多かった。
 今の小生にとっての大問題は足と腰の激痛だ。「何で俺がこんな目に会わねばならないのか」と、少し打ちひしがれていた。しかし、今日、向かいの小高い森に足の痛いのを我慢して散歩に行ったところで自分の間違いに気づいた。森を歩きながら、「自分にとって感謝すべきことは何だろうか」と考えてみて、体が痛いことこそ感謝すべきことではないのかと、思えたのである。
 自分が死にそうなくらい重い病気に罹ったことを想定してみれば、今の自分が何と恵まれているかが分かる気がした。足が痛くて外も歩けない人、寝たきりの人もいるだろう。そんな人から見れば、小生は足が痛いと言っても杖に頼ることもなく森を歩くことが出来る。周囲には辛い病気の人が沢山いる中で、このくらいの軽傷で済んだことに感謝すべきではないかと思ったのである。そして、病気になったことで別な視点、弱者の立場から物事を見れるようになったことへの感謝も感じた。
 まだ万全ではない足と腰の痛みをこらえて森に分け入ったら、道に落ちた落ち葉が折り重なって、黄色く染まった絨毯のようになっていた。そして、目を上げれば木々の葉は黄色く色づいていた。東京近郊の小さな森でもこんな見事な紅葉の景色が展開し、四季の美しさを味わえたことに感謝の気持ちを感じたのである。
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 振り返って見れば、今の小生、豊かではないが、毎日ご飯も食べることは出来るし、暖かい布団で眠ることも出来る。頭もまだ認知症まで至っていないから、普通の生活、人付き合いも出来る。こんな当たり前の生活が出来ることこそありがたく、感謝に値すると思うのだ。なぜなら、当たり前の生活さえままならない人が世界には溢れているからだ。
 だが、それは下を見て己の状態に安心するというような比較の問題ではない。「お前よりもっとひどい奴がいるのだから、納得しろ」という意見には同意出来ない。そもそも他人と比較しようとするからこういう発想が出てくるのだ。自分は自分と思えば、すべては自分の中だけの問題として完結する。他人を羨むから卑しい気持ちが生じ、不満も出てくるのである。感謝の気持ちを失わせる根源はこうした他人との無意味な比較ではないかと思うのである。
 現代は欲望の時代である。ありとあらゆる商品が消費者の欲望をかき立て、飢餓感を植え付ける。まるで、その商品を買わなければ不幸がくるかのように人は思い込まされ、絶えざる欲求不満のなかであえいでいる。あれも買いたい、これも買いたいと思わされながら、一向に満足感を得ることはない。なぜなら、ここには自分をコントロールしようとする意志が欠けているからだ。現在の自分で十分と感謝し「足(た)るを知る」気持ちがないのである。
 むしろ今、自分はこの世の中に生かせてもらっていると思うだけで十分ではないだろうか。生きているからこそすべてのことが可能なのだ。もちろん、生かせてもらっているにしても様々である。仕事にも家族にも恵まれた人もいれば、夜眠る家もなく寒空をさまよっている苦しい人もいるだろう。しかし、家族や仕事に恵まれていても幸せであるとは限らないし、寝る場所も持てない人が不幸であるとも限らない。
 我々が生きている有限な人生の時間の中では嬉しいこともあれば悲しいこともある。嬉しいこと、良いことがあれば感謝するのは当たり前である。だが、必要なことは辛いこと、苦しいこと、悲しいことにおいても感謝の念を持つことである。苦しいことがあると、それから逃げたくなる。しかし、もし自分の身に辛いことが降りかかってきたとすれば、それは自分を高めてくれる試練と思い、感謝の思いで積極的に受け入れろと言いたい。
 小生の信念ともなっているのは「人は変わることが出来る」である。苦しいことがあってもそれは必ず乗り越えられるはずである。そして、困難を克服して乗り越えた先で得られるものは、深みを増した人間性であり、限りない喜びであると思う。逃げ出した人に待ち受けるのは、屈辱と敗北感だけである。
 世の中には恐ろしく不幸な星の下に生まれたと思われる人がいる。しかし、それは我々が外側からの基準で判断しているからで、本人にとってはそんな基準は意味を持たない。幸せはどの瞬間においても、また誰の元にもあると思う。それがたとえ、死に赴く瞬間であってもだ。なぜなら命の価値は生きた時間の長さや、その人の外的なこと、すなわち財産とか名誉とか、家柄といったことではなく、その人がどう生きたかで決まるからだ。
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by weltgeist | 2009-11-26 23:57

ペンを愛用する人への忠告 (No.567 09/11/25)

ペンと思索の関係は杖と歩行の関係に近い。足取りも軽い完全な歩行に杖は無用であり、完璧な思索はペンを借りずにはかどる。老いが身に迫り始めてようやく、人はすすんで杖にすがり、ペンに頼る。
アルトゥール・ショーペンハウアー


 どこを読んでも溢れる皮肉と示唆に富んだ言葉の洪水で、小生には無くてはならない座右の書とまでなりつつあるショウペンハウアー先生の「著作と文体」の中のお言葉を今回も使わせていただいた。
 体力のある若者にとって杖は歩くことの邪魔であって、助けにはならない。同じように優れた頭脳の持ち主が鋭く考えていく過程でも、ペンなど使ってメモをとっていれば、思考が中断されてしまう。有能な人には杖もペン(メモ)も必要ない。というより有害でさえあると、ショウペンハウアー先生はおっしゃっている。
 だが、足腰が弱った老体になれば、杖は必携の品となる。同様に激しい物忘れはメモなしには防げない。「老いが身に迫り始めてようやく、人はすすんで杖にすがり、ペンに頼る」ようにならざるを得ないのである。
 自分以外の人間をしばしば「無能な奴」とこき下ろすショウペンハウアーは、きっと若い頃はメモもとらずに難しい哲学の問題を考えることができた「頭のいい天才」だったのだろう。そうでなければあんなに他の人を馬鹿呼ばわりしないはずである。しかし、だとすると彼はメモをとることもなしに、あの複雑怪奇な主著「意志と表象としての世界」(Die Welt als Wille und Vorstellung / 1819年)を書き上げたのだろうか。そこまではちょっと信じられない気がする。表面的には「ペンなど使わない」と公言しながら、結構裏では使っていたのではないかと思う。もし何のメモも無しに書いたとすれば、ショウペンハウアー先生は文句なしの天才と言わねばならないだろう。
 だが、無能な凡人はそうはいかない。小生が知る限り、自分の周囲にいた友人や同級生でペンを使わなかった人などありえなかった。小学校の時、ノートや鉛筆などの筆記具を忘れて先生からこっぴどく叱られたことが何度もある。大学ノートに思いついたこと、新しく知ったことなどをびっしり書きつづっていた自分にとってペンは肌身から離せない必携の物であったのである。
 若いときのショウペンハウアーがペンを使うことなく、物を考えられたということは驚くべきことである。とにかく、彼の考えによれば、ペンを使ってメモなどとっている連中は、年取った爺さんということになる。すでに小学校の頃からペンの必要性を痛感している小生は、ショウペンハウアーから見れば最初から爺さんの「無能な奴」ということになってしまうのである。
 とくに小生は若い頃から物忘れがひどかったから、ペン=メモが無ければ何も考えられない人間だった。頭の悪さは歳をとってさらにひどくなり、このごろは時々ペンそのものを使うことさえ忘れがちになっている。頭がボーッとしていて、ペンを使おうにも漢字を忘れてしまっているから、うまく文字が書けないでいる。こうした頭の悪い人間が将来行き着く先は・・・認知症、アルツハイマーか・・・・。
 一方、杖の方は幸いにしていまだお世話になったことはない。しかし、小生が通う腰痛の病院では杖を使っている人が沢山いる。足腰がダメージを受けて、杖で支えなければ歩けない人たちである。彼らだって若い頃は杖など使わなくてもスイスイ歩けたろう。それが自前の足だけでは体を支えられなくなり、杖が必要になってきたのだ。小生の腰痛がこのまま続けばいずれは杖が必要になるかもしれない。そして、さらに悪化すれば今度は車椅子が待っている。そうして、さらに悪化すると・・・寝たきり・・・。
 ああ、いやだ、いやだ、そんなこと考えたくない。
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腰が痛いのを我慢して久しぶりに前の山を散歩してみた。山はすっかり秋の姿になっていて、木々は紅葉していた。その森を抜けると小さな空き地があって、この花が草の間に咲いていた。名前は分からないが、秋の花の一種なのだろう。小さいけれど、とても清楚で、小生には美しい女性がダンスを踊っているように見えた。
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by weltgeist | 2009-11-25 23:49

次世代スーパーコンピュータ開発の是非 (No.566 09/11/24)

 コンピュータ開発の将来が少し危うくなりつつあるようだ。今、2010年度予算の概算要求の仕分け作業が本格化し、連日テレビを賑わせている。そのなかで、世界最速の次世代スーパーコンピュータ開発の予算がカットされそうになっているからだ。仕分け人は「世界一ではなく、世界第二位の速さのコンピュータではだめですか」といった質問で予算請求の必要性を聞いた後、凍結と判定されたのである。
 この「凍結」判定によって日本の科学技術進歩の芽がつみ取られやしないかと危惧する人が増えている。科学技術の発展は国家を支える重要なものだ。必要と思える所には金は使わなければならない。わずかな金をけちって日本が沈んでしまうような仕分け作業まで必要なのだろうか。各界から上がってきた同じような疑問の声に菅副総理・国家戦略相が「次世代スーパーコンピュータに関する凍結の判定を見直す」考えを表明したのは当然のことである。小生も同じように思って納得していた。
 ところが、専門家の意見は少し違うようだ。少し長くなるがコンピュータに詳しい元麻布春男氏の意見を紹介しよう。彼は次のように書いている。
 「仕分け作業で説明に立った研究者側はとにかく世界一へのこだわりを示した。これは「作る」という立場からすれば当然かもしれないが、「作る」ことで何が生まれるのか、生み出されるものが投入する予算に見合うものなのか、という仕分け人の質問に対する答えにはなっていない。科学研究に役立てるというのであれば、スーパーコンピュータそのものが独自開発である必要はないのである。自前で作ることの必然性、世界一を目指せるだけの高額な予算を投じることの必要性を説明できなかったという時点で、研究者側の負けだった。
 価格競争力を度外視して、国家プロジェクトで世界一性能の高いスーパーコンピュータを開発しても、それは一時的な国威発揚にしかならない。総事業費約1,150億円という予算は、それに見合っているのか、ということを仕分け人は問うているのである。
 京速計算機(何と1秒間に京、すなわち億や兆の上の京単位の計算をこなすのが次世代スーパーコンピュータ)の予算が大幅削減、あるいは事実上の凍結となったことで、研究者からは日本の科学技術の将来を危惧する声が出ているという。それは当然のことだが、研究者が必要とするスーパーコンピュータが、なぜ独自開発のものでなければならないのか。それを明らかにできない限り、仕分け人を納得させるのは難しいだろう。スーパーコンピュータを使った科学研究の意義だけでなく、スーパーコンピュータを独自開発することの意義、あるいは必要性を明確にすることが求められているのだ。
 スーパーコンピュータの開発には莫大な予算が必要である。しかし、世界のトップレベルのスーパーコンピュータ500台のうちの438台がIntelとAMDのx86/x64市販プロセッサ使ったものであることを見れば、そんな大金を投じて独自に開発する必要性にも疑問を感じる。これらは当然のように安価であり、TOP500のリストにあることからも明らかなように性能面でも優れている。使う側からすれば、極めて望ましいスーパーコンピュータだ。それを今後、TOP500の1位に輝くスーパーコンピュータを構築したとしても、自分たちの技術で世界一のスーパーコンピュータを「作った」とは言われないだろう。作ったといっても、ただ繋いだだけでは高い性能は期待できない。作ったのはHPやIBMということになる。それは「最先端・高性能汎用スーパーコンピュータの開発利用」プロジェクト」の目指すところではないのだ。
「作る側は、自分たちの技術で世界一の演算性能を目指すのは自然である。しかし、これにこだわればこだわるほど、コストは高くなる。逆に使う側にとって重要なのは、CPU時間当たりの使用料が安く、いつでも自由に使えるスーパーコンピュータであり、それが国産技術で作られたものかどうかは二義的なことに過ぎないのである」。(注:引用した文章は多少読みやすいように小生の判断で編集し、一部ゴシックの強調文字にしてあります)
 上のような元麻布氏の指摘を読んですっかり考え込んでしまった。元麻布氏が言うのは、次世代スパコン開発を否定することではない。限られた予算の中で日本の科学技術をどうやったら、一番効率良く発展させることが出来るかを説いているのである。無駄を省き、最良の道を選ぶための問題点を明らかにしてくれたのだ。「世界第二位では駄目ですか」と聞いて失笑をかったと思われた仕分け人は、実はそのことをしっかり調べ上げてこの質問をしていたのである。
 我々はただがむしゃらに先頭を進むことだけが「 Good 」と考えがちである。だが、物事は素人が表面的に考えるほど単純ではないということ、トップランナーを走り続けなくとも他の道もあるのだということを今回の件でまたまた思い知らされたのである。
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by weltgeist | 2009-11-24 22:44

西川社長の辞任と郵政民営化反対の裏に隠されたもの (No.565 09/11/23)

 今回の政権交代に伴って辞めさせられた前日本郵政社長、西川善文氏のインタビューが朝日新聞に載っていた。郵政民営化を推し進めながら道半ばにして挫折せざるを得なかった西川氏の無念さがにじみ出たインタビューであった。
 小泉元首相が掲げた「郵政民営化」の動きは今回一連の人事で元の木阿弥に戻りつつある。小泉元首相があげた役人支配の終焉を国民は圧倒的に支持したから彼は選挙に勝てたのである。これは民主党が引き継いだ一番のテーマ「脱官僚依存」で継続されると思っていたのに、郵政民営化に反対する国民新党の亀井郵政改革、金融相の強引とも言えるやり方が押し通されてしまった。亀井大臣の決定は少なくとも民主党が掲げた「官僚支配からの脱却」とは正反対をいくものではないだろうか。
 役人にとって煙たい西川氏を首にして、元大蔵事務次官の斉藤次郎氏を後任の社長に持ってきながら、15年も前に役人を辞めた人だから、これは天下りではないと詭弁を弄している。さらに副社長人事においても官僚支配(4人の副社長うち2人が官僚OB)の基盤を盤石なものにしようとしているのである。
 インタビューの中で西川氏は亀井郵政改革相から「西川社長、(郵政民営化は)これまでと根本的に変わるよ。進退はご自分で判断してください」と言われ、どう変わるのか尋ねたら「銀行法、保険業法等に変わる新たな規制を検討する」と知り、民営化は不可能なことを悟ったという。民営化に向かって進んでいた「ゆうちょ銀行とかんぽ生命」を一般の銀行や生保と同じにするのではなく、特殊法人化して政策金融をやろうとしているのである。つまりは財政投融資の復権を目論んでいるのだ。
 これは小泉改革以前の状態に戻ることに他ならない。布陣は着々と行われ、郵政民営化推進論者だった社外取締役である松原聡東洋大学教授も、今回日本郵政の副社長に就任する官僚OBの坂篤郎氏(前内閣官房副長官補)から今月17日に「20日の取締役会でお辞めいただきたい」と言われ、社外に去るようだ。
 ここまであからさまな官僚の逆襲がありながら、分からないのは鳩山首相の考え方だ。確かに選挙前、民主党は郵政民営化には反対をしていた。しかし、それはゆうちょ銀行が「民業を圧迫」するとか過疎地の郵便事業をどうするかという問題の手直しであって、官僚支配を復活させると主張したわけではない。だが、鳩山首相は今後郵政をどのようにするのか何も言わないのだ。民営化反対論者の亀井大臣にすべてを任せ、彼の暴走を許しているのである。
 民主党は「脱官僚依存」を掲げたから我々も支持したのに、郵政に関しては全く逆行している。かって、選挙で国を二分するような大問題として論議された民営化を国民が賛成して小泉自民党が勝利した。今回「脱官僚依存」で勝利した民主党はさらにそれを推し進めると国民の多くは思っていたはずである。その前提を変えるなら、どのような理由で、どう変えたいのか、はっきり表明すべきだと思う。
 我々が知りたいのは鳩山首相は郵政をどうしようと考えているかだ。国民を割った大議論の結果を、なんの説明責任も果たさず、このまま担当大臣に任せて放っておくのは無責任である。こんなことをいつまでも続けているようだと、いずれは民主党も国民から見放されるのではないだろうか。今のままでは国を引っ張っていく首相の政策が見えてこない。勝者は国民新党の亀井大臣だけということになりかねないのだ。
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朝日新聞の全面を使った前日本郵政社長、西川善文氏のインタビュー記事。志半ばにして思いを遂げられなかった無念さから、目を閉じた悲しそうな西川氏の顔が印象的だった。
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by weltgeist | 2009-11-23 21:37

感謝祭のターキー(七面鳥) (No.564 09/11/22)

 今週の木曜日、26日はアメリカの祝日であるサンクスギビングデー(感謝祭)である。しかし、日本では祝日ではない平日のため、日曜日である本日に前倒ししてターキー(七面鳥)を食べて皆で祝った。と言っても、小生、アメリカ人でもないから、別に感謝祭の祝日は関係はないのだが、都下にあるインターナショナル・スクールで開かれたお祝いの席に潜り込んで、ご相伴にあずかったのである。
 昨日は運動不足の体で陣場山にハイキングに行き、体はかなり疲れていて、本日の参加が危ぶまれていた。しかし、昨晩早めに床についたのが良かったのか、朝の寝起きはばっちり。体は少し痛いが問題なく歩くこともでき、お祝いの席で皆さんと一緒にターキーとパンプキン(カボチャ)パイのディナーを食べ、満足な一日を過ごせた。
 以前にも書いたが、ターキーはアメリカ原産の野生の鳥で、大きなものでは9㎏を越える。コロンブスがアメリカを発見した頃にはすでに先住民が家畜として飼育していたそうで、今は鶏と同じく飼育種として盛んに飼われ、感謝祭の日前後、全米では4500万羽のターキーが食されるという。ターキーの標準的なサイズは3~7㎏くらい。日本のチキンよりはるかに大型である。昨年わが家が買った冷凍ターキー1羽は何と5.5㎏もある巨大さであったが、値段は3300円と比較的安価であった。
 しかし、日本では七面鳥を食べる習慣がないので、特別な時以外で入手するのが少し難しい。また、チキンに比べてサイズが大きいので、標準サイズの日本のオーブンでは焼くことが難しいのもネックである。しかも、チキンのような切り身がなく、1羽丸ごと冷凍して販売されているため、普通の家庭で食べるにはサイズが大きすぎる。昨年5.5㎏のものを15人で食べたが、それでも食べきれない大きさであった。しかし、アメリカではたいへんポピュラーな食べ物であり、ターキーサンドイッチなど、チキンと同じくらい手頃な値段で食べることが出来る。
 サンクスギビングデーは別名、「ターキーデー」とも言い、感謝祭になぜ七面鳥を食べるのか、その歴史的な話や、ターキーの日本での入手法、アメリカ人のBさんから教わった伝統的な料理の仕方などをNo.256で写真付きで説明してあるので、興味のある方はこちらを参照していただきたい。ターキー料理は大人数で食べるには手頃なため、わが家では今年の正月の新年会でもやっている。日本では馴染みがないが、料理は思ったよりは案外簡単だから、食べたい人は是非こちらも参照して欲しい。といっても実際に料理をしたのは妻で、小生はただ横から見ているだけだったから、簡単と言う言葉を信じて、奥さんから「こんな面倒な料理を頼んできて」と文句を言われても小生の関知するところではないが・・。
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これが本日のターキーディナー。お一人500円で、ターキーなど足りない人はお代わり出来るから、実質的には食べ放題である。ターキーの味は比較的淡泊なので、好みで様々なソースをかけて食べてもいい。右はパンプキンパイ。アメリカ人が作るケーキにしては甘さが抑え気味でたいへんおいしい。
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今回のターキーは毎週やっているY先生主催の日曜読書会のメンバーと一緒に食べた。ところが、いつものメンバーであるKさん、Rさん、Mさん夫妻がなぜか本日は欠席。ターキーは好きだと思うのだが、どうしたのだろうか。彼らの分まで食べたら腹が満腹状態になり、しばらく苦しかった。そんなわけで今日の「 Giving Thanks 」の日を感謝の気持ちで祝うことが出来幸せだった。
 
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by weltgeist | 2009-11-22 20:02

陣場山「登頂」で疲労困憊 (No.563 09/11/21)

 腰痛が出て以来、散歩もしなくなり半月以上家に引きこもっていた。外にも出ないから運動不足で体は鈍りに鈍ってしまっている。そんな状態で本日、いきなり東京都と神奈川県の県境にある陣場山(867m)登山に行き、くたくたになって戻ってきた。
 体力のなさは如何ともし難く、登り始めてすぐにバテてしまい、頂上まで行き着くのがやっとだった。ところが、一緒に登った仲間の人たちは皆小生より年上なのに、すたすた歩いていく。彼らに迷惑を掛けないよう、必死で頑張ったのだが、体が言うことを効かない。とにかくやっとの思いで登りきった。大げさに言えば先日行ったパミール高原の山を登るより今回の方がきついと感じたほどである。
 今、家に戻ってきたが、今日はもう疲れて何も出来ない。ここまで文章を書くのがやっとである。一応、頂上に「登頂した」証拠写真を掲載するだけにとどめさせて欲しい。本当に疲れて、ブログもこれ以上は書けない状態だ。
 明日はサンクスギビングデーの前倒しで、ターキーパーティを催すというが、明日までに体力が回復するかどうか心配である。
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これが陣場山の「登頂証拠写真」である。ただし、険しい山ならどこでも感じる大自然の雄大さが全然ない。頂上には「陣場」をイメージした白い馬の彫刻があるが、これが景色をぶちこわしている。しかし、まるで新宿か銀座のような混雑でやってくる沢山のハイカーたちはそんなこと気にするでもなくお弁当を食べ、白馬の彫刻を背景に記念写真を撮っていた。ミシュランで三つ星の観光地と評価された高尾山の裏手にあるから、陣場山も人気が高いのだ。左手には富士山がきれいに見えていて、展望は素晴らしかった。
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by weltgeist | 2009-11-21 21:37