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本日も狭山丘陵 (No.410 09/04/30)

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 昨日書いたように、今日は朝から近場の狭山丘陵を再び訪れた。安近短のお手軽行楽地である。といっても、観覧車もなければ、ジェットコースターもない。単なる茶畑と里山である。もちろん、前回と同じくカメラと捕虫網を持っていって、ホソオチョウが飛んできたらバッチリ捕獲させてもらうつもりである。しかし、強い日差しの中、まずホソオチョウがいたポイントに行ってみたが、全然姿が見えない。もしかしたら連休中にきた人たちに全部採集されつくされたのか、それともすでに発生のシーズンが終わったのかもしれない。
 今日は雲一つない快晴で、実に気持ちがいい天気である。だが、その割に蝶は全然と言っていいほど飛んで来ない。諦めて、先日は行かなかった裏の方に回ると、狭山茶の畑が拡がり、新芽がきれいな新緑色に伸びていた。同行した妻はこんな近場に意外な場所があったことに驚き、「これなら軽井沢あたりに行くことはない。ここで十分」と言っていた。まさに灯台もと暗し、足下の狭山丘陵がこんなにいい所とは思いもしなかったようだ。
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 木立の間を抜けると、別なお茶畑が現れた。左側には竹藪が見える。「これはタケノコがあるかもしれない」と思ったら、「タケノコ採るべからず」という看板がある。残念、ここは個人の土地らしい。いや、考えて見たら関東平野の竹藪で所有者がないところなどほとんどない。鬼怒川や那珂川河原の竹藪で採るならまだしも、こんな場所でタケノコを採ったりすると泥棒になってしまう。注意、注意である。
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 竹藪の奥にあるお茶畑のヘリを歩いていたら、ようやくホソオチョウが一頭飛んで来た。前回、アップの写真を撮ったので、同じカットはいらない。なるべく後ろの畑仕事の人が写るよう、広めのアングルで止まっているホソオチョウを撮るが、まだうまく撮れていない。背景も蝶も全体にピントが甘くて自分自身不満な出来である。ホソオチョウの背景入れ写真は再チャレンジして、いずれもう少しマシな写真をアップしたいと思っている。
カメラ D300、レンズ 17-55㎜ / F2.8G 。ISO400、 F16、1/200秒、EV±0。Adobe RGB。Jpg、Fine 保存。
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by weltgeist | 2009-04-30 21:28

今年の連休はパス (No.409 09/04/29)

 今日からゴールデンウイークである。いや、すでに先週の土曜日から連休に入っている会社があるかもしれない。働いている者にとっては待ち遠しい休みである。自分も仕事をしていた頃は、ゴールデンウイークとお盆の休みは、最低でも5日以上休めるから、これを利用してせっせと長期の旅行をしたものである。とくに今は、ドルもユーロも安くなったし、燃油サーチャージとかいう変なお金も要求されなくなっているから、海外旅行には一番いい季節だろう。
 しかし、仕事が無い人にとっては、骨身に堪える連休かもしれない。就職活動しても会社は休み、正社員は休暇を謳歌している。見事なまでの対比に、失業者は惨めになるだけかもしれない。正社員の中でも仕事の量が減って、無理矢理休まされている方もいるだろうから、連休と言っても実体はそれほど楽しいものではない気がする。
 毎日が日曜日の小生にとっても、この連休は少しも嬉しくない。何しろ一年中連休だから、別に何の感慨もないのである。もちろん、いまのところ何処かへ出かける計画もない。高速代がETC特別割引で安くなる。きっと昨年以上の人が出てすごい混雑だろうから、あえてこの時期に行く理由もないのだ。
 ところが、テレビのニュースによれば今日の高速道路はそれほど混雑しなかったようだ。そうなると、後半が怖い。殺人的な渋滞がゴールデンウイーク終盤に起こるかもしれない。しかし、それでも出かける人の総数は多分減っているだろう。高速代は安くなってもガソリン代やその他のお金は掛かるから、なかなか旅行もたいへんなのだ。
 小生のように収入が少ない年金生活者は特にきつい。お金を掛けて渋滞三昧ではいただけない。車は気持ちよく走るモノ。歩く方が早いような渋滞だと、精神的にもよろしくない。車が混む休日は避けるのが賢明なのだ。
 ところが、例のETC特別割引が始まり、おいしそうな人参を目の前にぶら下げて「おいで、おいで」と呼び込みをしている。どこまで行っても高速代1000円は大きい。混雑は嫌だと思っても、目の前にETC割引の人参をぶら下げられると、何となく落ち着きが無くなるのである。
 しかし、小生は馬ではない。そんな人参に騙されはしないのだ。お金をかけて遠くまで行くのが能ではない。安近短の近場でも十分楽しむことはできるはずである、と負け惜しみを言って自らを慰めている。余裕のある人は遠くまで行けばいい。小生は、人が行かなくなって、全体に安く落ち着いた頃まで待って、遠出の旅をしようと思っている。無理に混雑した連休に行く必要などさらさらないのだ。
 この連休はもう一度狭山丘陵で手軽に楽しみ、連休が終わる最後の日(振替休日の6日)の夜、ETC割引に引っ掛けた夜行日帰りで、再びヒメギフチョウのチャレンジに行こうかとも思っている。これだと帰りの割引はないが、ゆったりとした旅が楽しめると読んでいるのである。
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まだ現役で働いている友人に合わせて、一昨年のゴールデンウイークに東北へ釣りに行った。しかし、案の定、東北道の仙台付近で渋滞に巻き込まれてしまった。あまりに車が動かないので、思わず車から出て写したのがこの写真である。運転者はみなうんざりしていた。こうなると高速道路は駐車場と化す。連休は家でのんびりするのが一番であると思ってしまう。
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釜石湾で知り合いの釣り船に乗ったら、ヤナギガレイが良く釣れた。一夜干ししたものを軽く焼いて食べると、とてもおいしい高級ガレイである。前日には一人50枚ほど釣れたというが、この日小生に釣れたのは20枚ほどであった。それでも関東のカレイ釣りから比べれば大漁である。東北は釣りの釣果という点では抜群。渋滞の減点分をこれでようやく取り戻した感じであった。
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by weltgeist | 2009-04-29 23:30

花の命は短くて (No.408 09/04/28)

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 「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と詠んだのは戦前の女流作家、林芙美子である。短い言葉の中に人生の縮図とも言えることを凝縮させた芙美子の豊かな才能を感じさせる素晴らしい言葉である。
 彼女の小説は代表作の「放浪記」しか読んだことがない。自伝と言われるこの小説が芙美子の実生活を正確に表しているとすると、すごい人だなと思ってしまう。貧しさと空腹をも乗り越えて、流転の人生を生き抜く人間の強さがここにはある。作者は貧しい放浪者として古里を持たず、あちらこちらを点々として旅をしながら生活していく。いや旅をすること自体が、自分の古里、原点である、と芙美子は書いている。
d0151247_23423057.jpg 人間は一生涯旅を続けるのであって、一カ所に立ち止まった瞬間からその人の人生は萎んでいく。長い人生においては輝く時もあれば、暗く沈む時もある。花とは芙美子自身を指しているのだろう。女性が美しく輝く期間は人生の長さから見ればほんの一瞬かもしれない。確かに花の命は短い。もう少し長く咲いていてほしいな、と思っても否応なく萎み、枯れてしまう。それが人生であり、老いていかざるを得ない人間の宿命である。
 小生、この時代の女流作家の作品は「放浪記」を除けば、藤原ていの「流れる星は生きている」以外は読んだ記憶がない。藤原てい(新田次郎夫人、国家の品格を書いた藤原正彦は彼女の次男)が死にものぐるいで終戦直後の満州から日本に引き揚げてくる苦難を綴った「流れる星は生きている」と、林芙美子の「放浪記」に共通するのは「女の強さ」である。
 女性は美しい。しかし、女性のそうした美しさの中に苦難をも耐え抜く強さが潜んでいることが、男である小生には理解出来ない。どんな美人もいつかはお婆さんになっていく。美しいと言われ光り輝く期間はほんの一瞬であり、すぐその後には長く苦しい人生の道のりが待ちかまえている。女性はそれに耐える強さを持ち合わせているようである。
 小生、花を見たときいつも思い出すのは、イザヤ書の「草は枯れ、花はしぼむ。だが、我ら神の言葉は永遠に立つ」という言葉だ。花は枯れるから美しい。花の命は本当にはかない。しかし、はかないからこそ人はそれを愛でるのだと思う。
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 子供の頃、家の近くの田んぼは蓮華の花で一杯だった。蓮華の花は咲き終えた後、田んぼの養分として土を肥沃にさせてくれるから植えると聞いた記憶がある。最近田んぼに蓮華の花が咲いているのを見ることが少なくなった。これは枯れた蓮華より化学肥料の方が効果的だからなのだろうか。いずれにしても春の風物詩がこうして少しずつ消えていくのは寂しい限りである。
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by weltgeist | 2009-04-28 23:42

外来生物の侵入 (No.407 09/04/27)

 一週間ほど前に、神奈川県立生命の星・地球博物館学芸員の苅部治紀さんという方の講演を聞いた。トンボの研究者で、日本だけでなく海外のトンボについても詳しいという。自分には未知な分野の話が聞けると期待していたが、残念だったのは講演会場の隣の部屋がとてもうるさく、刈部さんの言葉が聞き取りにくかったことだ。従って、小生の理解はかなり切れ切れのものになってしまった。しかし、それでも十分インパクトのあるものだった。
 トンボと言うと、小生は赤トンボとか鬼ヤンマ程度しか知らない。しかし、我々の周囲にはかなり沢山の種類が生息していて、それぞれが必死に自分たちの種族を守ろうと日夜生存競争を繰り広げているらしい。苅部さんは、関東地方のトンボと自然環境とのせめぎ合いを話してくれたが、小生が特に興味をひかれたのは東京から1000㎞南にある小笠原諸島にいるオガサワラアオイトトンボとオガサワラトンボという島特有の固有種が外来生物と戦っていて、絶滅寸前の危機に瀕している現状報告だった。
 絶滅の原因を作ったのはグリーンアノールという、アメリカや西インド諸島に生息していたトカゲの仲間で、これが異常に繁殖して、トンボやオガサワラシジミのような昆虫を食べ尽くしてしまうらしい。グリーンアノールは最初ペットとして飼われていたものが、捨てられたり逃げ出して繁殖していったと言われている。いわゆる「外来生物」である。
 父島ではグリーンアノールの数がすでに数百万頭に達するため、人為的な駆除は出来ないで、手遅れの段階になっている。しかし、このまま手を拱いていると小笠原の固有トンボは絶滅しかねないということで、苅部さんはグリーンアノールが入り込まない人為的な環境を作って、興味深い保護活動をしていることを紹介した。
 トンボは幼虫の時代を水中で過ごすため、水がなければ生息出来ない。ところが、小笠原にはそうしたトンボが生息出来る池のような場所が極めて少ないため、苅部さんは長さ1mほどのプラスティック製衣装ダンスを10個ほど持ち込み、それにため込んだ水の中にトンボを産卵させ、箱の周囲にグリーンアノールが入り込まない特殊なバリヤーを設置して、かろうじて固有トンボの絶滅を防いでいるらしい。
 こうした行為に水を差すつもりはない。しかし、生態系の変化、進行は個人的な努力で防ぎ止められるものだろうか。鳥島のアホウドリや古くは北海道の丹頂鶴のように保護活動が目に見える成果を得たものもあるが、自然がフルパワーで襲いかかって来たときには、人間のちっぽけな行動など少しも役にたたないからだ。数百万匹いるという父島のグリーンアノールが駆除出来ない以上、衣装ダンスの池を永遠に続けるだけでは難しいだろう。佐渡のトキのように、最終的にはどこかの人為的な環境のなかで細々と種を維持して行くことになる気がしてならない。
 生物はお互いが生息域を拡張しようと張り合いながら他の生物と戦い続けている。グリーンアノールのように敵がちょっとでも油断すればたちまち相手の懐に入り込み、橋頭堡を確保し、それを次第に拡大して領地とする。そして、領地の変更は、全く関係のない他の種にも瞬時に影響を与えていく。オセロゲームのように一部の陣地を確保するだけで、生態系全体ががらりと姿を変えてしまうのだ。
 外来生物は至る所で暴れ回っている。アルゼンチンアリ、上海ガニ、カミツキガメ、アメリカザリガニ、ゴケグモなど強力な力を持つ外来生物の侵入は想像以上に広範囲、かつ大規模に進行し、生態系は急激に変わりつつあるのである。
 釣り師である自分は外来生物というと、まずブラックバスが頭に浮かぶ。それに対する自分なりの考えをいずれはこの場で書こうと思っているが、これについてはまだ自分のなかで検討しきれていない部分がある。専門家の話を聞いてからと思っているが、未だその聞き取りが実現出来ず、中途半端な段階のままである。彼らの話をじっくり聞いた後で、バス問題を中心に外来生物の問題をこのブログで述べるつもりにしている。
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 埼玉県南部の狭山丘陵にホソオチョウが発生している場所があると聞き、今朝の青空を見て写真を撮りに行って来た。ホソオチョウは中国、朝鮮半島に生息している蝶で、本来日本には生息していない。それが1970年代頃、突然、日本のごく限られた地域で発生しだした。飛翔能力が弱いから大陸から飛んできたとは思えないこの蝶を誰かが内緒で密かに放蝶した。それが自然繁殖したのだ。しかし、生息域は放蝶された周囲のごく限られた地域に限定され、生息域を拡げていく恐れは無いという。いずれは近親交配が進んで消滅していくのではないかと推測されている。そんな珍しい蝶なので、今回はカメラと同時に捕虫網も持って行き、数頭を網で採ることが出来た。
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 狭山丘陵におけるホソオチョウはこの草原のごく狭い所だけにいて、他の地域まで生息域を拡げてはいない。彼らは自分の領地確保に関してはかなり淡泊な考えの持ち主のようで、「侵略者」と呼ぶのは可哀想な気がした。
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by weltgeist | 2009-04-27 23:03

春の味覚・タケノコと竹文化 (No.406 09/04/25)

d0151247_23284044.jpg 我が家から車で1時間ほどの所に住む知人から「タケノコが採れたからあげる」と言われれて、イソイソと出かけてきた。タケノコは春一番早く出てくる野の食べ物で、小生の大好物である。昨年もこの時期、その人の家に行き、裏の竹藪から目一杯頂いてきた。
 こんなに取って大丈夫なのかと心配になったが、雨後の筍の言葉通り、昨日のような雨が降った翌日にはニョキニョキ取りきれないほど出てくるから、好きなだけ持って行けと言う。と言っても沢山あっても後の処理がたいへん。料理に関して無能極まりない小生は、後処理の責任は一切とれないから、ほどほどの本数をもらって帰った。この後、妻はまずタケノコの皮を剥き、米ぬかでアクを取る作業をしなければならない。小生が手伝えるとすれば、皮を剥く作業程度で、後は妻に頼るだけの情けないおじさんであり続けるしかないのである。
 おいしいタケノコは地下茎から新しい芽が地面に飛び出した直後に取ったものが一番だという。柔らかく、アクも少ないから、取り立ては生の刺身でも食べられるほどである。だが、そのタイミングを逃すと、翌日にはグッと伸びてしまい、硬くてアクの強いものになってしまう。数日程度なら食べられるが、伸びたものは見逃して、新しい芽を探す方がいい。欲張って、出てきたタケノコを全部とってしまうと、新旧交代がないから竹は弱り、最後は枯れてしまうのだ。
 タケノコは一週間もすればもう竹の姿になり、美しい日本の竹林になって行く。その生長の早さは驚くほどで、あっという間に硬くなって、パンダ以外は食べることが出来なくなってしまう。食べられる期間も短かければ、「朝取り」と言って、朝取ったものはその日に食さないと味が落ちてしまう。生長とともに鮮度の劣化も極めて早いのである。
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 竹は東洋、とりわけ日本の特産品と言ってもよく、タケノコを食べる以外に日本文化の様々な分野で大きな役割を果たしてきている。卑近な例で言えば小生の大好きな釣りだ。日本の釣り技術は世界一と言われるし、釣り竿も世界に類を見ない優れたものが多い。日本の釣りは、竹がなかったらここまで発展しなかったろう。
 現在釣り竿はカーボンロッドに取って代わられたが、最初はカーボンで竹竿の調子を出すことができず、四苦八苦してようやく今の竿が出来てきた。それくらい竹が果たした役割は大きかったのである。それでもヘラ竿など微妙な調子の竿はいまだにカーボンでは出せないでいる。竹は最先端のカーボンをも凌駕するほど優れた素材なのだ。竹があったから日本の釣りが発展したのは間違いないのである。。
 もちろん、竹は日本の生活のあらゆる分野に入ってきて、その優秀な役割を演じている。生活の面では物干し竿がお馴染みだし、少し前まで踏切の遮断機にも使われていた。軽くて安くて、いつでも供給可能で、しかも適度の強度と反発力があって、加工がしやすい。こうしたことから様々な生活用品に使われてきたのである。竹ひごを使って編んだ竹カゴは、釣りの魚籠(ビク)から大きな荷物カゴまで様々な形に編まれて使われてきたし、子供の頃遊んだ竹トンボやヤジロベイなど取り上げたらきりがないほど竹製品は沢山あるのだ。
 竹がカーボンやがプラスティック製品に取って代わられたとしても、天然素材が醸し出す独特の風合いはプラスティックでは出てこない。タケノコの皮を剥いでいると、子供の頃オフクロがお弁当のおにぎりを竹の皮で包んでくれたことを思い出す。タケノコから始まって、我々の生活はどっぷり竹の文化の中にはまって育ってきているのだ。
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 一月ほど前、小生に英語を教えてくれているBさん夫妻と古い日本の民家の見学に行ったら、竹馬が立てかけてあった。Bさんが早速トライする。竹馬は日本独特の遊具かと思ったら、アメリカにもあるそうで、英語で stilts と言うと教えてくれた。しかし、乗り方が日本と違って竿を脇の下に入れて、足をかける所も進行方向ではなく直角にするのだそうだ。今回はBさん日本式に平行な乗り方を試し、少年時代に戻ったように楽しそうな顔をしていた。
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by weltgeist | 2009-04-26 23:30

偽物にご注意を (No.405 09/04/25)

 アメリカのネットオークションを見ていると、ドイツが誇るマイセンの陶磁器が驚くほど安い値段で出品されている。19世紀頃作られたきれいな白磁のコーヒーカップや人形が数千、数万円程度で落札出来そうである。ヨーロッパでマイセンを買うと数十万円程度するのが普通だから、最初見たときはあまりの安さに目が点になってしまった。だが、冷静になって考えてみるとどうもおかしい。そんなに安く買えるはずがないのだ。確認したわけではないが、偽物であっても、海外だとクレームのつけようもない。君子危うきに近寄らず、である。
 しかし、偽物でもそれなりの存在理由がある場合もある。例えば、フィレンツェのシニョリーア広場にあるミケランジェロ作のダビデ像はコピーで、本物はアカデミア美術館にある。大理石の彫刻といえども外で雨ざらしになっていると、痛みが早いからコピーを外に置き、本物は室内でしっかり保存していくという理由は納得出来る。
 また、美術館の方でももし作品が破損したり、盗難にあったりしたときの保険として、コピーを作っておくようだ。油彩画の技法を初めて開発したヤン・ファン・エイクの最高傑作、ゲントの「神秘の子羊祭壇画」の下段、一番左端の絵は盗難にあって行方不明になった後、現在は昔作られたその模写が置かれている。
 小生、ゲントに行ったとき、その部分を特に注意して見たが、コピーとはとても思えないほど精巧に描かれていた。こうしたことから、多くの美術館がこのようなコピーを制作しているようだ。日本でも法隆寺の壁画のコピーを描いている途中で火事になり、壁画そのものも消失した例がある。
 いや、そもそも昔の欧州では、そうしたコピーを堂々と描くことが許されてもいたようだ。ピーター・ブリューゲルやルーカス・クラナッハの息子たちは父親が描いた傑作の模写を売りまくって生活していたのは良く知られたことである。
 所有する貴重な美術品は絶えずコピーされた。そしてそれが流出したりすると、偽物が跋扈する原因ともなるのである。さらに、独創的な芸術性は持ち合わせていなくとも、人の物真似は上手な画家崩れが、せっせと偽物作りに励んでいる場合もある。日本でたいへん人気のある佐伯祐三や棟方志功の絵は世に出ている半分くらいが偽物だろうと言われているのは、こうした贋作者がいるからである。
 下の写真はルーブル美術館で撮ったものである。一昨日掲載したジョルジュ・ド・ラトゥールの「いかさま師」を画家の卵が模写しているところだ。欧州の美術館では芸術作品の模写に寛容らしく、しばしばこうした場面に出会う。ルーブルでは午前中の比較的早い時間に十人以上の絵描きの卵が模写をしているのが普通である。
 しかし、ぞろぞろと歩き回る観光客は遠慮会釈なしに描いている絵をのぞき込んでいくから、よほど絵に自信のある人か、神経の図太い人でないとこうした真似は出来ないだろう。ルーブルで模写した絵は、原画と同じサイズのキャンバスは禁止され、出来上がった模写にも、模写とすぐに分かる印が押されるという。しかし、一度外に持ち出され、額装されれば、本物と言っても素人には分からない。模写は優れた画家を育てるトレーニングの場を提供すると共に、贋作者を生み出す温床の一部になっている場合もある。
 芸術家、とくに画家は大作家の模写から勉強していくのが普通である。だから、模写を全て偽物作り扱いするのは間違いだが、世界中の美術市場に流れている作品の多くに偽物が含まれている以上、一部はその供給源となった可能性は否定出来ないだろう。
 大泥棒、石川五右衛門は悪事のはてに捕まって釜ゆでで処刑されたとき「石川や、浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」と言う辞世の句を詠んだと言う。まさに、悪しき贋作者はいつの時代も絶えない。我々が高価な美術品、骨董品などを買う場合(リタイアして余裕の無くなった小生にはありえないが)、常に偽物を掴まされる恐れがあることを頭の隅に置くべきである。
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一昨日掲載したジョルジュ・ド・ラトゥールの「いかさま師」をルーブル美術館で模写している修行中の画家。日本の美術館でこんなことをしたらたいへんな騒ぎになるが、芸術大国フランスは画家の卵にとても寛容で、多くの美術館で模写している人を見かける。もちろん、ここに写っている人は、出来上がった絵を「本物です」と言って闇市場に出すような贋作者ではない。現在のルーブルなら管理もしっかりしているからそんなことは不可能に近いだろう。
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by weltgeist | 2009-04-25 22:27

マナーと自由意志のはざま、カントの定言命法 (No.404 09/04/24)

 語弊があるから具体的な国名は書かないが、ある国でレジの精算のため並んでいたら、横から平気で割り込む人がいて、それがあとをたたないひどさに呆れたことがあった。真面目に並んでいるといつまでたっても精算出来ないのだ。新進気鋭のこの国で生活力は高まったろうが、精神的な成熟度はまだまだだと思った。もちろんまじめに並んで順番を待つ人も多いから、この国の人全員がそんなマナー違反をするわけではないが、あまりに多いことに国のレベルがまだ世界標準に達していないと思わざるを得なかった。
 自分さえ良ければ後は知らないと言った身勝手な態度が人々の生活をギスギスさせ、最終的には自らに跳ね返ってくることに気づかない。わずかな利益のために大きな利益を失っていることを、この国の人たちも押し寄せる近代化の波の中でいつか学んでいくことだろう。
 各個人が自由にやりたい放題の行動をしたら、お互いの利害が対立するからたいへんな混乱が生じるだろう。時々起こる交通信号機の故障をみれば、それは良く分かる。それでも少しでも有利な立場を確保しようとする輩(やから)が、列を乱して、ガチャガチャに混乱した状況を生み出してしまう。不便であってもお互いが自分の気持ちを抑えて順番を守ることが、結局は一番早くなることを他の先進国は学んできた。急激な経済発展で物質的生活は向上したのだから、次は精神的成熟に向かってもらいたいと思ったものである。
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 もし、お互いが自分の意志を全面的に出して、主張し合ったらどのようなことになるだろうか。以前、読書論や知性論で何度か紹介したお馴染みの変人哲学者、アルトゥール・ショーペンハウアーは、我々が住む世界は盲目的な意志がむき出しのままぶっつけ合う場であり、結局はそれが様々な苦難に満ちた場所となると考えた。お互いが自分のことだけを言い合うから、至る所で摩擦が生じ、世界は生きるに価しない苦難に満ちた所となる。かくして、彼の哲学は厭世哲学、ペシミズムに到達せざるを得なかったのである。
 それだから意志は自由気ままにさせるのではなく、一定の枠の元にしっかりとコントロールしなければならないと、主張したのが、きまじめなイマニュエル・カントである。彼は「あなたの意志の格率が、同時に普遍的立法の原理に合致するよう常に行動せよ」と言っている。自由な意志を野放しにするのではなく、最大多数の意志のベクトルが向いている善の方向に合致するよう行動することが、人間には道徳として要求されていると言うのだ。
 しかし、道徳であるとすれば、そこに人間の損得勘定が入り込むことは、好ましくない。「人から批難されたくないから、悪いことはしない」と言った消極的なマナーは、完全ではない。なぜなら、そうした行為は「批難されない」といったある種の利害を得るために行うからだ。利害がなければ行わないようなものを、カントは仮言命法と言っている。これに対して、上記の「あなたの意志を普遍的なものに合致するよう行動せよ」というのは、何かを得るためではなく、絶対的に従わなければならない命令として人間に科せられたものである。カントはこれを定言命法と呼んでいる。
 最初に述べたある国のマナーの悪さの例で言うと「人が並んでいる所に横から割り込めば、私は利益を得るが、他の人は迷惑する」という立場はショーペンハウアー的である。理性にコントロールされていない動物的粗野なもので、混乱の原因となる。これに対して「割り込めば混乱から人間の生活に害を及ぼし、結果的に全員が不利益を被るから、割り込みをすべきではない」と言うのはカントの仮言命法的で、我々が一般的に道徳として教え込まれるのはこの段階である。
 しかし、カントは最高度の道徳律を定言命法に求めている。それは何らの利害もなしに、ただ、全ての人の普遍的原理に適合するように行動することである。カントは上に書いた「普遍的原理に合致する」という命法に続けて「あなたは、あなた自身の人格において人間性を常に目的として扱い、決して手段として扱ってはならない」と書いている。人が目指すものは「人間性」であり、それを手段として使ってはならないのだ。要するに人間性の尊厳を守ることこそ、我々に科せられた最高の道徳的命題なのである。
 折しも、昨晩、スマップの草なぎ(難しい漢字で変換出来ない)剛さんが、酔っぱらった末、全裸で騒いでいるところを公然わいせつ罪で逮捕されたと言って、日本中が大騒ぎになっている。彼は酔って一時的に理性を失ったかもしれないが、行列に割り込んだ訳でもなければ、物を盗んだわけでもない。酒の勢いに飲まれてこのような結果を招いたことは、人間としてはよくあることである。カントが言う、人間性の尊重ということからこの問題を考えればすでにその決着はついている。一瞬の気のゆるみで大失敗をした本人は、深く反省していることだろう。それを、鬼の首でも取ったかのように追求するのはいただけない。彼の心の痛みを思えば、むしろ、知らんぷりをして、そっと見逃してやるのがカント流定言命法の道と思えるのだが・・・。
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by weltgeist | 2009-04-24 23:54

嫌な奴 (No.403 09/04/23)

 昨日トルストイの隣人愛について書いたが、自分自身のことを顧みると、とてもそれは難しく、実行し難いことだと思った。全ての人に愛情を注ぐことなど出来るのだろうか。愛するどころか、憎くて仕方がない奴が何人もいて、そうした奴のことを思い出すと、今でも腹が立ってくる。こんなことではいけないと思っても、不快感が先立ってどうにも我慢出来なくなるのだ。
 昔、ブリジット・バルドーが出演した映画で「軽蔑」というのがあった。ジャン・リュック・ゴダール監督が日常生活の些細なことから妻が夫を軽蔑していく話をうまく撮ったフランス映画である。我が儘そのもののバルドーが、夫を軽蔑していく過程を見ると、確たる理由もなしに人を嫌いになることが分かる。自分に危害を加えたとか、悪口を言いふらしていた、と言ったことではない。話す言葉の使い方が嫌とか、スープを飲むのにズルズルだらしない音を立てるから嫌といったつまらないことも原因となるだろうが、それ以外に何とも理由も無しにその人が嫌いになることがあるのだ。
 だが、自分にとってはたまらなく嫌な奴が、他人も同じように嫌な奴と感じているかと言うと、必ずしもそうとは限らない。別な人には「好きなタイプ」となることがしばしばあるから困る。あんな嫌な奴と思う人が、沢山の友人に取り囲まれた人気者になっている場合があるのだ。そうした現実を客観的に見ると、むしろ嫌な奴は相手ではなくて、自分が嫌な奴と見られていることも考えられる。自分は正しい、悪いのは奴だ、と思っても、実は相手の方が正しかった。それに気づかないで、誤った評価をもとに相手をとことん嫌っている。その結果、知らない所で自分自身が嫌われ者になっていることが往々にしてあるのだ。
 人は感情の動物だから、好き嫌いがある。好きな人間もいれば嫌いな人間もいる。そんなゴッチャな世の中で生活している。そこに「隣人愛」を出されるとどうしたらいいのか悩んでしまう。確かに他人を愛することは重要なことで、人はそうあるべきだと思う。しかし、未熟な人間には自分が好きな人だけに限定した「隣人愛」しか出来ないのが現実である。嫌な奴まで愛を捧げるほど人間の心jは広くないのだ。
 世の中には聖人と呼ばれる人がいる。最近の例で言えば、アウシュビッツ収容所で他の人の身代わりになってガス室に行ったコルベ神父や、インドのマザーテレサなどは、こうした好き嫌いの問題をどう扱ったのだろうか。彼らに接した全ての人を対等に扱ったのだろうか。もしそうだとすると、すごい包容力だと思う。
 また、絶対的な悪というものも世の中にはある。ヒットラーのような悪人をも愛せよと、言われたら、自分は直ちに拒否するだろう。数百万人もの人を殺した張本人に愛情を持てと言っても、とても出来ない相談である。そんな人をも神は愛せと命令するのだろうか。コルベ神父をガス室に送り込んだナチの兵士について、神父はどのように感じながら死に赴いたのだろうか。
 全ての人に愛を。これは素晴らしい言葉である。だが、狭量な心から抜け出せない我ら人間にとっては限りなく難しい永遠の努力目標でしかないのである。
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ジョルジュ・ド・ラトゥール作「いかさま師」(ルーブル美術館蔵)。右の若者がいかさま師に取り囲まれてお金を騙し取られようとしている。こんな悪党どもはとんでもない奴らだ、と普通は思う。しかし、真ん中にいる悪そうなおばさんでさえ、家に帰れば優しいママになるかもしれない。人間の姿は変幻自在で、悪者にも正義の人にもなりうる。嫌な奴にもなれば、頼りがいのある母親にもなりうるのだ。
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by weltgeist | 2009-04-23 23:48

トルストイ、「人はなんで生きるか」 (No.402 09/04/22)

d0151247_2293248.gif 小生がまだ青二才の学生であった頃は、「世界文学全集」という世界中の古典的な小説を集めた全集が盛んに出版されていた。昔の学生はそれで「俺はカフカとリルケを読んだぞ」とか「いや、俺はシェークスピアだ」とお互いが読んだ本の数を自慢しあっていたものである。沢山読んだ人間ほど「教養がある」と信じられていたからだ。のどかで、たわいもない単純な時代であった。
 そんな世界的有名文学者の中でも巨峰と言える作家の一人にトルストイがいる。自分にとってもトルストイとロマン・ロランは当時一番好きな作家だった。以前にも書いたが、小生は長大な「戦争と平和」を本屋の店頭で立ち読みで読了したことがある。「アンナカレーニナ」に至っては、あの有名な書き出しの文章「幸福な家庭は皆どこも同じように似ているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の様が違っている」という言葉を今でもすらすらと思い出せるほどのめり込んだ小説家だった。
 しかし、若い頃理解していたトルストイと、この歳になって読むトルストイでは印象がかなり違ってきている。もう、「戦争と平和」のように途方もなく長い小説を読み切る根性はない。ところが、トルストイは長編だけでなくほんの10分程度で読める短編小説を沢山書いている。「イワンの馬鹿」に代表される彼の短編小説は、ロシアに古くから伝わる民話を題材にトルストイ独特の宗教観を入れて書いたものが多い。
 その中で小生が一番好きなものは「人はなんで生きるか」である。岩波文庫で500円、わずか180ページの本に5本の短編小説が入っている。実は、この本をこれまで10冊近く買っている。それは自分が読むためではない。人に読んでもらいたいから、差し上げているのだ。特に「人生とは何ぞや」と難しい問題に悩んでいる人には、そっと「これを読んだら」と差し上げることにしている本である。
 この短編小説は、貧しいロシアのある靴屋が極寒の中、裸で震えている一人の行倒れを助けるところから始まる。靴屋は自分の着物を脱いで男に与え、妻はその日自分たちがようやく手にしたささやかなパンを全部男に与えてしまう。自分たちが食べるパンも無いにもかかわらずだ。寒さと空腹より、この瀕死の男を助けようとしたのである。男はその恩替えしに靴屋の仕事を手伝うが、数年たったある日、急に体から光を発して天に昇っていく。
 驚く靴屋夫婦に、自分は神の命令に背いたことで天上界から追放された天使だったと告げる。神は彼を追放するとき、人間界に行って「人間の中にあるものは何か。人間に与えられていないものは何か。人間はなんで生きるか。この三つの言葉の意味を分かれば天上界に戻してやる言われてきた」と告白する。そして、今その答えが分かったから天使の姿に戻って、天上界に帰るのだと言う。
 彼が分かったこととは何か。それは愛である。
「今こそわたしは、ひとが自分で自分のことを考える心づかいによって生きているように思うのは、それぞれただ人間が・・愛の力にだけよって生きているのだということが分かりました。」
と言って神の元に帰っていくのだ。
 ここで言う愛とは言うまでもなく、きれいな女性を好きになると言った恋愛感情とは全然違った人類愛のようなものであろう。トルストイは、この「人はなんで生きるか」だけでなく、「イワンの馬鹿」や「光あるうち、光の中を歩め」など晩年に書かれた短編小説では、常に他の人に奉仕する愛をテーマに書いている。
 実際のトルストイの生活がこのような人類愛に忠実であったか、小生は知らない。彼は世界三大悪妻の一人と言われるソフィア・トルスタヤと仲が悪く、家出した旅先の小さな駅で肺炎を起こして死亡する。彼の短編小説の冒頭にはしばしば聖書の言葉が引用されている。この「人は何で生きるか」でも
「われら兄弟を愛するによりて、死よりいのちに移りしを知る。愛せぬ者は死のうちにおる」
(第一ヨハネの手紙 3-14)

と書いているが、実生活においてはロシア正教会から破門されているのである。
 だが、それでも彼の書く文章は愛に満ちあふれ、人々に希望を与えてくれる。トルストイはロシア正教という枠にはまった宗教ではなく、人類愛を高く掲げた彼なりの宗教観を貫いたのだろう。そしてそれだからこそ我々の心に直接届くものがあるのだ。生きることの意味を見失いそうになっている人には是非読んでもらいたい本である。
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by weltgeist | 2009-04-22 22:33

高速料金ETC休日限定割引を利用して (No.401 09/04/21)

 高速道路がETCを使うと休日1,000円に値下げされることはたいへんありがたい。今回のように新潟だ、長野だと遠距離に行く場合には、影響はとても大きいのだ。例えば今回行った姫川へ行くのに仮に八王子インターから糸魚川まで走ったとすると、正規の料金で7500円取られる。それが休日割引で1,000円になるとすれば、6,500円もお得となるのだ。こうなると平日は馬鹿らしくて高速に乗りたくなくなるのは当たり前である。そして一度、このような「良い思い」をした人は、その感触が忘れられなくなるのだ。今の割引制度のままだと、休日以外は高速を極力使用しなくなるはずである。平日も同様の割引をしてくれなければ逆に車に乗らない人が増えてきて逆効果になるのではないかと思えた。
 政府は景気対策と言うが、そこまで考えてやった政策だろうか。これまで休日特別割引を6回使っただけだが、少ない使用経験からも「きっと平日は使わなくなるだろうな」ということが想像出来た。ならば景気対策としての効果は期待出来そうもないだろう。どうせなら、米国やドイツみたいに高速は無料にすればいいのだ。元々日本の高速料金は高すぎる。韓国などは高速代は安い(昨年釜山からソムジンへ行った時、高速を2時間以上走って、代金は500円ほどと、とても安かった)のだ。
 高速は安くしてガソリン税を上げるという案もあると言う。だが、今のご時世でガソリン税を上げることなど出来ないだろう。250円弁当が大人気のように、全ての物の値段を見直す時期が今来ているのだ。こんな時、高速代金だけが一人独歩高を堅持し続けている現状が、今回の休日特別割引ではからずも暴露されてしまったと言える。
 定価販売が当たり前だったコンビニでさえ値下げをせざるを得ない状況まで追い込まれている。こうした動きを見ると、百年に一度の経済危機と叫ばれていながらイマイチ現実味が無かった我々の生活が、ジワジワと下層方向へ圧迫されつつあることを実感する。今後、物価は益々下がり続けるだろうが、給料も下がって、我々の生活はさらに悪い方に向かうのではないかと思えてならない。
 そんな時、正直、今の高速代は高すぎる。政府は高速道路は将来無料にすると、散々おいしい言葉を言ってきながら、全然その約束を守っていない。むしろ、最近新たに作られた圏央道など、同じ距離を走るのに馬鹿高の料金設定をしている。八王子から相模湖まで中央道で走ると650円、それが最近出来た圏央道青梅インターから相模湖までだと1,250円もする。距離的にはわずか9㎞青梅の方が長いだけなのに、なぜこんなに高い料金設定をしているのか、お尋ねしたい心境である。
 休日特別割引は2年間の特例措置で終わるらしい。しかし、このまま終わらせていいのだろうか。むしろ、これを高速無料化の前奏曲として欲しい気がするのだ。そうでないと、年々苦しくなっている我らの生活水準では、やがて高速に乗って遠くまで旅行するなんてことが出来なくなるかもしれないのだ。
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先週の土曜日、関越道を所沢インターから小出インターまでETC休日限定割引利用で走ったら1,650円だった。この程度の負担ならまた来週も来たいと思う。しかし、正規料金5,050円では考えてしまう。写真は小出インターを出た魚野川青島大橋から見た越後の景色。
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by weltgeist | 2009-04-21 23:54