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猫額庭で繰り広げられる熾烈な戦い (No.380 09/03/31)

 29日に電気炊飯器を買い換えたことを書いた。突然炊飯器が壊れてご飯が炊けなくなったから、新しい炊飯器を購入せざるを得なくなったのだが、この時失敗した5合の生炊き米の処分に迷った。一応鍋で炊き直して見たが、ベチャベチャでとても食べられるものにはならない。これは食べずにそのまま生ゴミとして捨てるのが一番簡単である。しかし、戦前生まれの小生にはお米を捨てるような罰当たりは出来ない。「米はお百姓さんの苦労の結晶。一粒も残さず食べなさい」と厳しく教育されてきた身として、米を粗末に扱うことは犯罪に等しい行為であると頑なに信じているからだ。
 かといって餅みたいになった米を食べるわけにはいかない。それで残っていた5合の米を庭にそのまままいてみることにした。スズメやメジロ、シジュウカラなどが毎日庭に来ているから、彼らのエサにどうかと思ったのだ。これなら米も無駄にはならない。しかし、5合の米というのはさすがに鳥のエサとしては多すぎる。メジロ、スズメが百羽以上きても簡単には食べきれない量である。
 そんなだから彼らが食べ終わるには数日かかるだろうと思っていたら、家の庭で面白い騒ぎが出現した。突然おいしそうな米が庭に出現したことで、鳥たちが狂喜して集まりだし、たちまち争奪戦が始まったのである。彼らは米の取り合いで激しく戦い、わずか二日でそれを食べ尽くしてしまったのである。面白いのは、そこで自然界の厳しい生存競争の一角をのぞき見ることが出来たことだ。
 米をまいて最初にやって来たのはカラスである。頭のいい彼らは小生がご飯をまくのをどこかで見ていたのだろう。まさか、そんなに早く来るとは思わず油断していたら、アッという間に大量にあったお米を塊のまま、足で握って持って行ってしまった。百羽のスズメでもOKなのはずが、たちまちの3分の2ほど持って行かれてしまったのである。
 そして次ぎにやってきたのが、ヒヨドリの夫婦である。いや、夫婦であるかどうか分からないが、彼らはいつも二羽一緒にやってくるから、小生はそう思っているのだ。連中がこれをついばみ始めたが、それでもまだお米は彼らの体の10倍以上の量はあるから、他の鳥たちも食べることが出来るはずである。
 ところが、ここからがヒヨドリのすごいところで、食べ終わって満腹になっても一向に巣に帰ろうとしないで、お米の近くに二羽で止まっている。そして、スズメやシジュウカラが飛んでくると、攻撃して追い払うのだ。「ここはワシラのシマだ。お前たち下っ端が来る場所じゃねえ」と言わんばかりに、追い払ってナワバリを死守し始めたのだ。
 だが、スズメもシジュウカラも負けてはいない。体の大きさではかなわないから、攻撃を受けると逃げていくが、しばらくするとまた飛んでくる。そして、ヒヨドリが気が付かない間に急いでお米をつっついては逃げて行く。まるで戦闘機のタッチアンドゴー訓練のように、パッと来て、サッと食べて、ヒョイッと逃げていく。それに気づいたヒヨが追撃作戦を行う。
 これは面白い見せ物である。ヒヨはカラスに負けたがスズメには強い。シジュウカラとスズメの力関係ははほぼ互角のようで、お互いが無視するようにエサを食べ始めていく。今まで何気なく鳥がいるのを見ていただけだが、今回の観察で鳥の世界も厳しい序列と生存競争から成り立っていることがよく分かった。これは人間社会とおなじなのだ。
 一晩開けて、翌朝になったらご飯粒はほとんど無くなっていた。多分、夜中にタヌキかネズミ、あるいはもっととんでもない動物が来て残りを食べてしまったのだろう。米を巡る戦いには新たな競争者も現れたのだ。しかし、それでもヒヨの夫婦は朝から頑張って見張りを続け、今日やってきたメジロに「ガンを付けて」いた。彼らが消えて行ったのはまだわずかに残ったご飯粒がすっかり無くなった午後4時頃である。
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二羽でやって来たヒヨドリのつがいは、終日、庭にまいたお米の回りにいて、他の鳥がやって来ると攻撃を仕掛けていた。米は沢山あるから、他の連中にも食べさせてやればいいと思うが、この鳥は実に欲張りである。写真のようにたえず周囲を見渡してナワバリ監視に余念がなかった。
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by weltgeist | 2009-03-31 23:20

トーマス・マン、「詐欺師フェリックス・クルルの告白」 (No.379 09/03/30)

 お金を手っ取り早く稼ぐには、お金を欲しがっている人を相手にするのが一番である、と昔から言われている。日頃から「金が欲しい」と思っている人ほどいいお客さんになる。だが、そうした人は一番騙されやすい人、いわゆるカモともなりやすい。「月10%の高金利を約束するから出資して」とか「まもなく上場される未公開株をあなただけに特別価格で譲るから、いますぐ一千万円出して欲しい」と言った甘い言葉に騙されて虎の子を失った人は枚挙に暇がない。
 人間、よくぞここまで考えられるな、と驚くほど詐欺師連中の頭はいい。というのも彼らは「どうしたら人を騙してお金を盗るか」を始終考え続けているからだ。振り込め詐欺の手法も最近はすごく手の込んだものに進化していて、普通の人でも簡単に騙されてしまうと言う。ましてや、余った手持ち資金の有利な運用先を探している人など、少し見せ金すれば、簡単に騙されてしまうことを詐欺師は熟知しているのだ。
 一番いいことはそうしたお金が無いことだ。無い袖は振れないし、盗られることもない。良寛和尚のように年がら年中無一文でいながら飄々として生きるのが一番気楽ではないかと思う。明日の糧を考えて、今日の良き日を台無しにしないことである。今日は今日、明日は明日である。「明日のことを思い煩うな、明日は明日自らが思い煩うだろう」(マタイ6・34)の精神があれば、思い悩むことも無くなると、聖人たちは説いているではないか。
 しかし、凡人にはこれが出来ない。「明日食べ物がなくなったら死んでしまう。どうしよう」と思い、オタオタしてしまうのだ。まして妻子を抱えた夫ならそんな無責任なことは出来ない。明日の糧を稼ぐために、今日も骨身を削って働き続けるのである。そうして骨身を削って働いている分にはいいが、ここに欲の皮が突っ張ってくると危険である。
 「もう少しお金があれば楽になるのだが」と誰もが思う。そこに詐欺師がつけ込む。爪に火をともすようにしてため込んだ庶民の虎の子を、周到な悪巧みで盗み取る詐欺師が世の中にはゴロゴロいることを忘れてならない。彼らは欲の皮が突っ張ったカモをいつも探しながら、一度食いついたら、最後の血の一滴までシャブリ尽くす危険な連中なのだ。詐欺師は良心など持ち合わせていない。相手がどうなろうと知ったことではない。この世の中、食うか食われるかだ。油断して食われる方が悪い。彼らのスキを狙って、うまく成果を勝ち取った俺の何処が悪いのかと言い張ることだろう。そして優れた( ?)詐欺師はそうやって人を騙すことにある種の美的価値をも見つけていることさえある
d0151247_23273718.jpg トーマス・マンは晩年最後の作となった「ある詐欺師の回想・フェリックス・クルルの告白」で、人を騙すことを芸術家の振る舞いのように書いている。詐欺師クルルはパリのホテル「サン・ジェームス・エ・アルバニー」のボーイとして働きながら、次第にパリの金持ちの中にとけ込み、宝石などを盗んでいくようになる。
 チュイルリー公園前、リヴォリ通りに面したこの有名ホテル(マンはこのホテルのことを「一流中の一流な豪華ホテルで、サント・ノーレ通りに面している」と書いているが、小生が1994年に泊まった時にはリヴォリ通りに面した普通のプチホテルになっていた)のしがないボーイをしながら、知り合った女好きの金持ち侯爵に化けてポルトガルに行き、そこで散々人を騙し続けるのだ。詐欺師・クルルは金持ち侯爵に自らをなりきることに一種の美的快感を感じながら、獲物を狙うハンターのように振る舞う。トーマス・マンはこの小説で人間の心の底に潜む悪と美が結びついた独特の世界を書いていくのである。
 詐欺師が人を騙して大金を手にしたとき感じるのは、釣り師が夢のような大物を釣り上げた時の喜びと似たものではないだろうか。うまくいけば「やったーっ」と快哉を叫ぶことだろう。しかし、それは他人の苦しみを踏み台にしたとんでもない喜びである。こうした連中に待ちかまえるのは、刑務所であって欲しい。悪は滅びる。悪いことをやった奴は必ず罰せられるなければ、善良な人は浮かばれないだろう。そんな悪党はみんな地獄に堕ちて永劫の火で焼き尽くして欲しいと自分は思っている。
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by weltgeist | 2009-03-30 23:29

電気炊飯器の買い換え (No.378 09/03/29)

 この世の中、形ある物は全ていつかは壊れる。永遠に残るものなど何もない。そんなことは重々知っているつもりだが、いざ物が壊れると困ってしまう。それも生活に欠かせない物が突然予告無しに壊れるとお手上げ状態である。
 実は一昨日、電気炊飯器が突然作動しなくなった。ご飯を炊いている途中で電源が切れて、それ以上ウンともスンとも言わない。もしかしたらヒューズが切れただけの単純な故障かもしれない。しかし、こうした物に何の知識もない小生は、その原因を探るすべを知らないのだ。ただただまごつき、困り果てるだけである。仕方がないのでこの日、自宅での夕食はキャンセルして、急遽、電気炊飯器を購入がてら外食ですませることと相成った。
 以前、電子辞書が壊れた時にも書いたが、電気製品の修理は案外高い物になる。簡単な修理でも軽く1万円は超えるから、値段的なことを考えれば新しい物に買い換えた方がいい場合が多い。もったいないけど、今の日本のシステムではこうした資源の無駄遣いをせざるを得ないように出来ているのだ。
 壊れた電気炊飯器は10年近く使った物で、もう寿命かも知れない。購入した時は確か5万円を超えていて、「高いなぁ」と思った記憶がある。学生時代に自炊で使っていた電気釜は3000円くらいだったから、その落差に驚いたものである。その時からさらに進化しているだろうから、時代変遷を考慮すれば今回は10万円は覚悟しなければならないかもしれない。そう思ってY電気に行く。
 テレビや洗濯機、冷蔵庫などの家電製品が一杯並べてある近くに電気炊飯器もあった。値段は1万円から6万円くらいがゾロッと並んでいる。こちらは10万円を覚悟していたので思わず「何だ、安いじゃないか」と思って、内心ホッとした。だが、沢山並んでいる商品のどれがいいのか自分には分からない。
 こんな時の選択は奥方に任せることにした。以前は家電製品を買うにも小生が細かく指示を出した結果、後で「あなたが余計な口をはさむから、ロクでもない製品を買ってしまった」と非難されたことが何度もあるから、最近は出来るだけ自分を主張しないようにしているのだ。妻が自分で撰んだ物なら例え駄目な物でも小生が文句を言われることはないからである。
 彼女があれこれ店員さんから説明を受けている間、小生は展示された商品のキャッチコピーを見て歩く。すると、どのメーカーも歌っているのは「大火力、窯焚き、スチーム、釜の構造、圧力」などであることが分かった。だが、そうした機能がついていて、実際にどう違うのかはキャッチコピーだけでは分からない。
 店員さんが説明してくれるところによると、大火力というのは、釜の上部までIHが付いているかどうかの違いであることが分かった。学生時代に使っていた最下段にニクロム線が巻いてあるだけの安物釜とはまったく違って、釜の上部からも熱を加えることでよりおいしくお米を炊けるらしい。その他、マイコンで制御された温度と湿度管理で、同じ米が全然違う味に炊きあがるのだという。
 しかし、素人の小生にはどのメーカーのコピーもお米がうまそうに炊けると読み取れ、どれを購入したらいいのか分からない。ところが店員さんの説明はよどみがなく、自信に満ちている。迷う妻にアドバイスする店員さんのセールストークは絶妙なのだ。かくして、妻は彼のアドバイスに従って最高機種からワンランク下の機種を撰んだ。
 「それだけの機能があれば十分おいしいです」と言う彼の背中押しが彼女の選択を促したのだ。妻はP社の製品を撰んだが、店員さんがここでH社やS社を押したら、きっとそっちに決めていたろう。何しろ、こちらは炊飯器のことはまるで分からない素人なのだからだ。
 こうした物を購入する場合、十分時間をかけて予備知識を集めることが出来た人は、店員さんの口車に乗せられることは少ないだろう。しかし、素人は彼に教えてもらうしかないのだ。物を販売していくメーカーの販売戦略において、店員のセールストークがいかに重要であるかがとても良く分かった。販売成否の分かれ道を決するのは、現場の店員の一言なのだ。だから、そうした教育に力を入れるメーカーが結局勝ち残っていくのだろう。
 それで、本日新しい炊飯器でご飯を炊いて見た。そのお味は、どうか・・・。
 正直、良く分からなかったというのが、今日のところの感想である。
 以前の炊飯器とあまり違いわない気がするのだ。もしかしたら最初だから水加減を間違えたかもしれない。あるいはもっと根本的な問題で、小生の味覚が駄目で、真価をつかまえていないのかもしれない。しかし、大騒ぎしてもこの程度だったら、店員のセールストークやメーカーの大げさな宣伝文句に振り回される自分たちが馬鹿らしく見えてきた。
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左が今回新しく購入した炊飯器、右が故障して動かなくなった物。こちらは最終的にはゴミとして廃棄されるしかないのだろうか。安く修理出来るなら、もっと長く大事に使いたかったのに残念である。
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by weltgeist | 2009-03-29 23:03

夢を見続ける人たち (No.377 09/03/28)

 若い頃上司から「馬鹿野郎」と怒鳴られて、凹んだことがある。この時は悔しくて「クソ、俺が社長になったら、お前を一番先にクビにしてやる」とマジで思った。あれからすでに30年以上過ぎているのに、未だに記憶に残っているということは、よほど堪えたことだったのだろう。小生を怒鳴った上司などとっくにリタイアして、今や好々爺になっている。その時は一時の感情でこちらも不愉快に思ったものの、いま思い出せば過去の一通過点に過ぎない。あの時何で怒られたのか、その原因さえ今では忘れ去れている。後に冷静になって反省してみると人間、案外つまらないことで怒っているのだ。
 若い頃は未熟でときどきミスも犯した。もちろん自分なりの努力はしたつもりでも、能力がそれに追いついて行かなかったのである。とにかく緊張の連続で早く仕事を覚えようと無我夢中であった。この過程で上司によく叱られた。それが、数年もすると次第に仕事の手順に慣れてきて、緊張感も無しに仕事もこなせるようになった。しかし、上司との衝突は相変わらず起こり、「奴の顔を辞表で引っぱたいてやりたい」と思ったことも何度かある。若い頃の小生はかなり激情型の人間だったのである。
 そのとき自分を支えたのは「いつかは自分が偉くなって、彼を見返してやる」と思うはかない夢であった。本当にその時は社長になりたいと思ったのである。だが、こんな不純な動機が、実は人を前に向かわせる原動力にもなるのだろう。こうした不満と夢があったから、自分の現状を少しでも良くしたいと頑張れたのだ。

 人は何か非現実的な世界の側から途方もない幸運がやって来て、自分を幸福にしてくれるのではないかと思う甘い夢で己を慰めているむきがある。日々の生活費も事欠く人が、大金持ちの隠し子で数百億円の遺産を手にする夢とか、今はしがない男だが、実は自分がすごい天才になって世の中がひっくり返るような大発見をしたと言った、あり得ない世界を夢見るのが人間である。それがあまりに現実離れした願望でも、心のどこかにしまい込んで、ありもしない天空からのぼた餅を待っているのだ。
 もちろんそんなもの、現実に起こる訳がないから、しがない男はいつまでたってもしがないままである。そうして、人は努力すること以外に現実を変革することは出来ないと悟らされるのだ。荒唐無稽な夢はシャボン玉のようにはかなく消えて、現実的な夢を次第に見るようになり、平凡な一生を終えて行くことになるのである。でも、平凡な夢であっても、それがあるから現状を変革しようと努力が出来るのである。夢を見ることは必要なことでもあるのだ。
 しかし、努力すること無しにタナボタの夢だけをいつまでも見続ける人もいる。そうした人の未来はきっと暗いだろう。「俺は本当は天才なのに、なぜこんな不遇なのか」と思い続けながら、一向にぼた餅は落ちてこない。いつも自分を惨めに感じ、「俺はこんな所にいる人間ではない」とわめき続けるしかないのだ。変わらない、いやさらに悪くなっていく現実に悲観した彼は、益々夢の中に逃げ込むしかない。そこが悲しい現実を忘れさせる唯一の逃避場であるからだ。 
 と言って、夢から覚めて努力を重ねて行く人たちの現実がいいかと言うと、これが分からない。時にはタナボタの人と五十歩百歩の気がする。頑張っても夢が叶う人はまれなのだ。しかし、そうだとしても、全力を尽くして努力した人にはやり遂げたという充実感は残る。実は、それこそ人生で一番大切なものではないだろうかと思うのだ。
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パリ・北駅のベンチで夢見心地で眠っていたこの人は、少しアルコールが入っていたのだろうか、とても気持ちよさそうだった。
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by weltgeist | 2009-03-28 22:11

46年ぶりの再会、アラン「幸福論」 (No.376 09/03/27)

「休暇になると、町は劇場を次から次へと観て歩く人たちで一杯になる。明らかに短い時間に多くのものを観たいからだ。しかし、本当に観るためならそれは感心できない。駆け足で観たものはどれもこれもよく似たものになってしまう。急流はしょせん急流だ。だから大急ぎで世界を駆けめぐる人は、旅行後でも前よりたいして思い出が増えてはいない。」
アラン著・幸福論(白水社、アラン著作集2、串田孫一、中村雄二郎共訳)より

 昔の若者は上記、アランの「幸福論」やヒルティの「幸福論」「眠れぬ夜のために」など、精神の誠実一途な本を好んで読んだものである。最近の若者はこんな単純なものは好まれず、もっとひねくれた内容の本ばかりが読まれているようである。それが良いことなのか、悪いことなのかの価値判断はこの際とりあえず置いておく。とにかく自分の時代はこうしたストレートな本が好まれていて、それを肥やしに育ってきた。小生にとってはとても懐かしい本である。
d0151247_15571113.jpg そんなアランの幸福論が先日、我が家にやって来た居候猫・太郎のおかげで我がゴミため書斎から「発掘」することが出来た。部屋中に散乱した本に困惑する太郎に反省して、本を片づけていたら出てきたのだ。懐かしさでもう一度手にとって、本の最後のページを開けると、そこには自分が読了した日時が1963年3月27日と色の消えかかった万年筆で書いてある。くしくも46年前の今日である。その偶然さには何か因縁めいたものを感じざるを得ない。
 早速、少し前から練習している「速読」を使って読み直してみたら、すごく自分に馴染める内容の本であることに改めて気づいた。上に引用した文章は最初の「速読」で見つけたものだが、何か今でも自分が思い悩んでいることの解決策がこの「幸福論」には沢山あるのではないかと思え、速読は中止。普通の速さでじっくりと味わいながら読み直すことにした。アランは上の文章の後に次のように書いている。

「一度だけ美術館を訪れるとか、観光地へ行くとかの場合だと、ほとんど間違いなく様々な思い出がごっちゃになり、ついには線のぼやけた灰色の絵のようなものになってしまう。
私の好みで旅行するとは、一度に1メートルか2メートル歩いては立ち止まり、同じものの新しい局面をふたたびながめることであってほしいものだ。ほんの少し右か左に行って腰を下ろせば、すべてが変化する。それも百キロメートル歩いた以上に。
急流から急流へと行くなら、見るのはいつも同じ急流だ。しかし、岩から岩へ行けば同じ急流でも一歩ごとに別なものになる。要は変化に富んだ、豊かな観物を一つ撰ぶことである。そうすれば、習慣のなかに惰眠をむさぼることもない。いや、それだけでなく、よく観るすべを知るにつれてどんな観物でもかぎりない喜びを含むものであることがわかる。どこにいても星空はみることはできるのだ。」


 こう書かれると、もはや言うべき言葉はない。自分は毎日忙しく飛び回り、ものすごく沢山のことを経験してきた。鈍行列車から急行、特急、新幹線、さらに飛行機と、旅のスピードはより速く、より遠くへいくことが出来るようになった。時には世界の果てと言われる場所まで行ってきたのに、我々は何を見てきたのだろうか、反省すべきことが山積みである。
 だが、もちろんアランが言うほど得られた印象がぼやけたものだけでもない。様々な経験を限られた時間の中ですることは決して悪いことではないだろう。しかし、真に感動して心の奥底まで届くものは、急流下りでは得られないことも事実である。「パリも行った、ニューヨークも行った」とは言えても、「それではパリをどこまで知ってますか」と聞かれれば答に窮するだろう。いや、今住んでいる東京でさえ何も知っていない。アランが言うように「星空」はどこでも見ることはできるのだ。自分の経験が心のどの付近まで到達しているのか、自ら検証する必要があるのではないだろうか。
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今月初めに8日間ほど居候をした太郎。初めは我が家に馴染めなかったが最後はリラックスして、まるで我が家で一番偉いのは自分だ、と言わんばかりの素振りをしていた。そんな彼でも、本が散乱する小生の書斎に来ると不気味なジャングルにでも入ったような緊張した様子をする。そのことに反省して、書斎の本を少しだけ片づけたら、今回の「幸福論」が出てきたのである。太郎が我が家に来なければ、相変わらず、アラン先生のお言葉は他の本の中にずっと埋もれ続けたことだろう。
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by weltgeist | 2009-03-27 15:58

プリンターメーカーの陰謀 (No.375 09/03/26)

 最近A4版100枚入った紙を買った。PCが発達すると紙が要らなくなると言われていたが、とんでもない。個人的にはむしろ紙の消費量は増えている。PCの画面で確認すればすむことでも、癖で印刷してしまうのだ。一時はペーパーレス社会になると言われていたが、この予測は外れたと言えよう。
 しかし、パソコンで使うような紙は安いから、あまり問題にはならない。ひどいのはプリンターインクの消費量だ。小生が使っているインクジェットプリンターは、のべつ幕無しにインク切れを起こす。それも一度に全部のインクがなくなるのではなく、「マゼンタのインクが無くなりました」、「シアンのインクが無くなりました」「イエローが・・」と、少しずつズレながら次々とインク切れを起こすのだ。これを無視してインクを交換しないままでいると、プリンターが作動しなくなるから参ってしまう。
 メーカーはプリンター本体の価格を安く設定しておき、インクで儲けるという話をどこかで聞いたことがある。小生の状況を見れば、それは絶対本当だと思う。まして小生のプリンターは8色ものインクを使っているから、メーカーへの貢献度は多大である。デジカメで撮った写真をきれいに印刷するにはなるべくインク数の多い高性能機がいいですよ、と言うセールストークに引っかかって、ほぼ一日おきくらいでインクを交換しなければならないアリ地獄状態に陥っているのである。
 この不便な状況を見て、使用済みカートリッジを再利用した詰め替え用インクをサードパーティの会社が発売した。これだと純正の半額以下の金額でインクが詰め替えられるのだ。ところが、それを営業妨害と見た純正メーカーが、詰め替えメーカーを「特許侵害」で訴えて裁判になったのである。その結果、一審では詰め替えメーカーが勝ったが、二審で負けてしまった。
 その影響だろうか、先日近くの大型電気店で見たら以前の詰め替え製品はまったく無くなっていた。だが、年間2億個ものカートリッジを無駄に廃棄するより、詰め替えで再利用した方が資源保護の意味でも良いことなのに、純正メーカーは「自社製品以外のインクはプリンターを壊す恐れがあるから使わないで欲しい」と言っている。医薬品でさえジエネリック薬品が出回っている時代にアナクロもいいところである。
 かくして今のプリンターを使い続ける限り、ずっと純正カートリッジに縛られ続けなければならないのである。我々は新宿あたりでやっている悪質キャッチバーにつかまったお客のようなものだ。客引きの甘い言葉につられて入ると、身ぐるみ剥がしきるまで搾り取られるのに似ている。プリンターメーカーはいずれも日本を代表する規模の企業なのだから、あまり阿漕なことはやって欲しくないものである。
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by weltgeist | 2009-03-26 23:01

出過ぎた杭は打たれない (No.374 09/03/25)

d0151247_22565295.jpg 「出る杭は打たれる。しかし、出過ぎた杭は打たれない」。これは、月一で「新渡戸稲造の武士道読む会」を主催している某医科大学教授・H先生が小生たちに語ってくれた名言である。人間の能力の差って、恐らく考えているほど無いと思う。みな五十歩百歩、ドングリの背比べにすぎない。だから、その中で一人でも抜け出そうとすると目立って、仲間から叩かれることになるのだ。
 そもそも、人が悪口を言われて叩かれるのは、相手が自分と能力的に近いからで、ライバル意識が昂じて悪口になる場合が多い。自分が活動している領分で特別目立っている人とか、自分が進む先で派手に頑張る目障りな人がターゲットになりやすい。そうした人を蹴落とす下心があるから、相手を悪く言うのである。また、似たような環境にある人、例えば同じ幼稚園に通う親同士の間で、知らず知らずのうちにライバル意識が芽生え、それが悪口の源泉ともなることもある。
 しかし、相手が自分とまったく別な世界の人間とすれば、彼の悪口を言うこともないだろう。あまりにかけ離れた人は悪く言いたくても言えないし、また言う興味も無くなるのだ。住む世界が違うから最初から興味の対象となり得ないのである。人が悪口を言って叩くのは、あくまでも自分と近いからだ。それゆえ悪口を言われたくなければ、言われないだけの高みに登り詰めることである。高みに登ることも出来ずに、十把一絡げのドングリの中でもみ合う人は、他人の妬みに満ちた厳しい目を避けられない。
 だが、世に天才と呼ばれる人がいる。たいていそうした人は世間の常識を超越した独自の世界に住んでいて、世間的評価からみると、離れすぎていてコメント出来ない。例えばノーベル賞を受賞した偉い先生など、恐れ多すぎて沈黙せざるを得ないだろう。それゆえ、高く出過ぎた杭の頭を叩くことは出来ないのである。
 その一方で、社会的評価は最低でいながら、その実ものすごい孤高の境地に飛び出して、人知れず暮らす天才たちもいる。一枚の絵も売れずに死んでいったゴッホやモジリアニが生きていた時の評価は「売れない無能な画家」でしかなかった。天才の先見性があまりに高すぎて、普通の人にはその真の姿が見えなかったのである。時代がずっと後になって彼が如何に時代を超越した天才であったかが評価されてくる。そうした意味において、高みに登りすぎた人は世間的評価の範疇を超えている。人から叩かれ、悪口を言われ続けるのは、自分の能力が無いことに原因があるのだ。とにかく高く登って、文句も言われないほど出過ぎた杭になることだ。それが出来ない人は、なるべく目立たないよう静かに暮らす以外に悪口から逃げるすべは無いのである。
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by weltgeist | 2009-03-25 23:23

海外送金の手続き (No.373 09/03/24)

 今日は外国にお金を送金するという生まれて初めての経験をした。しかし、慣れないことをやったせいか、精神的に本当に疲れてしまった。というのも送金先が少し複雑だったからだ。送った先はポーランド。銀行口座の受取人は女性の名前だが、受け取る本人はキルギス共和国に住んでいる別の男性である。しかも、振り込む通貨はポーランド通貨であるズウォティでもなければ、キルギス通貨ソムでもない。ユーロで振り込んで欲しいというからややっこしい。
 こんなだから、振り込む前に何度かメールでやり取りして一つずつ必要事項をじっくり確認しながら進めるしかない。しかし、どうしてキルギスにいる人に払うものをポーランドの別人に振り込まなければならないのか、それについて納得のいく説明は受けなかった。最近はやりの振り込め詐欺の海外版かとの心配もあり、その点もクリアーしてからお金を払いたかったが、中央アジアのこの地域は政治的にも経済的にも不安定であることから、こんな面倒なことをやっているのかも知れない。とにかく、最後は相手を信用して振り込み手続きを本日行ったのである。
 しかし、外国へお金を送ることがこんなに面倒なこととは思いもしなかった。振り込むためには相手の銀行名とその住所、BICと呼ばれる銀行コード、IBANと呼ばれる受取人の口座番号から、住所、電話番号まで書き込まなければならない。そんなことは米国や英国のような先進国では何ら問題はないだろうが、今回は受取人がキルギスとポーランドの二カ国にわたり、言語の問題もあって銀行の詳しい送金データを知るのが難しかったのである。
 メールでのやり取りをしていると、小生のPCはロシア語やポーランド語が文字化けして、正確な銀行名や住所が分からないのだ。PCではうまくいかないので電話を現地に入れたら、訳の分からないおばさんがロシア語でまくし立てて、本人と話が出来ない。それでは、インターネットPC電話であるスカイプで話そうと提案すると、キルギスではスカイプが無いと言う。そんなこんなで、ひどく手間取って、ようやく振込が完了したのである。
 で、何でそんな危険で面倒な思いをしてまでキルギスやポーランドにお金を送るのかと言うと、実は今まで秘密にしていたが、今年の夏パミール高原の最北部へキルギスから行く計画をたてているのだ。今回送ったお金はその旅をアレンジしてくれる地元ガイドへの手付け金である。
 まだ計画の全貌を話すことは出来ないが、子供の頃読んだ、スエン・ヘディンの中央アジア探検記で憧れを抱いた天山山脈からパミール高原にかけて、ほぼ半月ほどさ迷ってくるつもりでいる。いままでそんな場所はとても行けないと、最初から諦めていた中央アジアの秘境が、今日の送金で手の届く所に見えてくるようになった。小生、今、遠足前夜の小学生のようにたいへん興奮している。
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魚や蝶の名前は見ればすぐに分かるくせに、他の分野のことはさっぱり分からない。いつもの森へ出る散歩道を歩いていたら、道路脇にこの花が咲いるのを見つけた。しかし、小生、花の名前は苦手である。こんな華やかで美しい花が足下に咲いていながら、その名前も知らないのだ。妻に聞いたら「クロッカス」と教えてもらった。本当にきれいな花である。
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by weltgeist | 2009-03-24 22:09

春の女神・神奈川のギフチョウ (No.372 09/03/23)

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 この数日、急激に暖かくなって、桜の開花の便りが各地から届いている。この暖かさのおかげで今年の桜の開花は例年より一週間以上早くなっていらしい。春は想像以上の速さで近づいてきているようだ。それは蝶の世界でも同じで、蝶の季節も確実に冬から春に転換しているのが実感される。モンシロチョウやキチョウがあちらこちらで飛んでいるのが見られるし、先日は我が家の前の森でミヤマセセリとテングチョウが飛んでいるのも見た。
 だが、春の蝶が飛び始めると、小生には昨年失敗した苦い経験が頭を過ぎってくる。ギフチョウだ。昨年の4月下旬、50年来の友人であり、釣り、蝶の同好者であった田原泰文氏と新潟県能生までギフチョウを見に行きながら、影も形も見えず、手ぶらで帰らざるを得なかったことがあった。あの時はギフチョウについてなんの知識も持たずに、「新潟に行けば簡単に会える」と単純に思い込んで失敗した。漠然とした思い込みだけで新潟まで行くなど、無謀もいいところである。それはまさに素手で、重武装した兵士と戦争をするような愚かな行為で、ギフチョウに出会えなくて当然だったのだ。
 この失敗に懲りた小生は、来年のリベンジを密かに考え、ギフチョウに関する情報を沢山集めていた。そして、今年はある方からギフチョウがほぼ確実に見れそうな場所を教えていただいていたのだ。その最初の場所が神奈川県の北の端、藤野町の山である。ここは地元の蝶愛好家がギフチョウの保護活動をしている場所で、現在は天然記念物として保護されているから、個体数は沢山いると教えられた。
 もちろん、採集することは出来ないが、「飛んでいるところなら、今行けば確実に見れる」と聞き、本日早朝からその場所に行ってみたのだ。そして、昨年あれほど見たくても見ることが出来なかった春の女神と呼ばれるギフチョウが飛翔している所をしっかりととらえることができたのである。
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 ギフチョウの保護区となっているこの地域の山は、高尾山に近いが少し山の中に入るとまだまだ自然が沢山残っていた。木々は冬枯れから少し目覚めただけの感じで、蝶が飛ぶには少し早すぎるかなとも思えた。しかし、この山の林の中から、春の女神は確実に飛んできて、その姿を小生の前に見せてくれたのである。
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 冬の落ち葉が厚く積もった地面のあちらこちらからマムシグサやシュンランの花が静かに咲いていた。ギフチョウの写真でお馴染みのツツジやカタクリの花はまだ咲いていなかったが、ヤマザクラやマンサク、それに足下には小さなスミレなどの花も咲き始めていた。ギフチョウはこんな斜面の木立が開けた場所にいきなり飛び出してくる。
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 ただ蝶が写っているだけではつまらないので、何とか飛んでいるところを撮ろうと試みたのがこの写真。ギフチョウの動きは意外に早くて、うまくピントが合わない。16㎜の魚眼レンズを最短距離でピントが合うようマニュアル設定し、ギフチョウが近づいたらファインダーを覗くことなく、「置きピン」でひたすら連写した。しかし、敵も然る者で、簡単にはピントの合う所に来ない。何とか見れる程度に撮れたのがこの写真である。
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by weltgeist | 2009-03-23 23:26

一日二食のミニダイエットに挑戦中 (No.371 09/03/22)

 人間は何故三度も食事をするのだろうか。家で何もしないでいても決まった時間に腹が減ってくる。空腹になるから飯を食う。食う、寝る、遊ぶ、という言葉が以前はやったが、小生の場合は、食う、食う、食う、寝る、である。昔の言葉で言わせてもらえば「穀潰し」だ。ごくつぶし、すなわち食べることしか能ない人間なのだ。これが我が家の台所をあずかる妻にはいたく評判が悪い。以前、仕事をしていたときの昼食は外食だった。それが、一日家でゴロゴロしていて、三回も飯作りをさせられるようになったことに怒りのお言葉が飛びつつあるのだ。
 しかも、それだけ食べても後で運動しないから、体に余分な脂肪が溜まる。インプットばかりで、アウトプットがないから体は太る一方である。メタボの元凶はこの食事にあるのは間違いなさそうである。このように運動をあまりしないで食べ続ければ、やがては以前預かっていた居候猫・太郎のようなデブになり、それが体全体を壊していくことになるだろう。
 そこで、なんとかせねば、と思って始めたのが、一日二食にすることだ。朝食を10時くらいにし、昼夜兼用のものを午後5時頃食べる。そうすると、インとアウトのバランスがとれてくるのではないかと、素人なりの判断している。これなら、奥方の負荷も一回分減らすことが出来るから、目出度し、目出度しのグッドアイデアであると思った。
 だが、言うは簡単でも、為すは難しである。60年も一日三食を続けてきた小生が、この長きにわたった習慣を変えることはたいへん難しい。途中で腹が減って、何かつまみ食いしたくなってしまうのだ。以前、タバコを止めるのにひどく苦労したのと似た経験をここで再び味わう羽目になりそうである。 

 今日は午後から吉祥寺まで所用で出かけたが、ついつい癖で昼間ちょっとお腹が空いたため、ラーメンを食べてしまった。カロリー的にはたいしたことないかもしれないが、こうしたルール破りが、たちまち一日二食原則を崩してしまう。この数日、お昼になってもお腹が空かないで、一日二食の体になりつつあるな、と思っていた。それがほんのわずかな心の油断で崩れてしまう。明日の昼頃にはどのように体が反応するか、少し心配である。
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数日前の昼過ぎ、空腹に耐えかねて奥方がジャム用に買っておいたイチゴをつまんでしまった。気が付いたら、山盛りにあったイチゴがこれしか残っていない。これではジャムは作れそうもない。小生、言い訳を考えたが、どう言っても申し訳がたたない残量である。
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by weltgeist | 2009-03-22 22:10