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自分にとっての2008年 (No.296 08/12/31) 

 ついに大晦日になってしまった。泣いても笑っても後数時間で2009年に突入する。年末、年始のこの時期、誰もがやるのは「今年一年を振り返って」の反省と、「新年を前にしての抱負」を語ることだろう。
 新年の抱負はまだ早いから、明日以降に書くとして、今年一年を振り返って、自分に一番大きなことは、このブログを書き始めたことだ。自分はこれをスタートするに当たって「毎日更新を絶対やり通す」を努力目標にした。訪れた人に失望を与えないためにも、歯を食いしばってでも毎日更新するぞ、と固く決心したのである。
 だが、ブログというものはただ毎日書けばいい、というものではない。その内容が問題になるのである。貴重な時間を使って読んだが、「何だ、これは。時間の無駄だ」と言われるようでは読まれる人に失礼に当たるし、自分自身にも情けない。また一生懸命書いても、それは小生の好き勝手な内容であって、誰もが好むテーマではあり得ない。時々、自分の悪い性格からものすごくマイナーな話題や、哲学のような一般受けしないものにこだわり過ぎて、呆れた方もいると思う。しかし、これが自分なのだと信じて、とにかく自分に出来る範囲で毎日書きたいことを全力を尽くして書いてきたつもりである。
 ところが、毎日更新したくとも、いくつかの限界があることも分かった。旅行や仕事でPCのない環境に置かれたりすると、物理的に更新が出来ないのだ。フランスに行った時は、PCを持っていったがホテルでの接続が出来ず、この期間更新出来ない空白日が生じてしまった。この経験から米国旅行の時はPC接続そのものを最初から諦めざるを得なかった。また釣りで数日間家を空けた時など、結局完全試合は不可能なことが分かったのである。
 もう一つの大きな変化は、4月から蝶に興味を持ちだしたことだ。小生は50年前は蝶の収集に熱中していた「蝶オタク少年」だった。それが当時の蝶仲間だった田原氏と昔のことを話しているうちに蝶に対する興味がまた復活してきたのである。田原氏とは新潟県の能生までギフチョウを見に行ったし、7月には北海道の大雪山までウスバキチョウと言う高山蝶を見に行くまでにのめり込んでしまった。
 今では自分が採った蝶の標本作りに勤しみ、ときどき標本箱に入れられた蝶をうっとりした顔で見つめる気持ちの悪いおじさんに成り果てている。これは自分自身にとってはとてつもない変化であると思っている。
 個人的なことを離れて社会全体を見たら、金融危機に始まる世界同時不況が大ニュースであろう。その前兆のような動きは昨年あたりからあったが、まだ他人事で、危機感も無かった。それが、10月に米国旅行をしている途中で、ダウが8000ドルを割り込んでいることに遭遇した。歴史的とも言える今回の危機をまさに現場で体験したのである。
 今月に入って、派遣労働者の首切りや寮からの退去問題がひどくなり、社会全体が一気に暗い下降ムードになってしまった。我々にとって不安なのはこの不況がどこまで落ち込むか、先行きが見えないことだ。先がどうなるか分からないから、こんなときはおとなしく貝になっているのがいいのかもしれない。
 政治の状況もはなはだ不透明で、危機の時代を無難に乗り切れるのか読めない。多分、今の麻生内閣には期待できないから、国民はこのまま何も出来ずにおぼれ死んでいくしかないかもしれない。そんな不安が待ち受ける2009年をこれから迎えなければならないのである。
 2008年もあと数時間でお終いになる所まで来てしまった。アインシュタインの相対論的に考えると時間は短縮することは出来るそうだが、戻ることも可能なのだろうか。もし戻れるなら、今年も何度か取り返しのつかない失敗をやってきた。しらばっくれてその現場に戻り、そっと修正したい気分である。だが、そんなことにお構いなく時は一目さんに2009年に向かって突き進んで行く。
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昨日釣れたアジだけ大皿の上に並べてみた。全部で20尾。これ以外にサバが4尾と交通事故でタチウオ1尾が釣れた。これが今年最後の釣りの成果である。今年の釣りを総括しても、韓国でアユの大漁を経験した以外、さしていい思いもしなかった。来年こそ釣りも蝶の収集ももっと成果を出したいと思っているのだが、果たしてどうなることやら。
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by weltgeist | 2008-12-31 21:34

三浦半島、鴨居のタチウオ&アジリレー船 (No.295 08/12/30)

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 一昨日予告したように、本日は正月のお魚を求めて船釣りに行って来た。ただし、狙ったのはマダイではない。釣れていないマダイは最初から諦めて、三浦半島鴨居港から出るタチウオとアジのリレー船というのに釣友のK氏と乗ったのである。しかし、難しいマダイを敬遠して、比較的釣りやすいタチウオに変更したというのに、これが全く釣れないのだ。魚の気配さえ感じられない絶不調で、我々の船に乗っていた20名弱の釣り人のうち、なんとかタチウオを釣り上げたのはたったの3人だけ。残りは全員坊主である。
 ところが、その3人のうちの二人が小生とK氏だったのである。幸運と言えば幸運だろうが、釣れたのは両人とも1尾のみ。とても良い釣りをしたとは言い難かった。タチウオはもうシーズンが終わったのかもしれない。
 リレー船では午後からアジをやる予定だったが、あまりのひどい状況に午前10時過ぎには早くもタチウオを諦めてアジに転向。しかし、こちらも最初はあまり釣れない。こんな状況だと今年の締めとなる釣りが最悪の状態で終わることになるかもしれない。そう心配していたら午後に入ってアジが順調に釣れ始めた。東京湾口のアジは金アジと呼ばれる特別な魚である。潮の流れが速く、金アジは関アジ並みにおいしいと評判があるアジなのだ。その金アジが終了間際には入れ食い状態となり、午前中の重苦しい雰囲気がようやく吹き飛んでくれたのである。
 タチウオには期待を裏切られたが、午後の金アジの好調で、何とか今年の釣りも無事に終了の幕を下ろすことが出来、ホッとしている。
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タチウオは全然釣れていません。この1尾はまさに交通事故のようなもので、小生に釣れたのが不思議なくらい今日はタチウオが釣れなかった。だが、たった1尾でもタチウオならうれしい。この魚、焼いて食べるとノングルメの小生でも、舌が落ちると感じるほど美味だからだ。
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この魚は鴨居ではちょっと場違いなヒラメ。タチウオ、アジのリレー船に同乗していた人が、アジを釣っているとき偶然掛けたのだそうだ。マダイよりうれしい釣り物である。
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by weltgeist | 2008-12-30 23:11

IT時代の思わぬ恐怖 (No.294 08/12/29)

 振り込め詐欺の横行がますますひどくなってきているという。小生はそうしたものには絶対引っかからない自信があると言いたいところだが、そんな自信などあまり当てにならないことを思い知らされた。実は小生、最近似たような被害に遭っているのだ。
 そろそろアメリカ旅行の準備をしなければと思っていた9月の末、小生の携帯に突然おびただしいメールが送られてきた。その数、約200通。ヤフーからのもので内容は小生がヤフーオークションに違法な商品を載せて販売しているという、全く身に覚えのないものだった。すぐに調べると、ルイビトンとかエルメス、ローレックスといった小生には縁の無い品物が続々小生の名前で販売されているではないか。
 一瞬、何故と、思ってしまった。だってそんなことやるわけもないのに、どうして自分の名前が使われたのか、事態をすぐには認識出来なかったのである。「エェーッ、どうして」と呆然となってしまったのだ。すぐやったことは、ヤフーに問い合わせようとHPから連絡用の電話を探したことである。ところが問い合わせようにも電話番号が書いてないのである。「お困りの際は下記の番号へ」という案内が何処にもない。こうなると、手がかりは違反告発のメールだ。そこには

あなたのYahoo! JAPAN IDで、利用規約やガイドラインに違反する行為などが
ありましたため、Yahoo!オークションの利用を停止し、出品中のオークション
の取り消しを行いました。
下記のページにアクセスしてください。

とあって、URLが書いてある。指示通りそこに行くと、小生がヤフーで禁止されている違反商品をオークションに出品した。それについて何か釈明する点があれば、下記にメールせよ、と書いてあり、完全に犯罪容疑者扱いである。もちろん電話番号もないから、自分はそんな商品は知らないし、とんでもないぬれぎぬだと憤慨することも出来ない。とにかくメールするしかないのである。だが、メールを出したら、「誰かが小生のアドレスを間違えて使用しているから、直ちにパスワードを変更するように」との返信がきたきり、あとはなしのつぶてである。弁明しようにもこれ以上進めない。小生は犯罪者の疑いを持たれたまま、ヤフーの判決を待つという、ITの恐るべき罠にはまってしまったのである。
 ヤフーから返事が来たのはそれから一ヶ月半後、17日間のアメリカ旅行から帰ってしばらくしてからである。それによれば、何者かが小生のIDとパスワードを盗み、小生名でありもしない偽の商品を売りまくったというのだ。そして、最初は小生自らがそれをやっていたのかどうか調べたが、どうやら貴殿は無実であるむねが判明した。よって、今回の違反出品でヤフーがオークション掲載料として貴殿のクレジットカードから引き下ろした24万円は後日ヤフーが返金する。というようなメールが来た。何と、IDを乗っ取られただけなく、お金まで盗まれていたのである。そのお金も今回は犯人ではないことが分かったから戻されたが、相手が完全犯罪をする奴だったら、小生は一生冤罪を背負って行かなければならなかったのである。
 ヤフーとの間のやり取りがメールだけなので、何故、IDが不正に使われたのか、どうして自分のパスワードが読まれたのかは教えてもらえなかった。聞いたところで、盗みの手口を教えるようなものだから言わないかもしれないが、恐らく何か小生には理解し難い方法を使ったのだろう。落札金の入金にしても振り込め詐欺と同じく偽の銀行口座に入金させ、ヤフーの手数料だけは小生の口座から自動引き落とししている。犯人たちの頭の良さ、悪賢さには感心してしまった。
 しかし、今回の件は自分だけの不運な出来事かと思っていたら、昨日(28日)のNHKニュースで、ヤフーのID不正使用のことを報道していた。それによれば、今回不正にIDを使用されたのは小生だけでなく、全国で5000人もいたと言うのだ。小生だけの単独被害ではなかったのである。ニュースから分かったことは、犯人は中国からアクセスしていたということと、パスワードを解くのにランダムな文字列を数万回試して、開けられたものを使っていたらしいことだ。
 自分としては強固なパスワードを設定したつもりだった。それがどうして読まれたのか未だ理解出来ていない。だが、思い当たることが一つだけある。いかにも翻訳ソフトで日本語に訳した発信人不明の怪しげなメールが少し前に届いたことがあるのだ。これが怪しい。IT時代のサイバー犯罪は、驚くほど進歩しているのだろう。そうしたメール受信(こちらは返信していない)だけでパスワードが盗めるのかどうか知らない。しかし、今の世の中、不審な電話やメールを相手にするだけで危険にさらされてしまうのである。
 ニュースの最後に「パスワードは時々変えることが防ぐ道です」と言っていた。本当にその通りだと思う。皆さん、パスワードは変えてますか?
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お父さん、パスワードの管理しっかりやってる? 先日も Wltgeist さんがパスワードを読まれてIDを不正使用されたんだってさ。私らも注意しないと。この鳥たちはそう言っているように小生には思えてしまう (-_-;)
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by weltgeist | 2008-12-29 22:20

年末はマーラーを聴いてマダイ釣りに行こう (No.293 08/12/28)

 いつも年末になると精神的なプレッシャーとなる年賀状をようやく今日書き終えた。また以前アルバイトとして撮影を頼まれていた雑誌用写真データの最終出稿と、キャプションもギリギリセーフで締め切りに間に合わせることが出来た。それまで時間との勝負で、果たして締め切りに間に合うか気が気でなかったものが、これで大方片づき、やっと一息付ける状況になったと言える。後は我が輩の部屋を片づけるだけだが、こちらは一筋縄でいくものではない。妻にはまた怒られそうだが、恐らく今年も先送りでこのまま本とガラクタに囲まれた汚い部屋で新年を迎えそうである。
 しかし、今日は仕事を終えて、気持ちに余裕ができたせいか、久しぶりに音楽でも聴いてみたい気分になった。それで何を聴くか。この時期ならベートーベンの第九交響曲かヘンデルのメサイアを聴くのが定番だろう。自分は以前、サイモン・ラトルが指揮した「メサイア」の録画テープも持っているし、古典的にフルトベングラーの第九もいいかなと思った。だが、小生が最終的に聴いたのはマーラーの交響曲第二番、「復活」である。これは「マタイ受難曲」のような直接的キリスト受難をテーマにしたものではないが、「死」がテーマだけにおめでたいクリスマスのシーズンに聴く曲としては不適切かもしれない。
 しかし、アドベントシーズンに関係なく何故か無性に「復活」を聴きたくなったのである。自分には当ブログ右ページにあるライフログのお気に入りとして取り上げたほど好きな曲なのだ。演奏はもちろんライフログと同じアバド指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団のDVDで、1時間20分、素晴らしい音の饗宴を楽しませてもらった。
 マーラーの復活は、ベルリンでアイーダを演奏中に突然心臓麻痺で死んだジュゼッペ・シノボリが82年にサントリーホールで演奏したものが好きだった。あの時はアルトのワルトラウト・マイアの歌が素晴らしかったが、今回のアバド版ではソプラノのエテリ・グバザバというロシア人歌手が透き通るような声で素晴らしかった。そして、壮大な最終楽章のフィナーレ。何から何まで圧倒されっぱなしの演奏にすっかり堪能した気分になれたのである。
 だが、DVDが終われば現実に戻る。マーラーの余韻を残して、午後は床屋さんに行く。長く伸びて、無精なおじさんそのものの姿が、さっぱりとした髪となり、ようやく正月を迎える体勢が整ったと言えよう。あとこれで足りないものと言えば、お正月に相応しいお魚だ。そう、尾頭付きのマダイがないのだ。
 今年は何度かマダイ釣りにチャレンジはした。しかし、ほんの赤ちゃんみたいな子供マダイを1尾釣っただけで、あとはことごとく敗退している。ここは有終の美を飾ってブログを読む釣り仲間のためにも、年末までの3日間のうちのどれかでマダイ釣りに挑戦して、最後はその釣行記で終わろうとも思い始めている。でも、これはあくまでも捕らぬ狸の話。マダイは手強い相手だから簡単には釣れないだろうし、天候にも左右される。悪天候で船が出ないとも限らないから、お正月にマダイが食べられるかどうかは分からないのだ。
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クラウディオ・アバド指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団演奏のマーラー交響曲第二番「復活」のDVDと、そのスコア(総譜)。右のスコアは小生が二度目の心臓手術で入院しているとき、お見舞いにきた人からプレゼントに頂いたものである。彼は小生のマーラー好きをよく知っていて、手術で不安になっていた小生はこのスコアでたいへん勇気づけられた。自分にとってはとてもとても思い出深いものなのである。
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by weltgeist | 2008-12-28 22:30

負け惜しみしか言えないのが悔しい (No.292 08/12/27)

 ほんの少し前まで日本では貧乏人と呼ばれる人種はほとんどいなかった。国民一億総中流で、そこそこの幸せを満喫していた。ホームレスなんて言葉が使われたのも比較的最近からだろう。いや、もしかしたら昔からそういう人は沢山いたのかもしれない。だが、それが社会的な話題にまで昇ってくることはなかった。
 貧乏というものは自慢すべき事柄ではない。出来れば晴れやかな景気のいい自分を見てもらいたいだろう。人が落ちぶれて貧しくなれば恥ずかしがって隠すのが当然である。自分の苦境など話したがらないから、そうしたことは我々の目が届かないところのことでしかなかった。だが、ここまで景気が悪くなると、どこでも貧乏が話題になり、それが当たり前の状況になってきている。最近では「ワーキングプア」なんて言葉も生まれ、ささやかな幸せを享受していた「中流」の人達が続々と「下流」に落ち、「貧乏人」という範疇に入るようになっているのだ。
 こうした状況に安定した仕事と収入を得ている人もおちおちしていられなくなっている。このところの急激な経済の崩壊を目の当たりに見れば、明日は我が身と考えても当然だからだ。日本全国総中流なんて言われた時代が懐かしい。とんでもない時代になりつつあるのだ。
 しかし、貧乏人が増える一方で、いまだ途方もないお金持ちがいることも事実である。年収が数億から数十億円もとる人がこの世の中にいるのだ。そうした人たちが自らの地位が危うくなれば、不要な経費削減と称して他人の首を斬る。自ら貯め込んだそれまでの蓄積を人に分け与えることなど全く考えずに、ただただ自らの保身に走る。こうした人を見ると、「神様、どうしてですか」と問いたくなる。世の中公平でないことも事実であろう。
 人間の能力なんて誰もそれほど変わるものではない。それが何億円ももらえることには何か裏があると貧乏人なら勘ぐってしまう。レッドソックスへ行った松坂投手のように実力で稼ぎ出したものなら何とか分かる。だが、一人の人間がどんなに努力したところで稼げる金額は知れている。それが、ここまで違うのは、一部の人が他の人の稼ぎをどこかでうまくチョロまかせているからとしか考えられない。でなければそんなに違うわけはないのだ。
 鵜飼いで鵜が捕まえたアユを飲み込む前に鵜匠がピンハネするのに似ている。要するに他人を働かせ、その人の上前をはねているとしか思えないのだ。鵜の数が増えれば収穫が増えるように、出来るだけ沢山の人から「分からないようこっそり」と盗るのである。自分は社会主義者ではないが、150年前にマルクスが指摘したこの収奪のパターンは今でも健在と思わざるを得ない。社会構造がここまで二極化したから、一部金持ちの収奪がよりはっきり見えるようになっただけである。卑近な例では天下りして、ほんのわずかの間に数千万円もかすめ盗る役人たちの行動をみれば、その収奪のやり方が分かるだろう。
 一人の人間がコツコツやったところで、手にする収入など知れている。とくに小生のような一匹狼的な仕事をしてきた人間は、一生、そこそこの収入、生活しか出来ないだろう。人より多く稼ぎたかったら、こうしたピンハネに手を染めるしかないのだ。でも、そんなことはしたくない。
 昔から言われることは「上を見たらきりがない。下を見てもきりがない」である。こうして人は騙され、諦観と沈黙に押し込められてしまう。ま、それでも「人はパンのみで生きるにあらず」と言う。貧しくとも、心が満たされていれば良しとしよう。だが、そんな負け惜しみしか言えないのが、少し悔しい。
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少し前まで木の栄養素を作っていた葉が、落ち葉となって積もっていた。何気なくその一枚を拾って見たら、ものすごく複雑な葉脈があることに気づいた。だが、枯れ葉はすでにその役割を終えたものとして「濡れ落ち葉」となり、やがては腐葉土として次の世代の栄養素となる役目しか残っていない。自然はこうして常に他者を補完し合いながら、巡り回っていく。できることなら人もこうあって欲しい。
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by weltgeist | 2008-12-27 23:48

無心ということについて (No.291 08/12/26)

 禅寺に7年も通い詰めていながら、ついにその成果もなしにすごすごと敗退したと昨日書いた。禅の神髄は無にあるという。この無とはどのようなものだろうか。禅ではそれを言葉で語ることは不可能とされている。なぜなら、無とは言葉を超越したところにあり、言葉で語りえないものだからだ。何か、ウイットゲンシュタインの「語り得ないものは沈黙せざるを得ない」(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.) というような雰囲気になってきたが、それでは話が先へ進めない。ここは違ったアプローチで迫ってみよう。
 無を「無心」ととらえたらどうだろうか。この言葉から自分がすぐに思い出すのは鈴木大拙先生のことだ。1962年か63年頃、まだ生意気な学生だった小生は、鎌倉の鈴木先生邸を先輩と訪ね、色々な話を直接聞かせてもらうという幸運な経験をしたことがある。その中で印象に残った言葉は「西洋的な考え方では、自分が対象に向き合っていて、対象を何とか分析しようとする。だが、禅の立場はこれと逆で、自分を滅すること、自分を無にして、対象の中に入り込むことをする。花があれば、花を見るのではなく、自分が花になることだ」 と言われ、さらに
 「もしこの場において、なお”私”という意識があったとすれば、その人は花にはなれない。「私心」を捨てた無の立場なら花そのものに自分がなれるのである。そうすれば私は花の中にあり、花の全てを知ることができる。ここにおいては主体(私)が花(客体)を分析し、調べ上げるなどという西洋的な区分はない。私は私であると共に花でもあるからだ」というような話をしてくれた。
 もうひとつ覚えているのは、以前オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」の所でも書いたが、徳川将軍家の剣術指南・柳生但馬守と沢庵和尚との対話のことだ。それはこうした話である。「あるとき柳生但馬守が沢庵和尚に剣の極意はどこにあるのかと尋ねると、心が曇らないよう無心になれと和尚に言われる。相手と命を賭して戦う時、相手を倒す、あるいはスキを狙って攻め込むようなことを考える必要はない。ただただ無心になって剣を構えていればいい。無心であれば心は曇りのない鏡のようになって相手の全てを映し出すからだ」 この言葉は上の花の例と同じで、私は私でありながら相手そのものにもなっている。ここにおいては主体と客体の区別も消滅しているのである。
 さらに大拙先生は続けて「剣を構える者は無心になることで、宇宙的な意識とも言えるような広大な意識に包まれ、自ら意図することなく相手を斬り倒すことが出来る。いわば自分は何をするという意志もないのに、身体が自然に動いて、相手を倒すことが出来るのだ。その一方、対戦する相手は敵の姿が巨大な無のカーテンに包まれるようになって見えなくなる」とまあ、そんなたぐいのことを話された。40年以上昔のことだから、記述は正確でないかもしれないが、おおよその大意はそうした話であった。すでに禅をかじっていた小生は若者特有の先っ走りで、その言葉を聞いて何か禅の精神が理解できた気になった覚えがある。
 禅における無心とは自分を滅することで、自分が宇宙そのものまで拡がりを得るということを意味するのだろう。「私」という気持ちが無くなれば、世界は輝いてくる。それが逆に「私が、私が」と言い張れば、それだけ自らの世界は狭まり、真実も見えてこなくなるのである。だが、このシャバに生きている限り、自分にはどうしても、「俺が、私が」という気持ちを捨て去ることが出来ない。そうして、いつも自らの世界を狭め、苦しみ続けるのである。
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こうした花を理解するとき、西洋的アプローチではそれを科学的に分析し、細部にわたって徹底的に調べる。だが、東洋的なアプローチでは花を見る人が無心にそれを見つめることで、自分の意識は花になりきり、花そのものを理解することができるという。
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by weltgeist | 2008-12-26 22:55

禅と集中力 (No.290 08/12/25)

 若い頃禅寺に7年間に渡って通っていたことがある。きっかけは大学での対人関係で悩み、半ば引きこもり状態にあったとき、ある先輩から「お前、禅でもやったらどうだ」と言われ、大学で行われていた「座禅会」に参加したのがはじまりである。座禅というと、足を変な風に組んで座り、居眠りしていると後ろから痛そうな棒で殴られる厳しいイメージがあった。だが、それは大学の教室の椅子に座ってやるから、簡単だと言われ、「それならやってみるか」という軽い気持ちでの参加であった。
 小生に禅を教えてくれたのはYさんという老師で、すでに80歳は越えているだろうに、赤子のように澄んだ目をしたたいへん魅力的な人物だった。そのY老師が初めての小生に禅のやり方を教えてくれる。まず背筋を伸ばすように座り、目は半開きで1m程先の空を見て、吸う息を一つ、吐く息を二つと、十まで数えたら、また最初に戻って一つと繰り返す。いわゆる「数息観」という方法である。そして、老師が言うにはとにかく全身全霊を持って一つ、二つと数えなさい。しかし、途中でそれが出来なくなっても慌てずに最初の一つに戻ってやり直しなさい。それだけに集中してやりなさいというのだ。
 「なんだ、簡単じゃないか」と思った小生、言われたように「ひとぉーつ、ふたぁーつ」と自分の息に集中してそれを数えだした。ところが、四つくらいまでくると、意識が息に向かわず別なことを考えてしまう。「今日の学食のカレーライスはまずかったな」と言った、関係ないことに意識が行ってしまうのだ。「いかん、いかん。集中しなければ」とすぐに反省し、再び「ひとぉーつ」とやると四つくらいでまた別なことを考えてしまう。
 禅は「無心」になることを目指すと分かっていたが、無心どころか頭は色々勝手なことを考えてしまい、それを自分がコントロールできない。その上、息に集中すると目の前が暗くなったり、明るくなったり、頭がぐるぐるしたりと、異常なまでの精神状態になってしまう。とにかく自分はたいへんなマインドコントロールでも受けているような気がした。しかし、何故か座禅を終えた後は不思議と気持ちが静まるのだ。これに興味を惹かれた小生は、その後大学での座禅会だけでなく、老師が住む武蔵関のお寺にも通い、公案という「禅問答」の問題も与えられるようになる。
 小生に与えられたのは「無門関」という禅問答集の最初に出てくる「趙州狗子」という有名な禅問答である。これは「犬にも仏性はあるか」という問いに対して、趙州禅師が「無」と答えたというもので、この意味はなんぞや、という問いである。だが、この答えは頭で考えても絶対に解けない。「犬も仏なのか。その答えが無である」なんてこと、考えたって分かるはずがないのだ。禅問答とはこのように頭で考えても絶対解けない問題を与え、いくら頑張っても解けずに最後に行き詰まらせる。考えて、考えて、さらに考えても分からないお手上げ状態にさせ、「もう止めた。駄目だ」となった極限のところで人間の浅はかな考えを放棄させるのだ。すると、人が自分の考えを捨てた時、逆に答えが見えてくるのである。
 しかし、3年ほど夢中で参禅したにもかかわらず、小生はついにその答えを見いだすことが出来なかった。悩んだ小生はその後、臨済宗を諦めて曹洞宗の方法で座禅をやり直したのである。臨済宗が禅問答による公案を解かせるのに対し、曹洞宗は公案や息を数えることもしない。「只管打坐(しかんたざ)」といって、ただ無心に壁に向かって座るだけの方法をする。臨済のように「無心になれ」とも言わないのだ。ただ座っていれば、いずれは自らが座っていることさえ意識しない無心な状態になるという曹洞禅の作法に期待したのである。
 こうして自分は臨済、曹洞の両派を渡り歩いたのだが、最終的な「見性」と呼ばれる段階まで行き着くことは出来なかった。禅で言う「無」とは何かを最後まで理解することも出来ずに終わってしまったのである。だが、7年間に渡って、自分自身を集中して見つめたことが、その後、自分の人生観に大きな影響を与えたことは間違いない。禅は自分自身の「今の状態」を徹底的に見つめること、すなわち、息をしている自分とそれを数えている自分の分裂を猛烈な集中度で見つめさせたのである。それがこの前まで書いてきた「ファジーな真理」のメインテーマとなった主体と客体の分離の問題につながった。だから、フッサールが現象学を提唱したことも、サルトルが「実存は本質に先立つ」と言ったことも、はたまた西田幾太郎が「絶対矛盾的自己同一」と言ったことも、禅を経験した自分にはある程度理解ができたのではないかと思っているのだ。
 禅は宗教であって、宗教ではない。一種の精神集中の方法でもある。興味のある方は一度試して見るといいだろう。
http://www.sotozen-net.or.jp/zazen/sahou.htm
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これは禅とは全く関係ない絵だが、今日はクリスマスということで、小生の大好きなフランドルの天才画家ロベール・カンパンが1425年頃描いた「キリスト降誕」(フランス、ディジョン市立美術館所蔵)をアップしたい。馬小屋で生まれたイエス・キリストを羊飼いが礼拝するところだが、聖書の記述と違って馬ではなく、牛が描かれている。昔はそのへんが曖昧で、フィレンツェの孤児養育院にあるドメニコ・ギルランダイオのイエス誕生を祝う「マギの礼拝」も牛小屋の絵を描いている。
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by weltgeist | 2008-12-25 23:56

クリスマスイブに思うこと (No.289 08/12/24)

 今日はクリスマスイブ。子供達にとってはプレゼントがもらえるうれしい日である。だが、こんな喜ばしき日だというのに、住む家もなく寒空をさ迷う人たちがいる。昔、「マッチ売りの少女」というアンデルセンの童話の話を聞かされた。今でも子供達に語り継がれているのか知らないが、寒さの中、貧乏な少女がマッチを売って歩く。しかし、寒くて売り物の商品であるマッチで暖をとってしまう。すると炎の中に死んだおばあさんが出てくる。少女はそれが消えないよう必死でマッチをすり続けるが、最後の一本もなくなった後彼女は凍死し、おばあさんの元へ旅だって行くという悲しい話だった。
 この少女のように家もなくさ迷う人達にとって、人生とはどのように感じるものだろうか。自分も一度親から勘当されたことがあり、大学の学費から生活費まで自活して暮らしたことがあるから、こうした話を聞くと、どうしても以前の自分の境遇と重ね合わせてしまう。しかし、自分の時代はまだ社会は安定していたから、アルバイトで大学へ行くことも出来たし、最低レベルの生活水準まで落ちたとは言いがたい。今、家も泊まる所もない人に比べたら、恵まれた環境にあり、比較にならない甘い条件下での生活だったかもしれない。
 家の無いホームレスを世間の人たちはどのように見ているだろうか。競争に負けて、住む家さえ失った可哀想な人たちと思われているかもしれない。あるいは、明日は我が身と、半ば恐れながら見ているかもしれない。だが、小生はそれとは少し違う思いを持っている。自分も一時勘当の身にあったという同族意識からではない。人は住む家が無くとも、それで人生に負けたわけではないと思っているのである。
 今から2008年前のこの日、一人の男の子がベツレヘムで生まれた。彼の誕生が意味深いのは、彼が恵まれた家庭のお坊ちゃんとしてではなく、一介のしがない大工の妻マリアが結婚前に身ごもった私生児として、粗末な馬小屋で生まれたことだ。貧乏な彼らは宿屋に泊まる事も出来ず、馬小屋の飼い葉おけをベッド代わりに使わざるを得なかった。家柄も財産もない貧しい人の厳しく、寂しい出産である。だが、羊飼い(牧人)や東方の三賢人たちは、流れる星を道案内に、この馬小屋にたどり着き、そのみどりごを見つけるや礼拝した。この貧しき子の将来に輝かしい栄光を認めたからだ。以後2000年以上、この礼拝は続けられているのである。
 今夜はクリスマスイブ。マッチ売りの少女は悲しい結末で終わった。志半ばにして倒れていったホームレスの人も沢山いるだろう。だが、生きている我々にはまだ可能性が残っている。この日の意義を考え、人の価値とは何かをもう一度問い直すいい機会ではないだろうか。
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さて、この土地に羊飼いたちが野宿で夜番をしながら、羊の群れを見守っていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て・・
今日ダビデの町で、あなた方のための救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
あなた方は布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。
(ルカ福音書 2・8ー12)

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by weltgeist | 2008-12-24 18:35

リビルドとスタインベックの「怒りのぶどう」 (No.288 08/12/23)

 ようやくぶっつけた車が直ってきた。本当は壊れた車を下取りに出して、新車にしたかったけれど、諸般の事情から諦めざるを得ず、近くの修理工場に修理を依頼したものである。小生に言わせれば「ほんの少し当たっただけ」の「軽微な傷」だったにも関わらず、ディーラーに見積もりを頼んだら、「40万円」と言われた。ちょっとぶっつけただけなのに40万なんてボッタクリだ、と一時は憤慨したのだが、町の修理屋さんに見てもらったら、それでも30万は超えそうだと言われた。素人見にはたいした事なさそうでも、実際のダメージは大きいのだろう。
 だが、修理屋さんがいいアドバイスをくれた。ラジエターやコンプレッサーなどの部品は新品ではなく、リビルドといって、古い車からとった中古品を準新品程度に整備したものがある。これを使うならもう少し安く、全部で26万円弱で出来ると言うのだ。仕方がない。直せばまだまだ乗れる車を手放して、新車に乗り替えるほど我が家に余裕はない。ぶっ壊れたフィットを修理し、全ての部品の寿命が尽きるまで、乗り潰してやろうという決心をしたのである。
 それで、修理屋さんから「リビルド」という物について詳しく教えてもらった。それは古い車から使える部品だけ取り出し、これをしっかり整備してあるから普通に使うには全然問題がないものだと言う。衝突して動かなくなった車でも、このように使える部品は沢山あるから解体すれば宝の山になるらしい。ただ、今までは景気が良かったからそうしたことはあまりやられてこなかったという。
 車に関してまったく知識のない素人なので、修理屋さんの言うことを信じるしかないが、まだ使える資源を有効に活用するにはもってこいのものだろう。また、我がフィットから取り出したラジエターやコンプレッサーも修理してリビルドで生き返るのかもしれない。これは資源の無駄遣いをしないという意味でも悪いことではないだろう。
 少し前に読んだスタインベックの小説「怒りのぶどう」の中で、米国中部オクラホマからオンボロ車でカリフォルニアを目指す貧農たちが、ルート66の途中で壊れた車を直すのに、部品を調達しながら進んでいく話があった。いまと同じ、経済がガタガタになり貧しい人たちが犠牲となった1930年代の大恐慌のさなか、昔の人は古い部品をかき集めて車を修理し、長く乗り回すことが当たり前だったのだ。
 10月にアメリカへ行ったとき、そのルート66を少し走ってみた。新しい国道(インターステート40号線)が脇に出来て、今は忘れ去られたような田舎道になっていたが、かっては米大陸を横断する主要国道で、貧しい小作農・ジョード一家はこの道を通ってカリフォルニアまで行ったのだ。西へ向かう無数のトラックで行き交ったというルート66も寂れた名も無き道の一本となり、その凋落ぶりとジョード一家の悲しい姿が重なって、時代の移り変わりを感じざるを得なかった。
 主人公トムとその家族、ジョード一家は、度重なる砂嵐でトウモロコシの収穫がなくなり、畑は銀行に取り上げられる。生活の糧を失った彼ら家族全員がオンボロトラックでカリフォルニアを目指すのである。そこはトウモロコシもロクに出来ないオクラホマと違って、果物が豊かに実る夢のような場所と聞いていた。彼らはモーゼが神から約束された「乳と蜜が流れる地」を目指す「出エジプト記」(13-5)のイスラエル人のように苦難に耐えながら、ボロトラックにしがみつきひたすら夢の楽園を求めて西に向かうのである。だが、極貧だから旅の途中で「ジイ様」が死んでも埋葬するお金もない。道路の脇に「これは殺人ではなく、病死です。お金がないからここに埋めます」という書き置きを付けて密かに埋めなければならない苦しみまで味わう。そして「乳と蜜が流れる地」であるはずのカリフォルニアで出会った悲惨な現実。
 悲しいけれど力強い素朴なオールド・アメリカンの精神を知れば、リビルドなど贅沢な選択かもしれない。スタインベックの最高傑作であり、叙情詩とも言える美しい文体、弱き者、貧しき者への共感に満ちたまなざしなど、「怒りのぶどう」は読む人の心を激しくゆさぶる。この原作をジョン・フォードが忠実に映画化(1940年)したものがあるというから映画もぜひ見てみたいと思っている。
  ともかく、そんなわけで我が家のT型フォードならぬホンダ・フィットは今、再びルート5号線(新青梅街道)を走り始めた。小生にとっての「乳と蜜が流れる地」を目指して。
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上が修理前の石に乗り上げて壊れた状態。下がリビルド品で修理されたフィット。バンパーなどは交換され、外見上は全くきれいであるし、エンジンも今のところ快調である。
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by weltgeist | 2008-12-23 18:01

金目鯛の思い出 (No.287 08/12/22)

 ガハハハと豪快に笑うことで知られる船釣りの名人・田原泰文氏から金目鯛をいただいた。本当は、自分が釣れば言うこと無いのだが、このところ全然釣りに行ってない関係で、こうした釣りたての新鮮な魚はなかなか手に入らない。もらいついでに田原氏に料理法も聞いたところ、「煮付けが一番」とのこと。だが、一つ難題がある。煮付けるにしても水からだと薄くなっておいしくない。酒を使えと言われたことだ。下戸で酒が飲めない小生の家には酒のたぐいがまるでないのだ。ま、それでも釣りたての金目鯛なら水で煮たって味はそんなに変わらないだろう。田原名人の顔を思いつつ、今夜は煮付けとサシミで賞味させていただくつもりだ。
 田原名人と言えば、昨日ドライアイのところで書いた「自衛隊の潜水艦・なだしおとの衝突事故」でテレビ局が資料映像として使ったものは、彼と一緒に第一富士丸でベヨネーズ列岩、スミス島、鳥島まで遠征釣行したときのものである。それ以外にも彼とはかなり色々な場所に釣りに行っているが、「金目鯛と田原名人の組み合わせ」では小生、苦い経験がある。もうずっと昔のことなので場所は定かではない。多分、下田沖あたりだったと思うが、彼と金目鯛釣りに行った。船宿には前日早めに着いて金目鯛の仕掛けを名人の指導の元に何組か作って、翌日の本番に備えたのである。
 金目鯛という魚は目が大きいことからも分かるように、海の非常に深い所にいる。いわゆる深海魚と呼ばれる魚で、最低でも水深が500m以上の深場を、10本以上ハリが付いた胴突き仕掛けというもので狙う。しかし、一本の道糸に10本以上の枝バリを結びつけた仕掛けを作るのはたいへんで、面倒くさい。小生はそれでも2セット分だけ前夜作り、翌日に備えたのである。
 そして本番当日、水深が500から800mくらいの間で、仕掛けを垂らした。こんな深さだと魚が仕掛けに食いついてもアタリなどほとんど分からない。わずかに竿先がお辞儀する程度である。かりにアタリが分かっても、アワセは効かないから、すぐリールを巻くことをせず、一定の時間待ってから効率良く釣り上げる方法をする。10数本あるハリに少なくとも5~6尾は引っ掛けたところでおもむろに巻き上げるのが普通の釣り方なのである。
 仕掛けを下ろして20分くらいしてから少し糸を巻いて見ると重い。どうやら金目鯛が掛かっているようなので、電動リールのスイッチを入れる。水深が600mとしても、巻き上げる糸の長さは600mではない。潮に流されて糸が余分に出ているから100m以上多く巻かなければならないのである。この深さから仕掛けを水面まで上げる作業のたいへんさは、東京タワーの2倍の高さから地上にある数㎏の重たい荷物を持ち上げることを想像していただけば分かるだろう。
 いくら電動リールだって、700mもの糸を巻くにはそれなりの時間が掛かる。はっきり覚えていないが、スイッチを入れてから10分は経ったろうか、海の下の方に赤く金目鯛が連なって仕掛けにくっついて上がってくるのが見えた。ちょっと見ただけでも7~8尾はいる。大漁である。そして、小生との距離はどんどん詰まって、もうハリスを持つ所まで来た。やった、やった。そう思ったとたんに「ブチーン」という音がして糸が切れたのである。
 昔の電動リールはスイッチを入れたら巻きっぱなしで、水面の少し手前で自動的にモーターが停止するような高級システムはまだ無かった。本当は先糸が付いているヨリモドシの少し手前でスイッチを切ればいいのだが、小生、電動リールなどあまり扱ったことがない。停止スイッチの場所が分からず、まごついている間も高速で巻かれ続け、ヨリモドシが竿の先端ガイドにガツーンと当たり、そのショックで糸が切れてしまったのである。すでに数尾の金目鯛は海面に浮いていたのに、糸が切れたからそれはアッという間に海底深く沈んでしまった。後には切れた糸の先端がひらひらしているだけである。
 金目鯛というのは、朝の一番が最も大切なチャンスで、小生はこれを自らの失敗で逃してしまったのである。こうなると第二回目の仕掛け投入以降に期待するしかない。だが、最初の失敗に焦った小生は、二回目の投入時に、10本以上枝バリが出た複雑な糸に注意を払っていなかった。仕掛けを沈めることしか頭に無かったので、何本ものハリが絡みあい、二回目の投入に失敗したのである。そのうえ、問題なのは小生は予備の仕掛けもいれて、2セットしか準備していなかったことだ。三回目も投入が出来ず、船上で作った急ごしらえの仕掛けを四回目に何とか投入でき、たしか1~2尾の金目鯛でその日の釣りは終えたと思う。
 この体験がトラウマになって、それ以来深海釣りからは足を洗っている。深海で釣れるアコウダイにしても金目鯛にしてもとてもおいしい。しかし、小生にはあの時以来、それは自分には手が届かない魚と思っているのだ。お前がやるのは10年早いよ、と金目鯛の方から言われている気がする。情けないが、今はもっぱら田原名人など、釣り仲間から分けてもらうありがたい魚に成り下がっているのである。
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目が金色に光るから金目鯛という。この魚が深海から何尾も連なって上がってくる様子は目が覚めるくらいきれいである。煮付けに良し、サシミに良し、鍋に良しで、どう食べてもおいしい。田原さん、ありがとう。おいしく食べさせてもらいます。
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金目鯛の調理を始めている最中に、また宅急便屋さんが来た。北海道にいる大学院時代の同級生、H氏から生きたホタテを送ってきたのである。今日はなんと素晴らしい日であろうか。今夜の食事は金目とホタテのダブルでたいへんな豪華なごちそうになりそうだ。
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by weltgeist | 2008-12-22 19:09