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車無しの生活が始まった (No.266 08/11/30)

 今朝、所用で車を運転していたら、急に車の床下からすごい音がしてきた。すぐに思い当たったのは、数日前に大きな石に正面から乗り上げるようにぶっつけてしまったことだ。ぶっつけた直後に確認したら、バンパーの下がへこんでいたが、走行に異常を来すようなことはなかった。それほどスピードを出してぶっつかったわけではないので、たいしたダメージはないだろうと思い込んでいたのだ。
 それが今日になって急に床下がゴトゴトと音がするようになったのである。慌てて車を停めて下をのぞき込むと、バンパーだけでなくその先にあるオイルパンカバーまでいかれて、下に垂れ下がって地面と接触している。自分が想定していたよりかなり事故のダメージは大きかったのである。
 これは駄目だと、すぐにホンダに持って行くと、今日は日曜日で板金の程度が不明だが、シャーシーまで変形しているようなので修理代は相当行きそうだと言う。メカニックが言うには、今までの経験だと最大で40万円まで行く可能性もある、と言われてしまった。ホンダフィットの車両価格は150万弱だったから、本体の3分の1強の修理代がかかるわけである。たいした事故でもないからせいぜい数万円程度と思っていたら、あまりの高さに今更ながら驚き、ショックを受けてしまった。
 おかげで、明日は一週間ぶりに釣りに行こうと計画していたこともフイになってしまった。それどころか、明日からどこへ行くにも公共交通機関を利用しなければならない。ちょっとぶっつけただけで40万円というのも痛いが、足が無くなったというのは、交通不便な郊外に住む人間にはもっと堪えることである。しばらくの間は我慢するとしても、バスもなく歩くと片道30分以上かかる図書館などどうしたらいいのか、考えると気が重くなってしまう。
 しかし、この機会に車の無い生活ってどんなものか、ちょっと考えてみた。思い出して見れば、自分が結婚した34年前は、7年間ほど車を持っていなかった。というより車を持てるほどの身分ではなかったのである。その頃の小生はほぼ毎週のように釣りに行っていたので車は必需品だったが、それでも不思議と不便は無かった。たいてい誰か仲間が乗せてくれたからだ。それに都内JRの駅から5分くらいの場所に住んでいたので、車の必要性も感じなかったのである。
 この7年間は自分の場合、車を持たないことで経済的にかなり救われた。それが7年目に最初の中古車を買ったら、急に維持費などの出費が増えて生活が苦しくなってしまったのである。それなのに、最初の中古車ではすぐ物足りなくなり、ガソリン・モロ食いのハイパワー高速車をほぼ3年周期くらいで買い換えるようになってしまった。リタイアする直前には、車を維持するために仕事をしているのではないかと思えるほど高額な車まで買い込み、時々カミさんから愚痴を言われたりしたものである。
 しかし、もし34年間ずっと車を持たなかったとしたらどんな風になっていたろうか。車に投じたお金を他に回せたから、随分生活の余裕度が違ってきたのではないかと思う。そう考えると、どこまで車の必要性はあるのだろうか、と思ってしまう。
 フィットがいつ直ってくるか分からないが、これからしばらくの間、車無しの生活が自分自身にどう影響してくるのか、一種の実験状態であると思っている。歳をとればいずれは車を手放す時がくる。その前哨戦を早くもさせられるわけである。「それであなたは車を手放しても大丈夫ですか」と聞かれたら、自分はどう答えるだろうか。自分自身でも興味津々である。
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タイ・バンコックの町はまだオートバイが全盛であった。車を持てなくなるなら、こんなオートバイも悪くない。ただし、それは元気な若い人の話。小生のような人間にはきついから、やはり車は手放せないのではないかと思う。
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by weltgeist | 2008-11-30 23:20

男子厨房に入るべからず (No.265 08/11/29)

 結婚したての新婚の頃は妻と二人でスーパーへ買い物に行くのが大好きだった。安月給の中から予算を考えて二人で仲良く相談しながら買い物をするのは、新しい生活を築き上げていくような気持ちがして、とても楽しく、ほほえましいことと思っていたのである。だが、今はスーパーに夫婦で買い物に行くのは好きではない。男がのこのこ女の領域に入っていくようで、女々しいと思い始めているのである。別に男尊女卑的考えに凝り固まったわけではない。ただ、男は家庭の中に関することは口出ししてはいけないという不文律に似た気持ちを持ったのだ。
 若い頃と違って小生のような年齢になると、食材などを買うのに妻にあれこれ言うことはあまりない。ほとんどが妻にお任せスタイルだから、自分が口を出す余地がないのだ。妻も小生が買い物にくっついてくるのは、あまり好んでいないようだ。というのも、肉や魚、野菜を撰ぶとき、小生が自分の好みに合うように口をはさむからだ。彼女が今日は魚が食べたいと思っているとき、小生が「このステーキ肉うまそうだ」などと言うと、これから作ろうとしていた食事の構想が狂ってしまう。男は買い物について行く時は口を出さずに黙って妻に従う、これが夫婦円満のコツであることを、34年間の結婚生活で自分は学んだのである。
 しかし、今日は妻とスーパーで買い物をすることになった。小生は図書館、彼女は銀行と買い物に行く用事があるので、二人で一緒に車で出かけて全ての用事を一気に済ませることにしたのだ。だが、スーパーでの買い物は素早く済ませた。というのもスーパーで売られている食材はどれもうまそうで、「あれも食べたい、これも食べたい」と小生が言いたい気持ちになるからだ。こんな場所はなるべく早く終えて出るのが無難である。
 スーパーからの帰りに、近くの農家の入り口にある無人野菜販売棚も見て回る。我が家の周辺にはまだ農家が何軒かあり、ここで作られた野菜を色々売っているのだ。これを買うには小生は車の中で待っていれはいいから問題はない。今日見つけたのは柿である。ビニールの袋に5個入って、一袋百円というのを見つけ、これを二袋200円で買って帰った。少し前にスーパーで買った柿は一つ300円くらいしたが、今日の柿は一つ20円という安さである。しかも、その家の庭からもいだ柿だから、新鮮さも間違いない。産地偽装などとんでもないお勧め商品である。
 その柿を家に戻って早速剥いて食べた。小さな名前も知らない種類で、種が多いが、甘くてとてもおいしかった。これで熱いお茶があれば言うことはない。あっという間に二つも食べて少し幸せな気分になれた。
 極楽極楽な気分で午後は図書館で借りてきた本に没頭する。そして、夕方のニュースを見ていたら、インド、ムンバイでテロにあった人たちが帰国してきたところと、バンコックで空港が閉鎖され、1万人もの日本人が帰国出来ずに困っているところを放送していた。小生たちは、甘い柿とお茶を飲みながらそれを見ている。実際、困難にあっている当事者はたいへんだろうが、少なくとも今の我々はそんな危ない目にも合わずに安全でいられる。平板な一日は今日も可もなく不可もなく終えていくが、こうした平安こそ幸せな瞬間なのかもしれない。そんな思いをかみしめた今日一日だった。
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by weltgeist | 2008-11-29 23:09

東京都美術館のフェルメール展に行ってきました (No.264 08/11/28)

 No.253で書いたフェルメール展に今日の朝早くから上野まで行ってきた。今回展示されているフェルメールは全部で7点。最初はウイーンの「絵画芸術」が加わって8点になるはずだったが、これは「作品保護のため出品不可になりました」とのアナウンスがあって7点となったようだ。いずれにしても、これだけのフェルメールが揃うのは、以前、本国のオランダ、マウリッツハイス美術館でやった大フェルメール展以来最大の規模かもしれない。ポスターには「今世紀最多の来日」と書いてあるから、これは外せない展覧会だろう。
 しかし、今回小生は大失敗してしまった。車で出かけたら都内の渋滞にはまって、上野の東京都美術館に着いたのは11時半過ぎと、出遅れてしまったのである。入り口のチケット売り場から先を見たら、すでにすごい人が並んでいる。みんなフェルメール展がお目当ての人で、入館するのに30分待ちだと言われたが、実際には45分ほど待ってようやく館内に入ることができた。これからフェルメール展を見る予定の人は、なるべく朝9時の開館と同時に行かれることをお勧めする。本日は平日であり、朝はひどい悪天候だったにもかかわらずこの人だから、恐らく明日からの土日はもっとひどい人の波で落ち着いて絵を見ることはむずかしいかもしれない。
 館内に入ると最初から人人人の大混雑で前に進めない状態なので、入り口付近にあったデルフト派の作品はスキップしていきなりフェルメールに進む。ここは人だかりは多いが、比較的各絵の間隔を広く取ってあるので、流れは意外にスムースで、一枚ずつの作品をじっくり見ることは出来た。
 最初の1枚目は、小生の初見参である「マルタとマリアの家のキリスト」。フェルメールにしては大きな絵であるが、見たとたんに「ウーン」と首を傾げてしまった。こうした作品は専門家が念入りに鑑定して本物としているのだろうが、これがフェルメールの実力だとすると、ちょっとがっかりの作品だった。早めに次の「ディアナ・・」に向かう。
 「ディアナとニンフたち」も何か絵に深みを感じない。もちろん、これも本物だろうが、そうだとすると小生の鑑賞能力はやはり問題なのかも知れない。どうも、このペースで行くとまずいぞ、といういやな予感を感じながら早々に次の絵に移動する。
 次は「小路」。この絵はアムステルダムでも見ていて、自分には「デルフト眺望」と同じく「普通の風景画」としか思えなかった作品である。だから、今回はとくに身を入れて見る。「デルフト眺望」と同じように「普通」という評価を下したら、益々小生の審美眼は地に落ちてしまうと思い、なるべく良く感じるよう心掛けて見たのである。すると、煉瓦で作られた建物の壁が何か浮き上がって訴えてくるような感じを受けた。絵の具に特別な物を入れているのだろうか、デルフト眺望と同じく、壁が照明の光で微妙に光るのだ。こうした何気ないところが、マルセル・プルーストが気に入ったことなのかもしれない。
 ところで、11月18日、N0.253 でプルーストが「デルフト眺望」の黄色い壁のことを絶賛していると書いたが、その後、吉川一義氏が書いた「プルーストと絵画」(岩波書店)という本を読んだら、この本の149ページにとんでもないことが書いてあった。プルーストのデルフト眺望の賛辞は、ヴォードワイエという人のフェルメール論を剽窃したものだというのだ。プルーストほどの人が他人の文章を盗用するというのも驚きである。だから、プルーストが「失われた時を求めて」でデルフト眺望の黄色い壁を絶賛したとしても、それが本気であったかどうかは疑わしいようである。
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 さて、少し失望気味になりながらも、次の「ワイングラスを持つ若い娘」の前に立ったとたんに背筋がキューッと引き締められるような緊張感に襲われた。この絵は今回のフェルメール展ポスターにも使われたものであるから、主催者もそれなりの高い評価をあげているのだろう。左手のステンドグラスを通った光が白い壁に当たって、なんともいえない柔らかさである。それに若い娘の赤いスカートの描写が素晴らしかった。
 そして、次の「手紙を書く婦人と召使い」(下の写真)でさらに気分は高揚する。やはり左手のステンドグラスの窓から入る光の陰影が、左手前の黒いカーテンから始まって、壁や机の下の絨毯、タイルの床などに柔らかく拡がる。隅の方を暗くすることで、中央にいる二人の人物を上手に引き立たせるのである。後ろに立って窓の外を気にする召使いと、手紙を書くことに熱中する婦人の仕草が実に生き生きとしている。前の「ワイングラス・・」とこの絵を見ただけで自分は完全なフェルメーリアンに戻ってしまった。こんな絵を描くフェルメールは本当にすごい作家だと思う。
 次は「リュートを調弦する女」。以前、ニューヨーク、メトロポリタンで見た時はすごく感動したが、絵が小さいのと、前の絵が良すぎたため、ちょっと損な役柄を追わされた感じである。しかし、この絵もフェルメールらしい光の使い方がすごい。絵の下半分が暗い影になっていることで、観客は知らず知らず薄い光の当たる女に注目させられる。その女の顔を少しファジーで、はっきりしないように描くことで、見る人の視線を顔より全体の雰囲気に注目させるようにしている。リュートの弦を調整しながら、窓の外を見ている動作も何気ない。そんな何気ない動作をさも何気ないように描くところにこの画家の凄さがあると小生は感じた。
 最後は「バージナルの前に座る若い女」。この絵は、小生が持つフェルメール画集には載っていない。以前は偽物とされていたからだ。それが、今回科学的調査で本物と鑑定され、サザビーズのオークションでラスベガスの富豪が落札したという因縁のある絵である。非常に小さい絵で、フェルメールにしてはタッチが雑な感じを受ける。科学的鑑定でフェルメール作と言われても、自分は「ちょっと」と言う思いがした。この絵は、個人蔵となるため、今後こうした展覧会に出品されることはないから、これが見れる最後のチャンスかもしれない。
 以上、7枚の小生なりの感想を述べたが、18日に書いたのと同じで、自分の中でのフェルメール評価は以前と変わらないと思った。いい作品はすごくいいし、どこにでもありそうな平凡な作品もある、そんな作家がフェルメールではないかという思いは残念ながら、今回も変わらなかったのである。
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by weltgeist | 2008-11-28 23:15

ファジーな真理。その2、カントのコペルニクス的転回 (No.263 08/11/27)

d0151247_22263774.jpg 我々にとって真理とはどのようなものだろうか。少なくとも真理と言う以上、絶対的に間違っていないものでなければならない。我々から独立して存在する客観(対象)を完全な形で捉えられれば、我々は真理を捉えたことになる。主観(人間が捉えているもの)と客観が完全一致すれば、それは真理と言えるのだ。これについて昨日デカルトは最終的には主観(人)の中には神が与えた形式があるから客観(対象)を認識できると書いた。しかし、その理論はおかしいと思ったのが、今日取り上げるイマニュエル・カント (Immanuel Kant/1724-1804年) だ。(彼の人物像については6月26日に書いた No.134 を参照して欲しい)
 カントは、我々の認識は感性が持つ直感の二つの先験的な形式、時間と空間に制約された経験によって始まると考えた。というところで、いきなりカントの難しい言葉が出てきたが、ここで言う「先験的」 とは、まあ、生まれつきとでも覚えておいて先に進んで欲しい。そして、感性の経験で得られたものはさらに高度な悟性の形式である「概念=カテゴリー」でうまく分類して「認識」を完成させていくのである。
 これをデジタル写真を例にとって説明すれば、レンズ(カントが言う感性)を通して映された映像は撮像素子(直感の形式である時間と空間)でR(赤)G(緑)B(青)の三原色に分けてキャッチするのと似ている。撮像素子で受けるのが感性の段階、それを画像処理してjpeg形式のファイルに(カテゴリーで)まとめるのが悟性と思えばいいだろう。デジタル画像ではRGBの三原色に入らない他の色は、その三色の組み合わせで表現することになる。しかし、それは無数にある現実の色を三色に分解したにすぎず、これで再現出来ない色はこぼれ落ちて行かざるを得ない。デジタル写真は「だいたいは現実を再現している」ファジーな状態にすぎないのだ。
 カントの言う認識とは実はこの状態と似ている。人間が客観を認識するとしても、直感という(RGBの)フィルターを通して得たものである以上、客観そのものにはなれないのである。単に客観的な物の「現象」を認識しているだけで、決して「物そのもの」には到達出来ないのだ。言い換えれば、人間の理性はこうした限界があり、その先にある「物そのもの」、絶対者である神のようなものは認識出来ないことになる。
d0151247_223154100.jpg カントによれば人間が客観を認識することは、実はデジタルカメラを対象に向けるのと同じことなのである。人間は今のデジカメの数万、数億倍もの撮像素子を持った存在として物を見ていて、それが真理と思い込んでいるが、それは「物そのもの」を写し撮った「現象」にすぎないのだ。我々は外にある対象と自分の認識を合致させることが真理探究の道であると思い、出来るだけそれに一致させる努力をしてきた。だが、そうした認識は我々の主観が作っていたものの中だけでの合致なのである。空間や時間は客観的に外にある対象が持つものと思われていたが、実は我々の中にあるものなのだ。カントはこのことに気づいた自分を、天動説をひっくり返して地動説を主張したコペルニクスにたとえて、コペルニクス的転回と呼んだのである。
 ここまで来るとまた、カントの言うことはデカルトの結論と近い気もするのだが、カントは人間の認識は理性の及ぶ範囲に限られるとし、それより向こう側の絶対的なものは認識できないとした。この点でデカルトとは明確な一線を画していることになる、だが、そうなると神のような絶対者を理性で考えることは出来きても、その存在を証明できないことにもなるのである。
 人間が捉えている真理と思われるものは、カントでは「現象」であるという。真理はここでまたしても、遠い彼岸に行ってしまった。それは未だボーッとしていて、我々の前に全貌を表してくれないのだ。
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by weltgeist | 2008-11-27 22:46

ファジーな真理。その1、デカルトのコギト (No.262 08/11/26)

d0151247_22445025.jpg 自分はこれまでブログの中でずいぶん色々なことを言ってきた。しかし、それが本当に正しいことなのかは、正直分かりかねているところもある。もしかしたら、ピント外れのことを、さも正論のように振り回していたことがあったかもしれない。しかし、自分に反論する人の意見があったとしても、それも同じように正しかどうかは分からない。なぜなら真理の基準というものがはっきりしないからだ。客観的な真理の裏付けのない主観的な意見を振りかざすという点ではどちらも同列である。
 それでは真理とはどのようなものだろうか。真理の探求となると、これは近世西洋哲学の大きなテーマである。近世の哲学者たちは、有限な存在である人間が、完全な真理をいかにしたら捉えることが出来るかの証明に専念していたのである。それで今回は西洋哲学の歴史を紐解いて、真理とはどのようなものなのかを考えてみたい。
 最初に哲学者が悩んだのは主観と客観の関係である。主観(人間)がいかに客観(対象)を正しく認識できるかという問題に彼らは常に腐心していた。例えば、私は目の前にあるペンを見ているとき、それがペンであることに何ら疑問をはさむ余地はないはずだ。しかし、それが本当にペンなのか証明しようとすると、ハタと行き詰まる。もしかしたらペンのように見えているだけで、目の前にある「物」はペンとは違ったものかもしれないからだ。我々は知覚を通してペンの像を得ているが、その像が正確に対象を映し出しているかどうかはわからないのである。その「物」とペンの「像」が本当に一致していなければ、我々は真理を知る立場にはないことになるだろう。
 この困った疑問を解決しようと華々しく登場するのがフランスの哲学者・デカルト (René Descartes/1596-1650年) である。彼は人間の客観認識が正しく判断出来るための原理を考えた。そのためには、最初の出発点では、この世にあるあらゆることは疑問付がついたものと考えることからスタートする。方法的懐疑と言って全てが疑わしいと思うのである。しかし、全てがあやふやで疑わしいとしても、それを疑っている「私自身」だけは確かにここに存在している。疑う私がいなければ、そうした問いそのものも成立しないからだ。ここからあの有名な言葉「我れ思う、故に我れあり=ゴギト・エルゴ・スム」が出てくる。
 この世の中全て疑わしいとしても、少なくともそれを疑っている「私」だけは確かに存在している。それは否定できない確かな事実で疑問の余地はない。だが、私が確かに存在しているとしても、私が判断する答えが正しいかどうかを証明することにはならない。
 そこでデカルトは素晴らしい「こじつけ」を考え出す。まず、疑っている私がここにあることは間違いない。完全な「真理」である。しかし、私は真理とはかけ離れた有限な存在にすぎない。そんな「真理」が、ちっぽけな私の主観から出たとすれば、それは不合理である。「真理である」と判断できるのは私ではなく、私を越えた完全なるもの、すなわち「神」が私の中にあるから真理と言える。そう考えるのが合理的ではないかと主張したのだ。
 つまり、有限な人間の中にある様々な判断基準は、実は神が人間に与えたものであるから、人間が明晰判明に考えて判断したものはそのまま真理とすることができる、とデカルトは考えたのである。言い換えれば、デカルトの「我れ=コギト」の中には神が与えた真理の基準があるから、「我れ」が思うことは真理と見なしてよろしいというわけである。なぜなら神が人間を騙すことなど絶対あり得ないからである。
 デカルトの論に従えば、小生がブログで言いたい放題言っても全て、それは「正しい」ということになる。だが、どこかおかしい。何かが変である。我々はデカルトに騙されているような気になる。近代人の自我を確立したデカルトだが、その真理論は実はまだまだ一人歩き出来ないあやふやなものにすぎないのである。これを補完するのがカント、ヘーゲル、ニーチェへと引き継がれていく哲学の流れだが、すでに紙面が限界に近づいたので、この続きは以前ルターのところでやったように、何回かに分けて論じたいと思っている。

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by weltgeist | 2008-11-26 22:45

イギリス旅行のチャンス到来か (No.261 08/11/25)

 今朝の朝刊によればイギリスが今回の経済危機に対処するため、12月1日から付加価値税(VAT・消費税)を17.5%から15%に下げると発表した。その減収分は高額所得者(年収15万ポンド=2250万円以上)の税負担を上げることで補うという。日本では定額給付金を一人12000円にあげる代わりに3年後に消費税をアップさせてもらいますなんて言ってもめてる間に、よその国では素早い行動を起こしているのだ。その理由がふるっている。過去に日本のバブル崩壊後の処理があまりに後手後手で遅すぎたことを見て、素早くやった方がいいと学んだからだと言うのである。
 ブラウン首相のこの決定が目論み通りうまくいくかどうか、小生は経済の専門家でないから分からない。いや、仮に経済の専門家であってもこうした減税の結果がどう転ぶかは、実際にやってみなければ分からないだろう。この夏にアメリカがやった減税だって全然効果はなかったと言われている。それより小生がなるほどと思ったのは、この減税をやっても必要財源は200億ポンド(2.9兆円)程度ですむという予測である。日本の定額給付金、2兆円にちょっと毛が生えた程度の金額でも、やり方次第でここまで出来るのだ。麻生首相は多くの人がその効果を疑問視している定額給付金などご破算にして、もっと抜本的な日本経済再建策を考えた方がいいと思う。
 しかし、改めてイギリスの付加価値税を見ると、2.5%下げると言っても15%(食料品、子供の衣料、書籍などは無税)だから、これはすごく高い割合である。イギリスに行く度にいつもひどく物価の高い国だと悲鳴をあげていたが、その原因は主にポンドが高すぎるからと思っていた。しかし、実は17.5%も税金を上乗せされていたから余計高かったのである。それが、今回の経済危機で付加価値税は2.5%下がり、ポンドもグーンと安くなった。ひと頃1ポンド260円前後で推移していたものが、今日の三菱UFJ銀行の相場だと150円に下がっている。付加価値税減税と合わせると物価が安くなったイギリスへこれから旅行するのは、円高メリットが生かせる狙い目の国かもしれない。
 もしイギリスに行けるとすれば、小生の大好きなファン・アイクの「アーノルフィーニー夫妻の肖像」をロンドン・ナショナルギャラリーで飽きるまで見ることが出来る。それにクリスマスを過ぎると、海外の航空券は値段がガクンと下がる。燃油代も下がったし、2月頃は一年で一番安い格安航空券が出る時期でもあるから、次の旅行先にイギリスを加える可能性が出てきた。
 しかし、今年はタイ、フランス、韓国、そしてアメリカと海外に行きすぎた。そのうえさらにイギリスとなるとかなり苦しくなってくる。イギリスには行きたい。ナショナルギャラリーでファン・アイクの「アーノルフィーニー夫妻の肖像」も見たい。しかし、それには我が家の家計が破綻しないことが前提である。破綻しないためにも、麻生さん、しっかり頼みますよ、と言っておきたい。
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ネーデルランド(今のオランダ周辺)の画家、ヤン・ファン・アイクが1434年に描いた「ジョバンニ・アーノルフィーニー夫妻の肖像」( Portrait of Giovanni Arnolfini and his Wife ) 。ロンドン、ナショナルギャラリーの主宝であり、ロンドンを旅行する人にはこの絵だけは絶対見逃すなと、小生は言い続けている。思ったより小さな絵だが、細部にわたる描写は驚くほど細密で、左の人物の毛皮のコートは毛の一本ずつが細い筆で丁寧に描かれている。また、壁の中央にある丸い鏡の中に写っている人物も、気が遠くなるほどすごい細かさで描かれている。毎週土曜日の夜、テレビ東京で放送している「美の巨人たち」の中で、この絵を取り上げていたが、作者・アイクの並々ならぬ技量は「人間ワザとは思えない」と言っていた。ロンドンに行かれる予定のある方は、600年も昔の室町時代に、欧州の人間はこんなことまで出来たのだということをぜひ見てきていただきたい。ナショナルギャラリーは入場無料である。
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by weltgeist | 2008-11-25 23:46

安物志向が自らを滅ぼす (No.260 08/11/24)

 ガソリンが急に安くなったためか、昨日三浦半島から戻ってくるのにたいへんな渋滞に巻き込まれてしまった。車が急に増えて、道路が混んでしまったのだ。リッター180円を超えていた8月頃は、高いガソリン代を気にして皆が車に乗らなかった。その反動が一気に出て来たような車の混雑ぶりだった。
 しかし、庶民の収入は増えてないからこうした「車による外出」も一時的だろう。家計を考えたらそうそうに無駄な出費は出来ない。財布のひもをしっかり締めて、少しのお金も有効に使わざるを得ない状況だ。いや、財布のひもを締められる人はまだいいかもしれない。財布に入れるお金のない人は締めようと開けようと関係ないからだ。
 経済評論家は一致して「これから未曾有の不景気がくる」と予測している。そうなったとき、我が家の貧弱な家計は破綻するかもしれない。しかし、以前にも書いたように自分は数年前から結構楽天的な考えを持つようになった。破綻しても、人間何とか生きていくことは出来ると思い始めたからだ。金が無ければ無いなりの生活をすればいい。もちろんあるに越したことはないが、金が全てといった拝金主義に染まりたくないと思っているのだ。
 越後の良寛和尚のように、無一文でも豊に生きた人は沢山いる。そうした先達の背中を見ているから、自分が苦しい状況に陥っても「何とかなる」と思えて、安心しているのだ。
 それはさておき、どの家庭も今や節約モードである。バブル華やかなりし頃は、節約に励む人を「みみっちい」とさげすむ傾向があった。だが、今、みみっちく節約することは決して恥ずかしいことではない。以前ならタクシーに乗っていたところをバスにする、電車一駅くらいは歩くといった節約は、大いにやるべきだと思う。
 しかし、節約が高じて安物だけを求め過ぎるのは自分としてはお勧め出来ない。時々信じられないような激安品で客を呼ぶスーパーなどがある。財布に優しく、庶民には有り難い存在であるかもしれないが、こんな安物だけを買っていると、時にとんでもないしっぺ返しを食らうこともある。肉の偽装をしたミートホープの社長が「安物ばかり求める消費者にも責任の一端はある」と言った。これはある面から真理でもある。
 物には適正な価格がある。常識的な価格よりずっと安い物は、何か裏があってもおかしくはないだろう。そうした安物志向が偽装を生み、またまじめに物作りをしている人たちを圧迫していくのである。商品の良さ、お客様の真の満足を考えず、安い物を売れば客は来ると考える人、値段だけで勝負する人は値段で負ける。下をくぐる値段でライバルを倒しても、必ずさらに下の値段で攻めてくる競争者が出現するからだ。安売りの未来は明るくはないのである。
 ドイツのことわざで「我が家は安物を買うほどお金持ちではない」というのがある。安物は値段なりの物だから、結局は高い物についてしまうという警告である。確かに今の経済状況から言えば、高い物に手が出ないのは当然である。しかし、安物ばかりを求めると、最後は自らの首を絞めることになりかねないのだ。
 安物全盛時代にあって、ひたすら本物を提供しようとする人たちも沢山いる。こうした人たちこそ次世代に生き残る人だと思う。良い物は必ずお客も認め、喜んでくれると信じて仕事に打ち込むこと、それこそ仕事の原点であろう。だが、いくら良い物でも適正な価格で販売されなければ、それは安売り主義と同列でしかない。我々は良い物にはまっとうな代金を支払う気持ちはある。しかし、ブランド名だけで意味もなく値段を引き上げる者には厳しい目を持つ必要性をバブル崩壊で学んできている。この苦い経験を忘れないでもらいたいものだ。
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by weltgeist | 2008-11-24 23:01

カワハギ釣り大会は釣れませんでした (No.259 08/11/23)

 一昨日からシッチャカメッチャカの忙しさだったけれど、昨晩中に何とか釣りの準備を終え、本日三浦半島松輪で開かれたカワハギ釣り大会に行って、先ほど帰ってきた。ちょっと疲れたし、眠いので結論から先に言えば、全然釣れなくて、皆さん貧果で終わった一日だった。
 今回の大会は個人的な釣りの腕を競う競技会と思っていたら、今年は個人技より参加者の親睦を図ることを主眼にしたらしい。だから、全員が楽しめながら、それでいて腕の見せ所もあるという釣り大会にしたと言う。個人の技術を競うのではなく、参加者全員をランダムに撰んだ6つのチームに分け、チーム全体の総釣果で順位を決めるやり方である。個人技の競争だと、どうしてもベテランが上位になるが、これなら初心者からベテランまで全員が楽しむことが出来るのだ。
 しかし、チーム選びは抽選によるから、強い人ばかり入ったチームもあれば、初心者が多いチームもできる。こうしたバラツキは致し方ない反面、面白さもある。自分のチームにどんな人がいるかでチーム全体の成績が違ってくるからだ。腕利き揃いなら好成績が望めるが、足を引っ張りそうな人がいると心配である。
 今回、自分はFチームの札を引いた。ラッキーなことに同じFチームのメンバーには、カワハギオープンで優勝したN名人や、NHKでカワハギ釣りの解説をしたM名人、さらにもう一人、今のカワハギ釣りブームを作った張本人とも言えるH名人など、錚々たる人が入っている。こんな豪華なメンバーなら、最早我がFチームの勝ちは誰の目にも明らか。小生が少しばかりミスしても、優勝は間違いないと思えたのだった。
 ところが、今日は初心者も名人も関係なく、カワハギが釣れないのだ。城ヶ島沖、水深20~35mの浅い場所を重点的に釣ったが、ほとんどアタリがなく、何時までたってもエサが取られないで残っている。普通、カワハギ釣りでは、仕掛けを下ろして3分もすればエサのむき身アサリは完全に食べられて、影も形も無くなっているはずなのに、エサがそのまま残っている。ということは、海底にカワハギがいないことでもある。これではいくら名人でも釣れない。無い袖は振れないのだ。
 こんな悪条件のため、小生の釣果は二桁に乗せるのがやっとの貧果で終わった。しかし、それでも我がチームの名人たちが、頑張ってくれるだろうと期待していたら、何と、N名人とH名人が転けた上に、他にも足を引っ張ったメンバーがいて、3位入賞がやっとという大番狂わせな成績で終わったのである。
 だが、久しぶりに船に乗って海の上で竿を出せたのはとても気持ちがいいことだった。これでカワハギがもう少し釣れていれば言うことはないのだが、自然条件だけは仕方がない。何人かご無沙汰していた友人にも会えて、近況報告なども出来た。釣果に恵まれなくても充実した楽しい一日だったと言える。
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by weltgeist | 2008-11-23 23:00

明日はカワハギ釣り大会だ (No.258 08/11/22)

 明日は久しぶりに釣りに行く。神奈川県三浦半島剣崎沖で開かれるカワハギ釣り大会に参加する予定だ。このカワハギという魚、すこぶる賢い奴で、人間様に何のシグナルも与えることなくエサをかすめ取っていく。もともと川の釣りが得意な小生、海は船に酔うことから苦手だった。それが、最近船釣りによく行くのは、このカワハギのせいである。
 とにかくしゃくに障るほどエサを盗むのがうまい。いくら神経を集中させても、釣り人の側に何の接触感も与えず、ハリに付いたエサをとっていく。だからこちらも知恵比べで、何とかアタリを出すようにあれこれ考えているうちに、すっかりカワハギ釣りにはまってしまったのである。
 明日の釣りはカワハギの腕自慢が50名ほど集まって、誰が一番数多く釣るかを競う釣り大会である。一番多く釣った人は賞金、賞品がもらえるし、何より「カワハギ釣り名人」という栄誉をいただけるのである。しかし、ここで優勝するのは容易ではない。今回参加する人の中には、カワハギ釣りの名人と呼ばれる人が10名近くいる。有名なカワハギ釣り大会で優勝したチャンピオンばかりゴロゴロいるから、小生の勝ち目は薄いかもしれない。だが、小生とて、黙って手を拱いているわけではない。やる気は十分なのだ。
 ところが、実のところ昨日から大忙しで、明日の釣り支度を全然出来ていない状態である。準備は今日のブログがアップした後にやるしかない。何故、そんないそがしかったかというと、昨日から溜まっていたウスバシロチョウの展翅を始めたからだ。
 展翅というのは、捕まえた蝶を展翅板に貼り付けて標本にする作業のことである。小生、蝶の展翅をするのは50年ぶりで、手順もやり方も忘れていたから、作業時間を読み違えたのである。採集した蝶は三角紙という紙の袋にいれて乾燥状態で保存してあるが、展翅するときは軟化といって、一旦湿気の多いシャーレの中などに数日間入れておかなければならない。この期間は短いと軟化が不十分で翅がうまく開けないし、長すぎると湿気で蝶が痛んでしまう。軟化作業を開始したら、3日くらいで展翅するのが一番いいのだ。それを計算して昨日シャーレから取り出して一気に展翅を終えるつもりだったのである。
 ところが軟化まではうまくいったのに、その後の展翅作業でえらく時間を食ってしまった。作業時間を考えずに30頭ものウスバシロチョウをシャーレに入れてしまったのだ。そして、展翅を始めたら、これが遅々として進まない。数が多すぎて昨日どころか今日も朝からやっていてまだ終わらないのである。
 どんなに手間取ってもまさかここまで時間がかかるとは夢にも思っていなかった。今日は釣りの準備を予定していたのに、小生の前にはまだ6頭のテンシャンウスバシロチョウが、シャーレの中に未展翅状態で残っている。しかし、このまま展翅作業を続けたら本日のブログアップも、そして大切なカワハギ釣りの準備も出来ないことになる。
 仕方がない。ここは展翅作業は一旦中断して、とりあえず、今はブログ用の原稿を大急ぎで書きあげ、その後釣りの準備をすることにした。しかし、明日、友人との待ち合わせ時間は午前3時20分。ブログは本日中に上げるとして、その後カワハギの仕掛け作りなどでどのくらいの時間が必要だろうか。午前3時20分といいうことは、寝る時間はないかもしれない。多分本日は徹夜であろう。カワハギ釣り大会の結果は、良くても悪くても明日またこの欄で書くつもりでいる。
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採集した蝶は、こうした展翅板に翅を拡げた形で貼り付け、上からテープで押さえたら、約一ヶ月乾燥させれば完成する。しかし、1頭ずつ格好良く翅を拡げた形にするには意外に手間と時間が掛かる。昨日の朝から始めて、本日午後5時でここまでしか出来ていない。作業は遅々として進まず、次第に焦りがつのってくる。
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by weltgeist | 2008-11-22 22:40

Be out of the question  (No.257 08/11/21)

 時間の過ぎるのが本当に早く感じる。先週、Bさんの英会話個人授業が終わったと思ったら、もう一週間が過ぎて、今朝も10時から2時間、英語のレッスンである。しかし、以前からずっと指摘されていながらどうしても出来なかった「R」と「L」の発音の違いや、「A」と「O」の違いを特に意識して発声したら、今日は珍しく「ベーリー・グッド」とほめられた。RやLの音を出すとき、舌と口の開き方をやや誇張して発音したのだ。それでなんとか及第点を取れるところまで行ったようだ。しかし、日常会話でいつも舌や口に注意力を傾けるわけにはいかない。Bさんと少し複雑な会話を始めると、たちまち自分の欠点を忘れてジャパニーズイングリッシュに戻ってしまう。人間、65年も生きていると、少々のことでは言葉の癖を直すことは容易ではないのだ。
 ところで、今日教わった英語の慣用句で印象に残ったのは Be out of the question 、すなわち「問題外」という意味の言葉である。普通の否定ではなく、お話にならないようなときに使うのだという。箸にも棒にもかからない時の常套句である。
 しかし、この言葉で「お前にとって問題外なことは何か」と問われて、ハタと考えてしまった。どんなことが自分には問題外なことだろうか。今まであまり意識したことがないから、答えに詰まってしまったのだ。だが、授業が終わって後から考えたら、あった、あった。最近の麻生首相だ。
 Prime Minister Asou is out of the question. である。
 麻生首相は中学生でも読める漢字が何度も読めなかったり、「社会的常識の欠落した医者が多い」と失礼なことを言ったり、道路特定財源に関して二転三転したり、定額給付金のエサをばらまいて、その後消費税をアップして釣り上げるぞと言ったり、日本郵政グループ各社の株式売却を凍結して、郵政民営化計画を見直す態度を見せたりしている。
 小泉前首相が郵政民営化を訴えたから国民の支持を得て、今の自民党があるのに、その立場を忘れて元の木阿弥に戻るようでは、一国の首相としてまさに「問題外」の人と言わねばならないだろう。味方である自民党議員の間でも白けムードが漂っているというから、情けない。経済の危機的状況を彼の力で乗り切ってくれるのか、はなはだ心配である。
 秋葉原へ行って「俺は漫画が好きなオタクだ」と言ったときは、中々ユニークで、多少はやってくれるかなと、ほんの少しだけ期待していたが、こうなると早く衆議院を解散して、オバマのようなフレッシュな政治家に代わってもらいたいものだ。漫画も読む有能な首相というのは外見で、実体は漫画しか読まない、いや漫画以外は読めない(漢字が読めないから)首相は問題外。もっとましな人に日本の舵取りは任せたいものだ。
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by weltgeist | 2008-11-21 22:46