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足ることを知る (No.221 08/09/30)

 昨日はPC不調というアクシデントに見舞われ、結婚記念日のささやかなお祝いに行くことも出来なかったため、今日にそれを繰り上げることにした。妻が見つけてきたおいしいインドカレー屋さんに買い物ついでに行こうということになったのである。ところが、行ってみたら特別休業日で店が閉まっている。9月25日の星座占いで「サソリ座は最悪」の運勢と言われ、「そんなもの信じるか! 」と一笑に付したけれど、昨日のPC故障と写真データ書き込みエラーなど、いいことが続いていない。占い否定派の小生、どうやら分が悪くなっている感じだ。
 結局、幻となった「おいしいインドカレー」の代わりに、今日行ったのは回転寿司である。ここが今年の結婚記念日のお祝いの場となった。「回転寿司などお祝いに行く所じゃない」と言う向きもあるかもしれない。しかし、自分にとっては店の格より、34年間今日まで大きな波風もなく生きて来れて、二人で食事が出来たことだけで十分なのだ。おいしく寿司が食べられたことは、まだ自分たちが元気である証拠でもある。
 結婚記念日のお祝いならある程度格調の高い所がいいんじゃないの、と思う人はそこへ行けばいい。質素な生活を心掛ける小生には、回転寿司で満足出来る。むしろそうした質素なお祝いで満足する自分を誇りに思っているほどである。現役時代は見栄を張り、高いレストランに行ったこともある。しかし、場所などどこでも同じ、問題は気持ちだという、ごくごく当たり前のことにようやく気づいたのである。
 都内の一流レストランで食事をするのもいいし、町のファミレスで食事をしたって恥ずかしいことではない。そもそも、いい生活とか質素な生活の基準はどこにあるのだろうか。これらは全て比較級であろう。上には上の、下には下の世界がある。悪い比較例だが、世界中には年間数十ドルの年収で暮らす人が数十億人もいる。そうした人から見れば、回転寿司など夢の世界だろう。それと同じように年収が数十億円ももらう人もいる。彼らの生活など小生には想像もできないが、そんな人でも多分別な欲望があり、満足はしていないだろう。つまりは、きりがないのだ。
 いま日本の庶民が生活している水準は、江戸時代の将軍様より高い水準である。それに不満を言うのは、自分より上の人を見て羨ましがっているからだ。人の生活は相対的であるところに世の悩みの本質が隠されている。他人を羨むから満足出来ないのだ。比較しなければ自己完結していて、どんな物でも満足出来るだろう。いつも豪華な生活をしている人を我々は羨ましいと思う。しかし、それでは豪華な生活をしている人が幸福かと言えば、それは分からない。年収数十ドルの人に幸福が無いなどとも言えない。
 常に他人との比較で生きている人に不満の種は絶えない。与えられた条件の中で「足る事を知る」人間こそ、心の平安に行き着くのではないだろうか。確かに億万長者は羨ましい。しかし、それだからと言って自分がその人と比べて劣っているわけではない。自分は自分であり、億万長者にも出来ない人生を送っている。負け惜しみと思われるかもしれない。しかし、そこに誇りを見いだせば、毎日が充実した日々に成り代わると思うのだ。
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韓国・水原にある「韓国民族村」の古い民家の門に貼ってあった厄よけのお札。疫病神から守る虎の周囲に大吉、未安、栄乱?、金などの文字が読み取れる。
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by weltgeist | 2008-09-30 22:15

結婚記念日のお祝いは? (No.220 08/09/29)

 今日は我が家にとって34年目の結婚記念日である。結婚して34年も経過し、自分の人生の半分以上を妻と同居したことになる。実に長いと言えば長いし、短いと言えばアッと言う間に過ぎた感じもある。光陰矢のごとしだ。このブログを読む人の中に、もし若い人がいて、「34年も先の事など自分に関係はない」と考える人がいたら、それは違うんだよと言いたい。若い人もいつか必ず年をとって我々と同じ立場になるからだ。
 この世の中、結構不公平である。しかし、時間だけは公平だ。どんなに優れた人でも、どんなに駄目な人でも時間は同じようにやってくる。時間は有無を言わさない。何があろうが寸分違わないテンポでさっさと経過していく。我々の人生だって、自分の意志に関係なくこの世に生まれさせ、最後は一方的に墓場に追いやっていく強引さである。「生まれたくない」「死にたくない」とわめこうがお構いなしだ。誰がこんなことをコントロールしているのか知らないが、未来永劫変わらないテンポで、誕生と死の時間を永遠に作り続けるのである。
 そんな時間の一点に刻まれた我らの結婚記念日、自分たちにとってはとてもお目出度い日である。ところがその目出度い結婚記念日にとんだお祝いをプレゼントされてしまった。不安定だったパソコンがまたぶっ壊れそうになっているのだ。先週の土曜日に仕上げたデータをDVDに焼き込もうとしたら、何かうまく行かない。それでも気にしないで何度かトライするうちにようやくバックアップできた4ギガほどの写真データを本日届けた。
 自分の仕事としては、これで全て完了である。「終わった、終わった」とホッとしながら家に戻る。するとそこへ編集長から悪夢の電話がきた。「もらったDVDに何も書かれていない。空っぽだ」というのだ。すぐ自分のPCで確認すると、Cドライブの空き容量が30MBくらいしか残っていない。昨日、確認したときは7GB(うろ覚えだが多分? )あったのが、いきなり空きがなくなりDVDへの書き込みエラーにつながったのだ。
 もしデータが飛んでいれば、これはえらいことである。それで、先ほどまで必死になって原因を追及に追われていた。もう結婚記念日どころでは無くなってしまったのはもちろんである。なぜこうなったか分からない。コンピュータという奴はときどき、こうした訳の分からないことをしでかすのだ。
 だが、あまりにいじるとシステム全体が壊れて起動しなくなる恐れもある。まだ何とか動いているうちに小生のPCからデータを外付けハードディスクに書き込み、妻のPCに避難させると共に、別なディスクにバックアップを取った。これで仕事の画像データは何とか救出できたが、まだ小生のPC本体の修復が待っている。
 しかし、実はもう一つやらなければならないことが待っている。それは当ブログの書き込みだ。今夜12時までに書き込まなければ、毎日更新が嘘になってしまう。これだけは避けたい。だが、時間がない。とにかく、今夜は絶体絶命である。そんなわけで、今は一旦修復作業を中断して、ここまでの経緯を報告する文章を書いている。しかし、今夜の書き込みはこのアクシデント報告をアップするだけでお終いだろう。アップが終わったら、その後も延々とPC修復作業を行わなければならないからだ。
 この分では今夜は徹夜かもしれない。やれやれ、とんだ結婚記念日お祝いプレゼントである。
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この新婚夫婦の30年後はどのようになっているだろうか。熱々ムードのお二人が、夫婦喧嘩ばかりするハゲおやじ、ビヤ樽おばさんになってほしくない。いつまでも新婚当初の初々しさを持続すると信じたい。
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by weltgeist | 2008-09-29 22:17

くよくよするな。なんとかなる (No.219 08/09/28)

 アメリカへ行く前にあげなければならない仕事が昨晩完了し、今日は久しぶりに仕事の重圧から解放された清々しい日曜日となった。頼まれた仕事は全部終わらせようと連日頑張ったのでストレスも溜まっていた。それが、終わってみると気持ちがいいくらいすっきりした気分である。思い出してみるとリタイアする前は、そうした重圧感がずっと続いていたわけで、晴れ間が来ることが少なかった。そんなだから、仕事をしていたときは精神的にも肉体的にも参ったし、ストレスも溜まりやすかった。その意味ではリタイアして本当に良かったと思っている。
 一応、曲がりなりにも63歳まで働いたのだから、自分としては社会的義務は果たした、後は後輩諸氏にお任せしてのんびり過ごしたいと思っているのである。そんな小生に続いて、昨年あたりからいよいよ団塊の世代が退職年齢に達して大量リタイアが始まりつつある。そうした人たちはどうしているだろうか。
 実は自分もリタイアする直前は非常に不安な精神状態になった。というのもリタイアすれば当然収入が無くなる。それはすぐさま生活苦に直結するからだ。働かざる者食うべからず、の原則通り、なにがしかの仕事を見つけて食う分くらいは稼いでこないといけないと思っていたからだ。しかし、新聞、テレビは、退職した高齢者の再就職はたいへん難しく、また仕事が見つかっても厳しいものと聞いていたので、不安は余計つのった。
 幸いにして自分は60歳の定年を過ぎてから後3年、63歳まで仕事を続ける事が出来たから、しばらく職探しをする事もなかった。しかし、満63歳の誕生日をもって退職したときは、まるで太平洋を手こぎのボートで渡るような不安な門出だった。恐らく、今の団塊の世代諸氏が同じ気持ちでいることだろう。
 しかし、リタイアして3年になろうとする今、ようやく老後の現実が分かってきた気がする。現役の頃は先が見えず、不安で仕方がなかった。だが、現在の感想を一言で言えば「何とかなる」である。贅沢さえ望まなければ、今の日本では何とか生きていけるのだ。人間というやつは想像以上にしぶとい生き物で、ちょっとやそっとではへこまないし、死にもしないのだ。くよくよするな、と言いたい。
 問題は贅沢だ。現役時代と同じような生活を続けようと思ったら、それは難しい。なぜなら収入が激減しているからだ。激減したならそれなりの生活水準に下げればいい。うまい飯が食えて、うまい酒が飲みたいと思っても、余裕がなければ我慢する。それを「あれも食いたい。これも欲しい」と現役時代と同じ感覚でやろうとすると、苦しくなるのだ。生活は縮小する。しかし、そこにはもっと贅沢なものが出現してくるだろう。仕事に追われているときは、持つことが許されなかった「自分の自由な時間」がえられるのだ。これこそ最高の贅沢である。
 「そんなこと言っても、子供の教育費が・・」とか「住宅ローンが払えなくなる」といった様々な声を聞く。もちろん家庭の事情は皆違うから、一概には言えない。自分の能力の限界を超えた厳しい場面に遭遇することもあるだろう。しかし、無い袖は振れないのだ。お金が無くなれば、無いだけの道が自ずと開けてくるだろう。親に金が無い子は、「学費は自分で稼げ」と言えばいい。団塊の世代の子なら、小さくてもすでに大学生にはなっているだろうから、それは不可能ではないはずだ。小生もやってきたし、アメリカにはそうした大学生が沢山いる。甘えさせることはないのだ。
 住宅ローンが焦げ付くようなら、田舎へ行って安い家を借りればいいだろう。前にテレビでどこか南の島の安い一軒家を借りて、明るく生活する人を紹介した番組を見た。彼らの顔は実に生き生きしていて、幸せそうだった。都会的、現役サラリーマン的発想など捨ててしまえ、と言いたい。社会の常識的レベルで言えば「貧乏」「下流」に落ち込むかもしれない。しかし、仕事に追われた現職時代には欲しくても手に入らなかった自分だけの時間が持てるのだ。それは最高に贅沢な生活をもたらしてくれるものであると、リタイア3年目の小生は実感しているのである。。
 くよくよすることなど無い。何とかなる。人間、そんな簡単にへこたれたりしないのだ。
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by weltgeist | 2008-09-28 23:19

言葉の壁 (No.218 08/09/27)

 魚は1尾、2尾と数える。では蝶は何と言うかご存じだろうか。「匹? 」残念、「ブーッ」である。蝶は「1頭、2頭」と数えるのだ。常識的に見れば、どちらも「匹」で良さそうなものだが、釣りに行って、「1匹釣った」などと言うと、「こいつは素人だ」と思われる。魚は尾が数の目安だからこう数えるのである。しかし、蝶を「頭」と数えるのは理解に苦しむところがある。「1頭、2頭」と数える牛や豚とは違う。頭も小さい生き物なのに「頭」と呼ぶゆえんは何からきたのだろうか。その確かな理由は分からないが、皆が「頭」と言っているから、自分もこれに従って一応「頭」と呼ぶようにしている。匹などと言って馬鹿にされたくはないからだ。
 同じ事を英語で言うとどうなるのだろうか。5尾の魚は「 5 Fish 」、蝶も「 5 Butterflies 」と、頭に数字を付けるだけで簡単である。尾だ、匹だ、頭だという違いはない。ただ、英語でも問題はある。前の魚は単数も複数も「 Fish 」だが、蝶の単数は「 Butterfly 」である。日本語には無い単数と複数の名詞に違いがあるのだ。これはわずかな違いであるが、それでもアメリカ人に「 5 Fishes 」とか「 5 Butterfly 」と言ったら、間違った英語を話していると指摘されるだろう。
 いずれにしても来月2日から、16日間こうした英語をずっと使わなければならない。日本語が通じない外国に行くわけだから、こちらもしっかりとコミュニケーション能力を付けておかないと恥をかく。いや、下手するとレンタカーやホテルの予約でまごつき、レストランで注文も出来ない事態に遭遇する可能性だってある。昔、ニューヨークのデリカテッセンで注文するとき店員の訛りの強い英語が聞き取れなく、後ろに並んで待っている人をイライラさせた苦い経験があるのだ。もう40年以上英語の勉強をしていても、この程度なんだから、自分の能力の低さに情けなくなってしまう。
 ま、Fish だ Butterfly 程度の違いは何とかこなせても、小生のネックは発音。これだけはどうしてもジャパニーズ・イングリッシュが抜けない。バイリンガルの流ちょうな英語を聞いたりすると、本当に羨ましくなる。小生が学生の頃は「反米、反帝国主義」が盛んな時代で、英語を勉強するより「アインス、ツバイ、ドライ」(独)とか「アン、ドゥー、トロワ」(仏)が先進的な学生のスタイルだった。そのツケを今になって払わされているのだ。今頃になってネイティブ・イングリッシュを、と言っても虫のいい話なのである。
 最近は小学校の頃から英語を教えるそうだ。これが教育上いいことなのか悪いことなのかは分からない。しかし、子供の耳で聞いたネイティブ・アメリカンの発音は大きくなってきっと役立つと思う。小生も出来ることならもう一度小学生の頭に戻って英語を勉強し直したいと思っている。だが、すでにボケ老人に近い頭では、小学生にも馬鹿にされるかもしれない。とにかく遠い昔の失敗はもう取り戻せないのである。
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東京都下東村山市の公園にヒメアカタテハが1「頭」飛んでいた。その飛翔写真が撮りたくて1時間近く、吸蜜にくる花の回りで待ち受けて撮ったのがこの一枚。蝶に興味の無い人には「暇人のしょうがない写真」と映るかもしれないが、自分としてはピントが合っただけでうれしいのだ。こんな写真で喜ぶ小生、すでに相当な蝶オタクになっているようだ。
撮影データ、カメラ・D300、レンズ・AF-S VR Micro Nikkor 105mm F2.8G。F/5.6、1/2000秒、ISO/400。

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by weltgeist | 2008-09-27 22:38

月末になって大忙しです (No.217 08/09/26)

 9月になったかなと思ったらもう月末、あと5日で10月である。月日の経つのが本当に早い。そうなると、自分にとってはまだ先のこととのんびり構えていたアメリカ旅行の出発日がいよいよ迫ってくる。こうしてはいられない。そろそろ出発準備に取りかからなければならないのである。
 アメリカへ行くのは、10月2日。それまでに終えていなければならない仕事がいくつか残っているのに、それをほとんどやっていない。荷物の準備どころか、肝心の計画も全然作っていないのである。最初の一週間はオレゴン州ポートランド周辺で過ごす。こちらは知り合いのアメリカ人の家にお世話になるから大丈夫だが、そのあとが問題だ。ラスベガスからレンタカーを借りてネバダ、ユタ、アリゾナの3州にまたがる沢山の国立公園を見て回るつもりだが、レンタカー、宿泊するホテルの予約も一切していない。それどころかどのようなコースをとって、何処へ行くかも、ほとんど決めてないのである。とりあえずラスベガスまでのエアーチケットは取ったが、その後は面倒だから車を走らせて夜になったらどこかのモーテルに泊まる。そんな行き当たりバッタリの旅にしようと思っているのだ。
 しかし、こんないい加減なことで本当に大丈夫なのか、さすがに出発日が迫ってくると心配になってきた。考えてみればレンタカーを借りるのに、国際免許も取っていなかった。あわてて申請手続きに行ったり、以前から頼まれていたのに放っておいた仕事も手を付け始めたりした。これも出発までに完成させておかないと後でまずいことになるだろう。
 そんなこんなで、今やてんやわんやの大騒ぎになっている。あまりにやることが多すぎて何から手を付けていいのか分からない混乱状態である。そんなに忙しければ、まずこのブログ執筆を停止し、必要な時間を確保するのが常識人のやることであろう。しかし、小泉元首相同様非常識人を自認する小生、ブログを始めるとき誓った「毎日更新を続ける」という、自分自身への約束を破れない。どんなに忙しくても、絶対このブログは毎日書いてやるぞ、と堅く心に決めているのだ。
 それが、不思議なことに人間追いつめられると普段よりずっと力を発揮することが出来るようだ。以前はこのブログを作るのに、毎日4時間くらいは必要だった。今は2時間もあれば出来る。別に手抜きしているつもりはない。それでも何とか続けていられるのは火事場の馬鹿力であろう。人間、せっぱ詰まれば集中力が増して、短時間に多くのことが出来るようになるのだ。
 残念なのは、少し前からこのブログで書き始めた「マルティン・ルター」のことを今月中には決着をつけたいと思っていたのに、それが難しくなったことだ。次に書く予定の「ルターその4」は最終的な総括として自分がルターに対して疑問に感じていた「人間の自由と神の存在」をテーマにまとめるつもりでいた。しかし、これはたいへん重たいテーマなので、いままでのようにチョイチョイっと書くわけにはいかない。たっぷり時間をかけて書きたいから、結局、今月完結は無理で、アメリカから戻っての宿題になりそうだ。
 と、まあこんな多忙状態でありながら、今も時々ネットの釣り蘭を見たりしている。どこそこで大物が釣れるとか、知り合いのブログで友人が大釣りをした、なんて情報をついついチェックしに行ってしまうのだ。八面六臂、まさに寸暇もない状態にありながらも、釣りネットに走ることは止めない。持ち前の楽天主義が首を持ち上げて「何とかなるよ」と言っているからだ。人間追いつめられれば何とかなるものである。きっと今回の旅もうまくいくと楽観視している。
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広大なアメリカのハイウエーは走っていてたいへん気持ちがいい。しかし、日本と違って右側通行である。以前も間違えて左車線に入って、ぶっつかりそうになったことがある。最近、年を取ったせいか、反応が鈍くなっているから、また左側車線に入ってしまうことが心配だ。
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by weltgeist | 2008-09-26 23:15

占い天国日本 (No.216 08/09/25)

 テレビで毎朝「今日の運勢」という星座占いをやっている。布団の中からそれを何気なく見ていたら、サソリ座の小生は本日が最悪の日になると言っていた。そんなもの絶対信じないから半分馬鹿にしていたのだが、朝一番お茶を入れるとき熱湯を指にかけてやけどをしてしまった。占いが当たったことになる。
 しかし、こんな占いが当てにならないのは小学生だって分かるはずだ。日本中のサソリ座の人が全員、本日はひどい目に会うわけがない。あなたは今日は出かけない方がいい。行けば交通事故に会いますよ、とか仕事でミスをしますよ、とか言うのは、遊びならともかく、馬鹿げている。自分の運命は自分で切り開く、全ては自己責任であるという考えがない人がいるからこうした戯言が生まれるのだろう。それだけ日本社会が自立していない証拠でもある。
 子供の頃、手相を見られて、「生命線が長いからあなたは長生きする」というようなことを言われた人は多いだろう。掌に出来た筋はあなたの運命を暗示しているというわけである。こうした発想は、人間は生まれたときからすでにその全生涯が決められていると言った、ジャン・カルヴァン( Jean Calvin/1509-1564 )並みの「予定説」を前提にしている。自分は生まれた瞬間から、すでに一生の路線が決まっているとすれば、もはやじたばたしても同じである。なるようにしかならないから、好き勝手に生きるしかないだろう。
 このようにして占いはダイナミックに生きている人間を「運命」という訳の分からない路線に従属させ、自分を信じる力を殺いでしまう。他人に何とか自分を助けてもらいたい依存願望の現れであり、弱き人間の逃げ込み場所なのだ。本日が良き日になるか悪しき日になるかは、自分自身で決めたい。「あんたはサソリ座だから今日は運がない」なんて言われたくないのである。
 こんなもので日々の運勢を占われたんじゃ、たまらない。大きなお世話だと言いたいが、どのテレビ局も(さすがにNHKはやっていない。いや、やってないと思うが確信はない)流しているから、占いは視聴者には人気があるのだろう。
 ところで、話は少し飛躍するが、日本では血液型が性格に影響することが、まじめに信じられている。これは日本人だけが信じていることで、外国では言われていないらしい。以前、英会話を習っていたとき、新しい外国人の先生が来る度に「先生の血液型は? 」と聞く女性受講者がいた。そのつど、講師の外国人はキョトンとした顔をして、何故そんなことを聞くのかとこちらに聞き返す。自分の国(ほとんどはアメリカ人だった)では、血液型が性格と関係するなど聞いたことがないと言うのだ。
 血液型が性格に関係することを信じる人はいまだに多い。しかし、これも星座や手相、氏名の字画占いなどと同じたぐいで、人間の弱さの表れではないだろうか。試しに、グーグルで「占い」というキーワードで検索したら、西洋占星術、星座占い、東洋占星術、易占い、姓名判断、四柱推命などなど、出るわ出るわ、よくぞここまでというくらい占いがのっていた。当てにならない物を信じている人たちが、こんなにいるとは思いもしなかった。これでは日本はやはり滅びるな。
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人間という奴は相変わらず馬鹿ばかりだな。ワシみたいに死んでしまえば、運命なんて下らないことは考えないものだよ。ま、しっかり生きたたまえ。この石像はそう言っているように見える。下のラテン語は何を書いてあるのかチンプンカンプンだが、この人物の顔付きからすると、マジでそんなたぐいのことが書いてあるのかもしれない (#^_^#)
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by weltgeist | 2008-09-25 21:52

速読と立ち読み (No.215 08/09/24)

 先日所用で新宿に行った折り、紀伊国屋書店をのぞいて見た。しかし、ものすごい出版点数があるにもかかわらず買いたい本があまりなかった。前(No.176)にも書いたように相変わらず駄本が多い。欲しい本は我が町の図書館にもありそうなので、紀伊国屋では新書2冊を例の「速読立ち読み」でほぼ完璧に読み切り、本は一冊も買わずに帰った。1時間半で2冊、本棚の前で立ち読みは結構疲れるが、これで少し節約した気分になれるから嬉しい。
 実は、小生の特技は立ち読みである。学生の頃トルストイの「戦争と平和」を本屋の立ち読みで完読したことがあるのだ。岩波文庫で多分8冊くらいになった大長編だから、普通に読んでもたいへんな長さである。それを立ち読みで最後まで読んだのである。こんな馬鹿な事をする人間はいないだろうから、ギネスブックに申告しようかとも考えたが、それをイギリス人に証明する方法がないことに気づき諦めた。しかし、以来、自信がついて相当大きな本でも立ち読みにトライする癖がついている。
 立ち読みの特技に速読の技術を加えたら鬼に金棒。自分にとって本屋は立ち読みか、知られていない出版物の情報収集の場でしかなくなってしまった。本屋さんには気の毒だが、最近は本当に下らない本が多すぎるから、余計立ち読みする機会が増えている。「良書より下らない本が売れるからそれを置く」と言う本屋さんの悩みは分かる。しかし、下らない本が一番売れるということは、日本のレベルはその程度だということである。情けないけど、本当に欲しい本が新刊専門の本屋になく、長い年月を掛けて生き残った本だけを扱う古本屋に集まるのは皮肉である。
 かって本屋は知的好奇心を満たす重要な拠点であった。自分の生き方に大きな影響を与える良書を買い求める大切な場所だったのだ。それが、見てくれやタイトルだけで売り込もうとする無内容な本ばかり売っている。そんな本は店頭で立ち読みするだけで十分である。立ち読みされたくなければ、内容のある本を作れと言いたい。
 読者に媚びるような本をいくら読んでも自分のためにならないと思うのだが、後から後から雨後の竹の子のように本の洪水が襲ってくる。そんな時は前に紹介したショーペンハウアー先生の毒舌本「読書について」の言葉をまたとりあげたくなる。
悪書の数には限りがなく、雑草のように文学の世界に生い茂っている。雑草は麦の成分を奪い、麦を枯らす。すなわち、悪書は、読者の金と時間と注意力を奪い取るのである」(アルトゥール・ショーペンハウアー、読書について、岩波文庫 P132)
 現代人は本を読まなくなったというが、ショーペンハウアーの言に従えば、悪書が多すぎるからかもしれない。代わりに現代人は何を読んでいるかというと、携帯電話だ。電車の中にいる人を見るといい。ものすごく沢山の人が携帯の画面を見ている。メールなのか、それともWEBなのか分からないが、とにかくここまで夢中になる人が多いのは、日本だけだろう。いや、韓国も似ている。しかし、欧州へ行っても米国へ行っても、これほど携帯に没頭している人などいない。日本は異常である。
 連絡ツールとしてメールを使うのは当然だが、己の空しい時間を少しでもつぶすためにやっている気がしてならない。一度、こうした人から一時的に携帯を取り上げたらどうだろうか。携帯こそ命と思いこんでいるから、それが無くなれば、不安に感じてたまらなくなるだろう。
 最近、日本亡国論をまじめに考えるようになったが、こうした携帯依存も日本が滅びる一要因かもしれない。とにかく、日本は成熟しすぎた。しすぎても内容がついていってないから、余計携帯や下らない本しか読まなくなるのだ。そんな人こそ本を早く読む訓練をし、良い本を見つけたらそれをじっくり読んでもらいたいと思うのだ。
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今日は朝から気持ちのいい晴れ間が続いた。湿気も少なく、散歩には絶好の日和。写真は我が家の前の森を今日撮ったものだが、少し色づいた木々の感じがヨーロッパのどこかの公園と言っても分からないくらいいい雰囲気をしていた。
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by weltgeist | 2008-09-24 21:02

土地余りが、都市の崩壊を招く (No.214 08/09/23)

 東京の土地の値段が横ばいになった。土地は限られたものだから、欲しい人が沢山いれば値上がりするし、欲しい人がなくなれば価格は下がる。そんな当たり前のことが、バブル華やかな頃は通じなかった。それが、バブル崩壊でようやくまともになりつつあるようだ。7月1日の国土交通省地価調査によれば、昨年度に比べて全国の商業地で-0.8%、住宅地で-1.2%下落したという。土地の値段は適正な価格に近づいているようだ。
 以前から小生は今住んでいる一戸建ての家を処分して交通便利な都内のマンションに移ろうかな、という漠然とした思いを持っていた。我が家は築25年の古家になり、今の状況に合わせて快適に住むには色々手直ししなければならない。それならこの機会にいっそ、新築マンションでも買った方がいいかなと思ったのだ。それで、実はこの春、少しマンションを見て回った。だが、値段を調べたら4千万円から8千万円ほどの間で、まだまだ高すぎて、結局断念した。
 築25年の古家でしばらく我慢して、いよいよ住めなくなったときにもう一度考え直そうと覚悟を決めたのだ。ところが、見学に行ったマンション業者がいまだに勧誘のDMを送ってくる。最初強気の値段設定で全戸完売を目指したが、売れていないから、売れ残りの部屋を値下げして、「どうですか」と聞いてくるのだ。マンションも含めて不動産が売れていないのである。
 バブル崩壊後も都内の一部地価は上昇していた。外資が盛んに安くなった土地を買いあさっていたからだ。それが米国の金融不安で外資が引き上げ、潮目が変わってきたようだ。土地が上がるのは需要が供給を上回っているからで、需要がなければ、あるいは供給が増えれば値段は下がらざるを得ない。昔の家は二階建てが普通だった。今は高層マンション花盛りで、同じ広さの土地が何階も上まで使えるようになり、土地が余り始めてきたのである。高層化が供給量を増やしているのだ。
 それと住宅はかなり行き渡ったとも言える。2003年度の全国持ち家比率は63.1%である。すでに半分以上は潜在的な需要増を担う人ではないのだ。しかも、彼らの子供は将来それを遺産として引き継ぐだろうから、家を必要とする人はさらに減っていく。人口増も頭打ちになって、需要は益々減っていくのだ。人が住めない原野並みとまで行かなくとも、まだまだ土地は下がる可能性を秘めていると思う。
 オフィースビルにしても今のペースで造り続けて、借りる会社がそんなに沢山出てくるのか疑問だ。新しい超高層ビルが出来る度に話題になるが、次の新しいビルが出来ると、移り気なお客は大挙してそちらに転居していく。後には借り手がいない空き部屋だらけの築浅超高層ビルが残る。マンションも同じように人ごとではなくなってきている。
 「西洋の没落」を書いたドイツの歴史学者、オスバルト・シュペングラーは、こうして文明は衰退化し、最後は住む人もまばらな巨大都市が空洞化して、死滅すると予言した。小生が生きているうちはそんなことはないだろうが、ニョキニョキと建てられ続ける建築物は、将来の廃墟予備軍を造りだしているように見える。人がいなくなってもコンクリートの建物は簡単には壊せない。シュペングラーの予言通り、空き部屋ばかりの建物が一杯ある東京が、出現するかもしれないのである。
 実際、この現象は越後湯沢にある沢山のリゾートマンション群ですでに起こっている。買い主が住むためでなく、値上がり益を狙った投資で買ったものが、バブル崩壊で値崩れしたのだ。現在、湯沢駅近くで百万円以下の投げ売りマンションが沢山あるが、それでも売れないと言う。同じことがオフィースビルでも起こりつつある。いずれはマンションもそうなるのではないかという不安があるのだ。
 現在の価格では都内の新築マンションを小生が買うことは難しい。しかし、もうしばらく待てば、値段が下がった安い物件が出てくると思う。でも、それを購入しても湯沢のマンションのように、最後は二束三文まで下がる可能性がある。それなら、いっそ田舎の安い一軒家を買って、近くの川で釣りをしたり、飛んでくる蝶を眺めながらのんびり暮らす方がいいのではないかとも、最近は思い始めている。
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この子達が大きくなったとき、東京はどうなっているだろうか。恐らく人口が少ないからどこも空いていて、各種インフラの恩恵を十分受けられるだろう。道路の渋滞など皆無で、スイスイ走れる。その代わり、前の年金世代の面倒を見る負担は想像を絶するくらい重くなると思う。
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by weltgeist | 2008-09-23 23:53

麻生自民党総裁誕生について (No.213 08/09/22)

 今日のトップニュースは麻生自民党総裁の選出である。総裁になった以上、彼が福田さんに変わる次の首相になるのは間違いない。それで我々国民は、麻生さんがどこまで仕事ができるのかに注目せざるを得ない。おめでたい門出であるから、ここで祝福して送り出すのが礼儀だろう。だが、本当に彼で大丈夫なのか、不安なところがある。前の阿倍、福田さんの二の舞にならないか心配なのだ。
 麻生さんは吉田茂元首相の孫であり、九州の大金持ちのぼんぼんである。彼の経歴を見ると、いつも陽の当たる場所を歩いてきた「幸運児」でもある。貧困、失業、倒産、病気、その他あらゆる悪いことに遭遇しやすい庶民から見れば、本当に育ちのいい幸せな人なのだ。彼の実生活がどのようなものか知らない。優雅そうに見えて、実はこれが虚勢で本当は家庭が火の車かもしれない。しかし、表面的に伝わってくることから判断すれば、彼は下流の底辺で苦しんでいる人とは無縁な超上流の人ではないかと思うのだ。
 一昔前まで日本人は一億総中流と言われ、少し浮かれていた。それがいつの間にか所得格差が拡大し、下流へ落ちて行く人が増大している。庶民の生活は苦しくなる一方だ。そんな泥沼のような場所でもがいている人の苦しみを彼は分かってくれるのだろうか。上流階級の気持ちは分かっても下流人間の気持ちは理解出来ないのではないかと危惧しているのである。
 負け惜しみかも知れないが、人間はそうした苦しいことがあるから人生の深みも知ることが出来ると自分は考えている。だから、麻生さんのように家柄が良く、お金があり、若いときから順風満帆で過ごしてこれた人生を羨ましくは感じても、自分も同じようになりたいとは思わない。人は挫折によってより豊になっていくと信じているのである。それだからこそ他の人と悩みを共有することができるのだ。
 麻生さんは優秀な政治家ではあるのだろう。しかし、彼が恵まれた環境に育っただけに、庶民のことがどこまで分かるのか心配なのだ。もしかしたら金持ちに優しい政治家にであって、庶民の生活が理解出来ないのではないか、といった不安を感じてしまうのである。
 以前述べたように麻生さんは福田内閣の時「財政出動」に積極的であった。選挙目当ての公明党の誘いに乗って、財源もなく効果のほとんどないバラマキをしようとする人物に、将来を託さなければならないのは心配である。
 バラマキの財源は結局は赤字国債に頼ることになり、国の借金をさらに増す。現在、小生たちがもらっている年金は、それよりずっと以前に行われた大バラマキの結果、財源不足になり、それを理由に削りに削られ、スズメの涙ほどの金額に減らされてしまったものである。それが将来このバラマキでさらに減らされることになる可能性があるのだ。今さえ良ければ後は野となれ山となれ、という小手先のことしか考えられない総理大臣に、麻生さんは絶対なって欲しくないのである。
 新首相がただちに総選挙に打って出るのかどうか、それは麻生さんの胸の内だからまだ分からない。しかし、仮に総選挙で自民党が敗退し、下野することになれば、福島社民党党首が言う「史上最も任期の短い首相」になる可能性さえあるのだ。
 世界情勢も不透明さを増している。そんなとき、日本は何処にいくのだろうか。先が見えないだけに余計心配である。
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本日の夕刊はまだ麻生さんが総裁に決まる前の記事を印刷したものだが、早くも幹事長は細田さんにする、と言ったことが書かれていた。麻生態勢は事実上本日からスタートしたのである。
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by weltgeist | 2008-09-22 22:02

ドングリ、コロコロ (No.212 08/09/21)

 例年だと今頃は残暑が厳しく、暑さに弱い小生はぐったりしているのだが、今年は何故か9月に入って涼しい日が続いている。温暖化で夏は猛暑が続くと予報されていたのに、嬉しい予報違いである。この涼しさで森の木々は心なしか色づいてきて、日増しに季節が秋に移っていく感じだ。
 森の中を歩いていると、道に沢山のドングリが落ちてくるようになった。まだシーズンの初めだからそれほど目立たないが、あと一月もすると、道全部を被うくらい一面にドングリが落ちてくる。子供の頃はこれに竹串を刺して弥次郎兵衛を作って遊んだが、今の子供はそんな言葉を知っているだろうか。
 山の奥に行くとドングリは熊の重要な食料になる。我々が栗を食べるのと同じで、彼らにとってはおいしく、重要な食料なのだ。もちろん、熊だけではない。ネズミ、リスから鳥まで多くの野生動物がその恩恵を被っていることだろう。
 大昔、まだ稲作が起こる前の人類はドングリが重要な食料源だったらしい。人間にとっても大事な食べ物だったのだ。だが、その味となると、ノングルメでイカモノ食いの小生でもご遠慮したくなるものだ。昔何処かで試食した覚えがあるが、渋くてとても食べられたものではなかった。米が取れない食糧難の時代はこのドングリを食べたというが、こんな物まで食べたということはよほどひどい饑饉の時があったのだろう。
 試しに食べた時は内皮まで丁寧に剥いた後、さらに十分煮てアクを取ってから食べた。だが、実本体そのものに渋みがあるらしく、まだ強いアクが残っていた。ところが、最近はドングリ餅なんてものにお目に掛かることがある。どうやら渋みを取るいい方法があるのだろう。また、お隣の韓国では今でもドングリを沢山食べている。ドトリと言って、餅やみそ汁の中に入れて食べるが、渋みは全くなく、中々おいしい。韓国でも饑饉の時食べたのが伝統料理として残って、今に至っているらしい。どの食堂に行っても普通にあるから、上手な渋抜きと料理法があるのだろう。
 秋の木の実でおいしい筆頭はギンナンだ。銀杏の街路樹に黄色い色をした実を付け、それが強い風が吹いた後など地面に沢山落ちくる。これを拾って皮を剥けば、あの茶碗蒸しでお馴染みのギンナンになる。小生、ギンナンが好きで昔から秋になるとギンナン採りに行ったものである。だが、今ではギンナンを家に持ち込むことは御法度となっている。
 理由は、結婚してしばらくしたある秋のこと、台風が通り過ぎた家の前の道路に沢山のギンナンが落ちていた。これをを拾って、奥さんと一緒に皮むきをしたところ、彼女がかぶれてしまったのだ。鉄面皮で何を付けてもかぶれることのない小生と違って、繊細な女性の肌はギンナンが持つ何らかの物質でアレルギー反応を起こしたらしい。以来、いくら道に沢山のギンナンが落ちていても、我が家に持ち込む事は出来ない。残念ながら手軽に楽しめる秋のギンナン拾いは諦めざるを得ないのである。
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商品撮影では強い影を入れることは避けるのが普通だが、今回はわざと強めの影を入れて撮ってみた。しかし、森で拾ったときはどれも落ちたばかりの青々しい物と思っていたのに、写真に撮ると意外に汚い汚れがあるものなのだ、とこの時点で気づいた。
撮影データ=カメラ・D300、レンズ・AF-S Micro NIKKOR 60mm F2.8G。F/7.1、1/60秒、ISO400、ストロボ1灯発光。

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by weltgeist | 2008-09-21 23:00