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水は高い所から低い所に流れる (No.193 08/08/31)

 数日前からの大雨で自宅が水浸しになった人はお気の毒だ。何しろ、1時間に140㎜もの雨が降ったんじゃ、滝の下にずっといるようなもので、まともでいられるわけがない。しかし、水は高い所から低い所に流れ、低い所の家々を直撃する。大雨でも町全部が水没するわけではない。高台の家は安全なのだ。低い土地に家を建てた人が高台の雨まで一手に引き受けて、ひどい目に会うことになるのである。
 渓流釣り師である小生は、今の家を買う前にかなりの物件を見たが、まず第一にどんなに小さな川ても、その近くは避けるようにしていた。コンクリートで固められた都会は、降った雨が地中に染みこむことなく、川に集まってあふれ出るからだ。渓流釣り師の目で見ると、普段はおとなしそうな浅い川でも、ひとたび牙をむくととんでもない暴れ川に変身することが見えてくるのである。釣り場で何度も大雨にあって、洪水の恐ろしさは身に染みて分かっている。低い土地の家は危ない。なるべく水が下に流れる去る高台で、川から離れている方が安全なのだ。小さなどぶ川でも、場合によっては氾濫が起こりうることを想定すべきだ。
 しかし、最近ではこの原則だけではすまない問題が起こっている。仕事をしていた頃借りた駐車場は川から離れた、何の変哲もない平坦な場所だった。ところが、大雨が降ると周囲から雨水が集まって来て、池のようになってしまう。地形がすり鉢状になっていて水が溜りやすい。これに排水能力が追いつかず、池になってしまうのだ。おかげで小生の車もエンジンが掛からなくなったことがあった。だが、よほどの大雨でない限り、車は水が引くまで動かさなければ被害はほとんどない。気の毒なのはその回りにあった家だ。年間3~4回は床下浸水の被害にあっていた。恐らくこの家を買った人は、こんな事態が起こるとは夢にも思っていなかったろう。普段は何でもない普通の市街地が、雨が降るととたんに暴れ出す。都会では川がある無しに関わらず、こうした排水が悪い低地も考慮しないと、後で泣きを見ることになりかねないのだ。
 最近の異常気象を見ると、これからはとんでもない規模の大雨が起こる可能性が高くなっていくようだ。普通、川は氾濫しないよう堤防やダムで守られているが、大部分は普通規模の洪水に備えたもので、今回のようなことが起こるとそれらも万全ではない。長いスパンで考えると、時には常識を逸した規模の洪水が襲ってくることがある。それにはお手上げなのだ。そうした大雨が確率的にどのくらいの頻度で起こるか知らないが、被害を被った人が「ここに70年も住んでいるが、今回のようなことは初めてだ」と言っているから、少なくとも70年に一度くらいの大雨だったのだろう。そうしたものがくれば、堤防もダムも無力で、家は水没を免れないのである。
 話は少し横道にそれるが、淡水魚はどのようにしてその生息域を拡げていくかご存じだろうか。いくつかの要因があるが、一番大きいのは洪水である。それも途方もない洪水が何万年、何百万年に一度の割合で起こるのだ。ヨーロッパの淡水魚がアジアに進出して行くとき、彼らはウラル山脈を越えるほどの洪水に乗って生息域を拡大させたと言われているのである。ノアの箱船伝説で語られるような、信じられない規模の大洪水が長い間には起こりうるのだ。
 かって、台湾で揚子江の淡水魚が獲れたことがある。これは揚子江の洪水の水が台湾まで流れたからだと聞かされて、小生は思わず「嘘だ」と叫んだほどである。このような巨大な洪水の可能性は否定できない。東京の東半分を守っている荒川の土手も、巨大な洪水がくれば、決壊して都内東部の広い地域が水没すると言われている。以前は江東ゼロメートル地帯などと言って、皆は警戒心を失わなかった。最近、そんな言葉も聞かれなくなっているが、本当に大丈夫なのか心配である。
 アメリカでは、大きな被害を出したカトリーナ以上に巨大なハリケーン、グスタフが米国本土に刻々と近づいていて、同じような悪夢がまた起こりそうである。日本とて、それはいつ起こって不思議はないのだ。
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雨の日は外に出ることもおっくうになる。しかし、こんな時、庭の南天の葉を見たら、雨粒が丸くなって輝いているが見えた。雨もこの程度だとかわいいのだが、降りすぎるのは困りものである。
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by weltgeist | 2008-08-31 23:36

この道はいつか来た道 (No.192 08/08/30)

 日本経済に黄色信号がともり始めている。実感はなかったが、いままで景気は上向いていて、良かったのだそうだ。「好景気」の長さは戦後最長だったという。一体どこが景気が良かったのか、苦しいことばかり続いた我が家には、ついにその実感がないまま「不景気」に移行しそうである。不幸なことに好景気の実感は最後までなかったのに、不景気はひしひしと感じることが出来るのだ。
 どんどん悪くなる景気に、危機感を募らせる政府・与党は昨日「安心実現のための総合対策に関する会議」開き、緊急経済対策を発表した。生活不安を抱える人たち、中低所得層を対象に所得税などの一定額を軽減する定額減税を2008年度中に単年度の措置として実施し、高速道路料金の引き下げや中小企業向け信用保証制度の拡充による資金繰り支援なども盛り込んでいる。
 だが、その実体は民主党の鳩山幹事長が言うように「国民の歓心を買うために打ち出してきた選挙対策にすぎない」のではないだろうか。自公は見え見えの選挙対策として、「バラマキ」をやり出したとしか思えない。しかし、民主党でも昨年の参院選公約で、子ども手当の創設や農業者の戸別所得補償などの政策を発表しており、与党から「バラマキ」と批判されていた。どちらも同じ穴のムジナという感は否めないのだ。
 我々庶民は減税や様々な優遇策が本当に効果のあるものなら歓迎だし、嬉しい。税金が減ってくれば、生活も少しは楽になるだろう。しかし、過去に繰り返された景気対策を思い出してみると、いずれも一時的なカンフル注射に過ぎず、効果はほとんど無かったと言える。むしろその後に来る悪影響の方が問題となった。膨大な財政赤字だけが残ったのである。
 98年、大銀行が破綻の危機にあるとき、小渕内閣は公共事業中心の経済対策を赤字国債の発行でまかなった。これに個人所得税、法人税の減税までくっつけた大バラマキ刺激策をやったのだ。我々は確かにこの経済対策で恩恵も受けた。しかし、それで景気が上向いたかというと、首を傾げざるを得ない。むしろ、国と地方の借金を増やし、政府はその後自由な対策も打ち出せないようになったではないか。これが、結果としてどれだけ日本の景気の足を引っ張ったか。また、我々は膨大な借金のツケとして、様々な福祉予算を削りに削らされて今に至っているのだ。
 福田首相は「財政規律を堅持し、赤字国債の発行は行わない」と言うが、公明党の押した定額減税の財源はどこから持ってくるのだろうか。恐らくは国民が忘れた頃に赤字国債を発行してくると想像される。小泉内閣以降、財政再建路線を堅持してきた自民公明連立政権が再び借金を作る道に歩み出ようとしているのである。この帰結は我々の後の世代に大きな負担を負わせることになるだろう。
 リアルタイム財政赤字カウンタというものがある。国の借金がどのくらいあるか、刻々と計算するサイトだ。
http://ueno.cool.ne.jp/gakuten/network/fin.html
これによれば、今日現在の日本全体の長期債務残高総額は1223兆円。赤ん坊まで含めた国民一人当たりに換算すると借金額は978万円にもなるという。途方もなく恐ろしい額である。しかし、これをまだ増そうとしているのだ。すでに破綻状態にあるから、もう少し借金を重ねてもたいしたことはない、そう思っているのだろうか。
 今朝、元鳥取県知事の片山善博氏が「今回の景気対策はバラマキ(Baramaki)ではなく、パラマキ(Paramaki)だ」とテレビで皮肉っていた。一時的なパラマキで、景気が浮揚するとは思われない。むしろ、その後に来る反動は計り知れないものがある。かりに景気刺激策が必要だと思うなら、その財源は役人たちが享受している無駄な出費を減らすことで得るべきだ。財源も無しにいつまでも赤字を出す政策は無責任である。我々はその財源をどこから持ってくるのか、最後まで注意して見届ける必要がある。
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我が家の木に蝉の抜け殻が残っていた。彼らは長い間土の中で生活し、最後の数日間を地上で過ごす。暗く長い地中生活の残滓が、この虚ろになった抜け殻である。景気対策が選挙に勝つための無責任なバラマキで終わるとすれば、日本はこの抜け殻と同じような中身のない虚ろなものになって、後世の人ほど借金の重圧に苦しむことになるだろう。
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by weltgeist | 2008-08-30 22:36

ソロー、森の生活 (No.191 08/08/29)

 昨日、森の人、デルスウ・ウザーラについて書いたから、今日はもう一人の森の人について書こう。アメリカの森人、ヘンリー・デービット・ソロー(Henry David Thoreau/1817-1862) のことだ。ボストン近郊のウオールデンと呼ばれる池のほとりに小さな小屋を建て、そこで自給自足の生活をしたときのことを「 Walden,or Life in the woods 」( 1854 )という本にまとめた人物である。
 この本は日本では普通「森の生活」という題で翻訳され、主にアウトドアー関係の人たちに一種のバイブル的存在として読まれている。というより、アウトドアー関係者の間では、著者ソローは、聖人化されていると言っていい。彼の名前は、その著作以上に一人歩きし、時には誤解されたりしている。彼の本を読んだこともないアウトドアーマンが、森の中で暮らす隠遁生活者を神格化の対象に祭り上げている気がするのだ。
 ソローの「森の生活」は、正直、かなり取っつきにくい本で、多くのアウトドアーマンが本当にこの本を読んでいるのか、少し首を傾げたくなる。彼の妥協を嫌う厳しい性格が、独特の難しい(分かる奴だけが読めばいいという)文章となり、とても読みにくい本なのだ。小生も我慢に我慢を重ねてようやく読み切ったくらいで、前日のアルセーニエフの「シベリアの密林を行く」のようなワクワク観を少しも感じさせない本であった。こんな読みにくい本を最後まで読み切った人が、それほど多いとも思えないのだ。本も読まずに「アウトドアーの聖人=ソロー」という単純なパターン化をして、有り難がっている人間が多い気がする。
 それはさておき、ソローはハーバード大学卒業後、ほとんど仕事らしいことをせず一生を終えている。いわば、現代のフリーターの先駆者のような人で、彼が何から生活費を得ていたのかははっきり分からない。まともな職業は教師を2週間やっただけで、あとは日雇いみたいなことで過ごしていたようだ。彼は仕事についてこう書いている。
 「どうして我々はこうもせわしく人生のむだづかいをして生きなければならないのか。我々は空腹にならない前に飢え死にすることに心を悩ませている。・・仕事仕事というが、我々は大切な仕事なんかしていない。我々は舞踏病にかかっているので、頭をしずかにしておくことができないのだ」と。
 人間は働くより先にもっとやることがあるだろう。明日の糧をどうしようか悩み、あくせくすることで、結局は貴重な人生を無駄な時間で浪費すると言うのである。しかし、働かなければ人間明日どころか、今日の飯も食えない。餓死するしかないだろう。ソローはそこで、人間は最低限の物さえあれば十分、質素な食事と生活だけで充足することを提唱する。その代わりに得た時間は、古典や様々な学問の研究に費やし、思索に明け暮れることで、人生を豊にするのである。その場所として、ウオールデン池の畔に小さな小屋を建て、自給自足の隠遁生活を始めたのである。
 「私が森に行ったわけは、私が慎重に生きようと欲し、人生の根本的な事実に対面したいと思ったからだ。生きるために重要なことだけに目を向けて、私がいよいよ死ぬ時になっても、自分は本当に生きてはいなかった、などと言わないためである。・・私は真の人生とは言えないような人生を送りたいとは思わないからだ」という。
 そして、ソローは森の中で、一人で思索にふけりながら自給自足で暮らす。だが、それは寂しいことではない。「私は大部分の時を孤独で過ごすのが健全だということを知っている。最も良い人でも一緒にいるとやがて退屈になり、散漫になるからだ。」しかし、そんな孤独な生活でも「私は家の中に沢山の仲間を持っている。・・声高に笑うカイツブリ、あるいはウオールデン池。この池はその紺碧の水の色のうちに、青い憂鬱魔でなく、青衣の天使を持っているのだ
 何とも分かりにくい言葉だが、こうして彼は森の中で独特の思索を続けながら、ギリシャ古典から経済、読書まで幅広い事を独白調に述べる。しかし、これらが小生には一貫性のない独善的なもので、あまり納得できる主張と感じられなかった。むしろ思索してこの程度のことしか考えられなかったのか、という失望感の方が強かった。もちろん、彼が提唱したロハス的な考え方、できるだけ質素な暮らしで足るを知ること、そのことが自己を充実させ、環境へのインパクトも抑えることにもつながるという思想は小生も大賛成だし、まさに同じ考え方である。だが、何か、ソローの生き方には中途半端な感じが常につきまとうのだ。
 自然や環境に対する気持ちでは大いに納得し、共感できるものはあるが、彼が積極的に社会に出る代わりに森に隠遁したと言う点で、今のニートと同じスネかじりの甘えた面が見え隠れする気がする。だから、森の生活もわずか2年2ヶ月でお終いにしているのだろう。やるなら、死ぬまで徹底して欲しかったと思う。もし、これが昨日書いた真の森人デルスウだったら、「カピタン、わし、こんなぜいたくな、小屋、いらない。わし、森で、死ぬまで、テント、暮らす」と言ったろう。
 所詮は文明国アメリカの、満ち足りた豊かな物質文化があり、いつでもここに戻れるという甘さが垣間見れるのである。ソローの隠遁生活は、むしろ、そうした豊かな生活があることへのアンチテーゼである。他の人が「自分の貴重な人生をすり減らして生み出した物」を頂くことで初めて可能だったのだ。その点で、裕福な親にパラサイトする一部ニートと近い気がするのである。
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by weltgeist | 2008-08-29 22:19

デルスウ・ウザーラ (No.190 08/08/28)

d0151247_21452436.jpg 子供の頃、自分は偉大な探検家の話を読むのが大好きだった。未だ文明の光が届いていない未開の地に、勇気と冒険心で飛び込んでいく探検家に憧れたのである。スウェン・ヘディンの「 西蔵探検記」(改造社/1939年、戦後新訳は「中央アジア探検記」筑摩書房/1966)で書かれた西域(今の新疆ウイグル自治区)にある「さまよえる湖、ロブ・ノール、楼蘭」に心をときめかせ、ベーリングがアラスカを見つけた「ベ-リングの大探検」( ワクセル著/石崎書店/1955)を穴の開くほど熱心に読んでいた。そして、大人になったらこうした未開の地へ探検に行き、この目で原始から変わらぬ大自然の世界に分け入りたいと思っていたのである。
 これらの探検記の影響で子供の頃から町にいるより自然の中にいる方が好きになった小生は、まず野に飛ぶ蝶へ関心がつながっていった。そして、その後、もっと過酷な自然の中に入りたいからと登山から岩登りに熱中し、さらには源流のイワナ釣りへのめり込んで行く。結局、探検家にはなれなかったが、子供の頃読んだ多くの探検記が、小生の自然に対する接し方の中核を形作り、今に至るまで常に自然と関わりを持った人生を歩んで来たと言える。
 沢山読んだ探検記の中で、とくに強い印象を残しているのは、ロシアの探検家、ウラジミール・アルセーニエフ(右の写真)が書いた「シベリアの密林を行く」だ。アルセーニエフはロシア、ウスリー地方の正確な地図作製のためにシホテ・アリン山脈から沿海州にかけて人跡未踏だったタイガに足を踏み入れ、測量をして歩いた。その時の経験を書きつづったものがこの「シベリアの密林を行く」である。この中で彼は一人の有能な現地人猟師と出会い、彼をガイドとして雇う。彼の名前はデルスウ・ウザーラ。40歳代以上の方ならこの名前を何処かで聞いたことがあるはずだ。
 黒澤明監督がソ連との合作で造った映画「デルス・ウザーラ」(1975。黒澤映画ではデルスウではなくデルス)がそれだ。黒澤監督はアルセーニエフの探検記の一部、「デルスウ・ウザーラ」をベースに日ソ合作映画を作ったのである。小生、アルセーニエフの原作からこの映画をたいへん期待して見たのだが、映画の方は巨匠・黒澤の表現方法があまりに高度すぎて、何か訳の分からない暗~い映画という印象しか残っていない。
 しかし、アルセーニエフが探検記の中で語るデルスウ・ウザーラは自然そのものの生き方をする野生人として、生き生きと描かれている。森深いタイガの密林から熊のように現れた異様な風体のゴリド人猟師に驚いたアルセーニエフは「どこに住んでいるか」と尋ねる。すると男は「わし、家ない。いつも山、住む。火、おこし、テント張り、眠る。いつも猟、行く、家住む、同じ」と答える。これがデルスウとの最初の出会いであった。
 アルセーニエフはこの奇妙な猟師をガイドに雇うのだが、デルスウはまさに森の人であり、森に起こるあらゆる事を、わずかな自然の変化から読み取って、アルセーニエフに教える。そのやり方が枚挙に暇がないほどすごいことの連続なのだ。普通なら絶対分からない不鮮明な動物の足跡から、どのくらい前にどのような動物が歩き、いまどのあたりにいるかを一発で指摘し、倒れた木に刻まれた斧の跡から、「春切った。二人の人はたらいた。一人、背、たかい、この人、斧、にぶい。別な人、背、低い。この人の斧、よく切れる」といったことまですぐさま読み取る。そして、空を飛ぶ鳥の様子から「カピタン、雨、すぐくる。とり、ひくい、飛んでいる」と言って、天候悪化まで素早く予測するのである。
 圧巻はタイガの中で虎が彼らを狙って後から付いてくる時だ。デルスウは虎の足跡を見つけてこう言う。「見なさい、カピタン。これ、アンバ(虎)だ。彼、わしらのあと、つける。足あと、まったく、新しい。ここに、今いた」と言い、虎が探検隊を狙って付いてくることを知らせる。そして、虎が接近してくると、デルスウは林の方に向かって「よし、よし、アンバ、怒るな。ここはお前の場所、わしら、それ、知らなかった。わしら、いま、別の場所ゆく。怒るな」と大声で話しかけるのだ。
 ゴリド人にとって虎は神聖なものであり、決して銃を向けてはならない動物であった。だからアルセーニエフにこう言う。「わしらの仲間、けっして、虎、うたぬ。カピタン、よくこれ聞け。虎をうつ、わしの友人、ない」と。
 このような自然の出来事をそのわずかな痕跡から驚くべき精度で読み取り、毎日のようにアルセーエフに教えてくれた探検の仕事も一区切りつく。アルセーニエフは仕事を終えてウラジオストックに戻らなければならない。何度もデルスウの機転で命を助けられたアルセーニエフは、このとき森の人、デルスウと別れるのがつらく、森で生活するのを止めてウラジオストックへ来るよう勧める。するとデルスウはこう答える。
 「ありがとう、カピタン。わし、ウラジオストック、行けない。あそこで、わし、なにはたらく。猟に行く、ない。クロテン獲り、これもない。町に住む、わし、すぐ、死ぬ」
 森の人、デルスウ・ウザーラは、自然人そのものであり、森と一体化して生活していた。黒澤明監督がアルセーニエフの探検記を読んで、「デルス・ウザーラ」を映画化したくなったように、小生もこの探検記を読んで、デルスウと同じように自然の中での生活に憧れたのだ。デルスウこそ今で言うところの本物のアウトドアーマンだったのである。d0151247_21462913.jpg
 日本から欧州に向かう航空路で成田を飛び立ち2時間もするとデルスウとアルセーニエフが歩いた沿海州からウスリー地方上空を通過する。ほんのわずかな時間でこの地域を飛んでしまうが、小生、欧州に行く度に、この上空でデルスウのことを思い出してしまうのである。

右上写真がアルセーニエフ。左の写真は1907年、アマグウにおける探検隊一行。右端がアルセーニエフ、左端がデルスウ。(筑摩書房、世界ノンフィクション全集1より)

*昨日は舌の出血で、途中ダウンしてしまったが、本日、医師のの診断で何とか、痛みも止まり、今は元気になりました。ご心配かけました。
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by weltgeist | 2008-08-28 21:48

不意の事故 (No.189 08/08/27)

 昼の食事の時、不覚にも自分の歯で舌を噛んでしまった。それもかなり強く。こうしたことは以前にも何度かやっているから、あまり気にしていなかったら、その後出血がひどく、口の中が血だらけになり、舌から口、喉にかけて猛烈に痛くなってきた。どうやら噛んだ傷から細菌が入ったのかもしれない。とりあえず、自宅に残っていた抗生剤と痛み止めを飲んで様子をみているが、さらに悪化するようなら、急患扱いで病院で診てもらうかもしれない。
 そんな訳で、今日はブログを書き続ける元気がない。と言って毎日更新を心掛けているものを中断したくはない。だから、舌を痛める前の今朝撮った蝶の写真を掲載するだけにし、これから身体を休めるつもりだ。明日はアユ釣りに行こうと思っていたのだが、残念ながらこのままでは行けそうもない。神様は休めと命令しているのかも知れない。仕方がないから諦めてもう寝ます。鬼の攪乱かな  (^^ゞ 
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3日も連続して雨だったため、蝶たちもお腹がすいていたのだろう。今朝の森には沢山の蝶が飛んでいた。写真はコミスジ。空中をピッ、ピッと背筋を伸ばすような独特の格好で飛ぶところがかわいらしい。
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by weltgeist | 2008-08-27 19:53

ニセモノ、フェイクについて (No.188 08/08/26)

d0151247_23102677.jpg 安物買いの銭失い、昔から言われる言葉だが、ついにやられてしまった。実は先日、はやりの百円ショップで「単4アルカリ電池4本入り百円」という品物を買ったら、これがニセモノで、わずか一週間使っただけで電池が無くなってしまったのだ。外枠だけアルカリ乾電池と印刷してあるが、中身はでたらめな粗悪品であった。安さに目がくらんだ小生は「アルカリ乾電池」と印刷してあることに、何の疑問も持たずに買ってしまったのである。
 こうしたニセモノは古今東西を問わず、いつの世にもあらゆる分野に現れる。ニセモノは本物が苦心して築き上げた付加価値を、模倣や剽窃、誤魔化すことで労せず利益を得ることができるからだ。その最高の形態は芸術作品贋作だろう。テレビでお馴染みの鑑定団では毎週のようにニセモノが登場する。それは安物から最高級の芸術作品までどんな所にもニセモノが入り込んでいることの証である。レンブラントの作品として今世界中に散らばっている物の半数はニセモノと言われているし、ある金持ちが百億円以上出して買ったゴッホの作品でさえ、ニセモノではないかとささやかれている時代である。
 ニセモノとは何かを考えていく上で面白い話がある。第二次大戦が終わった時、一人のオランダ人がナチにフェルメールの作品を売ったとして逮捕された。彼はゲシュタポ(ナチ秘密警察)の親玉、ヘルマン・ゲーリングに国宝級と言われるフェルメールの絵を売却した売国奴として捕まったのである。ところが、逮捕された男、ハン・ファン・メーヘレン(Han van Meegeren/1889-1947)は裁判の過程で驚くべきことを告白する。ゲーリングに売ったフェルメールは実は自分が描いたニセモノだと言うのだ。
 メーヘレンは科学鑑定されてもバレないように、17世紀の駄作の絵を塗りつぶして下地のキャンバスを作り、フェルメールと同時代の絵の具で、まさにフェルメールのタッチで9点もの贋作を描いていたと自白したのだ。キャンバスや絵の具は17世紀の物を使っているから科学鑑定でも分からない。オランダの有名なフェルメール専門家でさえ「未発見のフェルメールの真作」と絶賛した物を、逮捕されたらニセモノだと言い出したのである。
 そして、彼が罪を逃れるための嘘ではないことを証明するために、実際に裁判官たちの前で贋作を描いて見せる。これがフェルメールが描いた「本物」と言っても誰も分からぬほどの出来で、自分が優れた贋作者であることを示したのだ。その後、メーヘレンは贋作の罪を問われたとはいえ、ナチをも騙したことで売国奴から英雄に立場を逆転させたのである。
 こうなると、ニセモノと本物の区別もたいへん難しく、一筋縄ではいかないことが分かるだろう。ここにニセモノが入り込む余地があるのだ。以前、欧州の有名オークション会社が香港で中国古典陶磁器のオークションを開催するというので、冷やかし半分で行ったことがある。カタログでのエスティメイト(予想落札価格)は日本円に換算して500万円から2000万円くらいの高級な物ばかり出品されていた。ところが、出品されている数百年前の陶磁器をプレビューで見て、自分の本物観がまるで違っていることを思い知らされたのである。
 我々の常識的判断では、数百年も経た陶磁器ならそれなりに使われた跡がある古びた物と思うだろう。ところが、出品されている物はいずれもまさに窯から焼き上がってきたばかりの新しさで、全然時代的経過を感じさせない物だったのである。所有者は恐らく頑丈な箱などに入れて、大切に保管してきたから見た感じはまるっきり新品そのものなのだ。
 香港、ハリウッドロードにある骨董品街を歩いた人ならご存じと思うが、この街には偽の唐三彩がゴロゴロある。街を歩けば、すぐ「旦那、偽ローレックスあるよ」と声を掛けてくる所である。そんないかさま師がゴロゴロいる街で、名のあるオークション会社が高額な商品を競りに掛けるのだ。買う方だって真剣だからニセモノであるはずがない。古く見えなくても本物に間違いはないのである。
 事実、プレビューで下見していた人たちはルーペで陶器の隅々まで隈無く調べていた。そして、翌日開かれたオークションで1000万円近いお金でピカピカ新品の「数百年を経過した骨董品」を落札していたのである。小生、真の本物とはこのような物なのだと知って、自分の常識にとらわれた「本物観」を改めざるを得ないと、このとき思ったのである。
 こうなると、我々素人ではどれが本物で、どれが偽なのかということは、さっぱり分からなくなる。フェルメール鑑定の専門家さえ騙される時代である。ただ、小生、騙されたとはいえ、今回の被害はわずか百円である。何百万、何千万、何億円もつぎ込んでいながら自分がニセモノを掴まされたたことを知らない人が、世の中には無数にいるのだ。そしてこの騙し騙されのイタチごっこは永遠に続くのである。
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by weltgeist | 2008-08-26 23:10

英国から来た遠来の客人 (No.187 08/08/25)

 リタイアして生活が一番変わったことは、人と接触する機会が少なくなったことだ。外に出かけず家にいるときなど、妻と話をするだけである。たまに他の人と言葉を交わすとすれば、宅急便のお兄さんくらいで、後はずっと一人ぼっちだ。誰とも口をきかずに半日過ごすなんてことも珍しくない。仕事をしていれば、人との接触は否応なくあるわけだが、仕事の無い人間には他人との接触の機会がこんなに激減するとは思ってもいなかった。幸い、小生は多趣味な人間だから、別に他人と口をきかなくても困ることはないが、やはりこのまま一生を終えたら寂しい気がする。
 そんな我が家に若い人がやって来た。イギリスからケンブリッジ大学の学生であるY. Y. 君が我が家に短期ホームステイで昨日来たのだ。歳は23歳、シンガポールからケンブリッジ大学に留学しているのだそうで、久々に我が家は若い人の声で話しが弾んだ。
 Y. Y. 君はシンガポールのジュニアハイスクールで日本語も学んだということで、多少の日本語も分かる。基本的に会話は英語だが、難しい表現になると、日本語や時には電子辞書まで取り出してお互いの意思の疎通をはかった。こうした他の人と話す、それも外国語で話すということは、衰え始めた脳にはいい刺激を与えるだろう。
 また、Y. Y. 君が教えてくれたケンブリッジ大学の話は自分にはたいへん興味深いことの連続であった。ケンブリッジ大学はロンドンから鉄道で1時間、バスなら3時間の所にあるが、日本の大学のように一つにまとまっているのではなく、31のカレッジが町の中に点在しているのだと言う。ウイッキペディアによればケンブリッジ大学は「世界を代表する名門大学として、2007年度の The Times Higher Education Supplement でハーバード大学に続いて世界ランキング第2位の大学としてランクイン」されたと言う超名門校である。
 しかし、Y. Y. 君によれば、ケンブリッジ大学は非常に休みの多い大学で、年の半分は講義がないらしい。これもウイッキペディアからの又引きだが「10月1日~12月19日をMichaelmas Term、1月5日~3月25日を Lent Term、4月10日~6月18日を Easter Term と呼ばれている。このうち、授業が行われるフル・ターム、( full term ) と呼ばれる期間は、各学期8週間で、学部と一部大学院コースの試験は、5月に一斉に行われる」のだそうだ。つまり、各学期それぞれ8週間X3で年間24週間だけ授業を受ければあとはお休みなのだ。
 日本の大学と違うのは大学を卒業する学士、Bachelor の資格は3年で取れる。そして、彼が学ぶ Engineering course (工学コース)では4年を卒業すると修士、Master の学位が取れるのだと言う。つまり、日本の大学生のように4年通えば、修士号をもらえるらしい。しかし、授業が年の半分しかないのに、進学していくのは難しく、5月に行われる試験に落ちると退学になるらしい。日本のような留年などという制度はないのだ。能力の無い者は去れ、という主義が徹底されている厳しい所でもあるである。
 その他、寮に入っても毎年一年で他の寮に引っ越さなければならない話とか、シンガポールがくれる奨学金の話、イギリスでの生活のことなど、久しぶりに自分の知らない世界について知り、すっかり頭の中がリフレッシュされた。異文化コミュニケーション。これって中々興味深く、自分にもためになることだから、今後も機会があればまた外国からの留学生をホームステイさせてもいいかな、と思った。
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本来ならここで Y. Y. 君の顔写真を出すところだが、プライバシーの関係でウイッキペディアからDLしたケンブリッジ大学キングス・カレッジ・チャペルの写真を掲載することでお許しいただきたい。
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by weltgeist | 2008-08-25 21:31

初秋の花 (No.186 08/08/24)

 今朝の気温は20℃を割っていて、涼しいを通り越して寒いくらいだった。一昨日の旭川の最低温度が1.5℃だったと報じていたから、「エッ、8月に」と言いたくなるような天候の変わり具合である。今年の夏は暑くなると言われていたのに、この涼しさはどうしたことだろうか。つい先日まで地球温暖化のせいで、暑い夏は9月に入っても続く、猛烈な残暑があると予測していたのに、予報は大外れである。
 こうなると、逆に今年の冬は極端に寒くなるかもしれないと思ってしまう。何しろ、最近の気候変動は極端だから、暑いから寒いまで一気に飛んで行ってしまう。そこそこという中庸の部分がないのだ。白か黒かはっきりさせてくれと、天候の方で我々に迫ってきているとも言えよう。だから雨の降り方についても、以前とは違った局地的な豪雨が起こりやすくなるのではないだろうか。
 しかし、正直なところ暑いより涼しい方がいい。暑いのはクーラーがないとしのげないが、寒ければ一枚洋服を余計着ればいいからだ。暑がりの小生には本当に助かる。この涼しさは人間だけでなく、毎日の散歩コースである森でも敏感に感じ取っていて、秋への傾斜を速めている。稲穂が出て収穫の秋は間もなくだ、と書いたのはわずか4日前である。それなのに、もう自然の表情も変わっていた。
 森へ行く途中にある家々の花壇には沢山の花が植えられている。以前からその花を時々写真に撮っていたが、いつの間にか以前と違った花が顔を出していたのである。こんな花もあったのか、とこちらが不思議に思うほどに自然はめまぐるしく変わっている。この動きは何万年、いや何百万年と変わらな続いてきたのだろう。今日は、新しく目についた初秋の花をランダムに掲載してみました。
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by weltgeist | 2008-08-24 20:45

我が家に食洗機が無い理由 (No.185 08/08/23)

 最近は多くの家庭に普及しつつある食洗機が我が家にはない。これは将来に渡っても持つつもりはない。食器を洗うとき洗剤を使わないように、手洗いしているからだ。お湯で食器を洗った後、それを布巾で拭き取るだけ、ということをもう10年以上続けている。川の環境汚染が洗剤によって加速され、海に流れ出た後では赤潮の原因ともなると教えられてから、洗剤なしに洗える方法として古典的なお湯による手洗いに行き着いたのである。
 お湯で洗うのは妻の役割、拭くのは小生の分担事項になっている。仕事をしていた頃は家事をほとんど手伝ったことがなかったから、最初、この拭く作業をやらされるのがいやだった。しかし、いつしか慣れてしまい、今では何の抵抗感もない。むしろ、下水浄化の一旦を担っているという気持ちがあり、それを誇りにさえ思っている。だから、今は頭を洗うシャンプーも石鹸シャンプーだし、風呂場の洗剤も使わない。我が家から流れ出る水はできるだけクリーンになるよう心掛けているのだ。
 しかし、環境問題は我々が考えるほど単純ではない。洗剤は使わなくともお湯は使う。このお湯はガスの燃焼でもたらされ、その時燃料の消費や炭酸ガスを放出する。また、大きな生ゴミは取り払うとしても、洗い流した脂分などはどうしても下水に流さざるを得ない。シャンプーは使わなくとも石鹸水は流れる。どう転んでも、人間が生活する限り、何らかの歪みを自然に与えることは避けられそうもないのだ。我々の出来ることはそうした悪影響を可能な限り少なくする努力しかないのである。
 最近、こうした環境を少しでも良くしたいという行為が、逆に新たな環境破壊、汚染を生じさせていると指摘する本が出た。これが結構売れているそうで、小生、書店でその本を見た。このたぐいの本を買う気は毛頭ないから、今特訓中の「速読」で立ち読みした。しかし、読んでいるうちに、この著者は何を目的にこの本を書いたのか疑問が生じてしまった。「お前達はペットボトルを再処理するのにどのくらい電力を使うか知っているのか」と言ったたぐいの告発本で、要するにどんな環境保護、資源再利用をしても、多かれ少なかれそれによる新たな資源浪費、汚染が発生すると言いたいようだ。
 確かに、著者が指摘するように、一般人は環境や資源再利用について詳しい知識がない。だからやり方によっては、逆に環境を破壊することもあるだろう。たとえば、小生が好きな釣りの分野では、世界で最も南の地域に分布する紀伊半島のイワナ、キリクチのいる川に、イワナを増やそうとして養殖ニッコウイワナを放すような、愚行をしている。数の減った貴重なイワナを保護していると思う行為が、逆にキリクチを絶滅に追い込んでいるのだ。
 しかし、こんな例はまれで、多くは個人レベルでも環境にいい影響を与えることが沢山ある。小さな個人的努力でも沢山の人間が手を携えれば効果の出てくることが多いのだ。それに水を差す態度はいただけない。ならば、あなたはどうするんですか、このまま汚染はほったらかし、資源再利用もしないですますつもりか、と本の著者に聞きたいほどである。
 釣り師である小生のアユ釣りホームグランド、相模川の汚れ具合を見ていても、水が少しずつきれいになっているのが分かる。下水道が整備されてきたからだ。これに我が家のように洗剤を使わない家庭が増えれば、水はもっときれいになるだろう。多摩川にしても、最近は東京湾からアユが大量に遡上してきていると言う。
 微力ではあるが、我が家のノー洗剤運動も、それの一助となっているはずである。だから、今後も絶対食洗機は買わないつもりなのだ。
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by weltgeist | 2008-08-23 22:42

負けるべくして負けた星野ジャパン (No.184 08/08/22)

 金メダルが取れて当たり前、優勝は間違いないだろう。なぜなら日本は最強のプレイヤーを揃えたからだ。そう言われながら、星野ジャパンは破れた。負けた選手に厳しい追い打ちをかけるようだが、この勝負は最初から危ないと思っていた。女子ソフトボールが金メダルを取ったのと比べて、男子野球チームには「死んでも金メダルを獲る」という気迫が感じられなかったからだ。
 一方の韓国は「宿敵日本をやっつけるんだ」という闘志がみなぎっていた。日本は最も優秀な選手を揃えているから他とは格が違う、とうぬぼれていることを相手チームが感じ取り、闘志を余計奮い立たせてしまったのである。日本は韓国をアマチュア野球に毛が生えた程度と、見くびっていた。それで昨年の米国WBCで日本が奮起したのと逆のことが起こったのである。イチロウ選手の「お前、野球をなめてないか」という言葉を思い出す。
 日本は一言で言えば、慢心していた。選手が各球団の所属プロだから、国チームとしての練習量が足りなかったという意見もある。しかし、それでもソフトボールの上野選手みたいに腕が引きちぎれても絶対諦めないという、不屈の闘志を見せた選手が何人いただろうか。この危うさは予選リーグの韓国戦の時にはもっと強く出ていた。日本は何をやっているのか、と言いたいほどチグハグだった。見ていて目を覆いたくなるような試合だったと思うのは小生だけではないだろう。
 オリンピックは参加することに意義がある、そう言えばもう話はお終いである。そうやって高見の見物をしている間に、他の国が猛烈な勢いで力を付けてきている。中国の金メダルの数が米国を圧倒しているのは、単に技術力の違いだけではない。異常なまでのナショナリズムの盛り上がりが、選手をも盛り立ているのだ。
 北京オリンピックを見て感じるのは中国国民のエネルギーの力強さだ。猛烈と言っていいほど愛国心に満ちていて、その強さは圧倒的なものがある。チベット民族への弾圧など、こうなると陰に霞んでしまいそうな勢いだ。
 翻って日本はどうだろうか。競技の成績が思った以上に振るわないという面もあるが、何か冷めた雰囲気が強い。成熟した日本はストレートな感情を吐露することに気恥ずかしさを感じる状況が生まれつつある。もっと泥臭くていい。とにかくがむしゃらに食らいつく根性が希薄になっている気がしてならないのだ。
 こうした傾向は何もオリンピック選手に限ったことではない。日本では若者が特に元気がない。何でも簡単に手に入る安寧な社会だから、あくせく頑張る必要もない。ひどいのは、30歳を過ぎても親のスネかじりをして平気なパラサイト連中がゴロゴロいることだ。戦後、何もない困窮した生活からスタートした親たちと違って、貧困も飢餓も苦労も知らない無菌状態で育ったモヤシっ子が、次の日本を背負って行ってくれるのか、不安になってしまう。
 歴史上、世界の文明が滅びた原因の多くは、文明そのものが成熟しきった飽満状態となり、先へ発展して行く熱意、創造力を失ったからだと言われている。文明は成熟期に達するとその内部から慢心によって創造力が無くなり自ら滅びていくと言ったのは、英国の歴史学者、アーノルド・トインビーである。
 日本は何でも手に入る豊な社会だから、あくせく頑張る必要もない。そこそこでいいや、という思いを皆がするから、いつしか全体の力がなくなり衰退していく。もちろん、こうした中でも猛烈に頑張っている人も沢山いる。それが救いと言えば救いである。しかし、それにしても、今日の野球はまさに日本の危機的現状をそのまま反映したものではないかと思えるのだ。
 いつもと違って、今日の文章は少し過激になりすぎたかもしれない。それだけ期待していたからだ。本当に今日は悔しく、ショックだった。明日こそ最後の踏ん張りどころ、死にものぐるいで頑張って、日本の意地を見せて欲しいものだ。
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不死鳥は百年に一度、自ら火の中に飛び込んで身体を焼き尽くし、その焼かれた身体から新たに生まれ変わると言われている。死んでも死んでも生き返るしぶとさ、執念こそ、今の日本全体に必要なものではないだろうか。
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by weltgeist | 2008-08-22 22:21