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男は黙って食え(No57. 08/03/31)

 昔、記事のネタに困った新米新聞記者は動物園に行くのが定番だったらしい。最近のテレビでネタ切れなら、グルメ番組だろう。お手軽でお金はかからない。おいしそうに食べるタレントに、「うまい」と言わせればいいから、番組制作者も楽だし、うまくいけば取材先から宣伝になったバックマージンが入って取材費の抑制にもつながる。
 だが、こう沢山のグルメ番組があると見ている方はうんざりする。どんな食べ物が出ても、「うまい」という結論は不変であり、決して「まずい」と言えない。「うまいよーっ」としか言わされないタレントも気の毒だが、「いい加減にしろ」という気分になってしまう。安易な企画しか思いつかない無能なテレビ制作者は、視聴者が飽き飽きしていることをどう考えているのだろうか。
 昔、ある高級料亭で三島由紀夫が出されたステーキを一口食べただけで、何も言わず金だけ払って帰って行ったと、本で読んだことがある。三島のような人はいつもおいしい料理を食べ慣れているから、いくら高級料亭でも、彼の味覚を満足させるのはたいへんなのだろう。シェフは恥をかかされたわけだ。だが、粗食に慣れたノングルメの小生は、幸せなことに何を食べてもおいしいと感じる。
 別に贅沢なものでなくていい。牛丼なんか最高においしいと思う。恐らく三島が席を立ったステーキを小生が食べたら、うますぎて感激したことだろう。だが、そんなもの食べなくてもいい。食べ物の味など本当はどうでもいいことである。腹が減るから食べるのであって、満腹になるなら何でもいいと思う至って低レベルな人間なのだ。三島が「食べるために生きる人」とすれば、小生は「生きるために食べる人」なのである。
 ところで、世の中には味にうるさいグルメ評論家が沢山いる。どうもこういう方たちとは馬が合わない。特に男のグルメ評論家が料理の味から作り方まであれこれ言うのが好きでない。男が食べ物にこだわることを良しと思えないのである。家庭で料理を作るのは妻の仕事であり、外は専門料理人、プロの仕事である。どちらにしても門外漢の男が口を出すべきことでないのだ。
 「男は女房が作ったものを黙って食えばいい、つべこべ女々しいことを言わず味は料理人に任せろ」と思っているのである。こんなところがグルメ番組が嫌いな理由かもしれない
 我が家で料理は妻の仕事である。退職し終日家にいるから毎日三度の食事を彼女が作らなければならない。しかし、たいへんではあるが、台所に入って手伝うことはしない。唯一やるのは釣ってきた魚をさばく時だけである。それ以外は彼女に任せているから、手抜き料理が出たとしても彼女のたいへんさを考え、文句を言わないように努力している。(といっても、時々はこれを踏み外すこともあるが・・ !(⌒-⌒)!
 妻に食事を食作ってもらう代わりに、こちらの仕事も一つ増えた。洗った皿を拭くことで多少家事を助けているのだ。食洗機が嫌いな我が家では、食器は全て手洗いする。それも環境汚染を多少でもしないために洗剤も使わず、お湯で洗う。これを布巾で拭くのが小生の役割である。
 皿を拭くのを英語で何と言うかご存じだろうか。Wipe(ワイプ)である。ワイパーのワイプだ。我が家は食事が終わってしばらくすると、「ワイプお願いします」と「ワイフ」の声がする。最初は渋々と台所に行き、自分の義務と思ってやってきた。だが、今や我が家で小生は「ワイプマン」と呼ばれ、抵抗感もすっかり無くなって定着している。生きるために毎日食べさせてもらっているのだから、仕方がない。文句など言わずにワイプを繰り返しているのである。
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パリに行ったら必ず食べるようになったレオン定番のムール貝料理「ムール・アラ・クレーム」。バケツのようなデカイ鍋に山盛りにムール貝が入っていて、黒い入れ物に食べ終えた貝殻をどんどん入れていく。このときだけは「生きるために食べる」のではなく「食べるために生きている」ことを実感する。レオン本店はベルギーにあるそうだが、知っているのはパリのリパブリック広場前と、オペラ座近くにある支店だけ。探せば他にもまだ沢山あるだろう。値段もそれほど高くはない。
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by weltgeist | 2008-03-31 23:26

肖像権(No.56 08/03/30)

 今朝のNHKニュースで写真家の土田ヒロミさんが土門拳賞を受賞したことを放送していた。土田さんの作品はいつ見てもユニークな視点から撮られていて、能力の高い優秀な写真家と見ていたから受賞は当然だろうし、おめでとうと祝福したい。彼の作品が面白いのは素材に何か特別なものを選んで撮影するのではなく、ごく当たり前に暮らす人々の日常生活をテーマにしていることである。普通の人が見せる何気ない瞬間を上手に撮った質の高い写真を見ると、「あっ、人間にはこんな面もあるのだ」というような新しい発見が得られて、いつも彼の写真を楽しませてもらっている。
 しかし、同じ写真を撮る立場の人間として、一つ心配なことがある。プライバシーの問題だ。例えば、専門のモデルを使った写真とか、タレントの写真集のように元々被写体が撮られることを分かっているものなら問題ないが、市民の何気ない日常生活を知らないうちに撮影することは様々な問題が出てくる。相手が写真に撮られていることが分からないで撮った写真を発表する場合、今のご時世では肖像権、プライバシーの問題にぶっつかる。
 人の表情は瞬時に変わるから、狙っていればきっと面白い写真が撮れる、しかし、それは撮影者や鑑賞者には面白くとも、撮られる側には面白くないかもしれない。人には見せたくない瞬間、撮られて欲しくない瞬間がある。そうしたショットを意図的に発表するのはカメラマンがフェアーでない。人が嫌がるものを強引に発表するのはパパラッチの発想である。タレントの知られたくないプライバシーまで隠し撮りする彼らの「作品」には、しばしば人間性を疑いたくなるものが感じられる。 
 生きた人間を撮影するなら、相手の人権に配慮することは当たり前のことである。土田さんはパーティの写真を沢山撮っている。撮られる方は酔っぱらっている人もいるから、面白がって様々なポーズを取っているが、この写真が後で写真集のような公の場で公表されることまで考えてOKしたのかは分からない。ニュースではこの点は触れられていなかったが、恐らく土田さんは、かなりプライバシーの問題には気を配って撮影したことだろう。プロなら当然の配慮である。
 小生が町でスナップを撮って、仮に写真の使用許可をもらえなかった場合(本当はこうした場合の方が多いのだが)相手が悪感情を持つような写真は選ばないことにしている。もし自分がこんな写真を出されたら嫌だろうな、と感じる写真は使わないように心掛けているのだ。相手に文句を言われるのが心配だからではない。それが被写体になった方への最低限の礼儀であると思っているからだ。もちろん、善し悪しは、撮影者と被写体本人では受け方が違う。こちらはいい写真だと思っても、相手は「こんなひどい顔を使って」と思うかもしれない。しかし、そこまで気にしたらもう何も出来なくなる。
 この問題は非常に微妙で難しい。厳密に肖像権を認めたら、町で不特定多数を狙うスナップ写真は不可能であろう。それだからこそ、人間を撮りたいと思うカメラマンは、相手の立場を考える余裕が必要だ。最近、スナップを撮る人が少なくなっている。だが、人間への愛情があれば、豊かな人間性が発露した写真が撮れるはずだ、という信念を持ってスナップに挑みたいものだ。相手のことを考慮することなく、ただ「受け」だけを狙って撮った写真は、やはりどこかにその卑しさが出てしまう。優しい目で対象を見つめればこの問題は解決の糸口を見いだせるのではないだろうか。
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友人、あるいは同僚と思われる人とお茶を飲んで歓談していたこの人を見ているうちに、急に写真を撮りたくなった。何故この人の顔を写さなければいけないのか、そのときは分からなかったが、自宅で拡大して見たら、この人のヒゲと額のしわに何とも言えない人間の深みのようなものが感じられたから、自分はシャッターを押したのだと思った。D300、レンズ200㎜、ISO1000、F5.6、1/50秒。
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パリで会ったこの子は、小生に興味を示したのか、ずっとこちらについてくる。これはいいとカメラを出したら、めまぐるしく小生の周囲を動き回り、一瞬たりとも止まらない。室内のためISOを1600まで上げたが、1/60秒F5.6というスローシャッターにしかならず、ややピントがぼけている。しかし、ISO1600でもノイズが気にならないD300はなかなかいいカメラだと、気に入った。
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by weltgeist | 2008-03-30 23:59

城崎のヤマメ(No.55 08/03/29)

 志賀直哉の短編小説に「城の崎にて」というのがある。5分もあれば簡単に読み切れる短いものだが、これが彼の最高傑作の一つと言ってもいいような名文中の名文で書かれている。
 山手線の電車にはねられて怪我をした主人公が、療養のため但馬の城崎温泉に湯治に行く。山村の静かな温泉宿の二階に部屋を取った都会育ちの主人公は、まず窓の外に沢山の蜂が飛んでいるのを珍しそうに見る。玄関の屋根近くに巣があるらしく、蜂たちは巣の入り口のあたりを盛んに飛び回っていたのだ。そして、その入り口に蜂の死骸が1匹、他の蜂たちに顧みられることなく、寂しく転がっているのを見つけ、電車の事故でまかり間違えればこの蜂と同じ運命を辿った自分のことを重ね合わせて行く。仲間に葬らわれることもなく、ゴミのようになって死んだ蜂の無念さを感じるのだった。蜂は数日間屋根の上にあった後、雨で流されてどこかへ行ってしまう。
 そして、寂しさをまぎらわすため川沿いに上流へ歩く主人公は、沢山の人が鼠の首に串を刺して遊んでいる残忍な光景に出くわす。逃げまどう鼠は石の間に隠れようとするが、首に刺さった串が邪魔で穴に入れず、最後は笑いこげる人たちの前で死んで行く。残酷さに鼠の最後を見れなかった主人公は、その後、自分自身が決定的なミスをする。川原の石垣にいたイモリに向かって何気なく石を投げるのだ。決して当てようとか、狙ったわけでもないのに石はイモリの体に命中し、反り返るようにして死んでしまう。
 激しい精神の衝撃が起こる。彼は小さな動物たちの空しい死に対する自責の念に撃たれるのだ。電車にはねられた彼は生き、自分の投げた石に当たったイモリは死んだ。それも悲しいまでに無念な死に方で。生き物に対する深い反省と愛情の思い。志賀直哉の生死に対する気持ちがこの小説からひしひしと伝わってくる。死とは何を意味するのだろうか。また、人は死んだ後どのようになるのだろうか。蜂や鼠のように生命の尊厳さを誰にも認められることもなく死んで行くことの何と悲しいことか。小生の家では先日ペットの猫を失った。しかし、彼の死は我々が見取ることができただけ幸せだったかもしれない。誰にも知られることなく死んで行く沢山の命。そこに主人公はいいしれぬ無常観のようなものを感じているのである。
 恐らく日本文学の中でこれ以上の傑出した文章はないであろうと、小生は勝手に評価している。このような名作を小生ごときが説明することもおこがましい。しかし、この短編小説の中に、自分にはちょっと気になった一節があったので、あえてこのブログで取り上げることにしたのである。それは、志賀直哉が城崎に来た時、街を流れる円山川に山女(ヤマメ)が泳いでいるという記述があったからだ。そこはこう書いてある。
「散歩する所は町から小さい流れについて少しづつ登りになった路にいい所があった。山の裾を回っているあたりの小さな淵になった所に山女(やまめ)が沢山集まっている。」
 小生は城崎に行ったことがないため、円山川が実際どのような川か知らない。だから推測の域を出ないが、円山川にいた魚が本当にヤマメで、そこに自分が湯治していたらどうしただろうか、という疑問がずっとあった。きっと毎日ヤマメ釣りに明け暮れたのではないかと思ったのだ。しかし、以前テレビの温泉紀行で城崎温泉が取り上げられ、画面に円山川が出たことで、自分の考えはすっかり変わってしまった。テレビで見る限り今の円山川はとてもヤマメが住めるような場所ではない。いてもウグイかオイカワのように汚い水にも住める魚だけだろうから、行く気を失ったのである。「城の崎にて」が書かれたのは大正6年である。当時の川は清冽だった。しかし、今は昔の面影などこれっぽっちも残っていないのだ。
 主人公は傷が癒えるまで城崎温泉に逗留していたが、その間、優しい彼はイモリを殺した以外きっとどんな生き物にも哀れみを感じ、殺すようなことはしなかっただろう。しかし、熱烈な釣り師である小生は、城崎にヤマメがいたと聞いただけで、もう竿を持って飛び出しかねない心境になっていた。生き物への哀れみの前に釣り師としての自分が出てしまう。ここに偉大な作家と小物、俗物としての小生の違いが歴然と表れてしまうのだ。
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生き物が生きるとはどのような意味があるのだろうか。草の上で一点を見つめるカエルの顔は、何かその意味をかみしめているような表情をしていた。人間には分からないかも知れないが、生き物とて同じように喜びや悲しみを感じることができるのではないかという気がしてくるのである。
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渓流の女王・ヤマメ。この美しき魚を求めて小生は今もあちらこちらの渓流を歩き回っている。かっての城崎、円山川にもこれと同じ顔をしたヤマメが乱舞していたという。志賀直哉が見たヤマメもきっとこうした精悍な姿をしていたのではないかと思う。
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by weltgeist | 2008-03-29 22:56

言葉の壁(No.54 08/03/28)

 毎週金曜日に続けているBさんの英会話の個人授業が今日もあった。しかし、相変わらず発音が駄目で、hoとfoの違いを直された。車のボンネットを英語でhoodと言う。食べ物はfoodである。両方の発音をせよと言われたので「フッード」と発音したら、違うと指摘された。foodは「フッード」だが、hoodは「フッード」だとBさんが言う。同じじゃないかと言うと、違うと言う。だが、Bさんが発音してもその違いが聞き取れない。どちらも同じに聞こえるのだ。5、6回して、ようやくhoodはフッードではなく、「ホッード」とも聞こえるのが分かった。しかし、完全な「ホ」ではなく、「フ」の発音のようでいて「ホ」だと言う。こんな微妙な違いでもアメリカ人にはひどく違った音に聞こえるらしい。我々だって、橋と端、箸は少しずつ発音が違うように、ネイティブの発音とはここまでシビアなようだ。
 同じく、Who(フー、誰? )も直された。「フー」ではない。「ホー」に近い「フー」だ。前にも言ったように、このブログでは発音記号が表せないから、「ホー」だ「フー」だと書かざるを得ないが、要するに英語には日本語では表現できない音があり、これが日本語をスタンスとしている我々には分からないのだ。先日、韓国へ行った時、韓国語では「ー」と伸ばす音が難しいらしく、コーヒーをコピ、カードをカドと発音すると聞いたのと同じである。どの国にも苦手な音域があるのだろう。
 ま、この歳になってネイティブアメリカンと同じように英語を話す必要はないので、小生の発音は多少諦めモードに入ったところがある。もちろん努力はするが、子供の頃に培われた音を聞き分ける能力を今から習おうとしても難しい。ジャパニーズイングリッシュの発音は恥ずかしいが、異文化の言葉を理解しようというのだから、多少の甘さは許して頂きたいのである。
 言葉で異文化と言えば、先日壊したカメラの事で、こうした事故物の可能性があるから中古のカメラやレンズは買わないと言ったら、もし失敗して悪い物を買ってしまったときは
I might get a lemon.
と言うのだそうだ。怪しい物を買ってしまったぞ、どうしようという意味で、lemon(レモン)には、そのような信頼性がないとか、騙されたと言った意味が含まれているらしい。我々にとってレモンと聞けば、酸っぱくて唾が出てくるだけだが、アメリカ人には別な意味もあるようだ。異文化のギャップは思わぬところで現れるのである。
 こうしたことも教えてくれるBさんの英会話個人授業は実に面白い。ただ、難点は頭の悪い小生、一向に進歩がないことだ。いくら教えても教えがいのない小生に、忍耐強くつきあってくれるBさんにはいつも感謝している。だが、もっとしっかりしなければと思っても、能力がないのだからいかんともし難い。本当に我ながら情けない話である。
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タイの街を歩いていたら、突然妻が子供達に質問攻めにあってしまった。外国人が何を考え、どう生活しているのか様々な質問を英語で聞いて、アンケートをとっていたのだ。こんな小さな子供達でも達者な英語を話すのに感心した。そして異文化の壁を乗り越える努力をする子供達の明るい顔に、こちらも元気をもらった感じだった。
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こちらはモスクワで会った女の子。まだ若い、中学から高校生くらいの子供と思うのだが、ロシア人の若い女の子は本当にかわいかった。顔の表情が生き生きしている。我々が日本人だと分かったら、「一緒に写真を撮らせて」とやはり妻がせがまれたが、何で妻と一緒に撮りたいのかその理由は分からなかった。(ちなみに画面左手にいる妻はトリミングしてあります!(⌒-⌒)! 
もちろん彼女達も英語はペラペラであった。日本人の子供もしっかりしないと・・・。

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by weltgeist | 2008-03-28 21:07

デジタル写真のレタッチ(No.53 08/03/27)

 デジタルカメラの良さは撮った写真を後である程度修正できることだ。レタッチといって、色や明暗などを簡単に変えることができるし、ストロボ光による赤目の修正や、時には邪魔な部分をカットするといった荒技も可能である。こうした操作は画像ソフトで行う。ソフトは最近のパソコンではたいていプリインストールされているから、普通の写真を撮るだけなら新しいものを買わなくてもいいだろう。簡単なレタッチは問題なくこれで出来るからだ。
 先日、買ったD300ではニコンの専用画像ソフトCapture NXがおまけとして付いていた。これは本格的な画像ソフトで、ニコンカメラで写真を極めたい方にはうれしいおまけであろう。だが、小生はそれ以前からPhotoshop(フォトショップ)を使っていたため、ニコンのソフトは操作に慣れず、ちょっと試しただけで使っていない。むしろ慣れているPhotoshopの方がずっと使いやすいので、このおまけは個人的には意味がなかったと言える。d0151247_20301415.jpg
 Photoshopというのは、世界中のプロカメラマン、デザイナー、印刷オペレータが愛用している画像ソフトの王様である。だが、それだけに非常に高価でもある。小生が10数年前、最初に買ったPhotoshop バージョン4は確か定価が16万円、売値で13万円くらいしたと思う。そんな高いソフトが必要か悩んだが、周囲のデザイナーや印刷屋さんまでPhotoshopを使っていたため、仕事に欠かせないと思い、覚悟して購入した。それ以来、バージョンアップを繰り返してきたからまさにPhotoshop漬けと言ってもいいかもしれない。
 現在Photoshopの最新バージョンはPhotoshop CS3である。CS3の良さはそれ以前のバージョンと比べてデータの劣化が格段に少なくなったことだ。写真データはレタッチすると、どんどんデータが劣化して画像が荒くなってしまう。顔のしわやシミがレタッチで取れたと喜んでも、肝心のデータが劣化して肌がザラザラの写真になりかねないのだ。だが、CS3ではそうした劣化をほとんど起こさないフィルターが用意されている。それと、非常に細かな部分だけの修正、例えばある人物の目だけ修正するといったことがたいへん簡単にできるようになった。さらに画期的なのは、以前はホワイトバランス調整がRAWデータしか出来なかったのが、普通のデジカメで使われるJPGデータで調整が可能になったことだ。
 例えば蛍光灯や白色電球の明かりで撮って、色がグリーンや黄色に被ったものを、自然な色の感じに直せる。RAWは生データだから、出力前に修正できるが、一般に使われるJPGファイルだと、こうした色を自然なものに変えるにはたいへんだった。多くは破綻した色を少しましな程度に直せるだけでお手上げ状態だったのが、今度のCS3からはJPGでも色温度(ホワイトバランス)調整で簡単に直せるのだ。
 もちろん、完全な調整という意味ではまだRAWは必要だろうが、もはやRAWはプロの領域であって、普通に我々が撮るにはCS3があればJPGで十分である。いずれCS3の色温度変換は、他の画像ソフトにも導入されていくだろうが、その時PhotoshopCS3はさらに発展して、もっともっと使いやすいソフトになっている可能性がある。
 下に、ホワイトバランスが狂ったJPGデータを修正した例を載せたから参考にしてほしい。
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JPGで撮影した画像のホワイトバランスをレタッチした例。左の写真はホワイトバランス晴天のまま白色電球下の彫刻を撮ったため、全体が黄色に傾いている。以前だとこの色温度(ホワイトバランス)の傾きをJPGファイルで修正するのは至難の技だった。これを避けるにはRAWで撮るしかなかったが、右の画像ではJPGでも簡単にできている。後ろの壁面にスポイトツールを当てるだけで瞬時に白色になるのだ。これで被写体も自然な色になる。最早RAWにこだわる理由はなくなったと言える。
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これは町並みの影の部分の露光量が足りず、暗いのと、広角レンズによるディストーションで左右の建物が前に倒れかかる失敗写真。まず暗い部分はトーンカーブで明るく立ち上げ、家の歪みはPhotoshopCS3のレンズ補正機能を使って持ち上げるように家を起こした。左のホテル入り口の白いポールが真っ直ぐになっていることで画像の傾きが直されたことが分かる。ただし、このレタッチで空の部分の階調が無くなっている。もちろん空の階調を出すことも可能だが、それにはもう少し複雑な操作が必要で、ここでは割愛した。このように、破綻した(JPGの)写真でもある程度の修整は画像ソフトを駆使すれば可能なのだ。
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by weltgeist | 2008-03-27 20:34

シジフォスの神話(No.52 08/03/26)

 小生が学生だった60年代初頭、フランスの作家、アルベール・カミュの「異邦人」という小説が話題になった。灼熱のアルジェリアで、主人公ムルソーが「太陽がまぶしかったから」という理由だけで人を撃ち殺すストーリーで、日本ではこの意味を巡って様々な議論がわき起こった。こんな訳の分からない理由で殺人などあり得ない、この小説にどれだけの意味があるのか、当時の日本では理由もなしに殺人をすることなど考えられなかったから議論が白熱したのである。
 57年ノーベル文学賞を受賞したカミュはこのことを「シジフォスの神話」の中で書きつづっている。ギリシャ神話に登場するシジフォスは尖った山の頂に岩を上げるようギリシャの神に命じられるが、上げても上げても岩は下に転げ落ちる。これが人間が置かれた現実でもある。理性的に考えれば無意味なことを、シジフォスと同じように人間は生きるために必死でやらなければならないのだ。人間が生きているこの世界は実は、こうした不条理なものに満ちているのだと彼は言う。だから太陽がまぶしくて人を殺すこともありうるのだ。
 異邦人の書き出だしは「オージョルド・ウイ、 ママン・エ・モルト。 ウ・プテートル・イエール」(今日ママンが死んだ。あるいは昨日だったかもしれない)という有名な言葉で始まる。自分の母親が死んだのに、その日にちさえ忘れた無関心さの中にいる主人公ムルソー。こうした社会からはみ出た人間の理由無き殺人の理不尽さが、裁判で明らかにされる。だが、裁判の過程で彼が示した態度は、一般社会の常識からはかけ離れたことばかりで、彼は死刑の判決を受ける。これが当時の日本では際だった奇妙さでとらえられ、賛否両論がわき起こったのである。
 もしカミュが現在、同じテーマで異邦人を書いたとしたら、誰も相手にはしないだろう。それほど理由無き殺人事件が頻発しているからだ。
 毎日通り魔による殺人事件が連続し、日本は一体どうなったのかと問いたい状況である。先ほどのニュースでは刑務所に入りたいから電車のホームから人を突き落として殺す事件があったり、刑務所から出所した人が、もう一度刑務所に戻りたいため駅に放火したと言った常識を逸脱した事件が立て続けに起こっている。シャバより刑務所の方がましだというのだから理解に苦しむ。それだけ、この世の中が荒廃しているということだろうか。昔は刑務所から脱走したい人が後を絶たなかったというのに、まさに様変わりの様相である。シャバは刑務所以下の場所になってきているのだ。
 これこそカミュが指摘した不条理な社会そのものであろう。大岩を尖った山頂まで運んでも、転げ落ちるのは分かり切っている。だが、無意味と分かっていてもそれをやらなければならない。文句を言わずにやるのが良き人間の証なのだ。これに耐えきれなくなった人が、異常者として外に出て行く。
 カミュの思想から言えば、こうした異常者の方に理があるようにもとれる。だが、もしそうなら、人間社会そのものが根底から否定されることになる。人間には理性がある。理性は起こりうる憤怒の念をも抑え、調和を導こうとする。弱き人間が陥りそうになる危機を理性が克服したとき、そこにむしろ喜びの気持ちが芽生えることをカミュは信じなかったのだろうか。
 ムルソーは無神論者だった。それ故に彼は不条理と感じる暗い生を一身で受け止め、孤独な死を迎えることを選ぶ。不条理に徹することで苦難はいっそう鮮明に彼を襲い、歯を食いしばりながら死んで行かなければならない。だが、その不条理さを正面から引き受けるところに自己の実存を見いだすのだ。彼はそう確信し、そのように生きたのである。しかし、もし、彼が神の存在を信じたとしたら、最後はどうなっていただろうか。不条理の影に喜びが、憤怒の脇に理性がそっと控えていたことを察することができただろうか。
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コルマールのウンターリンデン美術館にあったこの彫刻を見たとき、衝撃を受けた。誰の作で、誰を表したものか分からないが、この人の顔には人生のあらゆる意味を解く鍵が潜んでいると思った。悲しそうでもあり、人生における様々な辛苦をなめつくした人だけが見せる、諦観と達観を滲ませた複雑な顔をしているようにも見えた。
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by weltgeist | 2008-03-26 18:04

D300落下(No.51 08/03/25)

 今日は渓流釣りに行く予定だったが、へまをやってそれどころではなくなってしまった。注意に注意を重ねていたにも関わらず、カメラをコンクリートの地面に落としてしまったのだ。落としたのはD300にニッコールAF-S VR18-200mmのレンズを付けたもの。カメラバックの蓋をしていないのを忘れて、車からバックを取り出したらカメラが飛び出して、ガチャーンと落ちてしまった。落下の高さは約1m、下は固いコンクリートだ。鉄とガラスの塊が真っ逆さまに落ちたのだから平気な訳はない。あわてて調べると、ボディもレンズも外見的には何の傷もなく、大丈夫そうである。だが、電源を入れて試しにシャッターを押すと降りない。フォーカスが合焦しないからシャッターが作動しないのだ。普通、シャッターを押すとオートフォーカスが働き、ピッという感じでピントが合焦して撮影できるのが、いつまでもレンズ内モーターがジージーと動いて合焦点を探し、それ以上先の操作ができない状態だ。
 とりあえず、オートフォーカスをマニュアルに切り替えて、肉眼でピントを合わせてみるが、合焦したときに出る丸いOKマークが出ない。それでもシャッターは切れるから、ボディの方はダメージは少ないようだ。しかし、何枚か撮ったものをパソコンで拡大してみると、全体的にピントがずれていて、内部的には相当ダメージを受けているようだ。
 これはまずいことになった。とにかく修理するしかないと、今日の午前中に急いで新宿のニコンサービスセンターに持って行った。その結果、ボディは心配していたマウント部分の歪みもなく大丈夫だが、レンズが歪んでいて、修理工場送りだという。レンズの軸が狂ったからマニュアルで撮っても全体的にはピンがきていない写真になってしまったのだ。
 ウーン。自らの不注意とはいえ、肝心のレンズが歪んでは解像度の良い画像は望めない。サービスセンターの人は「修理すれば完全に元通りになりますよ」と言ってくれたが、気持ちはかなり落ち込んでしまった。カメラのような精密光学機器はほんのわずかでも精度が狂うと、それが撮影結果に響いてくる。修理すれば大丈夫と言われても、やはり「事故物」というイメージがあるから先々の事を考えると暗い気持ちになってしまう。
 とりあえず、ボディは助かったし、レンズは他に明るい物を何本か持っているから大丈夫だが、VR18-200㎜はお手軽レンズとして最近、小生が特に愛用しているものだった。重いF2.8ズームレンズより解像度は落ちるが、手ブレ防止があるから結果的にはF2.8並みの性能を発揮してくれていた。それを今更F2.8ズームにしろと言っても重くて困る。第一、VR18-200㎜なら18㎜から200㎜まで一本ですませられるのが、代用品だと望遠系をもう一本持たなければならない。仕事で使うのならともかく、現在のリタイアおじさんの愛用玩具としては、これに代わるお手軽高性能レンズはないのだ。
 修理は4月3日に完了するという。ま、この程度なら代用品が我慢できない期間ではない。出来るだけ元の精度を再現して直してくれるよう、ニコンさんにお願いして重い足取りでサービスセンターを後にしたのだった。
 そして、帰りにまた例の西口大ガード下ペットショップに立ち寄った。数日前に見たアメリカンショートヘアーの子猫をもう一度見たかったからだ。だが、猫のケージは空っぽだった。どうやら今日までの間に売れてしまったのだろう。かわいい子猫の姿でも見て少しは元気を取り戻そうと思ったのが、当てが外れてさらに足取りが重くなり、我が家に戻ったのだった。今日は本当についていない一日だった。
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これが事故機だ。外見はボディ、レンズともほとんど傷もなく問題なさそうだが、中身はガタガタ。時折このように中身に問題のあるカメラが中古品で出てくるから注意しよう。小生、カメラは中古を買わない主義だが、予算の関係で買わざるを得ない人は、とくにレンズだけは慎重に選んだ方がいいだろう。
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by weltgeist | 2008-03-25 23:11

我が家は猫派(No.50 08/03/24)

 ペットを飼う人に犬派と猫派がある。犬も猫も両方飼っている家もあるが、多くはどちらか一方に傾くようだ。犬が好きだと猫は嫌われるし、猫派は犬を苦手とする人が多い。我が家は猫派で、犬はどちらかというと苦手だ。犬が駄目な理由は子供の頃噛まれて、それが今もトラウマになっているからである。特に大型犬が近寄ってきたりすると、恐怖感が生じてしまう。その点、猫はどんなに大きくても人に恐怖心まで与えないというのが、猫派の根拠の一つともなっている。
 なぜ猫がいいのか。これは猫派の人なら誰もが言うように、彼らの自由奔放さだ。気位が高く、飼い主がいくらかわいがっても決してそれを有り難いと思わない。それどころか、餌をくれるのが当たり前と思っていて、少しでもまずい餌だと腹が減っていても絶対食べない。「こんなまずいもの食えるか」という態度を公然と示す彼らの自己主張の強さが逆にいいのだ。
 彼らは自分というものを完全に持っていて、その自主性は絶対に譲らないし、妥協もしない。人間は世話になった人にはそれなりの礼をつくさなければならない。ところが猫はそんなこと知るか、という態度を取る。飼い主への感謝の念などこれっぽっちも出さないのだ。それでいて、飼い主が怒り出しそうになる直前のタイミングを見計らって、ちゃんと媚びも売ってくるところが心憎い。人間関係に汲々としている我々に、猫の姿は理想郷に住む生き物のように思えてくるのだ。
 ところで、このブログの第一回目で書いたように、我が家で19年間生きた雄猫のケイが昨年の11月に死んでしまった。その2年前には17年生きたヘレンという雌猫を亡くしている。両方とも寿命を全うした老衰であった。19年もの間我が家にいたということは、たいへんな長さである。家族同様と思っていた彼らが居なくなった時、何かが抜け落ちたような寂しさを感じた。ちょっと家を空けると、玄関で我々が帰ってくるのを待っていたかわいい「息子」と「娘」が、玄関の鍵を開けてももう出てこないのだ。こういう状態をペットロス症候群というのだそうだ。この寂しさを紛らわすにはまた子猫でももらってこようか、という気持ちがチラチラと見え隠れする。
 しかし、猫がいると家を空けることもできない。旅行しようにも彼らのことを考えると、どうしても二の足を踏んでしまう。以前、秋田県の米代川で長期間アユ釣りを楽しもうと連中を連れていったことが何度かある。東北道を650㎞も走って行く間、彼らの水やトイレの手配など気を使って何とか秋田まで行き着いたが、結局、向こうへ行っても猫のことが気になっておちおち釣りもやっていられなかった。犬なら問題ないのだろうが、猫は家に付く動物だから難しいのだ。
 そんなことを考えると、我が家にケイの後釜が来る可能性はたいへん低いと言わざるを得ない。だが、先日久しぶりに新宿に行った時、いつも見ていく西口大ガードの小さなペットショップにかわいいアメリカンショートヘアーの子猫がいて、20分近く見とれてしまった。子猫の仕草はかわいい。彼を見ているうちにまた飼いたいなという気持ちが高まってきたが、もし今度新しい猫を飼って19年も生きたとすると、小生は84歳になっている。そこまで自分が生きている保証はないのだ。我々夫婦が途中で死ねば、長生きの彼はホームレスのフィールドキャットになるしかない。猫の老人(猫)ホームはないのだから。
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19年もの間我が家の家族の一員として生きてきた雄猫・ケイ。親ばかと言われるかもしれないが、本当に利口な猫で、妹のヘレンを良くかわいがっていた。彼を抱き上げるとこちらの心も和やかになる。やはり小生は猫派であることを実感している。
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by weltgeist | 2008-03-24 21:23

マーラーの復活(No.49 08/03/23)

 今日はイースター。復活祭の日である。復活祭というのはイエス・キリストが十字架に架けられて、3日後に蘇ったお祭りの日という意味だ。キリストがローマの役人ピラトの元で裁判を受け、ゴルゴダの丘で処刑されたのが、3日前の聖金曜日。キリスト教徒の間ではその前の日曜日から復活祭までの週を受難の週(Passion Week)と呼び、一年で最も重要な週としている。
 ところで、昨年のイースターは確か4月8日のはずである。今年はなぜこんなに早いのか、その理由はイースターが「春分の日の後の最初の満月がある週の日曜日」と決められているからだ。月齢と連動するから、毎年変わる移動祝祭日なのである。だから今年は3月23日だが、来年は4月12日という具合に毎年違う。日本のように休日が固定されている国民にはちょっと分かりにくい祭日である。
 また、イースターと言えば、きれいな色にペインティングされた卵・イースターエッグがまず思い浮かぶ。西洋の子供達はイースターエッグを探すエッグハントという遊びや、卵転がし(エッグロール)などをして遊ぶ。そして大人のキリスト教徒にとっては一年で最も目出たい日として教会で祝いのミサを行い、アメリカなどは休日となっている。
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イースターエッグで有名なのがモスクワ・クレムリン博物館(武器庫)にあるロマノフ王朝の豪華な宝石卵だ。展示してあった宝石卵は全部で10個あったが、暗くてブレやピンボケの写真ばかりで、何とかまともに撮れていたのがこの写真だけだった。これは1908年に皇帝ニコライ2世が彼の妻・アレクサンドラにイースターのプレゼントとして贈ったものだそうで、ダイヤモンドや金、銀などがふんだんに使われていた。
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今年の子供達のために用意されたイースターエッグ。イースターおめでとうと書いてあるが、ゆで卵になっているので、実際に割って食べることができる。

 人間の罪を背負って一度死んだ人間が復活して生き返るという話は、絵画、音楽、文学など芸術の分野でも重要なテーマになっている。絵画なら先日(3月8日)紹介したグリューネヴァルトの「イーゼンハイム祭壇画」があるし、文学ではトルストイの「復活」が有名である。そして、音楽で言えばマーラーの交響曲第二番「復活」が上げられるだろう。
 小生、3日前の聖金曜日はバッハのマタイ受難曲を聴いたが、今日の復活祭はマーラーの「復活」を聴くことが相応しい過ごし方だと思い、午後からこれを聴いて改めて感動しながら復活の意味を考え直した。
 今日聴いたのは最近はまっているクラウディオ・アバド指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団演奏のDVDだ。以前から「復活」で名演奏とされるのはレナード・バーンスタインかオットー・クレンペラー指揮のものがある。日本では82年にジュゼッペ・シノポリがアルトのワルトラウト・マイヤーを率いてサントリーホールで演奏したものが最良ではないかと思う。さらに最近小生が生で聴いたものでは、2006年に文京シビックホールでダニエル・ハーディングが演奏したものもよかった。
 しかし、アバドの演奏はバーンスタインやシノポリを越える素晴らしいもので、DVDだから何度でも聴くことができる。そしてその都度しびれるような感動を受けるのだ。第一楽章冒頭のバイオリンとチェロによる「ジャーン、ジャジャ、ジャジャ、ジャジャ、ジャーーーン・・」という導入部からいきなり引きずり込まれ、最終楽章まで忘我の状態になってしまう。これは何度聴いても飽きない素晴らしい演奏である。
 そして、アバドの演奏は第四楽章からのアルト独唱でさらに高まる。第四楽章でアルトを歌うのはアンナ・ラーソン。彼女の独唱で
おお、紅の小さな薔薇よ!
人間はなんと大きな苦悩を抱えていることか!
だから私は天国に行きたい!

神は私に光を与えてくださった。
喜びに満ちた永遠なる命に私を導きたまえ。
永遠なる命の道を照らしたまえ。

と復活への希望を歌い、切れ目無く第五楽章に入ると、今度はエテリ・グヴァザヴァという若いロシア人歌手のソプラノ独唱が加わり、これが心を洗い流すような声をしている。そうして透き通るような声に魅了されるところで、男女合奏が加わって、
生まれて来たものは、滅びなければならない。
滅び去ったものは、よみがえらねばならない。

私は再び生きるために死ぬのだ!
よみがえる、そうあなたはよみがえるのだ。
私の心よ、今ただちに!
あなたの高鳴ったその鼓動が
神のもとへとあなたを運んでいくだろう!  

と歌っていく。そして、最後は燃え上がるような大合唱の高まりで終曲を迎える。聴き終えたとき、小生はいつも数分間圧倒されて、虚脱状態に陥る感じになるほどである。この感動はいくら言葉で表しても表現できない。実際にレコードを聴いてもらうしかないだろう。とにかくすごい演奏を本気で聴いてみたい人は、右にあるライフログにアップしたからここを参照してほしい。
 しかし、マーラーの音楽は大規模な管弦楽を使い、派手な音を出すことから、好き嫌いがある作曲家と言われる。ある友人に「マーラーを好きな人はホラ吹きが多い」と言われたことがある。大きな管弦楽団でデカイ音を出すこけおどしとも取られかねない面があるからだ。それと、マーラーの音楽はどれも長い。この第二交響曲も全体では1時間20数分かかる。それだけの長時間緊張を持続して聴くのは慣れないと難しいだろう。もし、さわりだけでも聴いてみたいなら、第五楽章のフィナーレに続く所だけ聴いて、気に入ったら第四を、さらに第一楽章から通しで聴けばいいだろう。第五楽章の長さだけでも30分以上かかるから、よほど心してでないと最後まで聴き通すことは難しいかもしれない。
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by weltgeist | 2008-03-23 23:10

フリーターの未来(No.48 08/03/22)

 少し前に若者のニート、フリーターが500万人を超えたと言っていたが、最近はこの問題に派遣社員とワーキングプアーが加わって、問題が複雑化している。ニートは仕事をしない怠け者だからこの際外すとして、フリーターと派遣社員の問題は深刻である。両者は表裏一体になった面もある。若いフリーターが派遣社員になって頑張ろうとしても正社員になれず、将来そのままワーキングプアーに落ち込む予備軍となっているのが現実である。
 だが、思い起こせば小生も若い頃、今のフリーターの先駆のようなことをやっていた。決まり切った仕事を毎日繰り返す歯車人間になるのが嫌で、就職もせず大学院に進んだ。勉強したいというより、社会に飛び込む勇気がなくて大学院に通っていたという面もあった。そんな小生をお袋は見抜いていて「お前、就職もしないでブラブラしてると、後で後悔するよ」と叱られたものである。
 そうした自分の経験があるから世間の人が「定職に就きたがらないフリーター連中は困ったものだ」と、簡単に断定することには、ちょっと違うのではないかと反論したくなる。というより彼らにかなり同情しているのだ。確かにいい大人が正規の職業にも就かず、バイトでその日暮らしをするというのは問題だ。しかし、働く意志はあっても、自分の希望に合う仕事が見つからないからフリーターをしているような人には、選択できる道を探してやる必要もあるだろう。
 フリーターや契約社員は社会の安全弁の役割を果たしている。景気が良くなれば正社員への道が開け、悪くなればワーキングプアーが増える。いずれにしてもつらい立場ではあるが、こうした人たちも時間を経れば、それぞれ自分なりの場所に落ち着いていくはずである。多くは高い理想に破れ、妥協しつつそれを我が人生と受け入れる。国破れて山河ありである。人間自分の理想を百%実現することなど出来ない。つらい妥協をしなければ生きられない生物なのだ。
 だが、こうした人たちの中には次の世代を形成する可能性の萌芽がある。彼らの中からいつか世の中を革新的に変える人が出てくるに違いないと小生は思っている。有名大学を出て、一流企業に就職し、それなりの給料をもらってそこそこの生活を出来る人はすごいかもしれないが、決まったレールの上を順調に走るだけで面白みを感じない。大概は平均点のレンジから飛び出すことはない。可もなく不可もなくそれだけで終わってしまう。むしろ、世界を根底からひっくり返して新しい発展をもたらすようなものは、世間から異端視された所から出てくると小生は確信している。
 ゴッホだって、モジリアニだって生きているときは変人、無能扱いされていた。既存のスタンダードから見れば社会の落ちこぼれだろうが、スタンダードを超越した高い理想を持っているから、時代の壁を突き破れるのだ。こうした異端とされる人の中からやがて途方もないことをしでかす人物が出てくるだろう。彼らの中にこそ次の世代を変える人物潜んでいると、信じたいのである。
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by weltgeist | 2008-03-22 23:39