2015年 02月 10日 ( 1 )

勝手にしやがれ (No.2049 15/02/10)

 そんな題名のフランス映画が昔あった。ジャン=リュック・ゴダールが監督、主演はジャン=ポール・ベルモンドである。といっても1959年の白黒映画だから、今の人たちは監督の名前もベルモンドなんて俳優も絶対知らないだろう。そう思っていたら、沢田研二が映画からとった同名の歌を歌っていたことを思い出した。こちらは1977年だから40歳より上の人は覚えているだろう。
 勝手にしやがれっていう言い方は、「お前は自由に何をやってもいいけど、俺は知らないぜ」という意味である。この短い言葉の中には深刻な人間関係の亀裂が垣間見える。いままで仲の良かった恋人が別れ話をして、バイバイするとか、いくら忠告しても言うことを聞かない人を見限った最後のせりふである。勝手にしやがれと言った時点で、二人の親密な関係はお終いになる。分かれて行く人間にこのあと「お前は**せよ」などと指示や忠告を言うのは余計なお世話である。もはやあなたと関係ないのだから、「自由にしなさい」しかないのである。
 そう、人間は自由である。だから他人の生き方にあれこれ口をはさむのは自由の侵害である。前回取り上げた遠藤周作の沈黙では、主人公・ロドリゴがひどく苦しんで祈りを捧げているのに神は沈黙していた。ロドリゴは「あなたはなぜ黙っているのですか」と神に問うたが、彼は自由の意味が分かっていない。神が声をかけることは「お前は**をせよ」と指図することだから、神自らが人間に与えた自由を否定することになる。だからどんなにひどい状況に人間が置かれても神は沈黙を通すのである。
 まだ頼りない小学生にお母さんが「途中で道草しないでまっすぐ学校へいくのよ」とか「知らない人に声をかけられてもついていかないで」と忠告をするのは、子供の「自由」は未熟で何をしでかすか分からないからだ。お母さんは幼い子供が心配なのである。しかし、同じことを成熟した大人に言ったら余計なお世話となる。お節介な事を言われたと反発し、自分の自由が認められていなかったことに失望するのである。
 人間は自分の行く道を勝手に選べる。人にとやかく指図されるものではない。それが自由というものである。ただし自由の代価はとても苦しい。沈黙のロドリゴが「踏み絵を踏まなければ信者を殺す」と人間として耐えられない苦難にあわされたときも、神は黙っていた。カラマーゾフの大審問官も黙って口づけしただけで、お節介なことはしない。人間は自由である限り人生で出会った苦しみを自ら引き受け、試練として乗り越えて行くしかないのである。
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by Weltgeist | 2015-02-10 23:56