2012年 02月 09日 ( 1 )

出世の早い人 (No.1306 12/02/09)

「世間的出世の力となって一身の幸福の基礎となりやすいものは、比較的低級な精神的優秀さ、すなわち利巧さ、狡猾さ、特定の一面的才能などである。ここに厚かましさが加わるといっそう有利となる。」
アルトゥール・ショーペンハウアー「知性について」細谷貞雄訳、岩波文庫 P.125

 今日もまた小生の大好きなショーペンハウアー先生のお言葉を紹介したい。希代のうぬぼれ屋で、かつまた辛辣な皮肉屋であるショーペンハウアーは、不幸なことに彼が活躍した時代に周囲の人からほとんど相手にされなかった。自分のまわりにいる「無能な哲学者」は、フィヒテにしてもシェリングにしても何故か世の喝采を受けている。宿敵ヘーゲルに至ってはもう出世頭の先頭を突っ走っている。彼にとってはこの理不尽な事態がどうにも我慢がならなかったのだ。
 自分はヘーゲルなど問題にもならない天才なのに、何故か世間から蚊帳の外に置かれている。これに憤慨したショーペンハウアーは、世間の脚光を浴びて出世していく人間をけなすことで自らの不遇を慰めているのである。出世していく奴はオツムの回転は早いかもしれないが、それは高邁な思想に向けられる代わりに、どうしたら人を出し抜いてうまい汁を吸えるかしか考えないろくでなしであると馬鹿にする。世の中を調子よく泳ぎ回る連中は悪知恵だけが長けた厚かましい人物であるとけなすのだ。
 ショーペンハウアーのこの「出世論」はまさに現代でも同じで、彼の指摘って案外当たっているんじゃないだろうか。小生の知る限りにおいて、早々と出世して行った人って、こうしたパターンが多かった。世の中をうまく立ち回る「利巧さ、狡猾さ・・・」に長けているというとくだりでは、「そうだ、そうだ」と小生も賛同したい。能力もないのにずるがしこく立ち回って出世していく人って、いわゆるごますりの上手な人が多い。
 ゴマすりには公平な競争の原理がない。実力が伯仲して勝敗が決められないとき、別な手段で相手を打ち負かそうとする卑劣な行為である。それで勝った者はしかし、ショーペンハウアーが言うような「世間的出世の力となって一身の幸福の基礎」を得ることができるのだろうか。
 ゴマすりで得た「幸福」は他の人の不幸を踏み台にしている。卑怯な手段でそれを勝ち取ったのだから、出世したところで心のどこかにやましいものがあり、真の意味での「幸福」は得られない気がする。
 もちろん、そんなずるがしこい人だと、自らの良心に問いかけることもしない。勝ち取った勝利の美酒を無神経に飲み干すだけかもしれない。だから「ここに厚かましさが加わるといっそう有利となる」とショーペンハウアーはだめ押しの言葉を加えるのだ。
 でも、ショーペンハウアーの言葉をよくよく考えてみると、彼自身が出世の花道から取り残された「不平」を言っているにすぎないともとれる。要するに彼は自分を差し置いて「偉く」なっていった人を妬んでいるだけじゃないかと思えるのだ。
 そして、今の社会そのものがこうした無数の妬みがうごめくるつぼのようでもある。例えば毎週出る週刊誌の見出し広告欄を見ているとそれがよく分かる。ほとんどが自分にはおこぼれがやってこないところで、他人がうまい汁を吸っていることの告発記事ばかりである。
 記事を読んで「おれの知らないところで良い思いをしているけしからん連中がいる」と憤慨した読者は、「正義の味方・週刊誌」がそれを暴いてくれることで溜飲を下げているのである。しかし、他人のおいしい汁を妬んでいる人も一皮むけば実は同列なのだ。もし自分がうまい汁を吸っている立場に逆転したら、多くは「知らぬ存ぜぬ」を決め込むだろう。人間、誰も五十歩百歩、人のことをけなすより、自らを正すのが第一だと思う。
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by weltgeist | 2012-02-09 22:30