2012年 02月 07日 ( 1 )

偉大なアルピニスト・芳野満彦さんを悼む (No.1304 12/02/07)

 1965年(昭和40年)、小生が第一回目の心臓弁膜症の手術を終えて、病院のベッドで術後の回復を待っていたとき、「日本人として初めて欧州アルプス・マッターホルン北壁を芳野満彦さんらが登攀した」というニュースが飛び込んできた。すでに心臓病のため第一線での登山を諦めざるを得なかった小生だったが、この素晴らしいビッグニュースに大いに興奮した。
 凍傷で両足の先全部を失い、「五文足のアルピニスト」といわれた芳野さんは、そんなハンディキャップをものともせず、前穂高北尾根四峰正面岩壁厳冬期初登攀や、屏風岩中央カンテ、剱岳チンネ正面壁積雪期初登攀などの偉業を成し遂げたすごい人で、小生にとっては憧れの登山家だった。その芳野満彦さんが今月5日、心筋梗塞のため80歳で亡くなったという。
 小生より10歳年上の芳野さんを初めて見たのは穂高涸沢のテント村だった。まだ駆け出しクライマーだった小生は遠くから「あれが芳野満彦だ」と言われて見ただけだったが、何か恐れ多くて近寄りがたい感じがしたことを覚えている。
 当時(1950年代後半)の日本登山界は、国内のチマチマした岩壁登攀に終始していて、欧州アルプスのような標高差のあるビッグウオールを登る技術はないと言われていた。それが、小生が大学生だったとき、芳野さんがアルプス三大北壁の一つ、アイガー北壁にチャレンジしたのである。小生にはとても行けない夢の岩壁に挑戦する芳野さんたちを、すごいと思うと同時にうらやましげにも見ていた。このときのアタックは失敗したが、日本の登山技術が欧州アルプスでも十分通用することを芳野さんは、指先の無い五文足の登山靴で登って見せてくれたのである。
 そして、小生が病院のベッドでうなっていた1965年、ついに芳野さんがパートナーの渡部恒明さんと二人でマッターホルン北壁登攀に成功したとのニュースが飛び込んできたのだ。
 高度差1200mのマッターホルン北壁は、登ることの難しさから沢山の挑戦者の命を奪い、1930年代にシュミット兄弟によってようやく初登攀された。しかし、その後も多くのクライマーがここで絶命し、「ドゥンクレ・ヴァント・アム・マッターホルン=マッターホルンの暗い壁」と言われ、恐れられていた。その北壁に日本人として初めて登攀に成功したのである。
 終日太陽の光が当たらない北壁では、岩と氷がミックスした岩場の登攀は困難を極めた。長い氷壁の登攀ではアイゼンのツアッケを氷に蹴り込んで、スタンスを確保する。このことで凍傷で切断した足先から血が噴き出してきたという。それでも取り付いてから55時間25分、二晩の厳しいビバークを経て、ついに4,478mの頂上に立つ十字架が見えてくる。あと20mか30m登れば登攀は成功である。ここで芳野はある行動に出る。「疲れたから代わってください」と言って渡部に道を空けて先に頂上に立たせたのである。
 こうしてアルプスの最も困難と言われた三大北壁の最初の扉が芳野たちによってこじ開けられた。喜びに満ちた彼は、そのころ流行していた007の映画、「ロシアから愛をこめて」をもじって、「ツェルマットより愛をこめて、我北壁に成功せり」という電報を日本で待つ奥さんに送ったという逸話が残っている。
 だが、喜びはすぐに悲劇に変わる。マッターホルン北壁登攀成功のすぐあと、一緒にザイルを結んだパートナーの渡部恒明さんがアイガー北壁に挑み、登頂まであと300mのところで墜落。ザイルを組んでいた高田光政さんが単独で頂上に抜けて救助依頼に行くが、渡部さんは救助が間に合わずに遭難死しているのである。
 芳野さんのマッターホルン北壁登攀をモデルに、新田次郎は「栄光の岩壁」という小説を書いている。また、芳野さん自身も「山靴の音」とか「われ北壁に成功せり」という本を書いている。小生、芳野さんの訃報を聞いて昔読んだこれらの本をわが「ゴミ溜め書斎」で探したが、膨大な本の山に埋もれて今日のところは見つけることができなかった。今は偉大なアルピニストの死を心から悼みたい。
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1865年、英国人、エドワード・ウィンパーらによって初登頂されたマッターホルン、4,478m。芳野さんが登った北壁は向かって右側にある陰になった岩壁で、1931年にシュミット兄弟によって初登攀されている。
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by weltgeist | 2012-02-07 23:37