2009年 12月 24日 ( 1 )

メリー・クリスマス、イエス誕生の意味について、その1 (No.592 09/12/24)

 今日はクリスマスイブ。イエス・キリストがベツレヘムで生まれた前日であるとされている。無宗教な日本人はそのときの都合で様々な神様にお祈りをするが、この日だけはなぜかキリスト教徒になって救世主の誕生を祝っている。町にはジングルベルの歌が流れ、お父さんはケーキを買って帰宅している。つい先日まで近くの神社で、幸運を祈願した同じ人が、今日ばかりはキリスト教徒に変身する。こうしたことのちぐはぐさというか、矛盾を日本人は感じないのだろうか。八百万(やおよろず)の神を信じているから、キリスト教のイエスも多くの神々の一人として矛盾なく受け入れられているのかもしれない。
 ヨーロッパのように、神を信じることとはキリスト教を信じることであり、それを信じないことは無神論者として深刻な思いをさせられるのと違って、日本はきわめておおらかで、神ということの概念も曖昧である。ということは、根本的には何も信じていないことと同じであり、「神とは何か」という問題もあまりまじめには考えられていなかったと言える。そこで、今日と明日の二日をかけて救世主が生まれたとされることを通して、我々にとって神とは何かということについて考えてみたい。
 ところで、毎年クリスマスの時期になると不思議に思うことがある。イエス・キリストは神様なのになぜ粗末な牛小屋で生まれなければならなかったかということだ。立派な王様の息子として宮殿のような場所で生まれてこそ神様にふさわしい。それなのに、あえて牛小屋のような場所で生まれたことにどのような意味があるのだろうか。小生はここにキリスト教が言うところの神の真意が現れているのではないかと思うのである。
 聖書でイエスの誕生を書いているのはマタイ福音書とルカ福音書の二つで、他の二つマルコとヨハネ福音書では成人になったイエスのことしか書いていない。ルカ福音書の記述では、マリアと夫ヨセフはユダヤのベツレヘムという町でイエスを産み、それを近くにいた羊飼いが祝福するとなっているのに対し、マルコ福音書では東方から来た三人の博士が祝福すると多少記述が違っているところがある。(東方の三博士が礼拝したマタイ福音書の話については以前書いたこちらを参照されたい)
 今回はルカ福音書に沿ってイエス誕生の意味を考えてみたい。ルカ福音書ではイエス誕生は第2章から始まる。そこに確定的な日にちが書いてあるわけではない。クリスマスの日である12月24日から25日にかけて生まれたという記述は聖書にはないのだが、ベツレヘムでイエスが誕生した瞬間をルカ福音書第2章には次のように書かれてある。
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フランドルの画家ヒューホ・ファン・デル・フースの三連祭壇画「羊飼いの礼拝」のセンターパネルの一部。粗末な牛小屋で生まれたばかりのイエスを、羊飼いが礼拝しているところ。周囲にはマリアとその夫であるヨセフ、天使などが集まり、みんなで救世主の誕生を祝っている。
Hugo van der Goes / Portinari Triptych: The Adoration of the Shepherds (central panel) / 1476-79 / Galleria degli Uffizi / Firenze

d0151247_23382413.jpgマリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所が無かったからである。
さて、この土地に羊飼いたちが野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
すると、主の使い(天使)が彼らのところにきて、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
み使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせにきたのです。
今日ダビデの町であなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
あなたがたは布にくるまって飼い葉おけに寝ているみどりごを見つけます。これがあなたがたのしるしです。」
すると、たちまちそのみ使いといっしょに多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
「いと高き栄光が神にあるように。地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように。」
羊飼いたちは互いに話し合って、さあ、ベツレヘムへ行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。
ルカ福音書2:6-15
 

 マリアたちが宿屋に泊まれなかった理由はここでは分からない。泊まる宿代がなかったのか、それとも宿が満室だったのか分からないが、とにかくそれは神の意志で決められたことだろう。神なら彼らに宿代を持たせることも、また、部屋を満室にして宿泊を拒否させることも出来たはずだからだ。だから、彼らは12月の寒い夜を牛小屋で過ごすしかなかったのである。今で言えばホームレス状態である。そして、マリアは誰の介護もなくお産し、幼子を飼い葉おけの中に寝かしつける。現代の生活水準からすれば最低の条件の中で生まれた人間が「救世主」だという。あまりの落差の大きさには驚かざるを得ない。
 だが、マリアの周囲には彼らには見えないが、ずっとみ使い(天使)が付き添っていた。そして、近くにいた羊飼いに「救世主が生まれたから祝福に行け」と命じるのである。世界を救うメシアなら、王様が祝福に行ってもおかしくないのに、最下層の人間と思われる羊飼いに行けと命じるのだ。こうして羊飼いが最初に人類が神と出会った証人とされるのである。
 しかも、神様がこともあろうに宿にも泊まれない大工夫婦の息子として、人間の姿で出現するのである。
 我々が考える理想的な神の概念からまったくかけ離れた貧しい夫婦の子供として生まれてきたということは、神は我々から遠く離れた存在ではなく、まさに我々と同じ人間、それも最下層の貧しき人として出現したということである。これは明確な神の意志に基づく計画である。神は意図的にイエスを貧しい大工の息子として、人間界に送り込んだのである。イエス・キリストの誕生に我々は天上界から人間の世界に降りてきた神の強い意志を感じるのである。だが、このような常識を覆すようなやり方で出現した神の意図をどう解釈したらいいのだろうか。

文章が長くなったので以下は明日に続けます。
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by weltgeist | 2009-12-24 22:33