2009年 11月 29日 ( 1 )

新渡戸稲造の語る品行と品格 (No.571 09/11/29)

 体調が悪かったり、急に海外(アラスカ)に出かけたりしてしばらく欠席していたH教授の「新渡戸稲造・武士道を読む会」に、4ヶ月ぶりに参加した。すでに「武士道」本体は読み終わっていて、今は新渡戸の弟子であった矢内原忠雄が書いた「余の尊敬する人物」という本の新渡戸に関する部分を読んでいた。しかし、この本は絶版で入手難のため、テキストは新渡戸に関係するページだけのコピーである。20名近い人数のコピーを用意した世話人には感謝して席についた。
 とりあえず、今日はコピーに移って第三回目、新渡戸が第一高等学校の校長を辞したときの「新渡戸校長辞職告別演説」がテーマであると言われたが、小生、途中参加だから矢内原の本全体のイメージがつかめていない。しかも、何の予習もなしに久しぶりに参加したため、古い口語体で書かれた文章にも少し戸惑いを感じた。言葉使いは格調高いかもしれないが、それだけ意味が分かりにくい。しかし、それ以上に漢字がものすごく難しく、読めない字ばかりで参ってしまった。昔の人の文字に対する能力は今更ながらすごいと思う。
 それと、新渡戸の能力は秀出ていて、数日前に書いたショウペンハウアーが言う、「完璧な思索はペンを借りずにはかどる」を地でいくような抜群の記憶力の持ち主であったことを改めて思い出した。たとえば我々が原稿で他人の語ったことを引用する場合など、しっかり調べてからでないと怖くて出来ない。もし間違えたらたいへんなことになるからだ。だが、新渡戸はそんな調べをすることもなく、スラスラ英語で話したものを秘書が口述筆記で書き取って「 Bushidou =武士道」を英語で書き上げているのである。引用しているところはすべて暗記したものだというから、驚くべき記憶力である。彼こそ、まさにショウペンハウアーが言うところのペン無しに完璧な思索が出来る天才だったのだろう。
 さて、今回の一高校長を辞職するときの演説で、小生の印象に残ったのは、辞職するに当たって在校生に送った最後の言葉である。すなわち
「教育は事務ではない。俗吏のする所ではない。教育は精神である。・・・日本人は幕府政治を経て来て、未だ伸び足りない。才能が十分発揮されて居ない。それを出来るだけ伸ばしてやりたい。一つの型にはめると云ふことは最も教育の本旨にもとって居る。我が輩は諸君に出来る限りの自由を与へ、外に対する責任は引き受けて来たつもりである。第三は品行より品格というふ事を重く見て居る」( P.202 )である。
 上記の文章で引っかかったのは最後の「品行」と「品格」の違いである。品行とは社会の規範を守った行儀のいい行いであり、品格とは品のある人物と解釈していた。以前、ベストセラーになった「国家の品格」を読んだとき、作者の藤原正彦氏は「武士道の精神で国家の品格を取り戻す」という時代錯誤的なことを言っていた。H教授はまさかそんな馬鹿げたことは言わないだろうと思いつつ、ここをどう解釈するか注目していたら、「生きているコイは流れに逆らって泳いでいる。死んだコイは流される」という比喩を使って説明した。
 日本の教育のスタンダードは、残念ながら新渡戸校長が希望した理想と違って、いつも常識の範囲を超えない平均点の人間、均整の取れた人間を作り上げることに汲々としていた感がある。社会の作法とか常識、規範といった「型」の中に無理矢理はめ込んだ金太郎飴人間を作ろうとしていたと言っていい。
 型にはまらないで自由に生きろとは川の流れを泳ぐコイのように、絶えずヒレを動かして流されないように「自己を堅持する」ことなのだろうか。この点についてもう少しH教授の踏み込んだ解釈を聞きたいと思っていたら、他の人が全然流れが違うとんちんかんな質問をされてテーマがずれてしまい、教授の真意まで聞き取ることが出来なかったのが残念であった。
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by weltgeist | 2009-11-29 23:51