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ファジーな真理。その7、フッサール、認識論から現象学へ (No.278 08/12/12)

ファジーな真理。その7、フッサール、認識論から現象学へ (No.278 08/12/12)_d0151247_23571066.jpg ファジーな真理について書いてきたスレッドも、そろそろ最終段階に近づいてきた。今回は現象学を取り上げるが、こうした七面倒くさくて、ややっこしい文章が苦手な人に申し訳ないと思うが、またスルーしてください。
 さて、マルクスの弁証法的唯物論では、人間そのものが物であり、主観と客観という区別は曖昧になってきた。主観が持つ様々な認識は、外にある客体が意識に反映したものである。だから、それが真理かどうかは実際に客体に当てはめて見て、矛盾がなければ「正しい」ということになる。しごく当たり前のことである。そんなことを今までの観念論者は問題にしてきたのかと、笑いたくなるが、当時の学問の段階では致し方がなかったのかもしれない。
 マルクスにとっては主体(人間)も物の一部だから、ここでは主観・客観の対立はすべて客観の中に包摂されることになる。物だけがあるからそうしたことを問題にする必要もないのである。
 だが、我々が物を認識しようとする場合、依然として主体と客体との区別は残る。我々は感覚や理性という主観のフィルターを通してしか物が見えないからだ。ところが、フィルターは我々自身の中にあるから、フィルターそのものが正しいかどうか我々自身が検証することは出来ない。色再現が偏ったディスプレーに映ったデジカメ画像を、いくら色補正しても正しい色に行き着かないのと同じである。
 ここでもう一度そうした認識の仕方を検証してみると、どうしても克服できない主観と客観対立の深い溝に突き当たる。たとえば、私が自分のフィルターが正しいかどうか確認するために、自分を詳しく見てみると、意識が見つめる「対象としての私」とそれを見ている「主体としての私」に分裂していることに気づく。そして「主体の私」はいつまでたっても「対象の私」と分離したままである。「私」は他者を検証出来ても、「私自身」を検証することが出来ないのだ。「私は悪人です」と自分を判断するとき、悪人であると判断している私はすでに悪人を通り抜けた先にいる。悪人を超越(抜け出た)して反省している「私」が、「悪人だった私」を見ているのである。
 デカルトから始まったこの袋小路に入り込んだ人間意識の分裂を総合的に捉えようとしたのが、フッサール( Edmund Husserl/1859-1938年 )だ。彼は現象学という方法でそれに挑む。例えば我々が対象として机を見ているとする。しかし、そこにある机は本当に机だろうか。いやそもそも机は現実に存在しているものなのだろうか。疑い出すときりがなくなる。そこでフッサールは我々が「机を見ている意識」そのものを徹底的に裸にして分析していく。「事象そのものへ」(zu den Sachen selbst)という有名な言葉を使って事象そのものを捉えようとするのである。そのためには、主観と客観という区分を取り払い意識そのものを追求していく。
 机をとらえている意識は真に机そのものだろうか。かっては意識と現実の机(対象)が一致すれば真理と言われていた。だが、究極的な真理を求めるなら、一致すべき対象、この場合は机がはたして本当に存在しているものなのかを問われなければならない。我々の周囲にある世界は本物なのだろうか。むしろ、世界は絶対に存在し、それと一致すれば真理だと思い込んでいやしないだろうか。
 世界(対象)は意識を離れて疑いもなく存在しているように思える。しかし、やはり本当に世界は存在しているのだろうかという疑問は残る。フッサールは世界(対象)はあらかじめ存在していると信じる前提を「自然的態度」と呼び、これに批判を加える。普通は気がつかないが意識には様々な前提(例えば世界は確実に存在するといった思い込み)が潜んでいる。それらが意識を歪めているかもしれないのにこれを基準に真理かどうか論じるのは間違っているのだ。
 世界は存在するのかどうかは疑問であるが、それを見ている私の「机の意識」は確実にある。これは疑りようがないものである。だから、その意識の所与、すなわち机の直感を見ていけばいいのだ。デカルト以来主観がとらえた認識は客観に出て検証できないから正しい認識はできないといわれていた。フッサールはこれを乗り越えるのである。自分の中にある対象の直感は確実だから、これを手がかりに追求していくのである。とらえた直感の所与(知的直観と本質直感)をカッコに入れて、そこにある様々な憶見(=思い込み、ドクサという)を切り離して、純粋な場面まで還元した時、真理の相が現れてくると言う。これがフッサールが提唱した超越論的現象学である。
 フッサールはこうして伝統的な哲学のテーマであった主観・客観の対立を意識の現象学的還元で統一的に捉えることが出来るとした。彼の現象学は、その後、20世紀哲学の二人の巨人、ハイデガーとサルトルに多大な影響を与えたのだが、また字数が制限に近づいたので、フッサールについては機会を改めて別な機会に譲りたい。

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by weltgeist | 2008-12-12 23:53


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