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マルティン・ハイデガー「存在と時間」、死へ向かう不安な人間の叫び声 (No.137 08/06/29)

マルティン・ハイデガー「存在と時間」、死へ向かう不安な人間の叫び声 (No.137 08/06/29)_d0151247_22244983.jpg このブログのライフログ、お気に入り本のトップに、ハイデガーの「存在と時間」( Sein und Zeit / 1927 ) をあげている。小生の人生において決定的な影響を与えたこの本についてそろそろ語らなければならないだろう。しかし、「存在と時間」は、数ある哲学書の中でも最高度に難解なものだから、こうしたブログに軽々しく書くことが適当かどうか、この期に及んで今なお迷いが残っている。だが、書くと決めた以上、ある程度の堅苦しさ、難しさはご勘弁頂きたい。なるべく分かりやすく説明するつもりだが、今までこのブログで書いてきたものと比べて、難しい表現が入ることは避けられそうもないので、こうしたテーマに興味の無い人は、今日の書き込みはスルーしていただきたい。
 さて、マルティン・ハイデガー( Martin Heidegger / 1889-1976 )という哲学者、まず言っておきたいのは小生が「存在と時間」を読んでいた時は、まだ彼は生きていて、サルトルと並ぶ現代を代表する哲学者だったということである。おこがましいが、彼と小生は同時代を生きたことになるのである。彼が死んだとき、世界中がその功績と罪とを並べて報道した。彼はナチに協力し、ユダヤ人迫害に荷担しただけでなく、戦後その罪を問われた時、卑劣な方法で欺瞞的自己弁護をやったと書かれていたのを覚えている。
 彼が生きた20世紀初頭からナチ崩壊までの間は、不安の世紀と言われている。「存在と時間」はそうした人間存在の不安な状況とピッタリとマッチしていたのである。不安な人間の姿は「存在と時間」の第二部「現存在と時間性」の中で書かれている。それによれば、人間は「世界」と呼ばれる場所に投げ出されていて、いつも周囲(世界)に「関心」を持ちつつ生きている。だが、人間の生き方には常に未完ということがついて回る。人間が自分の存在の全てを全うするには、その全生涯が終結されていなければならないからだ。人間である以上、常に「まだ無い Noch-nicht (ノッホ・ニヒト)」という未完な部分がある。すなわち、まだやって来ていない未来があるのだ。だが、その未来の終点は何であるか。それは死であると言う。マルティン・ハイデガー「存在と時間」、死へ向かう不安な人間の叫び声 (No.137 08/06/29)_d0151247_22253754.jpg 「現存在が存在している間は、これから起こりうる何かが、いつになっても済まずにいる。この済まずにいることの中には現存在(筆者注・人間のこと)の終末そのものが含まれている。世界内存在の終末とは死である」( SS.233-234 、ページ数はすべてマックス・ニーマイヤー版 ) 人間は意味も分からず未完のまま世界の中に投げ出されていながら、常にその未完を埋めて行くべく未来に向かって生きていくことになる。そうして人間(現存在)は「死において終末に達し、これで全体として存在する」(S.234)ことを完結する。言い換えれば、現存在は常に死に向かって生きていることになる。「現存在が自分の存在可能へ根源的に臨んでいるあり方は、”死へ向かう存在”( Sein zum Tode ) である」(S.306) ことになるのだ。
 人間が生きるとは、ひたすら死に向かって生きていることに他ならない。だが、その死とはどのようなものだろうか。ハイデガーは次のように死を説明している。死はひとごとではない(自分のことで、他人に代わってもらうことは出来ない)、係累のない(一切のものから切り離されている)、追い越すことのできない(人間存在はそれゆえ有限である。無限に生きることはできない)、確実な(絶対にいつかやって来る)、それでいて無規定な可能性(いつ死ぬかは分からない)」( S.263。括弧内は筆者注釈) として我々に迫ってくるのであると。
 ハイデガーに言わせれば、死は現存在にとって最も本来的なものである。「死ぬことは、それぞれの現存在がいつかは自分で引き受けなくてはならないことである。死があるとすれば、それは本質上、各自私の死として存在するのである。・・その死は本質上いかなる代理も成り立たない」(S.240) すなわち、誰も私の死を代理で引き受けることはできない。誰もがたった一人で自分の死を受け入れ、一人で死んでいくしかないのだ。
 人間が生きている限り、いつか死はやってくる。しかし、人間である以上、いつもその死は先のことであり、Noch-nicht(ノッホ・ニヒト=まだ無い)、すなわちまだ来ていないのである。それはいつか確実にやって来て、絶対に逃れることは出来ないのだが、とりあえずまだ大丈夫なのだ。人間とはこうした死を内包した不安な無の海に浮かぶ木の葉のようなものにすぎないのである。そして、肝心なことは、人間はこのNoch-nicht に安住していて、死の不安を隠して生きていることである。人は死の不安を気を紛らわすことで、忘れ去ろうとする。「死に向かっていることを隠蔽することで、その確実さを弱め、死の中に投げ込まれていることの負担を軽くしようとする」 (SS.255-256) のである。
 ハイデガーはこれを日常性における頽落( S.254 ) と呼ぶ。こうして何時か確実に自分は死ぬという可能性は、日常性の中で忘れられていく。このことをハイデガーは特に問題にしていて、日常性の中に頽落している現存在は、真の自分自身を失った「故郷喪失」の状態にあると言う。つまり、我々が日常生活で様々なことをワイワイ言いながらやっていることは、死の不安から逃げ出すことであり、人間の真理から離れた退廃的な生活ということになるのである。ハイデガーは、本来あるべき人間から頽落した人間を、特別な意味で「人 ( das Man ダス・マン)」 と呼んでいる。疎外されて、人間性を失った現代人は、実存を生き抜く生身の人間ではなく、das という中性名詞で呼ばれる、曖昧な物のような存在者に落ち込んでいるのである。
 だが、そうした日常性の頽落で死を忘れようとしている「人=das Man 」を時々襲うのが「不安」( S.256 ) である。不安は現存在が死へ向かう存在であることを知らせる警告なのだ。は不安によって死の恐怖を隠蔽していたことを悟る。そして、自分が持っている死の可能性に目をやるとき、から脱した本来の自分が見えてくるのだ。現存在はいつ死ぬか誰も分からない。明日か、1年先か、あるいは20年先か分からないが、それはいつか確実にやってくる。そのことをしっかり自覚し、覚悟しなければならないと、不安が教えてくれるのだ。不安におののく現存在は、そのとき「良心の声を聞き」自己本来へ立ち返るのである。
 現存在は常に自分に先立って、先へ進む性質がある。人間はいつも先の事を心配し、考えつつ行動する。そして、究極の未来である己の死に思いが至る。その時、はどうなるか。明日死ぬかも知れないと悟った人間は、自分の人生の有限性と、残された時間の大切さを思い知らされる。死に向かって刻々と進む自己を見つめるとき、自分は「今この瞬間、確実に実存している」ことを自覚するのである。このように自分の可能性(死)を先に読み取り、それを受け入れることを「先駆的覚悟性」( S.270 先駆けて覚悟を決めること) と呼ぶ。卑近な例で言えば、学生が明日学力試験があったとすれば、いつもと違って一生懸命勉強する必要がある。時間は限られているのだ。それはいままでダラダラと浪費した無機質な時間ではなく、濃密な質の充実を伴う有限な時間として現れてくるだろう。自分が明日死ぬかもしれないとなれば、生きているうちにやらなければならないことが沢山見えてくることに似ている。このように、自分の未完なる可能性を先駆的覚悟で取り戻すことで、現存在は頽落した日常性から脱して、自分らしく生きることができるのである。
 これが存在と時間の簡単な骨子である。ハイデガーは日常性の中で人間の本来を忘れて故郷喪失する人への警告を込めて「存在と時間」を書いたのではないかと思う。彼がナチに荷担し、その後見苦しい真似をしたとはいえ、その主張は小生の上では非常に大きな影響を未だ残し続けているのである。

存在と時間の前半に当たる現存在の分析をハイデガーがフッサールの現象学をどのように受け継いでいったかについては No.280 を、彼の後期の思想については No.283 をご覧ください。
by weltgeist | 2008-06-29 22:26


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