匿名の批評はすべて欺瞞を目指している。警察が覆面の往来歩行を許さないように、匿名執筆も容赦すべきでない。無知が学識を裁き、愚昧(ぐまい)が聡明を裁いても、処罰されずにすむ全くの無法地帯である。いったいこのようなことが許されてよいのか。匿名こそ文筆的悪事、とくにジャーナリズムの悪事一切の堅固な砦ではないか。
いかなる悪口雑言でも、耳でそれを直接聞いた場合には「だれだ、そういうことを言うのは」という形でまず怒りを爆発させるのが普通である。だが、その時、返事をしないのが匿名の流儀である。 署名のない批評に対して我々は、直接次の言葉を言っても差し支えない。「詐欺師!」と。他人を中傷攻撃する名無権兵衛(ななしのごんべえ)は文句のない悪党である。 アルトゥール・ショーペンハウアー 「著作と文体」より。 ネットの書き込みは匿名が主流となっている。各種の書き込み掲示板では名無権兵衛(ななしのごんべえ)のオンパレードだ。だが、書き手の正体を明かさず意見を述べたものは、それが正しいかどうか検証しようがない。仮に間違ったことでもひとたび掲示板に書き込まれれば、それは一人歩きし、世の中に蔓延する。 この世は最終的に正義によって守られると信じるなら、誤った書き込みはいずれ修正され、正しいものがそれを書き直してくれると考え、自らを慰める事が出来る。だが、次から次へと書き込まれる現代ネットのおびただしい数の書き込みに、正義の神様が全て関わってそれを修正してくれるとは到底思えない。正義の神とて、処理能力には限界があるのだ。 匿名の特長は、責任感がないから筆が走ることだ。有ること無いこと、何でも想像のままに書ける。小生もこのブログを始めるとき、完全匿名を前提にスタートしたつもりである。その方が文章が書きやすいと考えたからだ。だが、すぐにブレーキが掛かった。下書きを読んだ妻が、「それは良くない」と批判したのだ。このことで、小生、上のショーペンハウアーの言葉を思い出し、匿名性を修正したのである。 もし、誰にも自分の正体を明かすことなく自由に書きたいことを勝手に書きまくったら、どのようなブログになったろうか。歯止めがなくなってとんでもない暴走をしていたかもしれない。これに気づいた小生は、何人かの友人にブログの開始を知らせることで、彼らがブレーキ役をこなしてくれることを期待したのだ。 だから、小生のブログは本名ではない Weltgeist=世界精神というハンドルネームを使った匿名性のものでありながら、何人かは筆者がいかなる者であるかを知っている。それがあるから、うかつなことは書けないのだ。いや、むしろそうした知人たちの批判を想定しながら書くからこそ、自分の主張が悪い方に暴走しないでいられると思っているのである。 ネットのような場では匿名性はある面では必要なことだと思っている。書き手の正体を全ての人に教える必要はないだろう。しかし、完全匿名は自分を律する自信のある人に限られる。多くの人は、匿名という「特権」に歯止めを失い、心の奥深くに眠っていた「悪意」をゆり起こす可能性がある。人は考えるほど善良でもなければ、正義感だけで行動しているわけでもない。裁判所の判事が匿名メールで女性を脅迫した事件や、秋葉原のナイフ大量殺人事件を思えば、人間の危うさは明らかである。 匿名制度は自分の意見を自由に言うための必要条件である。だが、匿名は人の心に潜む悪を掘り起こし、嘘や悪意に満ちた書き込みの誘惑に駆り立てる恐れがある。ショーペンハウアーのように、悪党のやることと考えるのは言いすぎだが、かと言って野放しにすることも確かに問題であろう。 この人間とも鳥ともとれる人物は何者だろうか。楽器を奏でているから天使のようでもある。しかし、我々が天使に抱く「優しさ、善良さ」がこの絵からは伝わってこない。男と楽器との間の暗闇に赤い顔をした餓鬼がかすかに見えていて、人間の奥底に潜む魔性を表している気がした。(マチアス・グリューネバルト、イーゼンハイム祭壇画部分。フランス、コルマール、ウンターリンデン美術館)
by weltgeist
| 2008-06-20 21:38
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