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この頃思う、自分の存在理由 (No.2101 16/03/24)

 人は人生の意味をどのように見ているだろうか。その答えは簡単には見つからないだろう。考えても分からないことに関わるのは時間の無駄かもしれない。むしろ生まれてきたから仕方なく生きていると思うのが一番気楽である。小難しいことに首を突っ込まず、とにかく楽しく生きましょう、と思う方が利口であろう。
 だが、そう思っても、怠惰な生活をしていると、ときどき疑問の声に揺すられて、はたと答えに窮することがある。人間はまじめな生き物だからいい加減な気持ちでいようとしても心のどこかから人生の意味を問う声がわき起こってくる。「お前はせっかくの人生を有意義に生きているか」、「動物と同じような惰性だけで生きているのではないのか」、「このまま何も努力しないでいいのか」、という反省の声が心のどこかから答えを迫ってくる。何も考えずに気楽に一生を過ごすことができないのである。
 だがそれでも答えなど分からない。それなのに人は自分の存在理由として人生の意味、生きる意義を探せと促されている。答えが見つからないのに、探そうとする矛盾。しかし、その中にこそ人が生きる意味が隠されている気がする。一茶ではないが「盥(たらい)から盥へうつる ちんぷんかんぷん」で人は一生を終える。赤子で生まれてたらいの湯船で洗われ、棺桶で葬られるまでの間、人生はちんぷんかんぷんなままに終わってしまう。ちっぽけな人間にはその答えを見い出すのはもともと無理だけれど、それでも必死に探さざるを得ない。その矛盾こそが人生の意味ではないのか。
 自分が頼んだわけでもないのにこの世という舞台に裸の赤子で放り出される。そして頼んだわけでもないのに生きろと促され、頼んだわけでもないのに、この世からまもなく退場させられる。人生って世界と呼ばれる「劇場」で演じるドラマという気がする。
 しかし、一体誰が私をこの世に生まれさせ、この世から退出させるのか。無から生まれて無に帰っていく。ニーチェはこれを「虚しきものの永劫回帰」と呼んだけれど、もし虚しいだけなら悲しすぎる。少なくとも私の人生は虚しくはないと思いたい。そうだとすれば、「お前はこの世に出て、生きよ」と命じた者、創造主とも超越者とも神とも呼んでいい何者かが、私自身には分からない隠された意味、存在理由を携えてこの世に送り出したと私は考えたいのだ。
 私を世に送り出した創造主の意図は分からないけれど、何らかの使命を持たされてこの世に送ったのだろう。だからこそ私の人生の意味はある。私をこの世に生まれさせてくれた超越者に感謝し、私に課せられた使命を少しでも理解する。そしてこの世の舞台にいる限り超越者が課した使命に沿うよう全力で努力したい。それこそ私の存在理由ではないか。よわい73歳にしてそんなことを思い始めている。
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フィンセント・ファン・ゴッホ「ウジェーヌ・ボックの肖像」1888年作。パリ、オルセー美術館で撮影。あふれるほどの才能がありながら、誰からも理解されず、生涯で一枚も絵が売れなかったゴッホ。彼の描く人物にはにじみ出てくるような人生の深みが感じられる。
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by Weltgeist | 2016-03-24 22:49


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