隠されている必然性 (No.2077 15/08/13)

 スピノザはすべての事物は必然性によって存在しているとエチカ(第一部定理29)の中で言っている。そうすると私がこれから出会うすべてのこともすでに必然性から決まっていたことになる。明日車で出かけて交通事故にあったり、数日後に脳梗塞で半身不随になったり、宝くじを買ったら7億円が当たった、なんてことが必然性としてずっと以前、すなわち私が生まれる前から決まっていたことになる。偶然そうに見えても全部必然だというのである。
 私は運命というものを信じる決定論者の一人ではあるが、スピノザのこの考え方は少しやり過ぎではないかと思う。なぜならもしそうなら、善悪を決める判断基準がなくなってしまうからだ。すべての物事はすでに決められた路線を歩んできた結果とすれば、悪いことをしても罪を問われることは理不尽となる。世の中には悪もなければ善もなくなる。悪党は「俺が悪いんじゃない。悪の原因を作ったご先祖様が悪い」という言い訳が堂々とまかり通ることになるだろう。
 神が天地創造したとき、神の創造物はすべて良いとした創世記の言葉をスピノザは思い浮かべているのだ。だが、もしすべて「良い」ものとしたら、「悪」がなぜ存在するのか。神が造り出したものはすべて良い、善であるという神の善性説とは矛盾することになる。神は悪を造り出せないのだから、能力的に神は全能ではなくなる。神は善だけに縛られた不完全な存在ではないかと無神論者は反論するのである。
 よってこの世に起こるすべては善であるという創世記の主張は間違いと無神論者は言う。神は自由で全能な存在ではなくなるからだ。だが、神は善だけでなく悪をも創造している。たとえばエデンの園でアダムたちを誘惑した蛇だ。創世記で蛇は永遠に地を這う呪われたものとしてやはり神から創造されたと書かれている。すべてが良いならなぜ蛇のような「悪」を創造したのか。
 翻って考えられることは、それでは「悪とは何か」ということだ。神が悪をも創造したとなれば、悪には我々が理解しがたい何らかの意味が隠されているのかもしれない。この世のすべてを解き明かすことができない我々が、現れ出てきたものを簡単に「これは悪だ」と判断することは拙速すぎて危険である。
 何かを掘り起こせば起こすほど新たな知見が出てくる。知は無限の深さがある。むしろ、その中には人知が及ばないような新たな可能性が秘められているかもしれない。それゆえに我々がなすべきことは、常に「善とは何か、これは悪なのか」と問い直し、その裏に隠された意味を探ることである。単純にこれは善、あれは悪と判断すべきでない。あくまでも事物の裏側にある我々には気づかない原因にまで思いを馳せるべきだ。
 どんなに悪い結果に出会ったとしても、その裏にはもっと別な意味があると読み取る事もできる。ともすれば生じてきた悪い結果に消沈しがちな人間にとって、そうした「悪」が深いところでは逆に人間を高める契機になっているかもしれないのだ。それは神が与えた試練と受け止めることができる。そうなら、どんな悪いことでも最後は乗り越えて良きものに至れるはずだ。それこそ神からの隠された意味を持つギフトではないか。果てしなく深く辛い世界の謎の意味を読み取れば苦悩は喜びに変わると私は信じている。
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高い高山の荒れ地に咲く高山植物の女王・コマクサ。草木も育ちにくい過酷な地に可憐な花を咲かせているのを見ると、自然界の不思議なまでの力を感じてしまう。
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by Weltgeist | 2015-08-13 18:34


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