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俺は俺だ (No.2069 15/06/11)

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 若い頃は人が自分をどのように見ているのかとても気にしながら生きてきた。自分の信念通りに生きるというより、人が私をどのように見ているのか、彼らに気に入られるように生きてきたと言っていい。いつも他人の評価に縛り付けられた自主性のない生き方である。
 ところがそうでありながら、人から見られていない場所では、自分のエゴ丸出しのかなり自分勝手なことばかりやってきた。まるでジキルとハイドのような矛盾した生活だ。それでいて不思議なことにその矛盾に違和感を感じない。見えないところでは一番大事なのは「俺様」となり、人の評価などどうでもよかったのである。
 実際の私は他人のことなど少しも考えない、自分勝手な人間であった。だから人の目があるところで「良い子」を演じても、見えなくなるとすぐさま自分勝手になる。他人の目に触れるときだけ人を気にする「良い子」は、決して他人を尊重しているわけではない。他人を認めているようでいて、あくまでも鏡に映った自分を見ているに過ぎないのだった。
 ところがそんな私が最近になって世間からどのように見られようとどうでもいい心境に変わってきている。自分を格好良く見せようとも思わない年齢になってきたからだろうか。猫と同じように人の目を気にすることなく自分のやりたいように生きている。それでいて若い頃の自分勝手とは全然違う「自分」を見つけた。
 しかし、世間の評価を気にしないといっても、自分のわがままを押し通すことではない。自分に自信があれば人がどう思おうとそれに左右されることはない。人の目を気にするのは自分ができていないからだ。人に何かを言われてもビクともしない強固な自分を持てればいいのである。
 そうした強固な自分の獲得とは、徹底的な自己追求の果てに得られる「私・自分自身」の否定、私を抹消した「無私」である。本当の意味で自分を確立すれば、そこに至って初めて本当の意味での他人も見えてくる。自分だけの色眼鏡を通さない他人だ。
 自分を追求していけば無私に行き着くというのはひどく逆説的で矛盾しているが、自分の確立とは実は自分を無にすること、空しくすることである。私が無なら、見えてくるのは他人ばかりである。自分とは他人を認め尊重するということの自覚だ。他人に何事かを要求するのではなく、他人が望むことをやってあげる。相手を認め、自分をその人のために与えてあげようと決心すれば、世界は全く違った様相に見えてくるのである。
 若い頃禅寺に通って無心になろうと、せっせと座禅を組んだ。しかし、老師がいう無の境地にはついぞ達せられなかった。いまは自分を無にするのにむずかしい座禅を組む必要はないと思っている。すなおに自分を控えさせ、他者を認めてあげればいい。ここで見える世界こそ禅で言う無の境地と同じものではないのかと思えているのだ。
by Weltgeist | 2015-06-11 23:59


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