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愛国主義と民族主義の違い (No.2054 15/02/25)

 今日、2月25日の朝日新聞朝刊に、米国の人類学者、パトリック・ルーカスの「中華民族復興」というインタビュー記事が載っていた。その中で中国の愛国主義と民族主義の違いを面白い観点から論じていたので今日はそれについて考えてみたい。
 愛国主義には健康的な部分もあり、必ずしも他者を傷つけるわけではないとルーカスは言う。しかし民族主義は愛国主義と違って根底に差別意識がある。「俺は優れた特別なもの、だからやりたいことができる」という選良意識が中国民族主義のなかにうごめいていると言うのである。中華思想、すなわち中国は世界一と思う優越観が他者を傷つけることにつながりやすいのだ。
 中国では1995年頃から江沢民が愛国主義教育を強めていった。ところが、そこから生まれて来たものは愛国主義というより民族主義的なものだった。かっての日本や西欧から受けた被害の歴史を強調し、日本人などの侵略行為の記憶が呼び起こされたのだ。このことから「ほかの民族は堕落して野蛮であり、自分たちは善良無辜(むこ)である」という偏った民族主義が形成されていく。こうした民族主義の根底にあるのは被害者意識である。
 中華人民共和国が建国した頃の毛沢東時代、「中華民族は勝利者の物語」を持っていた。80年代まで統治者(共産党)は「被害者の物語」を必要としていなかったのである。しかし、共産党の指導に従えば自転車もミシン、テレビも持てるようになりますよと指導し、それを実現すると人々は変わってくる。物質的な欲望がある程度満足した人々は次には精神的な欲求も満足したいと考え始めるのである。すると立ちはだかるのは社会の不平等だ。権力者や金持ちが思いのままにふるまうのに、そうでない人々は満たされずに不満がたかまる。これが被害者意識を増幅するのである。
 それなのに共産党は何もしてくれない。人々は共産党に期待しなくなる一方で、何も社会的な貢献をしない人々が生まれてくるというのである。指導者が何を言おうが自分の人生には関係ないと思ってしまう人々が出現してきたのである。
 こうした統治の空洞化に危機感を持った共産党は愛国主義という言葉を使いながら民族主義という新しい帽子で統治するようになっていく。民族主義とは実は中身のない空っぽなものだから、ここに「歴史問題」などを入れ込めば為政者は容易に統治に利用できるのだ。中国共産党は民族主義をこのようにして自分たちの地位保全として利用していくのである。
 しかも生まれてきた民族主義は数ある少数民族を含む全中国民のものではなく「漢民族の主義」、すなわち漢民族主義だった。多民族国家の中国で漢民族だけが優遇された支配階級になれるという矛盾。これがチベットや新疆ウイグル自治区などで民族紛争を生じさせている。中国は民族主義を煽りすぎたことで、コントロールできないほど危険で難しい袋小路に入り込んでしまったのである。
 愛国主義と民族主義は似ているようでいて、根底にあるものが全然違う。国が発展していくことを心から喜ぶ愛国主義と、「わが民族は選良だ。だから何をやっても許される。愛国無罪」と誤解する民族主義とは水と油のように違っていることを今日の記事で教えてもらった。そうした目で現在の東アジア情勢を見ると、中国の反日思想も、韓国の歴史問題も、日本のヘイトスピーチ問題もその足下が見えてくる。自国だけが優れていて他国を見下す褊狭な民族主義は結局為政者の巧妙な人民支配の道具として利用されるだけで、他国との対立しか生み出さない不毛なものなのである。
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昨日、エンジェルの写真を掲載したとき、「これでどちらかの手を上げてくれれば招き猫のポーズになるのだが」と書いたら、今日、招き猫ポーズをした写真を見つけた。ちょっと姿勢に無理があるが、これでも「福はこちらへ」と呼び込みしている招き猫のように猫馬鹿の私には見えるのである。
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by Weltgeist | 2015-02-25 23:56


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