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いまも生きる宗教的蛮行、ISILの後藤健二さん殺害と殉教 (No.2046 15/02/05)

 イスラム国=ISIL に人質となって惨殺された後藤健二さんの死に限りなき哀悼の意を捧げたい。戦火に追われた人々に救済の手を差し伸べようとしていた人間味豊かな人にかくも残虐な仕打ちをしたISIL に激しい怒りをおぼえる。彼らは「アラーの名において」という「宗教的な大義」で後藤さんを死に追いやった。そのうえヨルダン人捕虜、カサースベ中尉は生きたまま焼き殺しにしている。そんなことを誇らしげに宣伝する連中の狂信的な考え方が私にはどうしても理解できない。
 どんな宗教の目的も人間の救済にあるはずだ。宗教を信じれば真の命(いのち)を得られるのであって、命を奪うものは宗教ではない。殺人を正当化する「宗教」はカルトでしかないのだ。ところがISILには自分たちの「宗教」以外を信じる者は全部殲滅すべき敵に見えるようだ。自分の信仰のためなら人を殺すこともいとわない。こんなものが「宗教」と言えるだろうか。
 しかし、これは現代の特有な問題ではない。信じる神が違えば、宗派間の対立が深い憎悪を生み、情け容赦なく「異教徒」が殺されていくことは歴史上何度も繰り返されているのである。
 十字軍のエルサレム奪還や、スペインのレコンキスタ、宗教改革をなしたあのマルティン・ルターさえ反抗する農民を「しめ殺せ」と叫んでいる。16世紀の宗教家は、魔女狩りと称して生きた人間を火あぶりの刑にしている。かっては宗教がこうした人間性の逸脱を背後から煽っていたのだ。カソリックの聖人と言われる人たちを見れば異教徒との戦いで棄教を迫られながら拒否して殉教していった人ばかりである。西洋の歴史はこのような蛮行で血塗られたものなのだ。しかし、それでは日本はどうだったのかと言えば、全く同じことが行われていた。日本も例外ではない。今のISILと変わらない恐ろしい殺戮を宗教の名においてやってきているのだ。
 今回のISIL後藤さん殺害から私は、遠藤周作の「沈黙」を思いだした。17世紀初め長崎でポルトガルの宣教師が捕らえられ、厳しい拷問の末に棄教させられる話だ。切支丹弾圧で、人々がキリスト教を捨てる証として、踏み絵を強要されたという知識だけは持っていたが、それが実際にどんなにひどいことだったのか、イメージは持っていなかった。
 遠藤周作は「沈黙」の中で哀れな日本人切支丹が生きたまま海岸に立てた柱にしばりつけられて、潮の満ち干で長い時間をかけて死なせる処刑や、逆さ吊りしても血が頭に下がりすぎて早く死なない工夫をした拷問などをリアルなタッチで書いている。そのような恐ろしいことを昔の人たちがやっていたのを沈黙を読むまで私は知らなかったのである。長崎で捕まったポルトガルの宣教師は、後藤健二さんと同じように、切支丹信者を目の前に突きだされ「キリスト教を棄教すれば許すが、棄教しなければここにいる信者を殺す」と脅される。そうして信仰を捨てなかった信者たちは虫けらのように殺されていくのである。今のISILとあまり変わらないことを日本も昔は公然とやっていたのだ。
 こうした愚かな行為は、400年という長い歴史を経てようやく「良くないことだ」と自覚され、改められるようになった。どの宗教も人の命は信仰より高いことを学び、殺し合いを止めたのだ。しかし、歴史は繰り返すと言われるように、ISILは17世紀の野蛮人と変わらぬ思想を振り回して世界を恐怖におとしめている。相も変わらず学ぶことができない者が生まれてくるのを見ると、人間とは何と救いがたき存在かとつくづく思ってしまう。
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マティアス・グリューネバルト、「イーゼンハイム祭壇画、センターパネル左下のプレデッラ」(1511‐15年頃制作)。十字架で処刑されたキリストに涙を流して悲しむマグダラのマリアをグリューネバルトはごく普通の女として描くことで、殉教の悲しさが余計印象強く伝わるようにしている。仏・コルマール、ウンターリンデン美術館にて撮影。
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by Weltgeist | 2015-02-05 23:59


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