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鄙(ひな)まれとは人の隠された良きところを認めること (No.2021 14/08/27)

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 美人と言う言葉は一般的のようであって実は一般的ではない。蓼食う虫も好き好きで、人それぞれ好みが違うからすべての人が絶対美人だと断言することは出来ない。むしろそうした個人的な好みがあるから、多くの人がそれぞれの好みに合った好きな人を見つけることができるのだ。絶対的美人が誰にも同じだったら、ほとんどの人は美人獲得競争に敗れて寂しい思いをさせられることだろう。むしろ、誰も鼻も引っかけないような人の中にも、隠された美を見いだして「美しい」と思うから人はうまく伴侶を見つけることができるのである。
 上の女性は今年の夏、四川省の奥地で出会ったチベット人である。小生はこの女性を見て「美人だ」と思った。都会の着飾った「美人」を見飽きてる人には「なんだ、こんな田舎くさい女」と思うかもしれないが、小生は「鄙(ひな)まれ」という言葉を思い出した。鄙とは沢山の人が住む都会を離れた超田舎、辺鄙な地域を意味する言葉である。そんな田舎に不釣り合いな美人に出会って小生はドキッとしたのである。
 こんなへんぴな場所にきれいな人がいたことに驚き、「これは絶対鄙まれだ」と素直に思った。小生の感性ではそれで十分なのだ。

 こうした感性の多様性のなかに人生を豊かに生きる大切な知恵が潜んでいる気がする。人を様々に評価したいことがあっても悪く見ないことである。良い面だけを取り上げ、気に入らないところは無視する。あえて悪いことは見ないよう心がけるのである。蓼食う虫も好き好きの精神で、その人の隠された良い面を見てあげるのだ。そうすれば相手からも良い反応が返ってくるだろう。不機嫌、悪意で人を見れば悪意の照り返しが返ってきて、いっそう気分が悪くなる。好循環は次の好循環を生む。悪しきスパイラルに落ち込む先は地獄の苦しみである。
 だから小生は意図的に人の良い面を見てあげるよう心がけることにしている。嫌な奴だなと思っても、そのことは見ないようにして、彼の良いところを探し出してやろうと努力するのだ。そうすれば相手から決して悪い反応は返ってこない。ぎすぎすした人間関係もこうした気持ちがあれば和らぐと思っているのである。
 ものごとを見る目は、見る人の心の反映である。心が荒み、悪しき気持ちに囚われていれば、見えてくるものごとも悪いものにしか映らない。人の良い面を見てあげるということは、実はいつも自分の心を良き状態にすることでもあるのだ。しかし、そんな風に自分を保つことは聖人でもない限り不可能である。かくを言う小生も未だにはらわたが煮えくりかえるほど嫌な奴と思う人がいて、これをぬぐい去ることができない。理想論は言うに易しく、やるはむずかしいことなのである。
 それと良いと思ったことがしばらくすると普通に見えてきて、やがては鼻についてくることがある。蓼がおいしいと思っていたが、良く味わってみたらまずかったと気がつく。そうなると「こんなはずではなかった」という事態に発展するすることもあるだろう。
 しかし、虫は欲望のままに蓼に食いついているが、人は理性で自分をコントロールすることができる。人の良い所を積極的に取り上げて認めてあげたいと常に思い、努力することで実現する。何の努力もなしに欲望のおもむくままに生きることは虫けら変わるところがない。難しく厳しい道のりであるが、人は常に己の心と他を見るまなざしを良き状態に保つ努力をするしかないのである。 


by Weltgeist | 2014-08-27 23:58


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