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哲学者の先生方から学んだのは、考えるということ (No.1986 14/06/07)

 これまで色々な哲学者からたくさんのことを学んできた。しかし、それでは哲学で得た答えって何だろうか。あらためて考えてみるとどうも分かったようでいて分からない。うまく答えが見つからないのだ。しかし、少なくとも自分が何事かを判断するとき、すこぶる懐疑的になるように色々な哲学者から仕向けられた気がする。結論を急ぐな。答えは無数にあるぞ、というのが大多数の哲学者先生の答えだと思い始めている。
 まずは物事を疑ってとりかかれと教えてくれたのはデカルト先生だ。なぜならこの世は不確かな疑わしいことばかりだからだ。だが、全部を疑ってみたけれど、疑っている自分がいることだけは疑えない。自分がここにいて考えていることは確か、「我思う故に我有り」は絶対だと言った。でもそれももう少し深く考えると当てにはならないことが分かってくる。絶対と思えた答えさえ本物の陰、現象に過ぎないのではないか。有限な人には本物には到達できないとカント先生は言っている。さらにヘーゲルにあっては、人間が「これぞ真理だ」とつかんだものは、その一部分に過ぎず、必ず内的な矛盾が露呈して「真理」はつかの間の発展過程の一部に成り下がっていく。
 人間は色眼鏡をかけて事物を見ていて、確かめたわけでもない世界の果てまで分かった気になっているとフッサール先生は言う。ではそれをカッコに入れて、色眼鏡の色素をそぎ落としたら何が出てくるのか。何の色も、そして味もない無味乾燥した「真理」が出てくるに過ぎない気がする。
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これまで71年間、小生は暗闇のなかで明かりを求めてもがきながら人生を歩んで来た。それで何が分かったのか。天才哲学者先生たちが束ねても、結局答えはよく分からないという結論にしか至っていない。そんな難しいことを小生ごときが分かろうとしても無理なのかもしれない。しかし、ただひとつだけ分かったことは、この世には分からないことが多すぎるということだ。ものすごい数の疑問がいっぱいあって、それに押しつぶされそうになる。そんな当てにならないこの世で重要なことはいつも「疑い、考えること」である。それこそ我々に課せられた課題なのだと先生方から教わったのである。
 しかし、いくら考えても答えは見いだされないだろう。分かってくるのは人間の限界性、実際には何も分かっていないということだけである。人間は未熟、未完な出来損ないであるということだ。人はそうしたことに悩み、もがき、苦しんでいる。だから生きることは苦悩でしかない。ニーチェはそんなむなしさに耐える強靱な精神力こそ求められていると言った。ところが、弱者は有りもしない絶対者(神)を持ち出してそれにすがろうとすると言って、神に救いを求めるキリスト教を批判した。
 しかし、実際のニーチェは虚無の重圧に耐えられず気が狂ってしまった。小生にはニーチェのような根性はない。むしろヤスパースのように、限界状況のふちで身の程をわきまえて、遠い彼岸から絶対者が贈ってくる「暗号」を深く考えて解読する道を歩みたいと思っている。ささやかでちっぽけな弱者である自分がそのことで絶対者と心の底でつながっていると実感したい。そこに救いを見いだしたいのである。
by Weltgeist | 2014-06-07 18:59


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