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パスカルの賭け・神様の存在証明も損得勘定でどうぞ (No.1983 14/06/04)

 「人間は考える葦である」と言ったブレーズ・パスカル(1623-1662年)は、頭の良い天才だったらしい。10歳にもならないときすでに三角形の内角の和が180度であることを解いていたというし、密閉された容器の中の流体に圧力を加えると、それがすべての部分に等しくかかる「パスカルの原理」(今の気圧の単位・ヘクトパスカルはここから来ている)を見つけている。それどころか彼はコンピュータの原型をも作っているのである。歯車式加算機を1642年に作っちゃっているのだ。世界最古の機械式計算機だが、もしこの時点で電気が発見されていたら、電気で動く計算機、すなわち電子計算機・コンピュータを作っていたかもしれないのである。現代のコンピュータ・プログラミング言語に Pascal というのがあるのも彼がコンピュータの祖であることに由来している。
 これ以外に事業家としてもやり手であった。何と世界最初の乗り合い馬車の会社をパリで立ち上げてもいるのである。哲学者、数学者、そして実業家と八面六臂の活躍をしたスーパーマンだったのである。
 そんなパスカルは神がいるのかいないのかという信仰の問題を彼らしい計算から「パスカルの賭け」ということで言っている。彼は主著・パンセの中でそれについて次のように書いている。

選ばなければならないのであるからには、どちらが君に関係が少ないかを考えてみよう。君は失うべき2つのもの、すなわち真と善を持っており、賭けるべき2つのもの、すなわち君の理性と君の知識と君の幸福とを持っている。君の理性はどれか1つを選んだとて傷つけられることにはならない。しかし君の幸福は?
神があるという表をとってその得失を計ってみよう。2つの場合を見積もってみよう、もし君が勝つならば君はいっさいを得る、もし君が負けても君は何も失わない。それゆえためらうことなく神はあるという方に賭けたまえ。
パンセ 233 津田穣訳

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 神はいるのか、いないのか。理性的にいくら考えてもその答えは分からない。しかし、神がいるのかどうかについて賭をする価値はある。貴方が死んで煉獄に降りたとき、神がいる方を選択していれば、貴方は天国に行けるだろう。しかし、いないと言い張っていたらたいへんなことになる。地獄に落ちるからだ。そうであるなら、神はいると信じる方に賭ける方が有利だ。なぜなら、仮に死んだ後に神がいないことが分かったとしても、貴方は失うものは何もないからだ。これがパスカルが考えた賭けである。
 いかにも数学的な考え方であるが、パスカルは大事なことを見落としている。彼は信仰の問題を損得勘定に置き換えているのである。神はそんな損得勘定だけで「神を信じた」不純な人間を認めるだろうか。無条件に神を信じるからこそ救いがあるのではないか。もし神がいたらたいへんなことになるから保険のつもりで信じる、そんな下衆(げす)な人はたちまち神に「心が腐っている」と評価され、やはり地獄に放り込まれる気がする。
 インチキくさい新興宗教のように何か御利益があるから信じるなどナンセンスである。神は損得を超越した絶対者である。信仰とは自分が損をしないために「神はいます」と表明することではない。神に自らの命を無条件で預け、日々の生活の中で神の恵みを感じながら生きていくことである。損得を超越して、心の底から神の存在を信じることなのである。
 一方、神は存在しないという無神論者は、神についての何らの倫理的規制もなしに勝手気ままに行動すればいい。どうせ死後の世界のことなど分からないのだから、自分の思う通りに生きる。これも自分の自己責任において生きているのだから、それもアリだと言える。人の生き方は様々であり、自分の判断で好きなように生きればいいのである。
 パスカルの賭はどうしたら損をしないように生きることができるのか、日々頭を悩ましている現代人にはピッタリのアドバイスに見える。しかし、それは損得計算ばかりしていてもっと大事なことを見失っている現代人の心の貧しさの表明のように思えてしまう。「人はパンのみで生きるのではない」のである。


by Weltgeist | 2014-06-04 22:22


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