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何かを求める者は実は何も得ない。マイスター・エックハルト (No.1976 14/05/14)

すべてのものを棄てる人は、その百倍を(神)から受け取るであろう。しかし、その百倍を目指す人は何も与えられない。なぜならば彼はすべてを棄てるのではなく、その百倍を得ようと欲しているからである。われらの主はすべてを棄てる人たちに対してのみその百倍を約束し給う。だれであれすべてを棄てるならば、彼は百倍を受け取り、そのうえに永遠の生命を与えられるであろう。
マイスター・エックハルト、「説教」第一より、上田閑照訳

 中世ドイツの神秘主義者・マイスター・エックハルトを読んでいると戸惑うことばかりである。上の文章によれば、すべてを棄てる人のみが百倍のものを受け取ることができる。しかし、それは期待してはいけないことである。私の欲求を棄てるにしても、あとで百倍もらえることを期待して棄てるわけで、実際には棄てていないことになるからだ、と面白いことを言い出す。
 だから、仮に百倍ものものを受け取ったとしてもあまり意味はない。「すごいなぁ、百倍ももらってしまったよ」と喜んだ時点で、「はいアウトです」とされて、ご褒美の百倍も雲散霧消してしまう。百倍もらうことを望んでもいけないし、かりにもらってもそれを賞味してはいけないことになる。まるで日本の禅僧の「無心」のようなもので、分かったようでいて全然分からない。いや、禅は論理的思索の放棄が前提だから、そんな矛盾は考えなくても良いかもしれないが、西洋的論理の考えでは説明できない矛盾に突き当たる。
 エックハルトは人々にすべてを棄て去って何も求めないことを要求する。神は求めてはいけないものであるとして次のように言っている。神のうちに何かを求める人は、それが知であれ認識であれ敬虔であれ、求めたものを見いだすだろう。しかし、神は見いださない。彼がいかなるものも求めないならば、彼は神を見いだし、神のうちにすべてを見いだす。・・・人は如何なるものをも求めてはならない。認識も、知も、内面性も、敬虔も、平安も、一切求めてはならない。ただひたすら神の御意志(みこころ)のみを求めなければならない。・・神の御意志によらずして神を認識してもそれは無である。すべては神の御意志のうちにある。そこにこそ何か在るものがあり、すべて神に適い完全である。と。
 要するに人は何もやってはいけないのだ。何も求めず、ただじっとしていれば神様が全部やってくれる。必要なことは自分が完全な無になることである。自分の内面が何も無い真っ白なホワイトボードであるから、そこに神がやってきて何事かを書き記してくれる。何かが書かれていれば、神の御意志はぼやけたものになってしまうだろう。しかし、人間である以上そんなに簡単に無になることはできない。禅宗の坊さんが必死になって「無、無、無」と求めても無になりきれないのと同じで、実現不可能なことを要求しているのである。
 いや、要求すること自体がすでに無ではない。要求とは強烈な自己主張であるからだ。要求することなしに無を実現せよと無理なことを言い出すのである。こんな難しいことを言い出したから、エックハルトは教会からも異端の烙印を押されることになるのである。

以下、明日に続きます。

何かを求める者は実は何も得ない。マイスター・エックハルト (No.1976 14/05/14)_d0151247_23463982.jpg


by Weltgeist | 2014-05-14 23:51


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