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夢と現実 (No.1883 14/01/15)

 このところ良く夢を見る。いや昔から見ていたのだろうが、最近、少しわけがあって夢をよく覚えている。朝起きた直後に夢の内容を意識的に思い出して記憶にとどめようとしているので夢の記憶が残っているのだ。
 しかし、怖い夢を見たときはそれが夢であったことにホッとする。夢は現実ではない。意識の想像物、虚構である。だが、夢と現実の境ってどこにあるのだろうか。夢うつつという言葉がある。漢字で書くと「夢現」である。考えてみると今こうして現実的と信じている我々の状態だって本当の現実なのかは疑わしい。もしかしたらデカルトが思ったように全部が夢なのかもしれない。そもそも意識などあてになるものではないから疑いだしたらきりがないのである。
 たとえば机の上に置かれた「ペンを私が見ている」とする。自分は確かにペンと見ているが、もしかしたらペンを見ているという夢かもしれない。確かに本当のペンだと証明するには客観的にある現物のペンと照らし合わせる必要がある。
 しかし、ペンのような身近な物を照らし合わせることはできるが、人間はすべての認識の根拠を現実に照らし合わせることはできない。無限にある現実との照らし合わせをいつまでもやっているわけにはいかないのだ。だから適当なところで「これは現実だ」と勝手に判断してお終いにしている。現象学を提唱したフッサールは、こうしたことを「自然的態度」と言っている。
 しかし、これってよ~く考えてみるとずいぶんいい加減なやり方である。どんな根拠で認識が正しいと判断しているのか。酔っ払った夢見心地のような人が正しいと判断しているから、正しいという根拠も曖昧なのである。
 そして、困ったことにはそれを判断する基準が本当に正しいものであるかを人は検証できないことだ。酔っ払いは自分が酔っているという自覚がない。正確な判断ができない色眼鏡をかけて世界を見ているにもかかわらず、自分の判断基準が公正であるかを反省するときも同じ色眼鏡をかけている。人間は誰もが「自我」という色の強い眼鏡をかけているのに、それが無色透明であると信じて疑わないのである。
 理不尽なことを言い張っている本人は、「おれは正しい」と信じて自分の主張を繰り返す。人は自分自身を客観的に見ることができない。色眼鏡で主張し、反省するときも色眼鏡で反省するので、何の反省にもなっていないのである。
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by Weltgeist | 2014-01-15 23:59


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