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絶対的に重大なものとは (No.1857 13/12/14)

「絶対的に重大なものは、われわれの語ることではない。そうではなくて、われわれに向かって語られること、語られていることである。」
カール・バルト


絶対的に重大なものとは (No.1857 13/12/14)_d0151247_22172453.jpg われわれにとって絶対的に重大なこととは何だろうか。ある若者はポルシェを持つことと答えるかもしれない。あるいは我が子が不治の病で死の淵をさまよっているとき、子供の命を助けてもらうことかもしれない。人間なら様々なことがあげられるだろう。だが、それらは色々な人にとって様々であるという点で「相対的」である。「絶対的」とは言えない。人によって異なるものは絶対的とは言いがたいのである。
 では「絶対的」とはどのようなことだろうか。カントは人間理性の限界を説いて、絶対的なる物、物自体に人間認識は到達できないと結論づけた。ヤスパースは人間存在を追求していくとその有限性にたどり着き、絶対的なものとの間の断絶に至るとした。人間は有限であり、絶対者との間に越えられない深淵が横たわる限界状況に直面して挫折する。しかし、このとき人間は絶対的なものの方から送られてくる「暗号」を受け取るという。
 人間とは有限なものであって絶対的ではあり得ない。だからそれについて語っても、真実ではないことになる。カント的に考えれば絶対者である神は人間理性の限界を超えているのだから語ることさえ適切ではないことになる。ウィトゲンシュタインが言うように「語り得ないものには沈黙せざるを得ない」のだ。
 ここでバルトが「絶対的に重大なもの」と言っているのは神のことである。だが、それでは神とは何かと問うても、その答えをみいだすことはできない。モーセがシナイ半島の荒れ野で神に名前を聞いたとき、「わたしは”あるという者ものである”」(出エジプト記 3:14 )と謎めいた言葉で答えたように、それ以外に言いようがないのだ。人間の言葉で「神とは**である」と表現した時点で絶対でなくなるからだ。
 この問題についてバルトは「神は神である Gott ist Gott 」(ローマ書、Der Römerbrief 1921)という有名な言葉で答えている。人間の領域を越えたところの絶対的なもの・神は神であるとしか言いようがないのである。だから、われわれが神について様々に語っているとしても、それは神のことではない。むしろ神は語られていない者の方に現れるとバルトは言っている。
 神を語る人ではなく語らない人に現れるという逆説。弁証法神学といわれるバルトのこの立場は、キリスト教を布教している一部の人たちにとっては受け入れがたい暴論と受け取られている。だが、相対的、有限にすぎない人間は絶対的なものを語ることはできないというバルトの主張はある面では正しく、また宗教の矛盾点を突いた言葉とも言える。
 しかし、上に書いたバルトの言葉は、前半ではなくむしろその後半に意味があるのだ。すなわち神については我々が語ることではない。むしろ神からいつもわれわれに向かって語りかけられている言葉を聞くことである。人の言葉ではなく神が直接あなたに語りかけてくる言葉を聞きなさいというのである。それが神への信仰となるのである。
 現存在(人間)は死に向かう有限なものであるが、自らの死を引き受ける実存の決意のなかに本来的なものが明るみに出ると「存在と時間」で言ったハイデガーは、戦後、考え方を転回(ケーレ)して、「人は存在が語りかける言葉を聞く牧人である」と言い出した。彼が言う存在が語りかけてくる言葉とはなんだろうか。また、ヤスパースは絶望の淵に立ちすくんで挫折する現存在は絶対者が語りかけてくる暗号を聞くことができると言っている。そしてその暗号を解読したとき有限な人間たる自分が永遠なる神と結ばれ、降り注ぐ恵みを受けるとれるという。
 絶対者はいつも人間に恵みの言葉を語りかけている。人はそれについて素直に聞き取ればいいのである。
by Weltgeist | 2013-12-14 22:53


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