ハンナ・アーレント、「全体主義の起源」その1 (No.1842 13/11/23)

d0151247_21594629.jpg「専制者や独裁者は、臣民の平等、つまり階層間の差異をなくし、社会的、政治的なヒエラルヒー(階層)の確立を防ぐことが彼らの支配の不可欠な前提であることをつねに知っていた。・・・二人を敵味方に分けると同時に結合している共通の世界が完全に破壊され、内部に何らの相互関係を持たない大衆社会、単に孤立しているばかりでなく、自分自身以外の何者にも頼れなくなった相互に異質な個人が同じ型にはめられて形成する大衆社会が成立したときはじめて、全体的支配はその全権力を揮って何者にも阻まれずに自己を貫徹しうるようになる。」
ハンナ・アーレント、「全体主義の起源」
みすず書房、大久保和郎訳、第三巻「全体主義」PP.33-34



d0151247_20294075.jpg これまで全体主義とは一人の独裁者が勝手な私意で政治を動かしたもので、無知な国民は独裁者にだまされて彼を後押ししたものと思っていた。ところがハンナ・アーレントの「全体主義の起源」を読むと、それが間違いであったことを思い知らされた。ユダヤ人を世界から抹殺しようとしたナチの思想はヒットラーが考えたというよりは、ドイツ国民全体が後押ししたのである。それも思慮塾講の末のものではなく、付和雷同的に行ったものだ。
 なぜなら時代の流れの中でみんなが自分の確たる居場所を失って苦しんでいるとき、ユダヤ人だけが良い思いをしていると見られていたからだ。これがドイツ(アーリア)人の反感を買うのである。17世紀ころまで支配階級であった貴族がまず没落し、次には宮廷ユダヤ人も力を失っていく。しかし、それでもユダヤ人は富だけは失わない。ロスチャイルドのように金融界を支配し続けるのだ。これがユダヤ人と一緒に没落した一般国民の憎しみを買い、反ユダヤ主義の萌芽となるのである。
 かってはユダヤ人もドイツ人もそれぞれが自分の属する階級の中で一緒に生き、そのなかで自分を主張することができていた。ところが19世紀になって次第に階級制が薄れ、誰もが平等と思わせる状況下になると、所属すべき階級を失ったバラバラな個人が出現してくる。いわば故郷喪失と言えるような人々が「内部に何らの相互関係を持たない大衆社会」という同じ鋳型にはめ込まれながら、お互いが孤立無援な立場に置かれるようになる。
 自分のより所もなければ、考えることさえ停止させられて不満を抱える大衆(モッブ)が次第に暴徒化していく。誰もが同じ形にはめ込まれて個性を失った不満分子は、やがて自分の憎しみを晴らしてくれるヒットラー総統に行き着いて一つにまとまる。彼らは巨大な集団で心酔し、自分の奥底に潜む妬みの思いを爆発的に燃焼させてくれる総統への「ハイル=万歳」を大合唱する。ここで彼らは失われた自己の誇りを取り戻したと歓喜するのだ。かくして「世界に冠たるドイチュラント」を目指す狂気集団・ナチができあがる。
 アーレントは数百万人ものユダヤ人を強制収容所に追いやった戦争犯罪人、アドルフ・アイヒマンの裁判を戦後傍聴し、彼が極悪非道な鬼のような存在ではなく、どこにでもいるごく普通の男だと言って世間を驚かせた。ところがそのことで、ユダヤ人社会から裏切り者扱いをされる。彼女がなぜそのようなことを言ったのか、本書を読むととても良く理解できるのである。
 ごく普通の市民が時代の流れの中で思考を停止すれば、人間を平気でガス室に送り込む殺人鬼になりうることをアーレントは冷めた目で書いているのである。悲惨な歴史を見るとき、なんと人間とは愚かな存在なのかと思えてしまう。しかし、それでも人間はその愚かさのなかで何とか自分を失わないようにして生きていくしかないのである。

 大学時代アーレントの師であったハイデガーとは愛人関係にあったとされている。ハイデガーはナチに協力し、アーレントは米国に亡命する。そして、戦後捕まったアイヒマン裁判の傍聴記からユダヤ人の非難を浴びた彼女の姿を描いた映画「ハンナ・アーレント」が現在、東京の岩波ホール、名古屋、大阪、京都などで放映されている。なかなか評判のいい映画らしいから興味のある人はぜひご覧になったらどうだろうか。

「全体主義の起源」はその2に続きます。
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by Weltgeist | 2013-11-23 23:57


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