人気ブログランキング | 話題のタグを見る

世界の始まりについて (No.1805 13/10/08)

「人が、神は世界を創造したと言い、神が絶えず世界を創造していると言わないのは不思議なことだ。というのも、世界が始まったということが、なぜ世界があり続けているということよりも大きな奇蹟でなければならないのか。人間は職人の比喩に惑わされているのだ。・・・もし神を創造主と考えるなら、宇宙の維持は宇宙の創造と同じくらいの奇蹟であるはずではないか。」
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、1937年2月24日の日記より


 キリスト教でもユダヤ教でもイスラム教でもこの世は神が創造したものと信じられている。何も無い混沌から形ある物が造られ、やがて人間がこの世界の支配者として神から造られた。こうして世界は無から有が生み出され、それで始まったと世界の三大宗教はそれぞれ信じているのである。しかし、無から有が生まれるということ自体が論理的には矛盾であり、理性的には説明できない。だが現実的には無から有が生まれたのだから神が奇蹟をなしたと言うしかない。
 現代の物理学によれば宇宙は137億年前のビッグバンによって突然出現したと言われている。もしそうなら137億年より前には何があったのか。そして誰が最初に宇宙出現命令を下したのか。そのことは説明できない。なぜなら、ビッグバンの始まりに近づけば次第にすべての常識が通用しなくなるからだ。時間も空間も無くなる。ビッグバンより前のことは「無」であり、考えることができないのだ。あっさりと神が世界を創造したと考える方が気が楽である。
 しかし、神の天地創造は一度造ったらそれで終わり、あとは神が引っ込んで造られた物、すなわち被造物に任せられていると考えるのは単純すぎる。なぜなら個々の被造物はそれぞれが不完全でばらばらに動きながら、全体では見事なネットワークを維持しているからだ。ウィトゲンシュタインはこうして今も世界には信じられないほどの奇蹟が不断になされていると言うのである。
 神が天地創造したとき、自分が創造した世界を見て「すべて良い」と判断したと創世記には書いてある。しかし、実際にこの世に生きている我々人間は今の自分を「すべて良い」などとはとうてい言えない。不完全でミスばかりやらかして、しかも心のなかは虚しいままである。人生の意味さえ見つけられない自分をどうして「良い」と言えようか。むしろこの世は邪悪で罪にまみれたどうしようもない出来損ないの集積ではないかと思えてならないのだ。
 だが、それにも関わらず世界全体を見渡せば見事なばかりの調和が満ちている。このアンバランスさはどう説明したらいいのだろうか。神は天地創造6日目に人間を造り、7日目には休養したという。しかし、一度造ってしまったらあとは休んで被造物に任せるということではない。神はそのあともずっと我々の世界を創造し続けているというのがウィトゲンシュタインの思いなのだろう。
 神は天地創造のあとどこかへ行ってしまったのではなく、つねに我々の近くにいて、奇蹟を行い続けているのである。ただし、不完全で未熟な我々にはそれが分からない。神の真意がどこにあるのか分かりかねて悩み、迷い続けているのである。
世界の始まりについて (No.1805 13/10/08)_d0151247_22193043.jpg

by Weltgeist | 2013-10-08 23:01


<< ドングリの背比べからの脱出 (... 三浦綾子、塩狩峠と今回の踏切事... >>