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アンリ・ベルクソンの 「エラン・ヴィタール = 生命の飛躍」 (No.1788 13/09/19)

d0151247_2214894.jpg 日本の童話にウサギとカメが駆け比べして、足の遅いカメが最終的には勝った話がある。理由は皆さんよくご存じの通り、足の早いウサギが途中で昼寝をしている間にカメが先にゴールに着いてしまったからだ。この競争、まともにやればもちろんウサギが勝つに決まっている。
 しかし、ギリシャの哲学者ゼノンは足の遅いカメにハンディを与えて先に走らせ、後から足の早いアキレスを走らせた場合、アキレスは絶対にカメを追い越せないと言って人々を困らせた。いわゆる「ゼノンのパラドックス(逆説)」という難問である。アキレスはカメのいたところまで着いた時にはカメはそれより前進している。そしてつぎにそこに着いてもなおカメは前に進んでいる。そうなるとアキレスは無限にカメを追い越すことができないのである。
 ゼノンは飛んでいる矢は静止しているというパラドックスも言っている。矢はA地点から次の地点まで飛ぶ場合、矢の前には無限な点があっていつまでたってもその深淵を飛び越えられない。矢は飛べないで止まっていることになるのである。
 このパラドックスをどうしたら論駁できるのか。最近読んだベルクソンは非常に単純明快な解釈をしている。「ゼノンは運動そのものを運動が通過した空間と混同している。運動が残した軌跡は動かない。不動の軌跡を分割して再構成しても、運動そのものには届かない」(篠原資明著、ベルクソン PP.35-36)からである。カメたちが進むのは運動であって、空間的な「点」ではない。点をいくらつないでも線にならないのである。「運動とはそうした空間的な要素をなくした純粋な時間の流れである」とベルクソンは言う。点と線が本質的に違うように、それは分割もできなければ固定することもできない。カメの進んだ距離を測ることと運動は次元の違うことなのだ。
 この運動を我々が生き物の進化で考えて行くとき、進化をある特定の時点で固定して考えるとゼノンと同じ過ちを犯す。たとえば、進化とは過去のものとは違った生物が現れることである。しかし、そうしたものの出現には必ず原因があるはずである。ヘーゲルの例で言えば、樫の実の中には樫の一生の可能性が秘められている。地面に落ちて適当な水分を得れば、発芽、成長して結実するという生命の全運動過程が実の中に潜んでいる。それを見れば次ぎに起こりうる未来の可能性も分かるはずである。だが、パドックを歩く馬を見ても競馬の予想が当たらないように、実際には未来は予測できないのだ。
 我々も含めて多様な自然があるのは、過去との間に断絶があるからだ。生物は過去のものとは違って次々と新たに分化しながら進化していく。だからこそここまで多様な自然が形作られているのである。その起爆剤となったのが、エラン・ヴィタール élan vital =生命の飛躍である。
 生命には過去を断絶していくエラン、飛躍があるとベルクソンは言っている。アキレスが無限の点を一気に飛び越えていくように、生命を分岐させつつ進化させる原動力がエラン・ヴィタールなのである。生物はそのように新たに違った姿に飛び越えることで進化していく。ベルクソンはこれを創造的進化 L'évolution créatrice と呼んでいる。

長くなったので明日に続けます。
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by Weltgeist | 2013-09-19 22:32


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