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セネカが語る人の運命 (No.1671 13/04/15)

運命は欲する者を導いて行き、欲しない者を引きずって行く。
Ducunt fata volentem nolentem trahunt.
セネカ


 自分の運命を省みたとき、なんと貧しき家に生まれ、才能もなく、一生涯苦しいままにに終えていくのかといつも悩んでいた。自らの不遇な運命を呪いつつもこのように生まれて来た以上、仕方なくそれに従っていたのである。よほど幸運な人でない限り、誰もが自分の不運を嘆き、運命を呪うことがあるだろう。だが、呪ったところで運命は有無を言わさず嘆く者どもを自分の意志に従わせてしまう。
 古代ローマの哲学者・セネカによれば運命とは嫌うものではなく、むしろ自ら積極的に評価し、意図的に運命が敷いた路線に従うべきものだと言っている。人の運命などどうあがいたところで決まっているから、白旗を揚げて運命に従った方がいいと言うのである。
 小生はどちらかというと運命論者に近い考え方だからセネカの言葉がとても良く分かる。しょせん人間は運命に翻弄されるちっぽけな存在でしかない。小林一茶ではないが「たらいから、たらいへうつる、ちんぷんかん」で、毎日わけも分からず流されて一生を終えるのが人間である。
 しかし、流されるにしても、自分がこの世に生まれたのは「運命を支配している者」が何らかの意図で送り出したのではないかという思いだ。不運でも出生には何らかの意味がある。不思議なほど調和に満ちた自然界をみれば、人間の理性では理解できないものがありすぎる。人間を越えた絶対的なものが我々の生を動かしている。そうでなければこの世のありとあらゆる神秘は説明できないと思っているからである。
 そして、もし運命が存在すると信じたなら、我々はセネカが言うように「運命を欲する」と肯定して生きるしかない。なぜなら与えられた運命を嘆いているだけでは何も変わらないからだ。我々がなすべきは、運命は必ず良きものへと導いてくれると信じ、受け入れることである。今の状態がどんなに過酷で苦しくとも、それに耐えれば明るい未来が待っていると信じ、自らの運命を積極的に受け入れることである。
 何か悪いことがあったとしても、それを悪いものと受け取らない。視点を変えることだ。たとえば、事業が失敗して路頭に迷う事態になったとしよう。ここで絶望するのではなく、自分にはまだ一番大事なもの、命が残されていると思えばいい。二年前の大震災で一命を取り留めた人は、そのことを心の底から痛感したはずである。万事、このように物事を悲観的ではなく希望的に見るだけで、気持ちがグッと変わってくるのである。
 人の歩む道は平坦ではない。山坂ある苦しい道だが、現れてくる数々の困難、障壁は必ず乗り越えられる。我々の運命の前に立ちふさがってくるものは、実は我々を高めるために運命を司るものが与えた試練だと思えばいい。与えられた運命を全面的に受け入れれば、人生は良きものと見えてくるはずである。
 セネカの言葉は、「自分ほど不幸な人間はいない」と思っている人に希望の灯を与えてくれる。彼はまた人生についても次のようなうんちくある言葉を言っている。「人生は物語のようなものだ。重要なのはどんなに長いかということではなく、どんなに良いかということである」と。人生は長さではない。どう生きたかである。 
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by Weltgeist | 2013-04-15 23:55


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