もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜならこの世の知恵は、神の御前では愚かだからです。
コリント前書 3:18-19 世の中にはものすごく頭のいい「知恵者」と呼ばれる人がいる。そうした人に会うと自らの愚かさを痛感し、悲しくなってしまう。もし人間が神の造られた作品、創造物とすれば、「神様、何で私をこんなに愚かな者として世に送りだしたのですか」と訴えたくなる。しかし、世の中良くしたもので上を見ると賢い人が沢山いるが、一度下をのぞくとちょっとおかしな、愚かそうな人が見えてくる。 そうなると、「アッ、俺もまんざら愚かだけではないか」と思って安心する。人間ってたいして違いのないことにこだわって一喜一憂する馬鹿な存在なのである。 そもそも「俺もまんざらではない」と考えること自体がもう愚かな証拠である。人間の知恵など知れたもので、絶対的な存在である神の前では五十歩百歩にすぎない。神から見れば人間はおしなべて愚かでしかないのである。むしろそんなつまらない差異にこだわるより、自らは愚かであると自覚し、身の程にあった生活をしていく方がはるかに賢いと言える。 愚かであるとは、人間の間にあるわずかな差異を金科玉条に掲げ、自分より下と思える人を見下すことだ。そういう人に限って「俺は優秀なんだ。俺より偉い奴はいない」と言って威張り散らす。 真に知恵のある者は「自分は愚か」ということを謙虚に自覚している。しかし、それはソクラテスが「無知の知」で自分の無知さを自覚する人が逆に賢いと言ったのとは意味が違う。ソクラテスにとって無知の知を自覚している「賢者」はソクラテス自身である。神のような絶対的なものではなく、彼が一番偉いと思い込んでいる点でやはり五十歩百歩である。それに対してパウロが言うのはどんな人間も神の前ではちっぽけな愚かな者でしかないということだ。ただただ自らは愚かであると自覚し、神に帰依せよというのである。 有限な人間はいつもどんぐりの背比べ、賢い人も愚かな人もくだらない基準で人を比較しあっているにすぎない。目を閉じて、この世で一番大事なことは何か、もう一度自らに問い直してみたら如何だろうか。
by Weltgeist
| 2012-12-10 23:00
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