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エトムント・フッサール、3、イデーン・純粋現象学への道 (No.1472 12/09/06)

*この項は小生がフッサールの現象学を理解する個人的理由で書いたもののため、たいへん読みにくい内容になっています。申し訳ありませんが興味のない方はこれが終わるまでスルーしていただければ幸いです。

エトムント・フッサール、3、イデーン・純粋現象学への道 (No.1472 12/09/06)_d0151247_17453228.jpg 常に自己の思想を出発点に戻って深掘りし深化させていくフッサールは、意識の「超越論的還元」という方法で現象学を確立したが、1912年、「イデーン」でさらにその還元の思想を武装強化していく。イデーン、正確には「純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想= Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie /1912 」という長ったらしい題名の論文である。これは全部で3巻からなるが、フッサールが生きていた時代には第1巻だけが出版され、2、3巻は没後出版されている。
 1905年ころから導入された「還元」にはまだ曖昧で不十分なものがあった。それがイデーンでは超越論的還元に加えて形相的還元や意識の働きである志向性、ノエマ、ノエシスといった概念をより明確に導入している。イデーンでフッサールは厳密な学としの哲学を確立したといっていいだろう。
 イデーンは第1篇「本質と本質認識」というタイトルで事実と本質の関係から自然的認識を論じていく。初期の出発点で問題とされていた私の外にある客観が検証されることなく、確かに実在しているという自然的態度への批判についてイデーンでは「一方の側には独断的態度による諸学門があるのであって、これらの諸学門はもろもろの事象に向い、一切の認識論的懐疑的問題群には無頓着である」(イデーン1-1、渡辺二郎訳、みすず書房、P.123)と書いている。「我々はもろもろの判断、もっと正確にいえば次の二つの判断を区別する。すなわち一方に本質を論究する判断。他方に、漠然と普遍的な仕方でする判断」(同、P.70)があり、これを区別せよという。漠然と普遍的な判断とは自然的判断のことであるのはいうまでもない。
 そのためには「言説や思い込みを捨てて事象そのものに立ち返り、事象をその自己所与性において問いただし、事象にすべての先入見を排斥する」(P.102)、つまり超越論的還元をする必要がある。その結果区別されるのは「事実と事実学に対立させ、本質と本質学について(分けて)展開」(P.99)することである。「事象そのものに立ち返る」とはフッサールの有名な言葉である。だが、それは具体的にはどういうことだろうか。現象学について何の予備知識を持たない人にはチンプンカンプンな言葉に聞こえることだろう。
 まずここで言われる事象そのものとはなにか。我々は事象については十分知っているつもりである。ところがフッサールに言わせれば知っているようでいて、実は本質的なことが分かっていない自然的態度に陥っているというのである。このことについてフッサールは我々の世界についての認識の不確かさから次のような例を紹介している。
 我々はまず「ごく自然な普通の生き方をしている人間になって考えてみよう。・・私は一つの世界を意識する。空間がはてしなく広がり、時間も果てしなく生成する世界を意識するということはその世界を直接直感的に、現にそこに存在するものとして、見たり、聞いたり、触ったり等々で眼前に見いだすということ、経験することを意味する。・・・世界は手のとどくところに存在している。・・そこには物だけでなく人も存在する。私はまぶたを見開き、人が近づいてくるのを聞き、・・・彼らを意識する。私が彼らの方に注意を向けていない場合でも、、彼らはやはりまだ私の直観視野のうちに現実として手の届く向こうに存在している」(PP.125-126)のだ。世界は私の存在があろうがなかろうが、無関係に絶対的に存在しているのである。しかし、「手の届く向こうに存在している世界というものは、尽くされはしないのである。世界というものは、ある確固とした存在秩序をなしながら限りないところまで達している」(P.127)からである。
 自然的態度では世界はすぐそこに存在するものであるが、実はそんな近いところにあってもまだ「尽くされない」「限りなき」無限なものである。とすれば私の限りある意識がどうして世界の全貌を把握していると言えようか。私は限られた視点から世界を見ているにすぎない。逆にいえば世界のあり方は私の視点で左右されることになるのだ。
 「たえず私は知覚し、表象し、思考し・・等々のことをなす者として、(世界は)私に見いだされてくる。その際、私は私を不断に取り囲んでいる現実に自分が顕在的に関係づけられていることを見いだす」(P.130)ことになる。我々はこの八方ふさがりの現状を乗り越えるためには「この自然的態度を徹底的に変更」(P.134)する必要があるのだ。その手立てとなるのが「還元」である。すなわち実在を非実在に戻す「超越論的還元」と、実在を本質(形相、エイドス)に戻す「形相的還元」である。

*長くなってきたのでこの続きは明日書きます。
by Weltgeist | 2012-09-06 22:16


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