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エトムント・フッサール、2、厳密な学としての哲学 (No.1471 12/09/05

*今回のスレッドは、フッサールの現象学理解のため小生が個人的なまとめとして書いたものです。これを一緒に読んで現象学を理解したいと思う人以外は、とても読みにくく興味もわかない内容的のはずです。申し訳ありませんが、内容に興味のない方は、今回のスレッドが終わるまでスルーしてくださるようお願いいたします。

エトムント・フッサール、2、厳密な学としての哲学 (No.1471 12/09/05_d0151247_2282317.jpg 我々が物事を認識する場合、私の外にある客観は絶対に実在するという前提にたっている。客観が存在することは絶対的に確かなのだから世界が実在することは疑う必要はないと決めつけているのである。私の前にある机は否定することのできないものである。だが、本当に実在しているのだろうか。その確かさを証明する段になると、昨日書いたように客観的存在はたたちまちあやふやになることが明らかになってくる。我々はただ何となく机があると思い込んでいるだけで、その実在について検証しているわけではないからだ。
 ふだんの我々はそうした世界の確実性を信じて疑わない。そして、一般に学( Wissenschaft ) と言われるものは客観世界がそうした検証なしに存在するという前提で論じられている。自然科学も社会科学も、フッサールが言う「自然的態度」、すなわち我々の存在の有る無しに関係なく客観世界は独立に存在していると思い込む立場から学問の研究がなされている。それはいってみれば土台が極めて不安定な建物のようなものである。学門に要求される「厳密さ」を検証されることなく進められたものである。最も必要な厳密性をないがしろにして、ただ客観の分析だけが行われているのが今の学門の危機的現状なのである。
 すべてを疑って、絶対確実なことを目指すデカルトの「方法的懐疑」にならって出発したフッサールの現象学にとってこうした「自然的態度の思い込み」こそメスを入れるべきことがらである。その役割を担うのが哲学であるはずだ。だが、哲学もデカルトが絶対疑い得ない原点まで遡って出発したのに、その後の哲学者たちはいずれも根源的なものを問わない自然的態度のなかに沈潜してしまった。今こそ原点たる「厳密な学としての哲学 Philosophie als strenge Wissenschaft 」をうち立てる必要があるのである。哲学はあらゆる学門の母として君臨すべきなのだ。それが現象学なのである。フッサールは「現象学はあらゆる認識のみなもと、母たちの学である。現象学はあらゆる哲学的方法の母なる大地である。すべての哲学的方法は、この大地と、この大地でなされる研究に立ち返る」といっている。
 昨日書いたようにフッサールは「認識そのものは我々に絶対与えられる。・・・あらゆる知的体験とあらゆる体験一般は純粋な直観と把握対象となりうるし、この直観のうちに絶対的に与えられる」(現象学の理念、P49)ということをソースにそれを超越論的還元でもう一度検証しなおそうとする。そこではもはや実在とか非実在といったことは関係なくなる。「我々はもはやいわゆるリアルな現実のできごとについては一切の探求や言明をさけ、客観的現実といわれるものが、存在しようとなかろうと、またそのような超越物の定立が妥当しようとなかろうと、そんなことに関係なく存在し妥当するものについて探求」(同、P70)し、それを超越論的還元で真相(純粋な本質)に導き出そうとするのである。
 ここでいう「超越論的」とは、これまでの習慣から距離をおくこと、極論すれば客観、「還元」とは調べ直すという意味である。「こうしてわれわれは現象学の海辺に錨をおろしている。現象学の対象はほかの学問の研究対象と同様、存在するものとして定立されているけれども、その存在は自我や時間的世界のなかでの実在として定立されているのではなく、純粋に内在的な直観のうちにとらえられた絶対的な所与のうちに定立される」(P.71)のである。つまり不確実なゆえに疑いが生じる客観ではなく、我々のうちに与えられた絶対的に疑えない「直感」を得ることができた。それを内省によって検証する方法によって厳密な哲学として全ての学門を基礎づける現象学がうち立てられたのだ。

以下明日に続く。
by Weltgeist | 2012-09-05 23:49


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