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オルテガ・イ・ガセット、「大衆の反逆」その1 (No.1412 12/06/07)

人間を根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまりは風のままに漂う浮標のような人々、大衆である。
大衆を構成している個々人は自分は特殊な才能をもっていると信じこんだとしても、それはたんなる個人的な錯覚にしかすぎない。今日の特徴は凡俗な人間がおのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにある。大衆はいまやいっさいの非凡なるもの、傑出せるもの、個性的なるもの、特殊な才能をもった選ばれたものを席巻しつつある。すべての人と同じでない者、すべての人と同じ考え方をしない者は閉め出される危険にさらされているのだ。
オルテガ・イ・ガセット、「大衆の反逆」神吉敬三訳、ちくま学芸文庫 PP.17-22


オルテガ・イ・ガセット、「大衆の反逆」その1 (No.1412 12/06/07)_d0151247_213714100.jpg ホセ・オルテガ・イ・ガセット( Jose Ortega y Gasset / 1883-1955年 ) の名前は日本ではあまり知られていないが、20世紀初頭、スペインが生んだ高名な哲学者である。若いときドイツ・マールブルグで新カント派のヘルマン・コーヘンやナトルップからカントを学び、リッケルト、フッサール、シュペングラーなどをスペインに紹介した人でもある。しかし、彼は10年間カントをべったり学びながらその影響をまったく受けずに独自の大衆論から現代文明を痛烈に批判していく。これが「大衆の反逆」である。
 小生これまでオルテガの著作を直接読んだことはない。それが今回、彼の主著と言える「大衆の反逆」を読んで、たいへん戸惑いを感じた。上の文章は大衆の反逆の冒頭で語られたもので、オルテガによれば人間には自分の力で世の中を切り開いていくタイプと、凡俗で能力もないくせに妙に自分に自信をもったタイプに分けられるという。前者は少数派で、自分が自分自身の主人であり、自らの持てる才能で力強く世界を牽引していく「貴族」のような存在であるのに対し、後者は貴族が敷いた道を付和雷同的に歩くだけの「大衆」であると表現している。
 オルテガによれば「社会はつねに二つのファクター、つまり少数者と大衆のダイナミックな統一体であり、少数者とは特別な資質を備えた個人、大衆とは特別な資質を持たない人々の総体である」(P.15)と言っている。社会はこの二つのタイプの人間たちの相克から成り立っているというのがオルテガの考え方である。なぜ少数者が貴族なのか、オルテガの考えはちょっと納得しがたいが、彼は社会を牽引していくのは少数者であるとし、大衆はそれを無批判的に引き受けていくだけのいわば「烏合の衆」でしかないと断定している。ニーチェがツアラトゥストラで「超人の思想」を語ったのと同じようなことを言うのである。
 本書を書いた1920年代は、少数者が社会を牽引していた19世紀の遺産を20世紀の大衆が引き受けた時代であった。20世紀は19世紀の少数者が「かくあって欲しい」と望んだものを実現した社会である。それについてオルテガは次のように書いている。20世紀は「歴史上自らを完全で決定的な高さに達したと感じた時代である。そうした時代にあって人々は自分たちがついに旅の目的地に到達し、長い間の願望が果たされ、期待が余すところなく実現されたと信じた。つまり、頂点の時代、歴史的生命の完全な成熟度に達したと錯覚したのである」(P.40)と。だが願望の実現は錯覚でしかなかったのである。
 20世紀は19世紀の少数者があれほどまでに望んだものが実現した理想的な社会となった。大衆はそれを得たのだ。「ところが、そうした申し分なく充溢した自己満足の時代は、内面的に死んだ時代であることに気づく。真の生の充実は、満足や達成や到達にあるのではない。素晴らしき頂点というものは終末に他ならないのである」(P.42)。
 達成された願望に満足し、新たに創造していくことを放棄している、これが大衆の姿である。自分を省みることもせず、ただ与えられたものごとを無批判的に受け入れる彼らの行き着く先は死でしかない。20世紀はこうした堕落の始まる世紀と見ているのである。

以下、明日に続きます。
by Weltgeist | 2012-06-08 00:06


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